母親たち part 3
1
時を遡ること約四日前。
海原摩魚が誘拐されて翌日くらいのころ。
娘の海原みなもが、依頼先の榊探偵事務所に出かけようとしていた朝のことである。
海原鮮魚店二階。
「油断したわね」
そう言葉を放った女がいた。
海原慶子。
娘の、海原みなもの母親だけあって、実に美しい女性であった。その美しさは、地元の番組の他にも九州ローカルのテレビでも「美人のいる魚屋さん」として紹介された過去があったほど。身長も、摩魚と“みなも”に並ぶ百七〇センチくらい。摩魚は慶子とは似ていないが、みなもは彼女にそっくりだった。そして、慶子は母親として物理的にも強い女でもあった。若いころから武道を嗜んでおり、今も継続中である。娘二人に武術を奨めたのは、慶子である。そして、そのような強い母である彼女にも師範がいた。年齢的にはあまり大差はないせいか、海原慶子と“彼女”とは師範であり友達でもあるという関係性も持っていた。いや、“いた”というより今ももって継続している良好な関係である。そんな美しい女性でもある師範の彼女の名は、榊麗子と言う。末娘の“みなも”が今から向かう先の事務所の名が榊探偵事務所と聞いたときは、慶子は世間は意外と狭いわねと思った。麗子は護衛の仕事で県外に出張中でしばらく長崎市から離れているが、彼女の独り息子である榊雷蔵が現在の所長を勤めていると知ったときは、不思議なほどに安心感を覚えて焦る気持ちもわかなかった。
しかし、対する“みなも”は“そうはいかなかった”わけで。
「油断したって、なんなの?」
驚きに目を見開き、思わず声が大きくなる。
「気にしないで。独り言だから」
末娘の顔を見るなり、笑顔になった。
クリーム色のブラウスにジーパン姿の慶子。
長身でスレンダーでスタイルが良いから、シンプルな組み合わせでも実に様になっている。とても四七歳とは思えない若々しさと色香があった。腰に両拳を当てて、仁王立ちの構えで“みなも”に話していく。
「“彼”のところには、どのくらいお世話になるの?」
「……え?」
「タヱちゃんと毅くん連れて、摩魚を取り戻す依頼をしに行くんでしょ。家には数日帰らないんじゃないかと思ったから聞いたのよ」
「え? いいの?ーーーそう言うことなら、三日間くらい一緒に活動しようと思うけれど」
「なら、そうしなさい」
「ありがとう!」
母親へ満面の笑みを見せた。
「うふふ」
そんな末娘に目じりが下がる。
そうして。
摩魚が誘拐されてから五日ほど経ち。
予定より二日オーバーして、海原みなもが帰宅してきた。大好きな姉の摩魚があと一歩のところでさらに遠くに離れて、半分くらい意気消沈していたようだ。禁煙していたタバコも辞めて、喫煙を再開していた。この海原鮮魚店での愛煙家は、海原みなもだけである。家業を引き継ぎながら今の彼氏ためにタバコをやめようと言っていた我が末娘が、気落ちした感じで二階のベランダでセブンスターを吹かしていた。みなもは海原鮮魚店でホタル族でもあった。閉店時間を迎えて店頭のシャッターを下ろしながらも、二階から揺らぐ煙は目立っていた。シャッターを閉じたあと裏口に向かったところで夫の哲哉と目が合い、軽く鼻から溜め息をついて微笑みを浮かべる。彼も同じように微笑んだ。哲哉はモップとバケツを、慶子はホウキと塵取りを、それぞれの役割をするために旦那は店内の妻は表の掃除をしに足を運んでいった。そして、長箒であるていどゴミを集めて仕上げの塵取りに入れようかとしたそのとき、気配を感じたと同時に声をかけられた。
「お疲れさまです」
それは、笑顔の可愛らしい美しい娘。
しかしそれは、ヒトの目が反転した黒色の眼に銀色の瞳と縦長の瞳孔。色白な肌をしているけど、これもまたヒトとは違った本当に白色の肌で、青色や紫色の影が差していたのが特徴であった。そしてなによりも、この美しい娘の首筋には五つの鰓を持っているのが異形であり、ヒトとは違う種族、人魚であることを示していた。
この娘に振り向いた慶子は、たちまち笑顔になる。
「あら、福美さん。お疲れさま」
「お疲れさまです」
志田福美。
人魚の母親の志田杏子の次女で、人間の父親を持つ半人半妖の美しい女性。背の高さもあってか、膝丈スカートのダークグレーのツーピースがお洒落着に見えていた。
慶子が福美へと言葉を続けていく。
「そういえば、あなたのお母さんが無事帰国してきたそうね。派遣先で左肩を撃たれたってニュースを見たとき驚いちゃったけれど。本当に良かった」
「はい、おかげさまで。母さんと姉さんは一緒に帰ってきました。もちろん、相棒の重機も連れてね」
「それは良かったわ。撃たれた翌日から三日間も意識が朦朧としていたって報道されて、心配していたから」
「それなんですが。母さんは夢の中で私たち家族と友達から呼び戻されたから帰ってこれたと言っていましたよ。ーーーあと、今回の事件をきっかけに、技術者被災地派遣法が見直されるそうです」
「良かったじゃない!ーーー生き死にを彷徨った杏子さんにはこれ言うのも悪いけれど、今回のことが怪我の功名になったようね」
このひと言に、福美は“うっすら”と口角を上げていき。
「病院のベッドで母さんも同じこと言っていました。ーーー私の怪我が無駄にならなかった。ーーーって。とても嬉しそうでした」
技術者被災地派遣法。
現代の赤紙招集令状。
などと言われてきた、被災地に日本国内トップレベルの土建の熟練技術者たちを『被災地』にへと派遣する法律が、今から三十年近く前に施行された。それは、緑色の令状が封筒とともに送られてくるといったもの。阪神・淡路大震災がきっかけとなり、この震災後に新たに作られた法律であった。当初は、日本国内各地で起こった災害地にのみ国内トップレベルの技術者いわゆる大ベテランたちを派遣だったのだが、やがてそれは、国内政府の者たちが外交的な面子を保つためにまたはイメージアップをはかるために、国外に派遣される場所は“紛争”被災地まで及んだ。よって、当然のごとく派遣された熟練の技術者たちは紛争地から帰国してきたときは銃撃に巻き込まれた怪我を負っていた。そしてそれは、建設重機の大ベテランオペレーターである志田杏子も例外ではなくて、今回の被災地派遣先のパレスチナで瓦礫の処理を始めようとしたところで長女の姫子の目の前で過激派組織からの銃弾を左肩に喰らってしまい、その翌日からは意識が朦朧としたりなどの「あの世とこの世を彷徨う状態」が続いていた。しかし、三日後には意識が完全に戻ってその翌朝に愛娘と相棒の重機とともに無事帰国できた。これが不幸中の幸いとなったのか、紛争地に派遣された熟練技術者のひとりが死にかけた上に、それがさらに副社長の旦那と相思相愛で八人の子持ちの自立した女性が、というのを報道されたのを機にSNSでも拡散されて、さらには今まで国外に派遣されてきた技術者たちが政府に陳情してくれたおかげで法案改正の見直しが始まったのである。
「母さん、100%妖怪だから三日間くらいで傷が治って回復すると思いますよ」
「そう。それは頼もしいお母さんね」
「ありがとうございます。あと、今月別にやることができたから、会社に休暇願いを出しに行くって言ってました」
「え? 杏子さん、社長でしょ? じぶんの会社じゃない。誰に任せるの?」
「んー? 元・びわ工建の社長だった人にひと月間バトンタッチするそうですよ」
「なら大丈夫ね」
「はい、心配ないです」
慶子も福美も互いに微笑み合った。
2
それから。
夜。海原家。
晩ごはんを家族仲良く囲っていた中で、みなもがどうやら上の空なようだ。さすがに心配になった母の慶子は、隣の夫の徹哉とアイコンタクトをしたのちに、娘へ問うてみた。
「ねえ、みなも。いったい、なにがあったの?」
「県警でね」
「うん」
「雷蔵さんたちが聴取を受けたときにね」
「うん」
「素敵な人が現れたのね」
「うん。…………素敵な人?」
「彼、もんの凄く格好いい男でね、検死官なのよ」
「そ、それは良かったわね。頑張って」
「うん。ありがとう」
「で。虹子ちゃんはどうなったの?」
「んー?ーーー魔方陣の中に消えて、亜沙里さんたちとどっかに行っちゃったみたいだよ」
「無事みたいね」
「まあ、現場に血がなかったから大丈夫なんじゃない?ーーーあの………、母さん」
「なーに?」
「姉さんは?」
「まだ昏睡状態だった」
「はーー。ツラいなあ……」
「心配する気も分かるけど、あの子、とっても綺麗だったわよ。まさに“眠り姫”」
「素敵」
「明日、今度はあんたが見舞いに行きなさい」
「うん」
そして、母親に愛らしい笑顔を見せた。