ベティとアンジー、人魚姫と交渉する
初登場をするベティとアンジーは、古川登志夫さんと朴路美さんの声を想像して読んでもらえると楽しいです。
1
「うふふふ。見たわよ見たわよー」
開けたクラブの出入口の枠に手をかけて覗き見をしていた痩身の大“男”がいた。甲高い声を押さえて、口もとを指先で“お上品に”隠して小さく笑っていく。アッシュブラウンの三つ揃いスーツが実に“様”になっている。面長で細く、頬が痩けて頬骨が目立ち、高い鼻梁は鷲鼻で、彫りの深い眉の奥にはキラキラ輝く碧眼と下睫毛、襟足で切り揃えてピッチリと七三分けにされた金髪、以上トータルしてこのバタ臭い顔立ちからすると、どうやらアメリカ合衆国の人のようだ。出入口のドアは開けっ放しのまま、痩身の大男は嬉しそうに話しかけていく。
誰に?
隣の若い女性部下に手招きしていき。
「ほらほらアンジー。陰洲鱒のお三方が揃い踏みよ。これは、ミーたちCIAと新世界十字軍の“またとない”アピールのチャンスよ! ねえ、アンジー」
と、隣に顔を向けてみたら。
「あら? ちょっとアンジー。どこ行っちゃったの?」
肝心なことに若い女性部下の姿がなかった。
「んもー。こんな大事なときにあの子ったらどこをほっつき歩いているのかしらん。まったくもー。近ごろの若い子ったら本当に自分勝手なんだから!」
プリプリ怒りながらプリプリお尻を振っていく。
「いいわよ、いいわよ。こうなったらミーが独りでやってみせるんだから! 大先輩の働きぶりを見にこないなんて、アンジーったら人生の大損よ!」
以上。このような独り言が聞こえていない訳ではなく。
店内中の客たちはおろか、カウンター席の女三人にまでその耳に入っていた。クラブ玄関の出入口でドアを開けっ放しのまま中腰になってお尻を突きだして、店内を覗き込んでいる痩身の大男の姿というのは、実に滑稽で異様なものである。それと、独りでにワクワクしているご本人もすでに周りからバレバレといった事態に気づいてはいないもよう。カウンター席から首を後ろに回してその様子を見ていた片倉日並と鯉川鮒と鯛原銭樺は、得たいの知れない奴が来たと思って引いていた。すると、その痩身の大男はカウンター席の女三人と目が合ったのかどうか不明だが、なにかを決意して中腰から背筋を伸ばして、店内に足を踏み入れてきた。出入口よりも背が高いらしく、梁から少し頭を下げて華麗に通過。次に、顔は真っ直ぐと前を見て、腹を引っ込めて首筋と背筋をピンと伸ばし、まるで店内床に直線のラインが引いてあるかのようにして、架空の線上からはみ出ないように足を縦にそろえて歩いていくといった、いわゆるモデル歩きをしながら“彼”はさらに「んふふふーふー、んふー。んふふふーふー、んふー」と、『アメリカ合衆国国歌』を鼻歌を交えて“こちら”へと接近してきたのだ。
“こちら”とは“どちら”に?
カウンター席にいる女三人にへとである。
「ヤバいヤバいヤバい! 前見て前見て!」
そう片倉日並は鯉川鮒と鯛原銭樺に聞こえる範囲内で小声で叫び呼びかけて、三人一緒に再び前を向いた。皆まで言わない代わりに、“協力者”の二人へ「知らんぷりしときなさいよ!」と日並は眼差しで語ってきた。これには鯉川鮒と銭樺も同意。だがしかし、女たち三人の願いも虚しく、痩身の大男は進路を間違うことなくカウンター席で足を止めて、甲高い明るい声で話しかけてきたのであった。
「ハーイ。ナイストゥ、ミー、チュー。お隣よろしいかしらん?」
話す度に「ミー」の部分のキーが一番高い。
ーデカ過ぎんだろ!ーー
淑女三人は、同じ反応をした。
その大男、身の丈二二〇センチ以上。
長身どころではない。巨人であった。
ここまで来られて無視はできないと思った銭樺が。
「は、ハーイ。こちらこそ、はじめまして。あなたは、どちら様ですか?」
多少の引き吊った笑顔を見せながらも、対応してみせた。
すると。
「ちょっと待っててね」
と、アッシュブラウンの三つ揃いスーツの上着の内ポケットに手を忍ばせたのちに、シックで上品なプラチナメッキ仕様の薄くて四角い小さなケースを取り出して、左手の指先で開けると、右手の人差し指と親指の腹でお上品に名刺を摘まんで銭樺へと差し出した。
「ミーは中央情報局の、ビル・バルカン・バティムよ。『ベティ』って呼んでねん」
丁寧な自己紹介の中に、さらりと愛称を交えた。
堂々と身分を明かした。
ビル・バルカン・バティム。
年齢五五歳。身長二メートル二〇センチ。
生まれも育ちもアメリカ合衆国。機密諜報員。
通称か自称か不明だが、またの名を“ベティ”。
意外にも礼儀正しい“彼女”に、銭樺は好印象を持ち、椅子から腰を上げて後ろポケットからケースを取り出して、名刺を差し出した。
「陰洲鱒町町議会議長の鯛原銭樺です。よろしくお願いします」
と、会釈して名刺交換した。
「萬屋磯野商事の秘書、鯉川鮒です。よろしくお願いします」
「月刊敷島の編集長、片倉日並です。よろしくお願いします」
そのあとに、二人が続けて会釈と自己紹介して、“ベティ”と名刺交換を済ませた。それから、どうぞと招かれて、彼は銭樺の隣に腰を下ろした。次に、軽く握った拳から人差し指を立てたと思えば、その細く長い指の先に小さな炎を灯したではないか。これを三人に差し出していくベティ。
「ミーからの挨拶がわりよ。一服どうぞ」
え?そっち?みたいな表情を浮かべた女三人。
三者お互いに顔を見合せていく。
「私、吸わない」
「私も。煙草は煙も苦手で」
「私も。ない」
女三人とも、喫煙者ではなかった。
銭樺が聞いていく。
「ビルさんは、煙草は吸うの?」
「ミーも吸わない」
この答えに。
「いや。あなたは吸わんの?」
日並の突っ込みに。
「お煙草は身体に悪いもの」
「じゃあ、なんで私たちに一服すすめてきたの?」
「お煙草は淑女の嗜みよ。あなたたち三人にとっても似合いそうだと思ったから」
「あ、あら……。ありがとう」嬉しさに頬を赤くする。
「とくにその、真ん中の鮒さん」
鯉川鮒に話しを飛ばしていき。
「その素敵なお着物姿なら、普通のお煙草よりも煙管が似合うわよん」
「え? わ、私に?」
照れて反応していく“人魚姫”。
その煙管を嗜む鯉川鮒の姿を想像していく銭樺と日並。
「いいわね! 素敵!」
と二人仲良く声をそろえた。
これを受けて動揺していく鯉川鮒。
「ありがとう……」
仕切り直して。
今度は鯉川鮒から話しかけてみた。
「ビルさん」
「ベティよ。ベティって呼んでねん」
「ベティって、日本語がとても流暢なのね。でも大変だったんじゃない? 読み方以外にもいろいろと言葉の意味も覚えないといけないし」
「あら。ミーを気遣ってくれているの? ありがとう。でもね、それは心配ご無用よ」
「あらそう? どうして?」
「ミーは『百ヶ国語の王女ベティ』と呼ばれた“女”よ。外国語を覚えるなんて朝飯前だわ」
“実に”自信たっぷりに答えていく“大女”ベティ。
「そ、それはまた、凄いのね」
その無限大の自信に圧倒されて関心していく鯉川鮒。
次は片倉日並が聞いてきた。
「ベティて、CIA職員なんだ」
「イェス」
「その……、諜報活動しているなら、相棒が要るはずでしょ? よっぽどのことがない限りは、二人一組が原則じゃなかった?」
日並の質問に、ビルことベティは。
「そーなのよーー。本当はそうなんだけど、ミーがちょっと目を離した隙にどこかに行っちゃったの。彼女、まだまだルーキーよ。心配だわ」
「心配なら電話してみたら?」
「それもそうね。ありがとう」
「いいえ。どういたしまして」
お互い笑みを交わしたのちに、ベティは内ポケットから星条旗模様のスマホを取り出して行方不明のルーキーへとかけていく。約十回近くの呼び出し音のあとで、ようやく電話の主が出てくれた。
『は、はぁぁい。アン……! ジェラですぅ』上擦る声。
「もしもし。ベティよ。アンジー、あなた今どこにいるの?」
『ぉ……おぉす、上司殿ぉ……っ。んんっ』上擦る声。
「ちょっとアンジー、あなた、どこにいるの? というか“なにしているの”? ミーは今、大事な人たちとの接触に成功したんだけど」
『あん! じ、上司殿。自分も、自分も今、接触して、いい……っ。んあ』
「ひょっとして、あなたまさか?」
『じ、地元の人と、交流、を……。あん! 硬ぁい、太ぉい』
「なにやってんのよ、お馬鹿! あなた、現地の男を食い尽くすつもりなの! いい加減さっさと済ませてから来なさい! もう!」
『はぁい。逝きます、逝きます、逝きます。ああん! しゅごい! 逝く! 逝く! 逝っちゃう!』
親指の腹で、勢いよく通話を切ったベティのその顔には、青筋を浮かべていた。そして、会話が駄々漏れの丸聞こえだったせいで、銭樺と鯉川鮒は耳まで真っ赤に染めて俯かせた顔を両手で覆い隠していた。日並はというと、顔を赤くしながら額に青筋を立てていたのだ。店内BGMが流れる中で、このカウンター席のみが沈黙の空気に支配されてしまった。
その数秒後。
沈黙の空気をぶち破って。
バーの横の扉を蹴破って。
鰐恵が鬼の形相で入ってきた。
「この糞餓鬼! ウチのボーイを立ちバックで喰ってやがった!」
身長二メートルの鰐恵の右手に、後ろの首根っこを鷲掴みにされたネイビーブルーの三つ揃いスーツ姿の浅黒い肌の美女がぶら下がっていた。明らかな着衣の乱れ、インナーの白いワイシャツからベストと上着までボタンを全開にして、張りと膨らみのある胸を被うレース柄の黒色のブラジャーが顔を見せていた。下の膝丈スカートは穿いたままだったが、レース柄の黒色の腰骨ラインのパンツとココアブラウンのパンストが膝まで下げられていたのだ。整った顔立ちは、高い鼻柱と、彫りの深い三角白眼にダークブラウンの瞳。肩まで切り揃えた艶やかな黒髪は、天然パーマにソバージュをかけていた。怒り心頭の鰐恵から、浅黒い美女が後ろ襟を掴まれたまま、前にズイッと突き出された。
「お前の保護者はどこや! 今すぐココに呼んだる!」
銀色の尖った歯を剥き出して、居場所を聞いていく。
すると、目の前のベティに気づいた浅黒い美女は顔を明るくして、敬礼して声を張り上げた。
「こ、これは上司殿! 押忍!ーーーアンジェラ・ロドリゲス、ただ今戻りました!」
アンジェラ・ロドリゲス。
年齢二五歳。身長百七五センチ。
通称、アンジー。
生まれと育ちメキシコ共和国。
アメリカに移住後、中央情報局職員に就く。
先にも紹介したが、健康的な浅黒い肌が大変美しい南米美女。
長身の細身でありながらも、張りのある胸の膨らみと小ぶりに引き締まった尻は、彼女の生まれつきプラス鍛え上げられて仕上がった筋肉の賜物でもあった。
以上のこのような様子に、今度はベティと鯉川鮒が耳まで真っ赤にした顔を両手で覆い隠していた。部下の醜態に恥ずかしがっていたベティに構うことなく、鰐恵は彼の隣のアンジェラをカウンターに立たせた。
「お前さんが保護者かい?」
「そうよ。そのお馬鹿なド新人ルーキーの教育係と上司、ミーがを任されているわ」
まだ頬を赤くしていたが、ベティは面を上げて正直に話した。
この答えを聞いて、鰐恵は切れ長な黒眼を細めて。
「ほう……。なら、ちゃんと教育はしとったのか?」
「CIAの“イロハ”をちゃんと叩き込んだわよ。最初のうちでね。その上で“コレ”なのよ、この子」
「ヤっっバ」鰐恵、驚愕。
「ね。そうでしょう」
そんな“保護者”と“黒服”美女のやり取りの間に。
「押忍! 自分は、海軍から中央情報局に入ってきたであります! そして、上司殿のもとに配属されましたであります!」
アンジーが片手でパンストとパンツを一緒にあげながら、敬礼して自己紹介の続きをしてきた。次は両手に持ち直して“きちんと”穿き直していき、インナーからベストと上着へと手際よくボタンを閉じていって、身だしなみを整えた。それはまるで、先ほどまでの性行為による着衣の乱れは“どこへやら”といった感じで、その雰囲気が完璧に消し飛んでいたからだ。その上、アンジーは己の上気した表情までも収めてしまっていた。さすがは、元アメリカ合衆国軍海軍一等兵である。このひと言のあとに、鯉川鮒が電光石火のような早さで覆っていた顔を上げて椅子から立ち上がり、黒眼を血走らせて銀色の尖った歯を剥いて青筋を立てて、アンジーを力強く指さしていった。
「ざけんなこの糞餓鬼! なにが元マーリーンや! 舐めた真似しくさって! ここは私の店やぞ! それをホテル代わりにズッコンバッコンとチンポ喰らいやがって! てめえ、この! ケツの穴から手ェ突っ込んで奥歯ガタガタいわして、ぶぶ漬けにしたろか!」
恥ずかしさと怒りが混じりあって、彼女の銀色の瞳はウルウルとしていた。
「鮒さん! 気持ちは分かるけれども、殺っちゃ駄目!」
「鮒さん! あなたが怒ったら本気で死人が出ちゃうから! 落ち着いて落ち着いて!」
慌てた銭樺と日並が、怒り心頭の“人魚姫”をなだめにかかった。“協力者”二人から「ドードー」と背中と肩を優しく撫でられ続けていくうちに、鯉川鮒の怒りの業火はやがて沈静化していき、脳天から煙が立ち上っているかのようにまで見えて落ち着いた。しばらく銀色の尖った歯を剥いて肩で息を切らしていた鯉川鮒が、ひとつ大きな深呼吸のような溜め息のようなものを着いたあと、再びカウンター席に腰を下ろした。
再び、仕切り直して。
「ねえ、ベティ。あなた、そもそもなんで私たちに会いにきたのよ?」
「よくぞ聞いてくれました」
日並の疑問に、ベティは明るく答えていく。
「あなたたちとの取り引きをするためよ」
「取り引き…………?」
この言葉に反応を示した鯉川鮒が、小さく復唱した。
そして、続けていく。
「なにが目当てかしら?」
「尾殴り山の砂金よ」
「……やっぱり……」
「イェス! アイ、ドゥ!」
「失望させて悪いけど。あの山は町長の安兵衛さんと萬屋の社長の波太郎が契約した国内の大手三社が押えて、掘削しているのよ。残念ながら満席ね」
「だったら、奪えば良いのよん」
「は?」切れ長な黒眼を見開く。
「ミーはCIAだけど、世界基督教会の新世界十字軍の部隊長でもあるのよ。ミーたちが出てきたら、あなたたち淑女はいくら力を持っていようとも、ミーたちに比べたら小さな小さな蟻ん子。だから下手に抵抗しない方が身のためね」
「その言い方。最初から取り引きの交渉してくれるとは思えないわね」
「当然でしょう。鮒さん、日並さん、銭樺さん。三人はあくまでもあの島と町を支配下においているという狭い範囲だけど、ミーたちの新世界十字軍はまさにワールドワイドの活動よ。規模が違うの」
「でもそれ、拠点はエルサレムで三大一神教の三人の教祖が実権を握っているのよね? だいいち、ベティの指先ひとつで動かせることができるの?」
「チッチッチッ」
と、立てた人差し指を左右に振り。
「そのような心配はご無用よ。ミーは部隊長、だから一部の部隊なら指先ひとつで動かせるわ。でもね、ミーが目指すのは、血生臭い暴力の世界ではないの。博愛と平和に満たされたお花とお花の香りがいっぱいする世界なのよ! そのためには、世界各地のインスマウスの金がその活動資金として必要なのよ!ーーーそしてそれは、日本の陰洲鱒町も例外ではないわ。ミーは特別扱いしない主義なの。機会も出会いも結末も平等なのよ! 全ての人類に、ミーから幸を施していくの! 人類に幸あれよ!」
眉の奥の碧眼を輝かせて、恍惚な顔で両腕をいっぱい広げた。
唖然とする淑女四人。
数秒間の沈黙。
拍手していくアンジー。
「押忍! さすが上司殿! 明確な目標と計画があって、自分は尊敬するであります!」
幸か不幸か、軍隊上がりのメキシコ美女。
バールームには、ただただ拍手が鳴り響いていた。
2
取り引き交渉は、まだまだ続く。
「それはとっても立派な理想ね。でも、現実的ではないわ」
「なんですって?」
鯉川鮒のひと言に、ベティは片眉毛を上げた。
「ところで、皆さん。ひと息入れましょか」
バーカウンターに戻っていた鰐恵から提案を出されて、定位置の女三人は黙って頷いた。これを聞いたベティの口もとに、笑みが浮かんだ。とっくの前に空にしていた女三人のグラスを引き下げて、手際よく洋酒や日本酒や焼酎などに果汁や炭酸や果物などを種類別に振り分けて合わせていき、シャカシャカとシェイクしていく。それは、手慣れた無駄のない、実に美しい一連の作業であった。この鰐恵の姿に、ベティは「ほう」と感心を示していく。そして、あっという間に三人のカクテルができあがった。
「はい。鮒ちゃん、カルアミルク」
「ありがとう」微笑む鯉川鮒。
「はい。銭樺ちゃん、レモン酎ハイ」
「わあ。ありがとう」ニコッとした鯛原銭樺。
「はい。日並さん、ブラッドオレンジ」
「あらーん。ありがとうね」微笑む片倉日並。
ここまでの流れに、たまらず感想を洩らしていくベティ。
「素晴らしいわ。鮮やかで美しいわね」
「あら? ありがとう。ーーーそこの“あなた”も一杯いかがかしら? お代はちゃんといただきますよ」
「気が利くわね。ーーーじゃあ一杯いただこうかしら」
「なににします?」
「グランベリーをジンベースでお願いね」
「はいよ」
と言ったときにはすでに作業に移っていた。
一分と経たずに赤い液体で満たされたカクテルが、ベティの前に差し出された。
「どうぞ。グランベリーです」
「うふふ。ありがとう」喜ぶベティ。
「ええと…………」
そして最後は、メキシコ美女に目線を向けた。
鰐恵の目付きが厳しくなり。
「そこのチンポ女。なんがええんや? 言うてみい」
「ち、チンポ女ぁ?」
予想値にしなかったアダ名に、アンジーはたちまち赤面して三角白眼を見開いていく。その横で、四人が仲良く同時にカクテルのひと口目を、グレートムタの毒霧の如く吹き出した。それはそれは、美しい噴霧であった。そして、大きく咳き込んでいく四人。このような彼らをしり目に、鰐恵はアンジーに聞いていった。
「私が作ってやるさかい。じぶんが飲みたい物言うてみい」
「押忍! ピンクグレープの炭酸割りでお願いします!」
「お前いちいち声デカいぞ」
「押忍! 気をつけるであります!」
「…………」
言った側から“ソレ”かいな?という強い眼力をアンジーに向けた鰐恵は、すぐに気持ちを切り換えて、彼女の希望するノンアルのカクテルを作りはじめた。その後、一分と経たずにピンクグレープの炭酸割りがド新人CIA職員の前に差し出された。
「はい、どうぞ。ご希望のノンアルよ」
「わあ! ありがとうございます!」
黒い瞳をキラキラさせて、アンジーが喜んだ。
しかも、先ほどまでの海軍喋りとは違い、普通の女の子の反応であった。このようなメキシコ美女の姿に、鰐恵は疑惑の目を向けていく。
「アンジェラ。お前、“普通の喋り方”ができるみたいやな」
「えっ?」
思わぬ指摘を受けて、アンジーはドキッとしたのち。
「わた……、自分の、ふふ普通の喋り方、は、コレであります! 押忍!」
「まあ、ええけどな」
鰐恵は、ここは食らい付くよりも流しておこうと判断した。
そして、“黒服”の熟練バーテンダーは自身のカクテルも作って、皆と付き合っていく。
取り引き交渉再開。
「ねえ。この素敵なバーテンダーの人、ここに居てもらっても良いの?」
そんなベティの指摘に、鯉川鮒は。
「その人も螺鈿島に移り住んで長い。私たちといろいろ見てきたから、現場に居ても問題ないわ。むしろ立会人が欲しかったくらいだったから、ちょうど良かった」
この言葉に感心したのは鰐恵だけではなく、ベティもであった。
「うふふ。用心深いことは良いことね。でも、第三者と言っても彼女は鮒さんと“同じ種族”よね? 町の人が新たに必要だった方が良くないかしらん?」
「“お気遣い”は無用よ。“同じ種族”でも“出身が違う”から、親しき仲にも距離がある。お互いに贔屓し合うことはしないから、問題ないわ」
「あら? その言い方、まるであなたたちの中に派閥がありそうな口振りね? 穏やかじゃなさそうなのは、意外だったわ」
ちょっとした驚きを見せたベティに、日並から火口を切った。
「私はジャイアンツ」片倉日並。
「私はオリックス」鯉川鮒。
「私はホークス」鯛原銭樺。
「私はタイガース」鰐恵。
納得していくベティ。
いや、納得せざるおえなかったのだ。
「な、なるほど。それは争いが絶えないわね……」
「でしょう?ーーー第三次世界大戦を見たくなかったら、余計なことには触れないで、交渉の続きを始めてちょうだい」
鯉川鮒から刺してきた釘に、ベティは頷いた。
「それはごもっともな意見ね。“寄り道した”ミーが悪かったわ。ーーーいろいろ飛ばして聞くけれども、実際のところ町の砂金の採れ具合ってどうなの? いっぱいあるの? それほどでもないの?」
「あんまり町の稼ぎ頭になっていないかな」
「なによ。失望させないでよ」
「だって、陰洲鱒町というか螺鈿島は食べ物と温泉と観光と魚介類で安定しているのよ。町の利益は落ちることなく、ずっと横這い。それらに比べたら、尾殴り山の砂金の採取量なんて毎年微々たる物なんだから」
「本当なの? 各国のインスマウスはどこも同じように金の採掘量が飛び抜けて高いのよ。だから日本のだけが少ないってあり得ないでしょ」
「ダゴンとハイドラの力が弱いからじゃないの?」
鯉川鮒がちょっと含み笑いを見せたのちに、言葉を繋げた。
「まあ、それは置いといて。もうひとつ失望させて悪いけど。掘削している契約の大手三社はね、正直言って赤字の事業を続けているわ。でもね、その三社にとって“コレ”は副業のひとつで、本業では“ちゃんと”利益を上げているの。思った以上に採れないって、作業長とお偉いさんが嘆いていたわ。そして、尾殴り山は今や穴ぽこだらけ。崩壊の危険性が一番高いと審査を受けてからはね、近年は作業員さんと三社の関係者たち以外は立入禁止区域に指定されて、私たち町民でも出入りができないのよ。出入りができないというよりも、あんな物理的に危ない場所なんか立ち入ったくないわ」
「じゃ、じゃあ、なんでその大手三社はいまだに続けているのよ?」
「各社の社長さんとお偉いさんたちが『続けろ』と言っているんですって。だから掘削の部所は『止めろ』と社長命令が下されない限りは続けるほかしかないのよ」
「その三社って、長崎県のなの?」
「全部、東京都」
「地元企業は手を挙げなかったの?」
「申し出はゼロ」
「…………」言葉にならなかったベティ。
「ねえ? 世界基督教会と新世界十字軍、本当に陰洲鱒町の砂金を物にしようとしているの? 例え町を軍隊で町民たちの血を流して制圧したとしても、砂金が増えるわけではないわ。本当に言葉通りに無駄な努力で終わってしまうのよ」
「…………データーはあるかしら? 毎年の採掘量の」
「だろうと思ってた。ーーーあるわ」
と、端に座る日並から「サンキュー」とスマホを受け取って、「ちょっとごめんなさいね」と銭樺越しにベティに手渡した。骨と皮のような細く長い親指で画面をスクロールしていき、ベティは段々と目を見開いていった。
「なによ、これ……。毎年、1トンから2トン採取できれば良いほうじゃない。あとは平均して数百キロ…………。ーーーお隣の中国とロシアのインスマウスなんかは、毎年平均して10トン以上の、まさに掘る度に湧き出る鉱脈なのよ。それに比べて、陰洲鱒町のは…………」
「“他の”に対して見たら、情けないくらいでしょ」
「ミーたちは、三大一神教のトップと団長から、あとは日本のインスマウスだけだから制圧する前に交渉してくるように、と、指令を受けてアンジーと最西端まで来たのよ」
「そう? それはお気の毒に。ーーーまあ、ひょっとしたら、これは私の勝手な考えだけれども、砂金は建前なんじゃない? 目的はもっと別にあるのかも」
「なんなのよ? その別の目的って?」
「それは“あなた”の団長さんに聞いてみたら? 彼の本当の考えが分かるかもしれないわよ」
「“彼”じゃないのよ」
「?」
「ミーたちが所属する部隊の団長はね、“彼女”なの」
「……え? 女……?」
「新世界十字軍の中でも最強と名高い『第九団体』団長、その名はMrs.片倉菊代!」
瞬間。端にいた日並がカクテルを噴霧した。
それは、グレートムタの毒霧の如く実に美しかった。
大きく咳き込んでいったのちに、面を上げた日並は。
「“ソレ”、私の義姉さん」
ゴフゥと鼻からカクテルを吹き出した銭樺。
カクテルを噴霧した、鯉川鮒と鰐恵。
驚愕していくベティ。
「はああ? なんてことなの! この情報は初耳だわ!」
「私も義姉さんも、誕生石が黒曜石」
「ああ……。ーーーそういえば、団長は黒曜石の魔女とも呼ばれているのよ」
「あのジャイアンツキチガイ、魔女じゃったのか」
と、なにやら因縁がありそうな感じで鯉川鮒が呟いた。
「え? 団長、陰洲鱒に来ているの?」
興味を持ったベティは、身を乗り出した。
その間では、銭樺が鰐恵からハンカチタオルを受け取って、鼻から漏らしたカクテルを拭き取っていた。このままでは、再び話しが寄り道してしまいそうなので、鯉川鮒は軌道修正をしていく。
「ねえ、ベティ。さっきの話しとデーターを見て、交渉は成立しそうかしら? あなたは、どう思う?」
「そうねえ…………」
と溜め息混じりに言いながら、銭樺から鯉川鮒伝いに日並にスマホを返却して、ベティは会話を続けた。
「ミーの個人的な判断を述べても良いかしらん?」
「よろしくてよ」
「陰洲鱒町を制圧する必要性がないわ。交渉は決裂ね」
「じゃあ、この話は“お流れ”ということで」
「お疲れさまだったわね。乾杯」
「はい、お疲れさま。乾杯」
取り引き交渉は成立しなかった。
その後、鯉川鮒と片倉日並と鯛原銭樺と鰐恵は、ベティとアンジーの二人と各々のカクテルを味わって雑談して楽しんだ。