摩魚姫、洗いっこをする
1
いったいどれほど眠っていただろうか。
海原摩魚は瞼を開いていく。
深い深い海と夢の底へと沈んでいって、いろいろなものを見てきた気がする。
誘拐されてから五日が経った。
時間的には昼過ぎくらいか。
榊雷蔵たちが長崎県警で聴取されていたとき。
同日。同じ時間帯。
場所は、海淵龍海の“隠れ家”。
薄暗い八畳間で深い眠りから目を覚ました海原摩魚は、細い身体を起こしていく。手を着いたときに伝わってきた“ふかふか”とした感触に黒色の瞳を向けたら、白いシーツで覆われた敷き布団だということが分かった。内心、畳に直に寝かされていたかと思ったから、これには心外だった摩魚。ゆっくりと上体を起こして横座りの体勢をとったとき、襖を静かに開けられていったのに気づいて、顔を向けていく。すると、そこに、銀色の長い髪の毛をした背の高い細身の美しい少女が立っていたではないか。上はデニムのカッターシャツに下は膝丈のデニムスカート。だがしかし、摩魚にとってはこの銀髪の少女の顔は初見ではない気がした。私が好きな、私の愛した美しい人と似ているけれど、この子は違う。さほど興味のない人たちから見れば同一人物にしか見えないけれど、“これ”はまったくの別人だ。長く寝かされていたせいで、頭も気分も冴えていた。膝を伸ばして立ち上がり、その少女と向き合う。
「はじめまして。私は海原摩魚です。あなたは誰ですか?」
薄暗い中でも輝く姫様のような美しさに、銀髪の少女はたちまち戸惑って、顔を赤らめていく。
「あ、あの、はじめまして。私、盃戸蘭って言います」
先日、龍海の自宅に転がり込んできた胚瞳羅こと盃戸蘭だった。教団から脱走後も、漁船で男数名と百貨店で女性客一名と青いハイエースで男三名の、全て殺害してきたという女神ハイドラ。これの行くところには血塗られて、屍が積まれていた。しかし、端から見たら、とてもそのようには見えないほどネアカな感じのする美しい少女の見た目をしていた。しかし、当然のように摩魚はそのことを知らないわけで。魔女ジェシカ・ボンドの魔法で、数日間も寝かされていたから。
「はい、よろしく」
柔らかい微笑みを向けた。
「わあ」
と、言って、蘭はますます頬を赤くして銀色の瞳を潤ませた。これを見ていた摩魚が、目じりを下げていく。
「うふふ」ーええー! なに、この子。可愛いんだけど!ーー
このまま萌え萌えキラキラ感じていくのも悪くはなかったが、目が覚めてみたらひとり増えていたわけで、当たり前に気になる。
「盃戸さんって、教団の人? それとも、陰洲鱒町の人?」
この質問に蘭は「?」という表情を見せたが、すぐさまなにかに気づいて口を縦長に開いて「ああー!」と声を上げて、手のひらを拳槌で軽くポン!と叩いたあと、笑顔を浮かべた。
「私、“そんなんじゃない”んですよ。このたび、人の身体を借りて人間界にやってきたんです」
「え……? 身体を、借りて……?」
「うん。黄金色の髪の毛をしたとっても綺麗な女の子が海に飛び込んできたから、私、思わずその娘の身体を借りちゃった。そして、陰洲鱒町のある浜に上がってきたところを教団の人たちに捕まっちゃって、つい数日前まで監禁されていたんだ」
「それはまた、お気の毒に。ていうか、あなた、さっき人間界にと言っていたけれど、何者なんですか? 人とは違うんだ」
「えへへー」
照れくさそうに笑みを見せて、後ろ頭を掻いていく。
「実はね、私ね、神なんだ」
聞かれて、よっぽど嬉しかったのか、“身分”を明かしてしまった。この答えに対する摩魚は、ワケわからんといった表情になっていた。そんな中で、新たな人物が姿を見せた。
長身でスレンダーな、猫のような目をした美しい女。
浜辺亜沙里の登場。
蘭の横に並んで、話しかけていく。
「おや? お姫様のお目覚めだね」
あら?という顔を向けた摩魚。
「おはよう、亜沙里」
嫌悪は感じないので、自然と微笑んだ。
「おはよう、摩魚」
こちらも、ニコッと笑みを見せる。
「起きたなら、やることはひとつだ。お風呂に入ろうか。なにせ寝太郎だったんだ。洗い流して綺麗にしなきゃね」
「あ、あら。そうかな?」
「そうだよ」
こう断言して八畳間の真ん中まで歩いてきたあと、手を上げて紐を下に引き、照明を点けた。LEDの白熱灯により、薄暗いのから一変して眩くなり、摩魚は顔を渋くする。
これを見た亜沙里。
「あはは」
「なになに?」
自身のこととも知らず、摩魚は嬉しそうに期待して級友に聞いていった。
「なんか面白いモノでも現れた?」
「あなたの顔」
「…………」
2
浴室。
脱衣所でのやり取り。
亜沙里から招かれて先に入れてもらった。
そして、蘭のあとに亜沙里が入り戸を閉めていく。
「着替えは海馬“さん”が用意しといてくれたから、心配しないでいいよ」
「え? 海馬おばさんも関わっているの?」
驚いて振り向いたあとに、後ろ頭を掻いていく。
「あ、えーと。着替え、ありがとう」
礼を言われて悪い気はしない亜沙里。
鈍色の尖った歯を見せた。
「んふふ。あなたをコーディネートできるって張りきっていたから、彼女に会ったら礼を言ってね。喜ぶよ」
「へえー。張りきってたんだ」ーなにそれ、可愛い。ーー
思わず頬が緩む。
「今できることは今しよう。って海馬“さん”が言っていたから、今から仲良くお風呂入ろうか。私があなたの背中を流してあげるよ」
「へ? マジ? 心の準備がまだ……」
みるみる顔が赤らんでいく。
お構いなしの亜沙里。
「さあさあ、脱いだ脱いだ。もたついてたら日が暮れるよ。女三人、まとめ洗いしよう」
「まとめ洗いって……」
上着の裾を掴まれ、一気に胸元まで引っ張り上げられた。
「ひゃあ!」
顔中真っ赤になる。
「あ! こら! 蘭!」
「えへへー。脱がしっこ」
亜沙里から注意を受けるも、蘭はヘラヘラしていた。
摩魚から手を掴まれて、強引に下げられた。
「タンマタンマ! じぶんで脱ぎます! 脱げます!」
「ちぇーっ」
「この、スケベ!」
真っ赤な顔で歯を剥いた。
「脱がせるにも、ムードってもんがあるでしょ!」
「……え?」
亜沙里と蘭が同時に発した。
「あなた、処女、なの、では……」
震え気味に聞いていく亜沙里。
摩魚は、げっ!という表情になる。
「おお“男の人と経験”がなくても知識くらいあるわよ」
早口気味にまくし立てた。
「私にだって、男の人とのデートの一回や二回くらいあるんだからね」
「ヤった?」
「ヤってるわけないでしょ! あなた、私の話し聞いてた? ねえ、聞いてた?」
「じゃあ、キスまではイった?」
「キスもノーセンキューよ!」
ややつり上がった目を見開き、歯を剥いた。
この摩魚を見ていた亜沙里は、吹き出しそうだった。
しかし、新たな疑問がわいてくるわけで。
「じゃあ、同じ女の人となら“そういった経験”をしてきたんだ」
「そ、それは……!」
今度は頬を赤く染めて言葉を飲み込み、級友から顔をそむけた。この摩魚の反応を見ていた亜沙里が、ボソッと呟く。
「こりゃ、女どうしでならヤってるな」
「え!」
声を上げた蘭は、隣の亜沙里を見上げて摩魚に顔を向けて再び亜沙里を見上げた。そして、みるみる頬を赤らめていく。素朴な疑問を蘭が摩魚にぶつけていった。
「相手は誰?」
「このマセガキが。あんた何様だよ」
「あたしゃ神様だよ」
気を取り直して、各々が衣服を脱いでいく。
上着とインナーを脱いで薄い青色のレース柄のブラジャーを露にした摩魚が、隣でドルマンのサマーセーターを脱いで上半身を裸にして胸の膨らみまで露になっている亜沙里に思わず目を向けた。相変わらず、下着は着けていなかったらしい。そんな二人の後ろでは、早々と全裸になっていた蘭がウキウキとしながら浴室に入っていく。
己の膨らみと隣の美女の膨らみと見比べながら驚愕の溜め息とひと言を洩らした。
「すごい……。デカい……」
「え?」
これに気づいて、摩魚の膨らみに目をやる。
隣の“姫様”は、下のデニムパンツも脱いで上下の下着姿になっていた。後ろのホックに手を回してブラジャーを外していったあと、腰骨ラインのパンツにも指をかけて下ろしていき、摩魚はとうとう素っ裸になった。それは、長身で細身でありながらも鍛え上げた身体をしており、引き締まったところは引き締まっているといった、腰の“くびれ”を作っていた。あと、自然と柳腰になったりして、女としての色香も出していて、亜沙里は当然のように見とれていく。
「……綺麗……」
「え?」
この呟きに気づいて隣に顔を向けたときには、すでに亜沙里は下のスカートまで脱いでしまっていて、摩魚と同じく素っ裸になっていた。亜沙里も摩魚と並ぶ背の高さで、細くありながらも胸と腰にほど良いボリュームのある身体をしていて、しかし決して太ってはおらず腰にハッキリとした“くびれ”があり、むしろ摩魚よりもメリハリのきいたボディラインをしていた。一糸纏わぬ姿になった隣の猫のような目をした美女に、摩魚は見とれていく。
「……綺麗……」
「え?」
今度は、摩魚と目を合わせた。
なんだか知らんが、お互い急に赤面する。
そして目線は、亜沙里の胸の膨らみに下がっていく。
「大きいなあー。イイなあ……」
こう言われたので、摩魚の胸の膨らみに目をやった。
「小さめなのも可愛いじゃん」
鈍色の尖った歯を見せて、ニマッと笑った。
亜沙里の口もとを見ていた摩魚が近づくと、顎を指で持って下唇に“そっと”親指の腹で触れていき、愛おしそうな顔で話しかけていく。
「あなたのその尖った歯、とってもチャーミングだよ」
「え? は? え? え?」
たちまち耳まで真っ赤になって、戸惑っていった。
いつの間にか腰に腕を巻かれて引き寄せられる。
そして、近づいてくる摩魚の唇。
薄く艶やかな亜沙里の唇に、マット系のレッドを引いた摩魚の唇がもう少しで触れ合おうとしていた、そのとき。
浴室のガラス戸が勢いよく開けられた。
「お前らヤるんなら風呂から上がってからにせんかい!」
額に青筋を浮かべた盃戸蘭から怒られてしまった。
摩魚は素早く離脱して、銀髪の女神に頭を下げる。
「すみませんでした」
「ごもっとも」
亜沙里も便乗して謝罪した。
そしてこのあと、女三人はお互いの背中を流して洗いっこをした。
3
湯船に浸かる女三人。
摩魚と亜沙里にとっては、一緒に風呂に入るのは修学旅行以来になる。お互いに気恥ずかしさはあったが、どちらかと言えば嬉しさの方が上回っていた。湯船は広いけれども、大人が五人入れば良い方の広さと深さであり、決して泳げる余裕はなかった。で、一番泳ぎそうだった盃戸蘭が意外にもお利口さんに静かに肩まで浸かって、ご満悦な笑顔を浮かべていた。まあ、一年間ほど風呂も許されずに監禁されていたから当然と言えば当然の態度であろう。そのような銀髪の女神様をよそに、気持ち良さげに肩まで浸かっていた亜沙里の隣に、摩魚が移動してきて肩を触れ合わせた。このような“姫様”の行動に驚いて、顔を隣に向ける。
「どうしたのさ?」
「うふふ。あなたとは修学旅行以来だから、嬉しい」
「ま、まあ、確かにそうだけれど」
「ねえ。ミドリさんともこうして一緒にお風呂に入ったの?」
「ええ、まあ、うん……」
「“彼女”、どうだった?」
なんか、グイグイときだした。
どうだった?どころか、浜辺亜沙里は潮干ミドリと一緒に風呂に入ったことをよく覚えていたからだ。それは一年前、ちょうど今ごろ同じように八月の一週目を終えようとしていたとき、生贄と決まっていたのにもかかわらず、一緒に浸かっていた湯船でミドリは亜沙里に肩を寄せてきて、楽しそうに微笑みを向けた。すると、腰に腕を巻かれて顎を指で持たれたと思った次は、引き寄せられてミドリの顔が近づいてきた。優しく「いいよね?」と囁かれたときにはお互いの唇が触れ合い、深い口づけを交わしていったのである。もちろん亜沙里は、“キスから先の行為”を前もって断っていて、ミドリは多少残念そうな顔を浮かべたがそのあと快諾した。当時の亜沙里からは、ミドリとの口づけはひじょうに手慣れた感じを覚えて驚いた。
「ねえ、亜沙里、どうだった?」
再びきた摩魚の質問に、現在へと引き戻された。
湯水の温かさと違うまた別に頬を赤くして、亜沙里は摩魚から恥ずかしそうに顔をそむけて俯かせていく。
「どうだった?って、その……」
「生贄になるのに、あなたと居られて楽しそうにしていたんじゃないの」
「まあ、それはあった」
「でしょ」
明るく微笑んだ。
生贄になるのに、こちらも実に楽しそうである。
亜沙里の締まった腰に腕を回していく。
二の腕に小さな胸の膨らみを付けて、より密着した。
摩魚は、脱衣所で見たときから、一年前まで付き合っていたスレンダーな潮干ミドリとはまったく違うグラマーなスタイルの亜沙里の裸に興奮を抑えきれないでいた。正直、もう限界である。優しく指で顎を持ち上げて、顔を向き合わせた。腰に巻いた腕に力を入れて、さらに引き寄せていく。すると、摩魚の両肩に亜沙里が手をやって押し返そうとし出した。小声で早口気味に“姫様”へ訴えていく。
「駄目駄目駄目駄目駄目……! 私“こんなの”受け入れられない! 私には龍海がいるんだよ! あなたとは友達でいたいけれど、“これ”は駄目! 無理なの……!」
「本当に駄目だったら、今ごろ私はあの壁にめり込んでいるよ」
陰洲鱒の住民の特徴を知っていた摩魚のひと言。
亜沙里が本気を出して突飛ばしていたら、先の言葉の通りに摩魚は壁にめり込むどころか突き破って外に飛び出していただろう。抱き寄せている亜沙里に可愛さを感じていた摩魚が、ちょっと悪戯っぽくもうひとつの思い出話を持ち出してきた。
「ねえ。高校のとき、私の唇を奪ったこと覚えてる?」
「それは……、その……。覚えて、いるよ」
「そう、良かった」
親しみのある笑みを見せて。
「あのときのキス、あなたに押し倒されて“あんな感じ”だったから、今度はちゃんとしたかたちでしたいんだ」
「……え……?」
明確な要求がきたことに、驚く。
稲穂色の瞳を横に流して、再び摩魚と見つめ合う。
「……いいよ」
「嬉しい」
こんなに可愛らしい笑顔を見せられたら、悪い気は起きない。摩魚の肩から手を下ろして力を抜いた。
「じゃあ、キス、だけ、なら……」
「ありがとう」
亜沙里に満面の笑みを見せたあと、摩魚も力を抜いて顔を近づけていく。段々と寄ってくる“姫”の美しさに気恥ずかしく感じて、亜沙里は瞼を閉じた。静かに二人の美女の重なり合う。浴室におとずれる、数秒間の静寂。盃戸蘭が目を開けて、銀色の瞳で女どうしの接吻を黙って見たあとに、再び瞼を閉じた。
ーまあ、キスだけならいいか。ーー
そして、亜沙里の唇から摩魚の唇が離れていった。
長かった。
体感時間が長かったのではなく、実際十数秒が経ったあとお互いの口もとが離れていったから、本当の意味で長い口づけを交わしたのである。やがて、摩魚と亜沙里と盃戸蘭の三人は風呂から上がったあと用意してもらっていた新しい服に着替えて、お膳のある八畳間へ移動してきた。それぞれが座布団を敷いて腰を下ろしたとき、外からエンジン音を聞いたので亜沙里は立ち上がって窓からの景色を確認していった。“家”の外にある三台分の駐車スペースに、ダークブルーのワゴンタイプの車が姿を見せて真ん中に停まった。すると、ドアを開けて現れたのは、海淵海馬とその息子の龍海であった。この親子を見たとたんに、亜沙里はみるみる笑顔になる。この一連の様子を見ていた摩魚は、約三日間の眠りから覚めてから見る亜沙里の表情と行動に“明るさ”を感じとっていた。二日くらい前に一度だけ起きたときに見た亜沙里とは明らかに別物、というか対称的な“ひねくれて暗い”感じの上に下着を着けていないという羞恥の無い彼女であった。
摩魚が知っている浜辺亜沙里は、明るくて可愛い女性。
本来の彼女は周りも明るくする“ネアカ”な女の子だった。
それがたった数年で様変わりしていたとは。
そして、目を覚ましたときからずっと、私の美しい級友の身体から複数の男たちの臭いがしている。一緒にお風呂に入って背中を流してなどの洗いっこをしてみたが、臭いは亜沙里から完全に消えることがなかった。少しだけ“マシになっただけ”である。
そんな考えをしている摩魚に気づかず、亜沙里は笑顔を見せて振り向き。
「海馬“おばさん”もきてくれたよ! 迎えに行ってくるね」
表情だけでなく、声も“明るかった”。
嗚呼。“これ”こそが私、海原摩魚が知っている浜辺亜沙里。
明るくて美しくて可愛い亜沙里だ。
高校生のときは、彼女といるといろいろと楽しかった。
しばらく離れていたけれども、こうしてまた一緒にいられるんだ。再会するきっかけが、私の誘拐というかたちになってしまったけれど。これから先、悪くないかも。心が浮き上がってきた摩魚は、亜沙里に釣られるようにお膳から飛び上がって一緒に小走りになった。
「私も一緒に行くよ」
「あ、ずるい! 私も!」
盃戸蘭も声をあげて慌てて付いく。
そして、ほんの“ひととき”だけ自身が生贄だということを忘れてしまっていた海原摩魚であった。