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母親たち part2


 1


 仕事を終えて、一軒家の賃貸住宅の駐車場にシルバーのスポーツタイプの車を停めて、家に入ろうとしたときに、女は鍵をかけられていないことに恐怖を覚えた。靴を脱いで上がり、板張りの廊下を歩いていく。家の中は照明が点けっぱなしのままであり、先の障子戸が開いている部屋からは男の体液の臭いを感じとった。その部屋まで歩くたびに、女の肩まであるソバージュをかけた髪の毛が跳ねて揺れていく。その細く白い身体に見合うような両肩を出したシルバーグレーの上着に、下はダークグレーの膝丈のスカートを穿いて長い両脚を魅せていた。身の丈が百七五センチもある四肢の長い、美しい女性であった。ほぼ左右対称に造形されているかのように均整のとれた顔立ちは、卵形の輪郭に高い鼻梁と、猫のような印象を受ける切れ長な眼差しの中には、稲穂色の瞳が輝いていた。天然ウェーブのかかった、濡れたようなしっとりとした黒髪も美しかった。用心深く足を進めていき、その体液の臭いのする目的の八畳間が見えてきて、ソバージュの美女はいったん足を止めて小さな声で呼びかけていく。

「亜沙里……」

 友の名前か、娘の名前か。

 もう一度だけ呼んでみても反応がないので、部屋に踏み入れた。

 するとそこには、四つに縦に切断されたお膳と深くへこんだキッチンが目についた。息を飲んで、猫のような目を見開いていく。

「なによ、これ……」

 家の中で起こった惨状を見て、下唇を噛んでいった。

 次に、部屋に不釣り合いな青いポリバケツに入っているいくつもの使用済みのコンドームが、女の稲穂色の瞳の視界に入ってきた。玄関を開けたとたんに入ってきた“むせる”ような複数の男たちの臭いの正体を理解した瞬間に、女の目に涙が浮かんできたのだ。拳に力が入っていく。そして、畳に付着していた血液と思われる赤い飛沫ひまつに気づいて、その美しい顔から血の気が引いていった。

「なにがあったのよ……! なにをしたのよ……!」

 必死に絞り出した声で、自身に問いかけた。

 畳に力なく座り込み、ポリバケツの縁を両手で掴んだ。

 旦那以外の男は、受け入れ難いに等しい対象であり、この中に捨ててある多量の使用済みコンドームに溜まっている男たちの白い体液は、その名を呼んだ者が受けた行為が嫌というほど想像のついた。嗚咽したあとには、泣き声も混じりはじめる。力の抜けたように立ち上がり、キッチンのある部屋から大容量のゴミ袋を数枚持ってきて、ポリバケツの使用済みコンドームを袋ごと投げ入れた。それから、残りのゴミ袋に重ねるように入れることを繰り返して、最後の白い袋に入れたときに強く結んで絞っていく。抑えきれない吐き気に再び嗚咽した。

「もう、やめて……。亜沙里を、娘を、これ以上汚さないで……!」

 娘。このソバージュの美しい女は、先の話に出てきた浜辺亜沙里の母親。その名は、浜辺銀はまべ しろがねという。


 町内のゴミステーションの燃えるゴミにまとめた物を投げ入れたあと、指で涙を拭った。家に戻って破壊されたお膳の脚を外したりノコギリで短くしてバラして、可燃ゴミの袋に入れて、再び燃えるゴミの場所に「よいしょ」と入れたあと額の汗を腕で拭って、今度は一仕事を終えたような爽やかな顔になっていた。三度家に帰って今度こそひと息着こうかとしたときに、へこんだキッチンを目にしたとたんに重い気持ちに引き戻されたのである。

 立ちすくして眺める。

「どーすんの、これ?」

 コンビニ飯、レンジで調理、インスタント食品、ガスコンロ、電気コンロ、自家栽培、などなど。

 ーふふ。久々にレンジオンリーで調理してみっかなー?ーー

 袖をまくって、ソバージュの髪を後ろにまとめたそのとき。

 シャインシルバーのスマホに一件の着信が入ってきた。

 誰だ?と思って確かめて見ると。『海淵海馬』とあった。

 座布団を敷いて横座りになって電話に出る。

「はい、しろがねです。お疲れさまです」

『お疲れさま。海馬みまだけども。亜沙里ちゃん、血を流しながら車道を歩いていたから私が保護したから心配しないで』

「あ、ありがとうございます!ーーーあ、えと……。亜沙里が怪我をしていたんですか? 具合はどうです? 歩けるんですか? 身体を汚していたら、あの子を、亜沙里を洗ってあげてください。お願いします」

『怪我は額を切って肘と膝を擦りむいて、あとは腕を折ったという大きな怪我といったら大きな怪我だけど、私たち陰洲鱒の生まれだから、ほんの二日三日ふつかみっかすれば治るていどよ。ーーーあと。……あなたのその口ぶりからしたら、亜沙里ちゃん、また汚されたの?』

 電話の向こうの海馬みまという女の前半の明るい口調から、重い感じに一変して聞いてきた。これを受けたしろがねうなづいて、精神的に受けた疲労で乾いた唇を開いていく。このとき、喋るごとにチラチラと見える鈍色の尖った歯は、可愛げを感じさせた。

「また、複数の男の信者たちから代わる代わるされたみたいなの。……臭かった。気持ち悪かった……。家の中、壊されてた……。……疲れた……」

『その家の中のことだけど。応急処置しながら彼女に聞いたらね、なんかタヱちゃんが女の子二人を引き連れてきたって言って、うちひとりは亜沙里ちゃんのクラスメートの妹さんで、あとひとりははじめて見る左右非対称のツインテールの女だと聞いたわ』

「クラスメートの? 誰だろ? 亜沙里とよく一緒に海水浴に行っていた子なら、あたしも知っているけれども。あとそのツインテールの女の子は知らない。というか、タヱちゃん、なんで三人でうちに来たのかしら? リエはここの住所知っているけれど、ミドリちゃんとタヱちゃんは知らないはずよ」

『だとしたら、そのクラスメートの妹さんがあなたの住所を知っていたんじゃないの? じゃなきゃ、野母崎まで来ないでしょ』

「そうですよね。あたしも思い当たるとしたら、やっぱりそっちですよね。ーーーうちの子と海水浴に行っていた女の子ていうと、海原摩魚うなばら まなっていう綺麗で可愛い子が亜沙里とよく遊んでくれていましたけど。あと、福子があたしたち親の保護者代理でついて行ってもらっていたし」

『海原摩魚? 摩魚ちゃんって、龍海の一学年下だった子だ。私もその子見たことあるけれども、本当に可愛くて綺麗な女の子だったよね。じゃあもう、その子の妹さんが“そこ”を知っていたんじゃないかな。ーーーあとね。亜沙里ちゃん、キッチンに強く叩きつけられたって言っていたけれど。実際はどんな感じなの?』

 この問いに、浜辺銀は座ったまま台所を振り向く。

 ほんの一秒二秒見て姿勢を戻した。

「あはは、はー。あー、人ひとり分ゴツく変形している。水道管が破裂していなかったのが奇跡的で、驚いていますよ。ーーー娘は、なにをされたんです?」

『なんか、謎のツインテちゃんから魔法の攻撃を受けて吹っ飛ばされたと言っていたわよ』

「ま、魔法使い?」

『そうねえ。魔法使いだね。あと、キッチンになんか魔方陣に見える焼け跡って残ってない?』

 そう聞かれて、再び台所を振り向いて確かめていく。

 猫のような目を見開いて驚愕する。

 見たあとに再び姿勢を戻した。

「ありました。大きな円の中に三角形が互い違いに重なっている焼け跡。証拠に写真撮っときます」

『うん。そうしといたほうが良いかも』

「ありがとうございます」

『いいって。亜沙里ちゃんは私と龍海でしばらく保護しておくから、心配しないで。ーーーじゃあ、私、町に戻るから。お疲れさま。また会いましょう』

「はい。今日はいろいろとありがとうございます。また会いましょう」

 そう言って電話を切った。

 我が愛娘は、信頼できる友達が保護してくれた。

 この大きな安心感は、今の浜辺銀はまべ しろがねにわずかながらも精神的なゆとりを与えてくれた。そして座布団から立ち上がり、変形した台所へと向かい、独り飯を作ることを決めた。



 2


 同日。

 時間は前後して、昼過ぎ夕方近くになる。

 場所は、同じ野母崎方面。

 赤い瞳の強面の美人が、海岸線の道路をダークブルーのワゴンタイプの車で走らせていた。実家の酒蔵さかぐらの営業をしてきた帰り道、腕と頭から血をしたたらせながら片足を引きずって歩いていた猫の目をした美しい女、浜辺亜沙里を発見して緊急性を感じてハンドルを切っていき、高いタイヤ音を鳴らして煙も立てて路肩に入り、その怪我した女の前に車体を着けた。運転席のドアを開けて、慌てて駆け寄っていく。亜沙里は、赤い瞳の美女の顔を見たとたんに安心したのか身体のバランスを崩して、その女に支えられた。

 力の抜けた声をかけていく。

「おば、さん……」

「亜沙里ちゃん。いいから、私の車に乗って」

 眉を寄せて、我が娘が怪我をしたかのような口ぶりで話しかけて、後部座席に座らせた。トランクルームを開けて救急箱を取り出して持ってくると、亜沙里の隣に腰を下ろした。この赤い瞳の強面の美女は、亜沙里よりも十センチ以上も背の高いスレンダーな身体をしていた。ヘアバンドで亜沙里の前髪を上げて額を出したら、消毒液を浸けたガーゼで傷口を拭いていく。腕の傷も忘れずに、同じようにキレイに汚れを落としていった。

「ちょっとみて痛いわよ」

「大丈夫です」

 この行為に、微笑みを浮かべた。

 軟膏なんこうを塗られて薬をつけたガーゼとテープを額に張られていく。そして、腕の具合を確かめるためにその美女の指で押されていった。チェリーピンクのリップを引いた唇がキュッと結ばれて、深刻な顔をされた。このような表情をしていても、おばさんは綺麗だなあと見とれていた亜沙里は、疲労していた中で言葉をかけていく。

海馬みまおばさん、どうしたんです?」

「折れているじゃない、これ」

「あーー」

「今から、適当な副木を探してみるから、あともう少し我慢してちょうだいね」

「はい」

「よし、いい子ね」

 笑顔を見せて亜沙里の頭を撫でたあと、運転席に戻ってハンドルを握ってアクセルを吹かしていく。

 この赤い瞳の強面美女の名は。

 海淵海馬うみふち みま

 百四五歳。老舗『海淵酒造うみふちしゅぞう』代表取締役。

 美人社長である。

 彫りの深い切れ長で鋭い目の中には赤い瞳が輝いていて、光りの当たり具合で金色にも偏光して見えるのが特徴的であった。細面の中に、ほぼ左右対称に整った顔立ちの中央を走る高い鼻梁。大巻の癖毛のある長い黒髪に大きめなパーマをかけて、七三分けからのオールバックにしたそれを襟足でくくっていた。赤いブラウスに、深い青色のサマージャケットを羽織り、同じ色の膝丈スカートを穿いていた。そして、海淵龍海うみふち たつみ海淵真海うみふち まみの母親でもある。その愛娘である真海まみを、一昨年に蛇轟ダゴン秘密教団の手によって生贄として失って以後は、友達のひとり娘である亜沙里を我が娘のように可愛がっていた。後部座席のシートを倒して、即席のベッドにして亜沙里を寝かせてバスタオルを被せてあげる。そして、あまり車体を揺らさないように走らせていく。海馬みまはあふれ出てくる涙を指で拭いながら、鼻をすすらせていきつつも、周りの景色と後ろの怪我した亜沙里へ目配せしていき運転をしていった。

「もう……、いったいなにがあったのよ……。なんで、なんで、あなたたちがこんな目にわなきゃいけないの……。鱗を持っているというだけで、なぜなの……。私、もうやだ……」

 じぶんのことも含めて泣いてくれていることを分かった亜沙里は、痛みと眠気の中で海馬みまに目線と言葉を向けていく。

「おばさん。ありがとう、ございます。……でも、でもね、今日のは……、違ったんですよ」

「ああ。亜沙里ちゃん、ごめんね。起こしちゃったね。ーーーん? 違ったってなにが違ったの?」

「摩魚の……。摩魚の妹が来てくれたの。私に会いに、タヱちゃんまで引き連れて」

「え? みなもちゃんが? タヱちゃんも?」

「あと、ひとりは、初めて見る女の人だったけれども、三人の中で、一番お姉さんな感じがしたんだ。そろっていないツインテールが印象的だったよ」

「ツインテールの女の子?ーーーちょっと待って、亜沙里ちゃんあなた、今“正気に戻って”いない?」

 ハンドルを操作しながらも、後部座席で横たえている亜沙里の様子の変化に気づいた海馬みま。教団からマインドコントロールを受けている浜辺亜沙里だったが、ときにこうして本来の姿を垣間見せることがあるが、だいたいは素直には喜べなかった。それは、この後に決まってくる発作と痙攣が待ち受けていたからだ。これは、暴れる前になんとしてでも腕の骨折を応急処置しないといけない。そんな道中に、一軒の材木屋を発見して、ダークブルーのワゴンタイプを駐車場に入れて店内にお邪魔した。

「こんにちは。五〇センチくらいの板はありますか?」

 赤い瞳の美女の来店に、浅黒い肌の小柄な爺さんが気づく。

 知らない顔ではなかった。

「おや、海馬みまさんだね。いらっしゃい。ーーーお探しの物なら、真ん中の列の棚に並べてあるよ」

「あら、樫木さん。今日は調子がいいようですね」

「ははは。ありがとう。君んとこの黄金酒こがねざけのおかげだよ」

「あ、あら……、やだ。ありがとうございます」

 自身の商品を褒められて、ちょっと赤くなる。

 店長の樫木爺さんは、アピールとばかりにレジの椅子から真ん中の列の棚へと細ーい腕を伸ばして指をさしていった。

「お目当ての板なら、あっちにり取り見取りだよ」

「おほほ。そうでした。では、ちょっと見てきます」

「はいよ」

 樫木爺さんの言う通り、種類とサイズがいろいろあった。

 副木に理想的な物を発見して、手に取る。

 そして、レジに持って行く。

「これください」

「これはまた、一番堅いのを……」

 なんに使うんだよ?な顔を浮かべたが、笑顔に変わる。

 一番堅いだけでなく、一番高い板でもあった。

 なので買ってくれるのは、ありがたい。

「はい、毎度ありがとうございます」

「いいえ、どういたしましてー」

 目的の板を手に入れた海馬みまは、樫木爺さんに笑顔を向けて手を振り、材木屋をあとにした。再びダークブルーのワゴンタイプに乗り込んで、場所を変えるために移動していく。


 そして着いたところは、ファミリーマートの駐車場。

 ここに停めて、亜沙里を気遣いながら座席を上げる。

 汗を拭いてやり、先ほど買った板を折れた腕に当てて包帯で巻いていく。もちろん、その前の傷口の消毒とガーゼによる治療も忘れずに。額に汗を吹いた顔で笑みを向けて、亜沙里に声をかける。

「はい。もう大丈夫よ」

「わあ! ありがとう、海馬おばさん!」

 明るい笑顔と声で、抱きついていく。

 これに戸惑いを覚えたが、微笑んで優しく抱きしめてあげた。

 すると、亜沙里はたちまち身体を大きく痙攣させていくと、口から泡を吹いて苦痛の声をあげた。海馬みまに回した腕の力を増していき、背中を強く締め付けていく。これは危ないと判断した赤い瞳の美女は、優しく抱きしめていた腕に力を入れていき、亜沙里ごと座席に倒れこんだ。案の定、海馬の身体の下で亜沙里はその身を反らせたり脚を振り上げてルーフを蹴ったりなど暴れはじめたのだ。この若い娘は、己の中で己と争っていることにより現れてくる激痛に必死に耐えているということが、海馬みまにも心が痛みを感じるほど伝わっていった。車外に叫びを響かせたくないこともあり、窒素しないように加減して亜沙里を押さえ込んでいく。うちの息子、龍海たつみがしていたことの苦労を嫌と言うほど体感していた海馬みま。猫のような目の稲穂色の瞳を血走らせて、鈍色の尖った歯を剥いて、青筋を浮かべて、海馬みまの背中に爪を立てて、腰に脚を巻いて踵で叩いていくという、暴れ具合であった。必死にもがき抗っていく親友の愛娘の姿に、海馬みまは堪らず涙を溢れさせていった。

 しかし当然として、暴れるからには車体は揺れ動いていくわけである。よりによって、海淵海馬うみふち みまの身長は百八五センチもあったせいか、押さえ込んでいる浜辺亜沙里へのその姿は車内で“よろしくやっている”ように見られてしまうのも仕方がなかった。なので、怪訝な顔をして様子を見に来る店員が出てきてしまう。後部座席のガラスを大きめにノックされて、揺らされながら赤い瞳と顔を向けた。キーロックは掛けていなかったために、勝手に開けられて、若い男店員から怒気を現した表情で声をかけられた。

「なにしてんだよ? 警察呼ぶぞ」

「呼ぶんなら救急車にしてちょうだい!」

 亜沙里の肩を押さえつけて身を離して上体を向けたひと言。

 下で苦痛に喘いで暴れる二十代の長身の女性を、馬乗りになっているとはいえ、片腕のみで制圧している海馬の姿には、余裕綽々すら感じてしまった若い男店員。しかも、強面で眉間に皺を寄せているが涙を流している赤い瞳の美女の表情を見た瞬間に、若い男店員はこれはただごとではないと分かり、心配する声へと一変した。

「どうしたんですか?」

「ごめんね、友達の娘が発作を起こしちゃって。今こうして押さえているの。治まったら出ていくわ」

「はい。お気の毒に」

 このひと言を残して店内へと戻っていき、業務を再開しだした。

 そうしているうちに、片腕で押さえていた亜沙里がおとなしくなって息を切らしていたのだ。これ以上は必要ないと思った海馬みまは、猫のような目をした美しい娘から手を放してその身体を起こしてあげる。息が落ち着いてきたところで気持ちも冷静になったのか、隣で目もとの涙を手で拭っている海馬みまに稲穂色の瞳を流した。その目付きは、垣間見せた本来の明るい亜沙里とは違い、洗脳をほどこされて挑発的なというか影のある印象の亜沙里に逆に戻っていた。

 口もとに笑みを浮かべて、話しかける。

海馬みま“さん”、いろいろとありがとうございます」

 洗脳状態に逆戻りしていた姿に、悲しくなった。

 だからといって、邪険にするわけではない。

 この子は、今や私の娘も同然だ。

 胸元に亜沙里の頭を抱き寄せて、撫でていく。

「いいの。娘を持っていた親として当然のことをしただけだから」

真海まみさんのことですね。お気の毒に」

 この言葉に、海馬みまはたちまち下唇を強く噛んでいく。

 目は鋭くなり、赤い瞳は朱色の光りを放ち出した。

 私は、私も知らなかった、我が娘、海淵真海うみふち まみが虹色の鱗を持っていたことを。それが、一昨年の生贄にされた、その半年前まで真海が虹色の鱗の娘だと知らなかったし分からなかったのだ。そしてそれを教団に教えたのが、“お勤め”を続けている鱗の娘こと浜辺亜沙里であった。亜沙里が直接見たわけではないのは分かるけど、しかし、それによって私の娘が生贄と称して教団と人魚と学会員たちにいいようにされて散々汚された上に、どこかに連れ去られたのだ。蛇轟の生贄などに、誰ひとりとしてなっていないことは知っていた。それは、これ見よがしに崖の上から虹色の鱗の娘たちを飛び込ませても、その後はいくら待っても蛇轟は姿を現さなかったからだ。人身御供に常に立ち会っている磯野フナという小柄な老婆も、儀式には懸命な割りには、娘たちが海中に身を投げたあとは意外とあっさりしていて、終わったらさっさと立ち去っていくのを幾度も確認している。だが、しかし、この亜沙里が教団に連絡をしなければ、私の娘は消えることはなかった。だけど、この子に殺意を抱いてもなんにもならないし、解決しない。亜沙里はただマインドコントロールをされて教団に従順になっているだけだから、意味がない。それに亜沙里は、なんと言っても親友のひとり娘ではないか。

 そう思ったとき、朱色の光りは消えてもとの赤い瞳になった。

 胸元から優しく亜沙里を放して、話しかけていく。

「しばらくの間、龍海と一緒にくらそうか」

「え……っ? 一緒に……?」

 たちまち顔が真っ赤になる。

 戸惑い、稲穂色の瞳を潤ませていった。

 これを見て、海馬みまは微笑みがもれる。

「ふふふ。ーーーこれは、少しでも“あなた”とあなたのお母さんのストレスを減らすためでもあるからね。完全に私の独断になってしまうけれど、いちおう龍海に話してみるわね」

「本当、ですか……。ありがとうございます」

 この提案を聞いた亜沙里は、頬を赤くしながらも嬉しさの笑みを浮かべて会釈していった。



 3


 そして、このあと。


 住所を教えていなかったはずの、中央情報局職員のボンド三姉弟さんきょうだいらがブラウンのシボレーで誘拐してきた海原摩魚うなばら まなを次期生贄候補として海淵龍海の隠れ家こと活動拠点の“家”に運んできていた。ここで留守番をしていたのは誰もおらず、家主の龍海も長崎大学へと潮干ミドリの映像情報を保護するために行っていたためにもぬけからとなっていたのだ。“家”の駐車場に勝手にお邪魔してシボレーから降りたボンド三姉弟が、車外から出て日本のアニメソングを合唱していたところで海馬みまのダークブルーのワゴンタイプが帰宅し、楽しげに歌い上げていた異国の三人を見るなりに驚愕。

「いいいい、いらっしゃい。ユーたちはなにしにここへ?」

「はーい! ないすとぅみーちゅー! Mrsミセス.海馬みま! ミーハ、じぇしか・ぼんどネ。お邪魔シテイマース!」

 グレーのスリーピースの膝丈スカートのブロンドヘアの美女から陽気に声をかけられて、ちょっとばかりドン引きしてしまう。遅れて車内から出てきた亜沙里も、異様な三人に言葉を失った。しかし、いったい誰に雇われたのか?

 唖然と見ている亜沙里をよそに、海馬みまがたずねていく。

「えーと、はじめまして。ジェシカさん。あなた誰からの差しが…………お使いできたのかしら? 教えてくださらない?」

「Ohー! ソレハ失礼シマシタネ。ミータチハ、Mrsミセス.フナMrsミセス.日並ひなみカラ頼マレテ Inイン JapanジャパンシタノYo!」

「あらら。そうでしたの。それはどうもお疲れ様でした」

 Mrs.鮒?磯野フナという小柄な老婆がいるが、多分その老婆のことを言っているのであろう、他に思い当たる人物がいない。それもあるが、今さっきミセス日並と言いやがったな。日並と聞いて、海淵海馬にとって思いつく人物と言ったら大手の日昇新聞の創業者である朝日昇あさひ のぼるの長男、朝日昇一あさひ しょういちの二番目の娘、片倉日並かたくら ひなみであった。その片倉日並は月刊敷島の編集長でもあり、日並が二十代のころから螺鈿島の陰洲鱒町の蛇轟秘密教団に出入りしていた女性でもあった。しかも日並は教団の出入りだけではなく、町と島の散策というか物色をしていたのだ。大手の極右新聞社の孫娘である日並は、百七七センチと背の高いスラリとした美しい女性であるだけにはおさまらず、なんと、十五歳から十八歳の美しい少女を好むといった異常とも言える性癖の持ち主でもあったのだ。その上、朝日の家系は創業者代々から院里学会の学会員だという筋金入りのカルト一族。ご先祖がクリスチャンだと聞いたことがあったから、キリスト教ベースの院里学会に移行したのは極自然のことだったかもしれない。その片倉日並だが、旧姓はもちろん朝日日並であるが、その彼女の旦那というのがこれまた極左活動家の熱心なキリスト教信者、大手芸能事務所カタクラメディアの社長の片倉暁彦かたくら あきひこだった。右翼と左翼は仲良しだと都市伝説で聞いた気もするが、まさかの結婚まで行っていたとは。

 嫌な顔を思い浮かべてしまい、海馬みまは頬を痙攣させた。

「フナ婆さんとヤベー女が手を組んでいるって最悪……」

 思わずもれた小声。

 これにジェシカが「What ?」と聞いてきたが、海馬は「独り言だから、気にしないでね」と返した。これで流せるかと思いきや、ブラウンのシボレーの後部座席ドアが開けられていき、新たな人物が現れてきた。車外に出てきた背の高い女性を見たとたん、海馬みまは引きつりの声をあげる。

「げっ……! 日並……!」

「ごきげんよう、海馬さん」

 と、美しい女性が笑顔で返してきた。

 片倉日並。四八歳。

 肩甲骨まである赤黒い髪の毛を真ん中で分けて、大きなウェーブをかけてセットして、それをポニーテールにしていた。長身でスリムな身体によく似合っている、青紫色のスリーピースのスラックスを着ていた。四十半ばにして、この色気と美しさである。大きめな赤褐色の瞳は、光り加減で赤紫にも偏光して見えていた。細長い眼を緩やかに弓なりにさせて、口角を上げて白い歯を見せて輝かせていく。誇らし気に首から下げている銀色の院里の十字架が、日光を反射して光り耀いていた。

「ところでヤベー女って、いったい誰を指しているのかしら?」

「さあ、誰かしらね?」

 こちらも、赤い瞳を緩やかに弓なりにさせて白い歯を見せて輝かせた。

「それよりも。編集長でお忙しいはずの日並さんが、どうしてわざわざ川通かわどおりの家まで足をお運びになられたのかが不思議に思いましてね。おほほ」

「あらやだ、うふふ。そういう海馬さんだって、酒蔵さかぐらの代表取締役ではなくて? それが今、息子さんの家までだなんてね。ーーー不況から脱却できていなくて、お暇なのかしらね」

「あ?」

「あ?」

 飛び散る火花。

 歪められていく空間。

 一触即発である。

 誰かが一歩でも退いたら、開始のゴングだ。

 先ほどまで陽気だったボンド三姉弟が沈黙しているほど。

 後ろで見ていた亜沙里の顔に、脂汗を吹かせていた。

 戦闘が始まったら、死人が必ず出るぞ。

「月刊敷島は暇じゃねーよ」

「海淵酒造も暇じゃねーよ」

 赤い瞳の美女も赤褐色の瞳の美女も、青筋を立てて歯を剥いていく。

 これでは切りがない。

 なので、ここは悔しいが身を引いて聞いてみることにする。

「日並さん、あなた本当になにしにきたの?」

「次期生贄候補のド偉い別嬪べっぴんさんを運んできたのよ」

「ド偉い別嬪さん?」

「そう、ド偉い別嬪さん」

 得意気に歯を見せて、微笑んだ。

 そして、後部座席に再び腰を下ろしたと思ったら、なにかを背負うかたちをとって腰を上げていく。用心深く再度車外に出てきたその格好は、長身の色白な細い身体の美しい娘を“おんぶ”していた。それはまさに、お姫様と思うほどの美女。だが、この娘の顔は、不幸なことに海馬みまの知っている人物であった。

「摩魚ちゃん!」

 血の気が引いて、叫んだ。

 亜沙里も目を見開いた。

「摩魚! どうして?」

 そう。その次期生贄候補の娘とは、海原摩魚だった。

 この二人の反応を良しと取った日並は、薄笑いを浮かべた。

「私からのサプライズ。二人とも良い顔ね。喜んでもらえて良かった」

「なんで、よりによってその子なの!」

「あら、知らない? YouTube に上がっているわよ。『長大ちょうだい鱗娘うろこむすめ』って動画で、この子がガッツリ映っているわ。おまけに鱗もバッチリ」

 嘲笑気味な日並ひなみに、海馬みまは歯を剥いていく。

「鱗まで映っていても、色までは不鮮明よ」

「残念でした。海原摩魚さんは虹色の鱗の娘でーす」

「そんなわけないはずよ。摩魚ちゃんは魚屋さんの娘なのよ。仮に彼女が鱗を持っていたとしても、しょっちゅう見られるものでもないんだから」

「へえー、そうなんだ。でも、うちの娘が大学のトイレで見たって言っていたからね。近い距離で映像と写真にもおさめていたから、私も見れたのよ。本当に綺麗な虹色の鱗だった」

 海馬みまに微笑みを送ったのちに亜沙里に目線を向けて。

「今回も、その子の手柄にしたかったけれども、裕美からちょくで受けたほうが早かったわね、いろいろと」

「その自慢のパパラッチ気取りのおかげで、真海もミドリちゃんも消されたんだから。そして今回の摩魚ちゃんまで……。ジャーナリストごっこもたいがいにさせときなさいよ。あなたの自慢の娘でしょ、ちゃんとしつけておきなさい!」

「パパラッチ気取りじゃないわ。ジャーナリストごっこでもないわ。将来成るんだよ、裕美は!」

 先の言葉にカチンときたらしく、日並ひなみは歯を剥いて反論した。

 言い合いもよろしいが、摩魚を背負ったままである。

 いい加減、膝に“来ている”のではないか。

 よって、日並ひなみの変化に当然気づくわけで。

「ていうかさ。そろそろいい加減に摩魚さんを“家”に入れたいんだけど。この子がいくら細くて綺麗な女の子だと言ってもさ、こうして“おんぶ”を続けている間にも人ひとり分の体重が秒単位で加算されてくるんですけど!」

「確かに。あなたの膝が“泣いている”みたいね」

「みたいね。ーーーじゃねえっつの。私はあなたら陰洲鱒の者と違って、馬鹿力を発揮できる筋肉の持ち主じゃないんだよ。いたって普通の筋肉なんだけど。長時間も六〇キロ前後背負いきれるわけねーんですよ。分かれっつの!」

「十字架背負っている感じでいいじゃない。しかも、摩魚ちゃんバージンだし。聖処女じゃん」

「はあああ? テメー、この! おい、こら、海馬みま! なにが十字架背負っている感じだよ! 私はジーザスじゃねーよ! 正直、もう限界だよ! いい加減にこの子から私を解放させろ! ください!」

 怒りの懇願を聞いた海馬みまは、笑顔になる。

「どうぞ、いらっしゃい」

 手のひらを上にして、玄関へと横に滑らせていった。


 片倉日並御一行様と姫様、ご来客。



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