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最終話 女神たちの爪痕 中編


 1


「あら、こんばんは」

 老婆人魚に微笑みかけて。

「そうですよ。私は海原摩魚です」

 こう返していった。

 その口調は、さも当然かのようにだった。

 この答えに、磯野フナは口を“へ”の字にして。

 一時いっときばかり睨み付けてから口を開いた。

「そうかい。それが本当なら、ちょっと試したいことがあってね」

「なにを、です?」

「お前さん。“そこ”の亜沙里も入れた八人の小娘のときに、私の島と町のことを探り回っただろう?」

 これに、摩魚のやや吊り上がった目が鋭く輝いた。

「『私の』? あなたの町でも島でもないでしょう。なに言っているんです。町に住む“みんなの”島と町よ。言い方に気をつけて」

「おっと、これは失敬」銀色の尖った歯を見せた。

「確かに、私たちは八人、高校生のときに不可解な行方不明の真相を探っていったわ。そして、その女の子を助けられなかった。あのとき感じた無力感と喪失感は、あなたたちには決して分からないでしょうね。ーーー私は螺鈿島らでんしまと陰洲鱒町が好きよ。そしてそこに住む人たちも同じ。だから、あなたたちがやったことが許せない」

「ふん!ーーーずいぶんと御大層ごたいそうなご高説とお気持ちだねえ。だいいち、私たちが町の娘を行方不明にしたという証拠はどこだい? なにひとつ痕跡が残っていないし、なにひとつ記録も残っていないじゃないかい。町の娘七人と“部外者のお前さん”とが仲良く無計画に騒ぎ立てて引っ掻き回しただけだったぞ。だからなんにも成果を出せないで終わったのさ」

「だから、私たちは学んだ。そして、強くなった」

「強くなった、だあ?」上がっていた口角が真横になった。

「そう。血の滲む思いをして、昔以上の鍛練を重ねたわ」

「訳の分からぬ自信をぬかしてからに。この糞餓鬼クソガキが」

「言葉が悪いですよ、おばあちゃん」

所詮しょせん餓鬼ガキのイキりじゃ。分からせてやるさ」

「そう? じゃあやるんなら早めに済ませてちょうだいね。こっちは大切な友達を寝かさないといけないからさ」

「ふん。減らず口を…………」

 黒眼の銀色の瞳で睨みをきかせながら、腰を落として構えていく。右手右足を引いて、左手を立てて目の前の若い娘に照準を合わせていった。海原摩魚は瞳を後ろに流して柱を確認したのちに、目線は磯野フナに合わせたままで摺り足で後退していき、片膝を突いて浜辺亜沙里を静かに縁側の柱に預けた。それを終えて、再び膝を伸ばしてフナと向き合う。摩魚は、とくに構えをとることをせず、両腕をダラリと垂らして四肢と身体を適度な脱力を維持する体勢になった。

 摩魚の黒色の瞳が虹色に光ったと思った瞬間。

 虹色の光の膜が海淵家と亜沙里を全てを覆い、庭の植物や樹木の葉っぱ一枚の形まで瞬く間に馴染んで、消失した。しかも、景色は元のままである。これには、さすがに不可解になったフナ。

「お前さん、いったいなにをした?」

「私と“あなた”以外を防御したのよ。なにせ、人様の家でしょ? 壊したくないもの」

「妖術の紛い物か…………。人間の小娘が、おかしな技を使う」

「残念だけど、“それ”とはちょっと違うんだよね」

 摩魚の口角が上がる。

 フナの口角も上がった。

「ヒトが私たち種族の真似事まねごとなど……。笑わせてくれる」

 二人の足の親指が、廊下の板を踏みしめていく。

 そして、ほぼ同時に板張りの床を蹴った。

 一気に詰まる間合い。

 衝突を避けるように、見合いながらすれ違っていった。

 二人の腕も同じタイミングで伸びて、掴みかかる。

 手を払いのけて、お互い踏み止まって襟を掴んだ。

 一緒に庭に飛び込んで、受け身を取って着地した。

 お互いの襟を掴んだまま膝を伸ばして立ち上がる。

 摩魚が襟元から手を放したとき、フナから手首を捕られた。

 襟と手首を支配したフナの口角が静かに上がっていった。

 すると、小手を返されて、フナの腕へ巻きついていく。

 にゅるにゅると蛇のように、摩魚の腕が這っていき。

 後ろの襟を掴んだ。

 一瞬だけ頭を振られたかと思ったとき。

 縁側の方へと投げられた。

 ちなみに、磯野フナは小柄と言えども四〇キロ以上ある。

 しかも、海原摩魚はその老婆を片手で投げていった。

 フナの身体は宙で弧を描き、頭から床をめがけて落下した。

 いくら妖怪と言っても、脳天を叩き潰されたら終わりだ。

 命の危機を察したフナは、摩魚の腕を両手で掴んだ。 

 直後、摩魚の腕が深く振り下ろされて、フナを叩きつけた。

 大きな音を立てて、フナは背中から床に落下した。

 視界に火花が散り、背骨を基に頭から爪先へ雷が走った。

 大きく床で仰け反り、摩魚の腕から両手を放した。


 榊家格闘術。逆さ人柱。

 元来は、掴んだ相手の脳天を文字通り地面に打ち込む技。

 ただし、摩魚の場合は敵の頭を潰すためのようだった。


 縁側の板張りで痙攣していく小柄な老婆人魚を冷たい視線で刺していきながら、摩魚は口を開いていく。

「“腹話術の人形”ていどじゃ、勝負にならないわ。もったいぶらずにそろそろ出てきたらどう?ーーー鯉川鮒こいかわ ふなさん」

「呼んだかしら?」

 長い白髪の、和装の長身美女が庭に現れてきた。

 やや吊り上がった黒眼の銀色の瞳で摩魚を睨み。

「私を指名するなんて。高くつくわよ」

 これに対して、摩魚は怯えるどころか口の端を微妙に上げた。

「やっとお出ましね。待ってました」

 “姫様”の言葉を無言で受けて、いまだに床で痙攣している小柄な老婆に視線を送った。その様子を眺めたまま、声だけを摩魚まなに向けていく。

「あなたが昔アルバイトしていた遊園地でね、ちょっと前に護衛人と磯辺毅と部外者の男を無傷で瞬殺したばっかりだったのよ、“コレ”。それに“あなた”、毅君の強さを知らないわけじゃないよね? そして、“私の”娘二人に圧勝した護衛人の女の子も弱くはなかったのよ。ーーーそれらを踏まえた上で、勝負にならないんだ?」

「ええ。勝負にならかった。だいたい、“腹話術の人形”のスペックやエピソードなんて私には“どうでもいい”の。直接用があるのはふなさん、あなただから」

「増長かしら?」

 そう呟き、首を摩魚に向けていく。

 次に、ゆっくりと眼を細めていった。

「ずいぶんと、人魚も舐められたものね……」

 顔の横で指を鳴らして、磯野フナを消した。

 そして、額に青筋を立てて銀色の尖った歯を剥いた。

餓鬼ガキが。ぶぶ漬けにしたる」

 数歩後退して、“人魚姫”から間合いを取っていく摩魚。

 銀色の光を強くしていき、吹き上がる妖気で白髪が舞い上がる。両方の拳が、力強く握られていった。

「私とじかりたい言うんやな。ええ度胸や」

 ハーフアップにした長い白髪が、赤いアミカサゴの髪留かみどめを基にして“ふわり”と舞い上がり、銀色の瞳の光を強く放った瞬間、高い斬撃音と火花を走らせた。それは無情にも、庭だけではなく垣根や縁側とその部屋、そして疲労して柱で寝ている浜辺亜沙里にまで斬りつけた。はず、であったが。

 宙に舞う白髪をおさめた鯉川鮒は、切れ長な黒眼を見開く。

 全ての物が斬れていないどころか、摩魚が間合いにいた。

 いつの間に。

 この娘、私の妖術を見切って避けたとでも言うのか?

「え?」

 と、思ったとき。

 摩魚の手のひらが着物の胸元に添えられていた。

 鯉川鮒でさえも思わず見とれてしまう彼女の手であった。

 摺り足で一歩踏み入れたと同時に、摩魚は突き飛ばした。

 掌打しょうだを不意に喰らって、息を詰まらせる。

 次は、顔面を狙って拳を振り下ろしていく摩魚を見た。

 腕を交差させて、防御。

 両足の踵をブレーキに使って転倒も防いだ。

「がはあっ!」呼吸を取り戻して、間合いを取った。

 摩魚を視界に入れて、半身にして両の手刀を構えた。

 その肝心な“姫様”はというと、相変わらずの無構えである。

 適度な四肢の脱力を保っていた。

「私が知らないことを、あなたは知っている。そして、あなたが知らないことを私は知っている」

 次の一手がくるかと思えば、不可解なひと言を発した。

 これには、さすがに鯉川鮒も眉を寄せた。

「なんのこと?」

「技よ」

「武術の話しか」

「そう。ーーー私が一手に出した技は、師範から教えてもらったもの。そして、その兄弟子と相棒の女の子も使える技よ。あなたの“腹話術の人形”が瞬殺した、護衛人の女の子よ」

「なんですって?」

 少し驚くも、構えは解かない。

 摩魚は相変わらず構えない。

「今からひとつだけ、あなたの“人間性”を見込んで良い情報を知らせてあげる」

「ふふ。生贄の身でありながら、私に情報提供するつもりなんだ?」

「儀式が実行されない限り、私は生贄ですらないわ」

「口が減らないのね。ーーーうふふ。あなた本当に摩周家の女たちとミドリちゃんと似ているわ。ーーーで。良い情報ってなに?」

「あらー。褒めてくれるのね。ありがとー」

 と、胸元でピシャリと軽く手を叩いて。

「ますます教えたくなっちゃった」

「なになに?」

「まずは身体の正中線を正面に構えて、顔の前で腕をクロスしてください」

「こう?」言われた通りに構えた。

「そして、私の場合は闘気とうきと虹色の力ですが、あなたの場合は妖気になります。それを意識して高めていってください。絶対的な防御をしたい対象に、思いを巡らせていきます」

 その言葉を受けて、鯉川鮒は意志を殺意から防御に切り替えた。すると、彼女の身体から柔らかい光が発してきた。摩魚はこの様子を見ながら、レッスンを続けていった。

「まず、基本中の基本。自身を守ることをしてみましょう」

 これを聞いて、鯉川鮒は柔らかな紫色の光を膜にして、自身の身体全部へと覆い被せていき、馴染ませていった。“人魚姫”のこの姿に見とれていった摩魚。

「綺麗な藤色の光ね。素敵」

「ありがとう」思わず微笑んだ。

「さすがの経験が長いだけはあるわ。完璧じゃん」

「え?」

「では、実践してみましょう」瞳が虹色に光る。

「え?」

「意志は解かないでね。刺身になるから」

 直後、虹色の光を強くしたとき。

 摩魚は身体から光の刃を多数発射した。

 相手の意見などお構い無しに、殺傷目的で飛んでいく刃。

 腕をクロスしたままの鯉川鮒を、多数の光の刃が駆け抜けていった。高い音を立てて、オレンジ色の火花を散らし、家屋と玄関とブロック塀まで走り抜けて、先の石垣に白い線を刻んで消失した。鯉川鮒は少し力んで眉を寄せたとき、じぶんの身体と顔を這って駆け抜けていく感覚を味わった。

「お見事。もう終わりよ。解いても大丈夫」

 摩魚から終了の声を聞いて、気を緩めて交差していた腕を解いて下ろした。目の前に立つ虹色の鱗の娘を真っ直ぐと見ていく。

「初めてとは思えない仕上がりね」

「ありがとう。私も、妖気をこのように使ったことは初めてだったわ」

「本当に素晴らしいよ。応用ができれば、これの範囲をもっと広げることができるわ。そして、もっとたくさんの人を護れるようになる」

「そうね。若いときに、この技を知りたかったわ。そうすれば……」

「ちなみに私が鍛練しているこの流派。徳川幕府が終わる手前から、外部からも弟子を取るようになったから、血族以外の継続は“たかだか”二百年ほどよ」

「そうなの?」

「そうなの」

「いや、その流派二百年前からだったの。私が螺鈿島に流れ着いたのが百五〇年前だったのよ。ーーー悔しい。江戸にあと少しいておけば良かった」

 本当に悔しそうに噛みしめていく、鯉川鮒。

 この様子に、なんだか分からんがなんとなく察知した摩魚。

「よっぽど大切な人がいたのね」

「ええ。私にとって、その人は大切だし、尊敬と憧れでもある。私の中では永遠だわ」

「意外」心外な言葉を敵から聞けて、驚く。

「意外てなによ?」ちょっとムッとした。

 鯉川鮒のこの表情に、摩魚は思わず頬を緩めた。

「ふふ。可愛い」

「は?」

 やや吊り上がった切れ長な黒眼を見開く。



 2


 で。

「このまま私が引き下がると思った?」

「いいえ」

 胸の前で合掌した鯉川鮒のこのひと言に、摩魚まなは微かに口角を上げて答えた。身体の外側へと藤紫色の妖気を発していくと、両手の人差し指と親指を垂直に伸ばして“枠”を形成して顔まで上げていき、その中に摩魚と海淵家を収めていった。

 そして。

「水槽水域」

 ライラック色のリップを引いた唇がこの言葉を呟いたとき。

 摩魚の鼻孔と口の端しから小さな泡が立ち上がっていった。

 女二人の白と黒の長い髪の毛は浮き上がり、揺らいでいく。

 その大小様々な泡は、地面と建物の隙間からも上った。

 なんと、庭の垣根と玄関の塀を境にして、海淵家は海水に包まれたのだ。二階の瓦屋根を二メートル以上超えた“水面”を天面にして、水の立方体が形成されたのである。しかし、縁側で柱に背を預けて疲労から熟睡している浜辺亜沙里はまべ あさりはおろか、二階の六畳間で寝ている海淵龍海うみふち たつみですら浮遊していないというのは、いったいどういうことか?

 妖術の影響か。摩魚は足もとが地面から離れて浮いていく。

 爪先の親指の先端部を石畳に着けようと伸ばすも。

 それも叶わず。

 無情なほどにその身体は浮遊していった。

 そして我慢していたが、呼吸も苦しくなってきた。

 このまま口を開けたらば、肺へと大量に水が入ってしまう。

 表情を冷静だったが、摩魚は内心パニックを起こしていた。

 お構いなしに、鯉川鮒の言葉が投げられてきた。

「お前さんが“かなづち”なこと、私が覚えていないとでも?」

 そのように“普通に喋って”いくではないか。

「だらしないのね。同じ技に二度も掛かるなんて。あなたが高校生のとき、この術で私に敗北したのを忘れたのかい?」

「ぐぐ……!」

「ギブアンドテイクよ。“おさらい”してあげる」

 水中で素立ちしていた鯉川鮒が、語りを続けていく。

「あなたも分かると思うけど、これは私と“あなた”を的にして掛けた妖術よ。“だから”、浮いていくでしょう? これで“あなた”が負けたら、“そこ”の亜沙里あさりちゃんも、部屋で寝ている龍海たつみ君も、そして“あなた”も、みんな仲良く溺死してしまうのよ。だけど、そんなあなたへひとつ良い情報を教えてあげる」

 微かな嘲笑を浮かべたまま、鯉川鮒は人差し指を立てた。

「私が負けた場合、この水はたちまち消え失せて、何事なにごともなかったみたいに終わるわ。ずぶ濡れにならずに済む。ーーーしかし、その様子じゃ、泳ぐことを克服すらせずに、サボっていたのがあだになっているみたいね。お好きな武道の鍛練はしていたけれど、苦手な水泳は怠けていた?」

「…………」

 “人魚姫”を睨み付けながらも、息が持たなくなってくる。

 地に足が付けられない“姫様”の姿に、銀色の尖った歯を見せた。

「お馬鹿さん」

 そう吐き捨てて、鯉川鮒はノーモーションで浮遊していく。

 足を揃えて、首から下を縦に波打たせていった。

 するとどうか。

 海中の波に乗ったのか、鯉川鮒が着物のまま泳ぎだした。

 前転宙返りからの上昇のときに身体を捻って、海中を蹴ったとき、勢いが付いたのか、速度を増して摩魚を目指してきた。このまま突進してくるかと思ったが横を通過していき、大きな円を描いて周囲を回りはじめた。このどうしようもない差に、摩魚は歯を剥き出して食いしばっていく。普通なら自由が利く水中で、“私は”自由が利かない。水に身体中をまとわりつかれて、手足ですら思うように動かせない。どうしよう、悔しい。そう、己のおこたりを悔やみだした、そのときだった。

「周りを見られなくなっているようね? 私は隣だよ」

 この声を聞いた瞬間、摩魚は当て身を喰らった。

 打撃と痛みに、思わず口が開いてしまう。

 大小様々な泡が荒々しく吐き出されていき、同時に海水が入ってきた。そしてそれは、当て身だけでは終わらずに、鯉川鮒はてのひらを摩魚の腹に近づけた。刹那、藤紫色の光に弾かれて、摩魚は海老のように身体を折ったまま後ろに吹き飛んだ。そのまま結界を突き破ってしまうと思っていたが、鯉川鮒の回り込みが速かった。膝を横に上げて受け止めて、今度は摩魚の横っ腹に先ほどと同じ技を喰らわせた。藤紫色の妖気の打撃を受けて、吹き飛ばされ、摩魚は板の壁に身体の横を打ち付けた。

「ガハアッ!」

 ガボボボッと大きな泡を吐き出して、海水を飲み込んでいく。

 目の前の揺らぐ景色はかすみはじめた。

 しかし、摩魚はこの機を逃さなかった。

 馴れないながらも姿勢を変えていき、壁に両足を付けた。

 腰を落として、丹田に気力を集中して踏ん張っていく。

 右手を腰の左側に回して、上体を半身にした。

 摩魚のこの様子に、鯉川鮒は不思議そうな表情を浮かべた。

 摩魚が気を高めて目に力を入れた、そのとき。

 瞳は虹色の光を放ち、首筋と胸元に虹色の鱗が現れた。

 壁で一歩を踏み出したのと同時に、右手を前方に振った。

 瞬間。

 鉄と鉄を擦り合わせたような高い音を鳴らして、虹色の閃光が走った。

 ー不味い!ーー

 直感的に危機を察して、鯉川鮒が横に避けたそのとき。

 斬撃が虹色に輝きながら“人魚姫”の横をギリギリで通過した。

 一瞬だが虹色の行方を見送ったあと、首を戻したら、摩魚が目の前まで接近していた。板の壁を蹴って斜め下へと飛んでいき、鯉川鮒に当て身を決めた。“姫様”の肩当てから両腕をクロスさせて防いだものの、勢いまでは殺すことができずに、そのまま二人一緒に庭の植え込みに落下した。膝を当てて摩魚を突き放して離脱した鯉川鮒は、後ろ向きのまま斜め上に泳いでいって、間合いを確保して相手を見下ろす位置を取った。そんな中、膝で蹴り放された力を利用して、摩魚は“海中で”庭を転がっていき、地に足を着けて腰を落として再び踏ん張る姿勢をとった。そして再び右手を腰の左側に回して上体を捻って半身にして、先ほどと全く同じ姿勢で構えた。しかも今度は、さっきの様子と違ってたようで。青白い薄い膜が摩魚の全体的を覆うように光だして、その表面は“ゆらゆら”と小さく立ち上がっていき、それはまるで煙か炎のようだった。するとそれは、軽く握った右の拳から柄と鍔と鞘をなにもない空間から生み出して、摩魚に帯刀たいとうさせた。

 顔を仰いで、鯉川鮒を視界に収めて、カッと瞳に力を込めた。

 しばらく様子を伺っていた“人魚姫”だったが、さっきまでの無様な“姫様”の姿から様変わりした段違いな危険を察知して、自身の身体に藤紫色の妖気を出していった。そして次の瞬間、摩魚が黒い瞳を虹色に光らせたとき、右拳を下から上へと大きく速く振って抜刀した。その衝撃波は瞬く間に石畳に火花を散らして切傷を刻んでいきながら、一直線に鯉川鮒を狙って飛んできたのだ。抜刀と同時に、とっさの判断で両腕を顔の前で交差して、鯉川鮒は瞳から虹色の光を強く放ち、身体中の藤紫色の妖気も強い輝きを増した。そして、抜刀の衝撃波は“人魚姫”を貫通して走り抜けて消失した。

「ぐああ……っ……!」

 呻いたのは、鯉川鮒だった。

 防御をしたものの、喰らったダメージが大きく、術を解いてしまった。早いが“ゆっくり”と落ちていきながら、鯉川鮒は足もとから庭の石畳の上に横に倒れていく。水が大きく爆せる音を立てて、妖術結界『水槽水域』が弾け飛んだ。結果、ずぶ濡れになったのは、海原摩魚と鯉川鮒の二人のみであった。摩魚は顔の横に立てた鞘へと刀を収めていき、虎口と鍔の合わさる音を鳴らしたのち、片膝を石畳に突いて、咳き込みながら口から海水を吐き出していく。鯉川鮒が横に倒れたまま両手を地面に着いて顔を上げて、海水を嘔吐していく摩魚を見ていく。

「うふふ……。ふふ」

「あはは……」

 両手から刀を消失させながら、摩魚も鯉川鮒を見て小さく笑っていった。スコールを浴びたかのごとく、全身ずぶ濡れの女二人は、お互いに静かに笑い合っていく。

「私も鮒さんもビショビショ。“おあいこ”ね」

「ええ。引き分けにしましょう」


 そして。

「今日はもう闘う理由もなくなっちゃったし」

 と、摩魚は両手を天高く突き上げて“伸び”をしていき。

「あとは寝ましょ。り合いたかったからまた別の日にすればいいし。おかげで楽しみができたわ」

 両手を下ろして、爽やかな笑みを鯉川鮒に向けた。

「…………。まあ、そういえばそうね。次が楽しみだわ」

 そして、鯉川鮒も摩魚に同意して、微かな笑みを見せた。

「私は亜沙里を寝かせたあと、お風呂に入り直して着替えて寝るけれど。あなたはどうする? 私と一緒に入る?」

 まるで、ここの家人のような振る舞いである。

 その当の家人は、ただいま就寝中だった。

「あなたの着物も、そんな状態だけど……」

「心配は無用よ。常に着替えを用意してあるわ」

「さすが」

 歯を見せて感心していく。

「じゃあ、準備してきて。一緒に入ろうよ」

「え?」切れ長な黒眼を見開く。

「いいじゃん。こうして気の済むまでやり合ったんだし。裸の付き合いしましょう」

「ええ?」



 3


 というわけで。

 約一時間ほどが経過して。

 海原摩魚の押しに負けた鯉川鮒は、風呂を共にした。

 二人は身体中の汗を流して、湯船を堪能した。

 その前の脱衣所でのやり取り。

 着替えを籠に入れて、濡れた着物を脱いだとき。

「凄い。本当にマーメイド。素敵」

 と、摩魚の感嘆が後ろからかけられた。

 まだ下着姿だったが、鯉川鮒は素晴らしい身体であった。

 肩から胸から腰、そして爪先にへと流れるような緩急の線。

 膨らみと絞まりが断ち切られることなく美しい身体の線。

 神話や民間伝承で語り継がれる人魚マーメイドのようであった。

 “姫様”のひと言に不思議と不快にならず。

「ありがとう。そう言ってくれて嬉しい」

 と、“人魚姫”は自然と微笑んだ。

 その後。美しい姫様の二人は。

 隣り合うことをせずに、対角線上で向き合う形。

 個別で湯に浸っているのと同じだった。

 最大五人ほど入浴できる広く深い浴槽である。

 誰からも邪魔されることなく、静かな湯浴みを楽しんだ。

 “人魚姫”の浸かる湯の水面みなもが、キラキラと虹色にまたたく。

 久々ゆっくりとした時間を過ごせた気分だった。

 脱衣所で湯水で濡れた白く細い身体を拭き取っていき。

 藤の花の編み込み柄の藤色のレース下着を着けて。

 細い銀色の線で柄を画いた白い小袖を再びまとっていく。

 細く締まった腰に帯を絞めて。

 長い白髪に赤いアミカサゴの髪留めをして完了した。

 寝室に向かう摩魚と軽く手を振り合って別れた。

 海淵家の玄関を出て鍵を掛けて、駐車区画に移動して。

 愛車のシルバーのシトロエンのドアに手をかけたとき。

 音も無く銀髪の影が背後に舞い降りた。

 確かに、着地の音は鳴らなかった。

 しかし、人ではない気配を感じ取った。

 それは、鯉川鮒を含む人魚とも違った。

 そして、人でも妖怪でもない“気”である。

 その上、後ろの者は“それ”を隠そうともしていない。

 “誰か”は見当がついてはいた。

 背後に立つ、寝間着姿の銀髪の若い娘が語りかけてきた。

「お久しぶり。ーーーあなたが報告していた通り、“ここの世界”も悪くないわね。食べ物も美味しいし、空気も良いし、移動と通信手段に恵まれているし、陰洲鱒の女の子たちは綺麗で可愛いし。良いことづくめじゃん」

 声が高揚して、実に機嫌が良さそうであった。

 だが。

「ただし」

 と、僅かに溜めを置いたのちに、出されてきた声は。

「町の外は邪悪で汚れているわね」

 心なしか低く、若干怒気を含んでいた。

 その割りには、口もとの端を吊り上げていた。

 挨拶を聞き終えた鯉川鮒は、踵を返して後ろの者と対面した。

「本当にお久しぶりね。胚瞳羅ハイドラ

「えへへー。相変わらず綺麗じゃん」

 愛らしく笑いながら後ろ頭を掻いていくこの娘は、盃戸蘭はいと らんこと女神ハイドラであった。久々に鯉川鮒を見れて、本当に嬉しそうである。

「今はね、盃戸蘭って新しい名前を付けてもらったんだ」

「あらー、そうなの。良かったじゃない」

「だから、“ここの世界”の名前で呼んでもらってら嬉しいな」

「悪いけれど。私がそうしてくれる“女”だと思う?」

 このひと言に、盃戸蘭は後ろ頭を掻いていた手を下ろした。

「冷たい人ね」

「当然でしょ」

「まあ、いいわ」

 あっけらかんと切り替えた盃戸蘭。

「鮒さん。あなたについての報告も、私と旦那のもとにきているのよ」

「へえ、どのような?」

「『よくやってくれている』ということを聞いているわ。そしてこれは、蛇轟ダゴンと私ともども報告と同じ感想よ。ーーーよくやってくれているわね。感心しちゃう」

「ありがとう」

「いいえ。どういたしまして」

「やっぱりなにか冷たいわね」

「そうかしら?」

「まあいいや。ーーーそんな“あなた”にひとつ警告というか念を押してあげるね」

 十七歳の少女の“あどけない”顔でニコッと微笑んだのち。

 真顔に切り替わった。

「あなたは“ここの世界”では人魚と名乗っているようだけどさ。結局のところは、旦那が作って私が産んだ“子供たち”に過ぎないのよ。宮崇龍クスルと私たち夫婦めおとの奉仕種族止まり、たくさん散らばる『深者ディープ・ワン』のひとりなんだけれど、鮒さん、あなた、螺鈿島に流れ着いてから以降はなんだか反抗的な面が目立つわね? 部下たちの報告を聞いて私なりに判断するとね、奉仕的な働きをしないで反抗して、なにか高みを目指している感じなんだけど」

 間を置いたあと、言葉を繋げた。

「どうなの?」

「私は人魚。深者ディープ・ワンではないわ」

 鯉川鮒は、強い眼光で呼び名を否定した。

 とくにこたえていない盃戸蘭。

 片眉毛を上げて。

「そう?ーーーそう思いたかったからそうしておけばいいわ。でもね、どう否定して抵抗しても結局は私とダゴンの子。“血”と生まれまでは変えられないよ。奉仕種族という一族の運命と“血”には逆らえない。“子”は親に従うものよ」

「私は変えてみせる。そして、抗う」

「できるものかしら?」

「できるわ」

「へえ。凄いじゃないの」

「私は、世界中に散らばる“浮き世の人間”たちの首根っこを掴んでいる。だからできないことはない」

「大きく出たわね。ーーーで。計画は? 立てているんでしょ?」

「ここから先を知りたかったら、有料になるけど」

「ひでー。親からかね取るんだ」

「私はネタバレされるのもするのも嫌いなの」

「サプライズは心臓に悪いわ。事前に教えて心の準備をさせてちょうだいな。私の子でしょう」

「あなたは私の親ではないわ。私の親は平安京の人です」

「なにそれ? “出現先”の原住民のこと言ってんの?」

 途端に、盃戸蘭の口もとに嘲りの笑みが浮かんだ。

「意外。あなたにも尊敬しているたみがいたんだ? 面白いんだけど」

「私の親を自称する者の言葉とはとても思えないわね」

 鯉川鮒の声が、一変して低くなった。

 これを、大して威嚇にも感じていない盃戸蘭は。

「やーねー。私は“者”じゃなくて“神”なんだけど。アンダスタン?」

 こう煽ったのちに。

「そうそう。私たち夫婦めおとはあなたが抗うと言っているレールを敷いたけれど、その“あなた”も陰洲鱒町の虹色の鱗の娘に、つまり螺鈿の巫女として生まれてくる運命を利用してダゴンへの生贄にするといったレールを敷いたじゃん? なんのために、そんなことしたの?」

「それをわざわざ私に聞くことないんじゃない? 分かっているんでしょ? というか、その神の眼で全て見ていたのよね? その昔の“国を持たぬたみ”からによる虐殺と陵辱から始まった、私たち人魚の一族の急激な減少の流れを。ーーーまあ、そういうわけで、要は激減した私たち種族の増加をするための生贄だったのよ。“お布施”付きのね」

「へえー。“お布施”ねえ…………。ありがとう。理由は分かったわ。ーーーそれで。“人魚”の数は増えたの?」

「おかげさまで、今は絶滅しない一定数を保っているわ」

「それは良かったじゃん。やった甲斐があったね」

「どういたしまして」

 鯉川鮒の礼のあとに、盃戸蘭はニンマリとして。

「やっぱり、私と“あなた”は親と子ね」

「冗談じゃないわ。私は“あなた”なんか“知りません”」

 そう突き放して、鯉川鮒はシトロエンのドアを開けて運転席に乗り込んだのちに、キーを回してエンジンに点火した。青白い月明かりに照らされた静かな青黒い景色に、外車の噴かす音が鳴り響いていく。ギアをローに入れて、クラッチを緩めながらアクセルをゆっくりと踏んでいき、ハンドルを海淵家の敷地の出入口に向けて切っていった。これを見送りながら、盃戸蘭はニコニコ笑ったまま小さく手を振っていく。これに対して、鯉川鮒は運転に集中しつつも、銀髪の少女へとジロリと鋭い視線を流して、再びハンドル操作に意識と眼を向けて出ていった。


 今年の夏は異常な暑さでありながらも。

 庭の夜の虫たちは羽音を立てて“鳴いていた”。



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