襲撃!鰐三姉妹!
1
ニーナが女二人を連れて、黒部勝美のもとに行っていたころ。
あまり変わらない時間帯で、雷蔵も活動をしていた。磯辺毅と潮干タヱを連れて、警察の車で事件現場へと向かっている。正確に言うならば、任意同行か。運転をしているのは、稲葉輝一郎刑事。雷蔵の同級生であり、古くからの友である。
閑散とした国道を、青いアコードが駆け抜けていく。
「車、少ねえな」
「週末でもこういうことはあるさ」
稲葉刑事が雷蔵の言葉を受けて返した。声は優しかったのだが、縁無し眼鏡をかけたその精悍な顔はひとつも変わることがなかった。
実際は、その言葉通りに市街地の道路でも車の行き来が通常より少ない週末もあるが、今の雷蔵はいろいろと抱え込んでいたせいか、余計に静けさを感じていた。まるで、多くの人々がどこかへと消え去ったかのような。そんな男の物思いを余所にして、アコードの後ろからは、他の刑事たちの乗る黒いマークIIが一台と、ダークグレーのパジェロが二台付いてきていた。
「着いたぞ」
「早いなぁ」
「そりゃそうだ。犯人の隠れ家は中島川だったんだからな。警察署とは目と鼻の先だ」
「灯台下暗しってやつか」
ドアを開けながら呟く。
早々と外に出ていた稲葉刑事が部下の刑事たち数名に指示を送ったのちに、雷蔵との会話を再開する。
「まあ、逃げられてしまったことはこの際しょうがない。この現場の痕跡からホシの足取りを探っていくしかないだろうな」
そう言い終えて、雷蔵と毅とタヱを中へと案内する。その際に、開けっ放しの扉や窓などに巻き付けられている『立入禁止区域』と赤文字で書かれた黄色のテープを破かないように注意して、お邪魔した。一階は三部屋が突き抜けており、二階が二部屋あった。
雷蔵と稲葉刑事のいる部屋は、海淵龍海たちが摩魚を連れて消失した場所。つまりは、六畳居間の真ん中である。その畳には、五茫星の魔法陣と思われる焦げ痕。
男二人はその魔法陣を前にして、片膝を突いて話し合っていた。
「ニーナさん、連れて来りゃ良かったかな……」
「悔やむな。明日また、蛭池さんの班へ尾澤菜さんに同行をお願いするように決まっている」
縁無し眼鏡を正す。
「本当か。助かったぜ」
友の横顔へと顔を向けて礼を述べたのち、再び視線を前に戻す。
「海原さんも確実にこの家にいた。畳に染み付いていた汗と思われる体液を検査にかけたところ、一致したんだ」
「そうか。……で、さ」
「なんだ?」
顔は動かす気配はなし。
かといって、魔法陣を凝視しているわけでもない。
「殺人事件と関連性があったから、お前ら動いたんだよな?」
「そうだ」
そう会話をしている中で、稲葉刑事は手帳に現場の見取り図を書き込んでいた。メモを取るのは、二度目となる。それは、新たな発見があるかもしれないからだ。男は目を部屋中に配りながら事情を話してゆく。
「お前の言うように、動くきっかけとなったのは、百貨店と波止場で発見された数体の遺体だ。百貨店では若い女がひとり御手洗いで殺害され、波止場では漁師たちが四人も殺害されていた。―――そして、この現場でもワゴン車の中から三人の男たちの遺体が発見されたんだ。これらの殺害方法には一貫性があってな。全てが一撃で終わっている事だ」
「その犯人は同じ奴か?」
「ああ、間違いない。遺体に付着していた指紋を全て調べてみたら、全て同一したんだよ。百貨店を含めた周辺の目撃情報と、遺体に残された犯行形跡から割り出してみたんだ。――――女だったんだよ」
鼻で軽く溜め息をつく。
「女ぁ!?」
声を抑えて、雷蔵は驚いた。
再び稲葉刑事の横顔を見てしまう。
「女だ。しかも十七歳辺り」
そう言うと、メモの手を一旦休めて内ポケットから紙を取り出すと、雷蔵に手渡す。受け取った物を開いて見ると、その紙には、まだあどけない顔の少女の正面顔が鉛筆で描かれていた。稲葉刑事が話していく。
「俺は最初、これは初めて見る顔だと思ったよ。しかしふと思い出して調べてみたら、その顔がいたんだ」
「誰だよ?」
「一年前、行方不明となった潮干ミドリという女に似ていたんだ。正確に言えば、若くした顔に似ていたんだ」
「その人って……!」
「なんだ、お前。知っているのか?」
ここで雷蔵と目を合わせる。
「長崎出身の芸能人として活躍していた人だ」
「ほう……」
「ワザとらしいな。とっくに資料に目を通していたんだろ」
ちょっと文句っぽい。
「まあな」
再び目を魔法陣に向けると、縁無し眼鏡を正した。
「二人に共通する所を調べてみたんだが、なにもなかった」
「なかったのかよ」
「普通だったら“ただのそっくりさん”で済むはずが、驚いた事に二人の指紋がぴったりと一致したんだよ。“そっくり”どころの話しじゃなくなった」
「すげー」
雷蔵は頭の悪い感想だなぁ、と自身で嘆く。
「しかしな、潮干ミドリの身内はちゃんと居る。妹のタヱ。父親の舷吾郎。母親のリエ。この三人だ。だがな、今回のホシは潮干ミドリと“似ているというだけ”で、なんの関連性も無いんだ。まるで突然この世に出て来た存在だよ」
ここまで言い終えると、メモ帳をしまい込み立ち上がった。雷蔵も同様に膝を伸ばす。稲葉刑事の言葉は淡々としているが、その下にある熱い物は人一倍だった。男は、署内一の熱血漢と言われている。
「お前も気付いているだろう。この事件には宗教が大いに絡んでいる」
六畳居間で雷蔵と稲葉刑事が言葉を交わしていた中、タヱと毅はまた別の部屋の中に居た。
「磯辺さん」
タヱは、部屋の空気をスンスンと嗅ぎながら話しかける。
「どどどうしたんだ、な?」
「匂いがするんだ」
「匂い」
「そう、匂い。摩魚さんの匂い。亜沙里さんの匂い。龍海さんの匂い。……それから、あとひとりの匂いなんだ、けど……」
最後に感じ取った肌の感覚に、タヱはみるみるうちに顔付きを変えていった。それは、驚き、嬉しさ、恐怖、感動、悲しみ、などといった物が混じり合い複雑な表情となっている。
「あああとひとりは、だだ誰なんだ、な?」
「姉さんの匂いがするんだ……。なんで? なんで姉さんが……?」
その声は、震え始めていた。
身内だから間違うはずがない。
よく知っている。
これは、潮干ミドリの匂いだ。私の姉の。
毅が帽子を取って聞いていく。
「そそその姉さん、って、みみミドリさん……?」
「間違いないよ。この感じはお姉ちゃんそのものだ」
タヱの瞳は輝き始める。
だがこれは不可解なことで。
「みみみっミドリさん、は、蛇轟の生贄に捧げられたはず、なんだな」
ゲグロ ゲグロ
背中を向けていた状態から力強く踵を返した時に、タヱの黒いマントが花を咲かせたようにフワリと広がった。毅と向き合うと言葉を投げていく。
「そう! そうなったはずなのになんで姉さんの匂いがするんだろ? 生きてたの? 海の底でなにかあったの? それともフナの婆さんがなにか隠してるの?」
そのとき、庭の方で葉と葉の擦れ合う音を聞いて、タヱと毅がその方に首を回した。
タヱが少し首を傾げて呟く。
「刑事さんたち、かな……?」
「げげ現場検証のさいちゅう、かも。邪魔にならないように、したいんだ、な」
「だね」
雷蔵がひとつの名を挙げた。
「『蛇轟秘密教団』か」
「ああ、そうだ」
稲葉刑事は表情ひとつも変えずに相槌を打つ。
「お前の調査結果を聞いたら、あの二人は教団とは無関係だったそうだな?」
「無関係どころか、タヱさんは姉のミドリさんのためだけではなく他に犠牲になった虹色の鱗の娘たちのことと、教団の構成や繋がりを独自に調べていたんだ」
「それは感心するな。ーーーで。もうひとりの方はなんなんだ?」
「ん? 磯辺さんか。彼は、教団施設を含めてたんに島を散歩していたみたいだぞ」
「…………」不可解な顔を見せる。
「散歩コースの一部なのさ」
「ヤバいな」
「ヤバいだろ」
「じゃあ、タヱさんに同行しているのはお前の報告にあった通り、保護しているだけなのか」
「彼に直接聞いてみたら、ひとりより二人が良いだとさ」
「分かるけれど、分からんなあ」
「みなもさんの話しじゃ、磯辺さんがCIAを撃退してくれたおかげで人質から解放されて、摩魚さんの弱味もなくなったんだけど」
「だけど誘拐されてしまったんだよな?」
「そうなんだよ」
「なんでなんだよ?」
「単純に考えると、油断してしまったんじゃねえか?」
「…………。なんだよ、それ」
「最強は、ちょっとした不意を突かれてしまうって定番だろ。彼女も“そう”だったんだよ」
「なんだよそれ。被害者は二三歳の女子大生だぞ。百戦錬磨の達人じゃないんだ」
「俺が大学ほかで聞いてきたことは、海原摩魚さんは無類の酒好きで好色で強い女性だということだ」
「彼女は何者なんだ?」
「俺だって知りたいぜ」
少し間を置いたあと、稲葉輝一郎刑事が再び切り出した。
「教団には進んで協力している者と、協力を強いられている者とで分かれているらしいな」
「そうなんだよ。協力“している”者は、信者をはじめに人魚、そして院里学会とCIA」
「院里学会は厄介だなあ。うちの署内にも学会員が“散らばっている”し。ーーーで。人魚?」
「人魚」
「新島さんにときどき呼ばれて協力をしている、虎縞さんみたいな“人たち”か。あんな感じが人魚か」
「そうそう。見た目はな。ーーーでも、進んで協力している人魚たちは彼女とは違って、種族の本能で行動しているだけなんだ。連中から見たら福子さんは異常なんだよ」
「虎縞さんは自然すぎてアッサリ受け入れていたからな。俺もあれが普通だと思っていたよ」
「お前それ、彼女が聞いたらスゲー喜ぶぞ」
「そんなものか?」
「そんなもんだ」
「その虎縞さん以外で教団から協力を強いられている人たちがいるよな。司祭の摩周ヒメと摩周ホタル。龍宮紅子。磯野マキと磯野カメ。海淵海馬。そして、マインドコントロールされている娘たちとその親御さんたちか……。ほとんど町を支配しているじゃないか」
「いちおう、その中に龍海君も入れておいてくれ」
「龍海君もって、海淵龍海のことか?」
「そうそう」
「どっちに?」
「強いられている方に。いちおう、念のため」
「…………」お前、優しいんだな?という顔になる。
「あの兄さんも町の若い世代だからな。半年前に受けた依頼の護衛の対象だ。やらなければならない」
「そうか。お前が言う以上は“そう”なんだろうな」
微笑みを雷蔵に向けた。
「しかし、教団と学会かあ。次々と行方不明者を出している生贄という儀式も、実は人身売買の可能性もあるな」
「協力した“報酬”としての場合と、“おこぼれ”にありつけている取り巻き。これを受けていると、学会員と金魚のフンが証言してくれたよ」
「行った大学でか?」
「ああ。名高い長崎大学でだ。あそこは学会員の巣窟だったよ」
「お前よくやるよな」
と、感心していく。
腰に両手をやった雷蔵は、鼻で溜め息をついた。
「行って聞いてみないと分からなかった。被害にあった陰洲鱒町の出身も含めた在校生の女性たちが泣き寝入りしたままというのも、お前んとこにも散らばっている学会員と繋がりがあるからだろうな。あの大学の、とくに体育会系サークルは酷いものだった。地獄だよ」
「その学会員がらみでだな。俺と松本と鬼束と蛭池さんと横溝警部が独自に調べていることがあって、陰洲鱒町の娘たちが十代のころに性被害を受けていたんだよ。でも、それが全く立件もされずに“相談ていど”に流されている。お上が消しているとしか思えん」
「ひでえな」
「なぜだと思うよ?」
「署に散らばっている学会員の中に、上がいるから。とか」
「それだよ」
「うわあ」
「学会員どうしの繋がりで“なかったこと”にしているんだよ。今でも」
「その犯罪をしているヤツって、分かったのか?」
「ただひとり名前が上がったな。院里学会でも上位の女。片倉日並だ」
「相手が悪すぎる」
「蛇轟秘密教団だけでなく院里学会。で、自称CIAか……」
そして、腕を組んで溜め息まじりに呟いた。
「いっそ、全部に令状こしらえて踏み込んでやろうか」
「そりゃあ、強引だな」
「そんなことはさせないぞ!」
2
「誰だ!」
空気をぶち壊した声に、雷蔵が言葉を投げつけた。
「ん誰だ、ん誰だ、ん誰ぇーでゃーーぁおぉーーん」
ふざけた歌い声と共に縁側の障子が開かれて、「とう!」の、かけ声とともに二つの影が庭から跳躍をして、真ん中の六畳間へと着地した。若い男と女で、歳は同じくらいか。庭から吹き抜けていく、ヒュウウっという風の音。おとずれてきた僅かな沈黙。“二体”は片膝を突いたまま動かない。すると、そのままの姿勢で「ふっふっふ……」と肩を揺すって低く笑ったあとに、ゆっくりと立ち上がって名乗っていく。
「英礼一!」
「英玲子!」
そして、手と手を取り合ってポーズを決める。
「我ら蛇轟秘密教団親衛隊!―――英夫婦、参上!!」
反応に困った。
黒色の眼と銀色の瞳が印象的だった。
二体の首筋には五つの鰓。
文字通りの白肌に、紫色にも青色にも見える影。
コイツら、人魚か?
そのとき、現場周辺を巡回していた刑事が障子戸を突き破って、雷蔵と稲葉刑事のいる六畳居間に飛び込んできた。いや、この場合は、飛び込んできたというより、投げ込まれたがといった方が正しい。足元に倒れてきた刑事は、すでに気を失っていた。すると、台所の勝手口のノブをガチャガチャとして、乱暴に開けるなりにデカい影が侵入してきた。
目測、二メートル以上。
筋骨隆々。立派に鍛え上げられた身体。
白いティーシャツにジーパン。
青いサマージャケットを羽織っていた。
「あ゛ーーい゛!」
「こ、今度はなんだ!?」
コイツは……!
「男……? いや、女か!」
ショートヘアーの人物を見るなりに、雷蔵は戸惑った。こちらの方が、よりインパクトが強かったらしい。
「鰐の姐さん、この二人をボロ雑巾のようにしてください!」
「あ゛ーーい゛!」
英夫婦の一方的な頼みに、鰐の姐さんと呼ばれたデカい“一体”は快く返事をして豪快に拳を高く挙げたそのとき、天井の板を割って木屑を畳に散らした。このモノも、黒色の眼に銀色の瞳。逞しく鍛えた首筋に五つの鰓。人のとは違う色白な肌。薄く広い唇を開けたときに見えた全て尖った牙のような歯は、上下で二列。これらの特徴は、紛れもなく人魚であった。
そして、タヱと毅のいる部屋でも同じことが始まっていた。
「お前たちは裏切り者だ」
「者だ」
袖をまくった革ジャン姿の細い目をした女と、白いワンピース姿の団栗眼をした少女から二人は睨み付けられていた。と、そこへ後から英夫婦が加わる。この“二体”も、先の“三体”と同じように、黒い眼に銀色の瞳、首筋に五つの鰓、全て尖った歯は上下に二列。人魚の娘たちであった。
袖をまくった革ジャン姿の女が睨み付けて。
「磯辺毅に潮干タヱよ。生きては逃がさんぞ」
この言葉に、鋭く睨み返すタヱ。
取り囲まれても萎縮はしていない。
革ジャン姿の女に、声を投げて確認する。
「アンタら、蝶之介さんから言われて来たのかい?」
「ピンポーン」
鋭い歯を見せて、薄気味悪くにやけた。
「お父様は今、あることが起きてお前たち裏切り者の始末まで手が回せない。だから替わりに私とお姉様と愛香を遣わしたのさ」
「のさ」
二人は得意気に腰に拳を乗せて「ふっふっふっふっ……」と含み笑いをする。そして、革ジャンの女こと鰐夢香と、その妹の白いワンピースの少女こと愛香が揃って目の前の“裏切り者”の二人に力強く指差して、言葉を吐き捨てた。
「と、いうわけで死んでもらうぞ!」
「もらうぞ!」
ドギャッ
夢香の視界が覆われたと思ったその瞬間に、顔面と同時に土手っ腹をも殴られて吹き飛び、障子を突き破って廊下へと吐き出された。丸い団栗眼を更に見開いて驚愕していた愛香が、指を差している姿勢のまま姉と前方の敵を二度ずつ見たのちに、タヱの方に目線を固定して歯を食いしばり叫んだ。
「なにをした! 反則だぞ!」
黒いワンピースのタヱが片膝を突いた格好で、捲り上げた黒のマントをふわりと畳に落とした。勢いよくマントの上がったということは、なにかを放ったに違いない。ゆっくりと膝を伸ばして、白いワンピースの少女と目線を合わせる。その様子はまるで、海底に身を休めていたミズダコが、次の獲物を狩る準備をしているかの如く団栗眼の少女には映った。
タヱは口角を上げて、鈍色の尖った歯を見せた。
「敵を目の前にしといて、講釈が長いんだよ」
そして、稲穂色の瞳を流す。
その声に、少女は身を仰け反る。
「たた、タヱ姉ちゃんって、両腕が使えないんじゃ……?」
「そうだよ、愛香。私は腕を“普通に使えない”のさ」
そう言い終わらない内に畳を蹴って、愛香と呼んだ少女の元へと間合いを一気に詰めた。愛香は、一瞬「ひっ!」と驚いたものの、足を蹴り上げて頭を狙う。タヱが身を屈めて蹴りをかわしたと同時に、脚を伸ばして畳に弧を描いた。軸足を力強く払われて、少女の身体が宙に浮く。このままいけば畳に後頭部と背中を打ちつけるが、愛香は反射的に背を丸めて手を頭へとやり、落下の衝撃を和らげたのだ。そして、足を揃えて折ると、腕をグイと伸ばして顔はタヱに目標を定めた瞬間、真っ直ぐ前後に開脚。
ドシッ!と、タヱの胸元を貫通。蹴られた威力で身体が後退していくのを踏ん張って堪えて、すかさず前方に目をやる。愛香がワンピースの裾を翻して着地したときに、タヱの方はすでに一歩踏み出していた。黒いマントを勢いよく捲り上げて槍の如く発射された物が、愛香の顔面を狙う。とっさに腕を交差して庇ったのだが、思った以上に相手の繰り出してきた突きの力が凄まじくて、軽量の身体は吹き飛ばされて障子を突き破り、姉の隣りに落下した。哀れ階段に後ろ頭を強打して気絶。廊下で悶えていた夢香は、隣りで白目を剥いている妹を見るなりに早々と腕を肩に掛けた。身内の救出作業を優先したらしい。
英礼一の背中から打ち出されてきた黒くて細い鞭を、毅はさらに深く身を沈めた姿勢で畳を蹴って突進していき、このとき相手の武器が頭上のギリギリを掠めていく。これに礼一は膝でその頭をカチ割ろうとしたその瞬間に、腹にに毅からタックルを喰らって庭へと飛び出して落下したとき、ゴツッと不快な音がした。頭が縦に割れて、岩に赤い飛沫で描いた。
「礼一さん!」
悲鳴混じりの声で愛する夫の名を叫んだ玲子は、青筋を立てて両腕を広げて怒り任せの攻撃をしようとしたとき、庭から伸びてきた毅の舌から首を巻かれて、部屋から引っ張り出して、垣根に叩きつけた。ブロック塀に頭を打ち、肩を外して肩甲骨を割った。
一部始終を見ていた夢香。
―この二人がこんなに強いって嘘でしょ!――「悔しいけれど、退散するよ! 玲子さん旦那さんを担いで!」
その頃。
六畳の居間でも、男二人と女ひとりによる闘いがあっていた。
二メートル以上はあろうかと思われる女から繰り出されてくる、大振りなパンチをかわしたり避けたり払ったりしていく雷蔵と稲葉刑事。ある程度は余裕を持ってかわせるが、相手のリーチが長い為になかなか懐へと入れなかった。
女は、デカいだけには非ず。
「あ゛ーーーい゛!」
踵を返して後方へ拳を振るう。
ステップを踏んで、ワン・ツー。
右のジャブを二連発。
左でフックを一撃。
踏み込んで右のストレート。
全体重の何倍も乗った拳を、雷蔵の防御した腕の骨が軋む。歯を食いしばって耐える。
―なんてパワーだ。足にくるぜ。――
踏ん張ってはいるが、力負けしそうだ。
デカい女は拳を引いて次の攻撃に移ろうとしたら、なにやら太股を叩く音が聞こえたので振り向いたら、稲葉刑事が蹴りを喰らわせていた。男はからの軸をぶらす事なく、全身の筋肉を捻って脚を鞭のようにして大女の腹に脚に撃ちつけていく。
だが。
応えている様子は無し。
大女が稲葉刑事に意識を向けた隙を突いて、今度は雷蔵から攻撃を繰り出していった。斜めから振り下ろした脚で脹ら脛を打ち、太股を蹴り、肘で背中を突き刺し、拳で脇腹を貫いた、はずだった。
はずだったが。
「あ゛ーーい゛?」
大女は、両脇に立って己を見上げる男二人を交互に見て首を傾げる。
大して応えていない様子を見た雷蔵と稲葉刑事は、大女から数歩後退して肩を並べた。そして、顔を見合わせるなりに「駄目だこりゃ」といった含み笑いした後に、お互いに溜め息をする。
瞬間。
ドンッ!と大きな打撃音とともに、大女から発射された核弾頭ミサイルのようなドロップキックが、雷蔵と稲葉刑事を一緒に貫いて、ついでに障子も突き破って庭へと撃墜させた。
それを見た夢香は、大女に歓喜の声をかける。
「お姉様、グッジョブ!」
親指を立てて、笑顔。
「あ゛ーーい゛」
大女も親指を立てた。
「お姉様。今日のところは引き上げましょう」
「あ゛ーーい゛」
妹の知らせに快く頷いて了解をする。
お姉様。そう、この二メートル超えの筋骨逞しい女は、鰐三姉妹の“長女”。その名も、鰐頬白。
「幹部が動き出したね」
毅を見て、タヱが言った。
「そそうだ、な」
頷いたあとに、遠くの方からパトカーのサイレンが鳴るのを聞いた。応援が駆けつけて来てくれたようだ。この中に居る刑事たちの内の誰かが連絡をしてくれたのかもしれない。
太陽が真上に昇って白い光りを落として、影の色が濃く成り、川の面が乱反射をし始めたその時間は、昼を告げていた。