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最終話 女神たちの爪痕 前編


 月日を戻して。八月。

 海原摩魚が誘拐されて二週目も半ば。

 一日の話はまだ続く。

 龍宮紅子が勤務先の工場へと戻って業務を終えたころ。

 ニーナが仕事を終えて志田杏子の依頼を遂行していたころ。


 太陽の光りも落ち着いてきた時間。亜沙里は、ひとり庭に出て垣根から穏やかに波打つ緑色の海面を眺めながら、緩やかにくねった敷石をゆっくりと歩いていた。

 無言で。

 実にゆっくりと。

 考えは巡らせている。

 しかし、まとまらない。

 心なしか瞳に元気が無い。

「寂しくなってきたのかい?」

 と、前方から優しげな鼻声がかけられた。足を止めてその方に目をやると、腰を下ろして煉瓦造りの花壇で草花を手入れしている着物姿の白髪の小柄な老婆がいた。庭にやってきた美しい女へと流した切れ長なその目は、人のものと反転した黒い眼の中に銀色の瞳をしていた。そして細く長い首筋には、五つのえらがあった。肌の色も血色の良い人間のものと異なり、白い肌に紫やら青やらに見える影を作っていた。それはヒトとは異なった種族、人魚であった。亜沙里だと分かって声をかけて、静かに膝を伸ばして女と向き合う。

「フナさん……」

 と、亜沙里は呟くように老婆の名を呼んだ。

 そう、その老婆の名は磯野フナ。以前に少林こばやし遊園地で、瀬川響子と磯辺毅と闘いを繰り広げた結果、二人を秒殺したほどの強者だった。ひょろっとした外見からは全くそれが予想できない。その上、腰は曲がっておらず、背筋が真っ直ぐと伸びて実に達者なもの。フナが極細の目を弓なりに歪ませて、力無く立つ亜沙里へと声をかけていく。

「紅子が来たということは、夏の終わりも間近なんだね」

「うん……」

 コクンと相槌を打つ。

 亜沙里の表情を確認するなりに、フナは紅を引いた薄い唇を緩やかに歪ませて言葉を続けていく。

「そして、その大漁を祝う日に蛇轟ダゴン様がお目覚めになる。それまでにあの摩魚さんを立派な“女”に仕上げなければならない……。これは避けて通れない道なんだよ、亜沙里。分かるかい?」

 そう確認されて、女の顔が強張った。

 だが、フナは語りを止めない。

 前後とも、話しの内容に実に現実味が無かった。

 芝居じみていて、架空の物語に出てくるような台詞。

 これらは、この老いた人魚が意図的に発していた。

 なんのために?

 亜沙里をマインドコントロールをするためである。

 絵空事の言葉を巧みに使い。

 彼女の思考を捕らえて閉じ込めておく。

 実質的な蛇轟秘密教団の教祖である磯野フナ。

 しかし、一番神を信じていないのはフナかもしれない。

 心にもない言葉による語りを続けていく。

「ミドリが陰洲鱒に帰って来たときは、予想していた以上に“女”になっていたよ。そして、摩魚さんも“これから”ミドリと並ぶ魅力を持つことになるんだよ。―――その暁には祝いの日、蛇轟様が現れて虹の鱗の娘を“女神”と見初めて共に深い海の底へと連れたっていくだけだよ。ただそれだけのことだ。―――いいかい? 私たちが蛇轟様の為におこなうことは“ただそれだけの事”だよ。気の毒だろうが摩魚さんもミドリも虹の鱗を持って生まれてきたんだ。それは変えようがないのだよ、分かっておくれ、亜沙里」

 名を呼んだときは、真顔になっていた。そして、とうとう、亜沙里は堪えきれずに膝を落として敷石に尻餅を突いて、両手で顔を覆ってしまう。ひっくひっくと小さくしゃっくりの様な息ををあげていくのを聞いて、フナは亜沙里の元に歩み寄ってその肩にそっと手を乗せた。

「お前は自分を虹の鱗でなくて良かったと思いなさいな。そのお陰で今も龍海とこうして一緒に居られるんじゃないかい? 好きな者どうし。ーーーね」

 その言葉に、亜沙里は頬から滴を伝わらせながら頷いた。


 やがて、欠けた月が周りを青白く照らし出している時間帯となる。

 皆は夕食と風呂を済ませて、あとは床に就くまでに各々が自分の時間を過ごしていた中で、亜沙里は唯ひとり縁側にパジャマ姿で横たわって庭を眺めて夜の海が優しく波打つ音を聴いていた。

 昼間は、強い太陽光によって隠れ家を含めた町全体が白く眩く照らされて、建物や庭の垣根から草花に至る角を強烈に浮き立たせて輪郭を描いていたのに対して、夜となった一転、それは穏やかにトーンを落としてそれぞれが薄い藍色に染まり、月明かりによって今度は青白い輪郭を描いていたのだ。それと共に訪れた静寂。昼間の喧騒がまるで嘘だったように消え去って、虫の鳴き声がただ淡々と静かに響いていた。足音がこちらへと向かって来ることに気付いて、頭を浅く上げて人物を確認する。その者はなるべく音を立てないようにお膝をして、亜沙里の頭の方へと寄ってきた。そして、膝枕はどうかと無言で誘い出してきたものだから、照れながらも素直に応じた。摩魚に誘われて、嬉しくない訳がない。私は摩魚が好きだ。

 友達として好きな人。

 その気持ちは今もって変わらない。

 あなたは私にとって、最高の女神だ。

「眠れないの?」

 摩魚が、膝枕に預けた亜沙里の頭を撫でながら聞いた。

「うん、ちょっと、ね……」

 と、力無くそう言葉を濁した。

 なんて柔らかくて心地良い太股で、なんて良い香りがするのだろうと、摩魚の体温も一緒に感じながら、亜沙里は気持ちが和んでいくのを実感していた。そういえば、ミドリもこのように良い香りがしていたことを思い出していく。

「いい香りー」

 亜沙里が溜め息混じりに、つい声として出してしまい、ハッとした。しかし、摩魚は別に気にすることなく撫でる手を止めずに微笑んでいる。

「あなたからもいい香りがするよ」

「……え?」目を向ける。

「嘘でもお世辞でもないよ。本当にいい香りがするから、私、こうしているだけでも心地良くって」

「や、やだ……」

 恥ずかしさに頬が赤くなる。すると、突然と目を瞑った摩魚の顔が迫ってきたものだから、亜沙里はとっさに目を逸らした。ますます鼓動を上げてその膝枕から離れようと頭を動かそうかとした、そのとき。優しく手で押さえられた。押さえる力が鳥の羽根が落ちるような優しさだったから、亜沙里は動くことをやめた。

 摩魚の顔が近い。

 彼女の息が頬に当たる。

 でも、悪くはないわね。

 そして摩魚は瞼を細く緩やかに開けて、亜沙里の横顔を見つめていた。

「あなたの香り、好きだな」

 それを耳元で聞いたときには、すでに摩魚の顔は上がっていて、亜沙里を見つめて「ふふ」と微笑んだ。

 この直後。

 亜沙里は膝枕から素速く身を起こして、横座りになるなりに摩魚と向き合っていた。突然の行動だったので、摩魚がちょっと驚いた顔となる。しかし、そこはそれで、お膝の姿勢のままで縁側から亜沙里へと向きを変えて、二人の間合いを保った。ここで不意に、亜沙里から両手で両手を掴まれて、身を寄せられて顔が近くなる。その女の顔は、随分と思い詰めていた。このような表情をする亜沙里を見るのは、摩魚は初めてであった。キュッと掴む力が加わる。

 そして、亜沙里が口を開いた。

「逃げて!―――今からなら充分間に合うわ。車を拾って逃げ出して」

「?」

 きょとんとする。

「そんな顔しないで。タクシー代あるだけ渡すから、ここから逃げてご家族のもとに帰って!」

「亜沙里……」

「私を振り払っても構わないから」

 その言葉を聞き終えた摩魚は、亜沙里の手を解いて両肩を掴んだ。そして、それを放すと今度は片手で頭を撫でてあげる。次は、その手を首の後ろに回すと、額と額とを触れ合わせて摩魚が語りかけた。

「ありがとう、亜沙里。私、嬉しい……。―――でもね、私は逃げ出そうなんてこと考えたことないから安心して」

「なんで逃げようとも思わないの? なんでそんなに冷静で構えて居られるの?」

 考えが言葉となり次々と突いて出てくる。だいいち、一番冷静にならなければいけないのは、私自身なのに。駄目だ、言うことを聞いてくれない。

「なんで、なんでなのよ」

「なんでかしらね……。好きな人がいるからかな。ーーーあの人はきっと、必ず私のもとに現れて来てくれるわ」

 あなたは、また私を戸惑わせることをサラリと言いのけた。

 “好きな人”って?

 “私を助けに来てくれる”ではなくて、“私のもとに現れて来てくれる”ですって?

 あなたはこれから生贄としてその身をその命を捧げられるのに、どうして!

 やがて、摩魚は語りをこう結んだ。

「私は、あの人を信じているから」

 嗚呼、そうか。

 信じられる人がいるから、こんなにも構えて居られるのね。

「亜沙里……?」

 突然、抱きつかれて摩魚は驚くものの、やがてはその思いを受け止めてあげて、亜沙里の身体をふわりと抱き締めた。


 亜沙里は摩魚の腕の中で、ミドリのときにもこうして私は泣きついていたよね、と、あの日の夜を蘇らせていた。


 そしてこのあと、浜辺亜沙里は発作を起こして、その場にいた海原摩魚から押さえつけられて介抱されて、大きな怪我もすることもなく無事に済んだ。亜沙里に肩を貸して廊下を歩いていきながら、摩魚は黒色の瞳から一筋の滴を顎へと伝わらせていく。立ち止まって、人差し指の腹で頬からぬぐい取り、艶やかな黒色の瞳で確認していった。

 ー“姉さん”の涙……。私と“彼女”のシンクロが深くなっている。ーー

 親指と人差し指を擦り合わせて拭き取り、手の甲でぬぐった。

 “姉さん”とは?

 海原摩魚には、妹の海原みなもが唯一ひとりである。

 そして、友に肩を貸したまま、摩魚は再び歩みを進めていった。

 

「いい雰囲気のところ悪いけれど、ちょっと待ってもらおうか」

 後ろから力のこもった声をかけられて、摩魚は歩みを止めた。亜沙里に肩を貸したまま回れ右をして、背後を取った者と向き合った。するとそこには、白髪頭の白色の小袖姿の小柄な老婆人魚が立っていた。

 口の端を吊り上げて。

「お前さん。本当に海原摩魚なのかい?」

 そう言ったのは、磯野フナであった。



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