キャンパスにて その4
1
直球で、予定通り長崎大学へと車を走らせた。
そして、到着後。
すでに空はオレンジ色が暗くなりかけて、夕刻を過ぎていた。
ニーナの白いスカイラインは大学生たちの視線を浴びていく。ルーフにたくさんの切り傷と幾つもの窪み、フロントガラスには白い線が刻まれていた、なのでもしかしてこの車は、ひっくり返ったのではないかと学生達が驚いていた。来客手続きを忘れずに記入して、女三人は中に入る。周りの学生達が女三人連れに向けて、次々と視線を当てていく。ニーナは勿論その状況を解っていた上で、キャンパスを歩きながら背伸びして後ろの二人に話しかける。
「んーーーっ! いやあー、皆さんキャンパスライフを謳歌していますなあ。ーーーねえ、お二人さん!」
「に、ニーナさん。声が大きいですよ」
みなもが周りに気を遣って、小声でニーナに言う。だが、当のこのジャーマン娘は気に止めることなどなく、歯を見せて笑った。
「んふふーー。周りに聞こえるようにワザと言ってんのよ。第一、高卒から働けるわけでしょ? 大した目的も無しに集まるなっての」
そう言ったニーナは、みなもに向き合って更に話しを続ける。
「あなた」
「あたし?」
「そう、みなもちゃん。あなたのお姉さんみたいな人達は大学に入って打ち込んでほしいわけなのよ。あなたから聞いた摩魚さんの特徴だと、ま さ に勉強の虫ね。―――研究に身を投じる女! くーっ、恰好イイ! それと、あの子!」
タヱを指差した。
生まれて初めて入って見た大学という物に、瞳を輝かせている。
「タヱちゃんですか?」
「そう! タヱちゃんです!―――ほら、見なさい、あの輝かせている瞳を。あの純粋な姿を。なんて愛らしいんでしょう。磨けば光る原石! いろいろと教え込むには、素晴らしい人材だとは思いませんか!」
なんだか話しが逸脱して、歩きも止まってしまった女三人連れ。うち、言うだけ言ったニーナだけは爽やかに輝いていた。
タヱがキョトンとした顔を向ける。
「ん?」
「いや、もう、なに言われてんのか分かんなくなってきちゃったから……、いいや……」
みなもが頭を抱える。
「いやあー。あたしもじぶんでなに言ってんだか分かんなくなってきちゃったから、いいや。ーーーささ。みなもちゃん、タヱちゃん。早く聞き込みしよ」
と、ニーナは屈託の無い笑顔で、そう二人を促して校舎へと入っていく。
2
そして。
本当に片っ端から聞き込みへといくニーナ。大きく腕を振りながらキラキラとした笑顔を作って、茶系等の上下の身なりの後ろ姿に思いっきり甘い声を出してかけた。しかも語尾には、ハートマークを付けて。
「す、み、ま、せぇーーーん」
「なんだね?」
そう振り返った男は、整った顔に無精髭を顎から生やした長身。あら、なかなかのイケてるオジサマねと目を輝かせながらニーナがたずねる。
「お忙しい中すみません。私は尾澤菜・ヤーデ・ニーナです」
「そうか。私は有馬哲司」
「ご教授さんで?」
「そうだが、なにか用かな?」
「はい、陰洲鱒町と海原摩魚さんについて少しだけお時間をいただけませんか?」
ニーナが手を合わせて「お願ぁい」の仕草をした。有馬教授は、目の前の女三人の容姿に目を配っていき、危険人物ではないと判断した。
「なるほどね。君たちは先ほどのアフロ青年とは違うみたいだな。構わない、お答えしよう」
「いやあー、助かります」ーへ? アフロ青年? なんのこと? あたしたちが来る前に、いったいなにが起こったんだよ!ーー
有馬教授の部屋の中。
「なにからお話しをすれば良いかな」
椅子に腰掛ける有馬教授が、ニーナたちに聞いていく。机の上には、次々と陰洲鱒に関する資料を広げていった。螺鈿島のパンフレットと土産物の一覧の写真も見せていく。椅子に腰を下ろしたニーナがお辞儀をしたのちに、話しを切り出した。
「では遠慮なく。―――潮干ミドリさんという方はここに通っていませんでした?」
「ん? 海原摩魚君の友達ではあるが、生徒ではなかったな」
「やっぱりそうでしたか」
「ああ。芸能活動を休暇していたよ」
「昨年、行方不明になったのはご存知ですね」
「海原君からも、そう聞いている。あとは、君たちよりも少し前にここにきて、アフロヘアーの男と闘った感じの良い青年からも同じことを聞かれたな」
「はあ?」
ニーナを始め、みなもとタヱも同じ声を上げた。
「感じの良い青年? アフロヘアーの男? 闘った?」
ニーナの疑問を有馬教授は拾っていく。
「大塚芳忠氏みたいな声が特徴的で、アフロ頭のアフリカ系の青年で、パンタロン姿の功夫使いと自称していたぞ。そして、ここの部屋の扉を壊した張本人でもある。少し前に、工業科に新しい扉を作ってくれと申請を出してきたところだったんだ」
「…………」
言葉を失うニーナ。
後ろから不意に、黒衣のブロンドヘア娘から声が上がった。
「ボンド! ボンド三姉弟のひとりだ!」
「わ! びっくりした……」
ニーナは驚いて胸元を手で押さえて、安堵の呟きを洩らす。
苦笑いして歯を見せる。
「例のCIAね。あいつら行動早いわね」
「アレがか? アレで?」
有馬教授も驚いた。
タヱが半笑いで返す。
「アレでも天下の中央情報局らしいですよ」
「なにをやっとるんだ、アメリカは」
歯を剥いた。
パンフレットと土産物一覧表を手にしていた海原みなも。
「へえ。螺鈿島って言うんですね。ネットじゃ名無しの島でしたけど。みんな通常営業しているんだ。ーーーこの鱒鰭酒と赤龍と黄金酒って美味しそうですよ」
「え? みなもちゃん、それ、あとでアタシにも見せて」
「いいですよ」
そう、ニーナへとニッコリ微笑んだ。
これを見ていたタヱが、笑みを浮かべて口を挟んでてきた。
「私の父さんが作る、烏賊の一夜干しもオススメです」
「『舷吾郎さんの一夜干し』だな。市内のデパートや百貨店の食品売場で普通にあるからな、陰洲鱒町の食べ物飲み物は。当然、他の地元産地と同じ扱いだ。ーーー検索すれば、通販もしているぞ」
と、有馬教授も実に嬉しそうに口を挟んだ。
「せっかくここまで足を運んでもらったんだ。ひとつ陰洲鱒町に関する情報をあげよう」
「えっ、マジ? ありがとうございます教授!」
ラッキー!といった笑顔で礼を言ったニーナ。
そんなツインテールの魔女に頷いた有馬教授は、タヱに目を向ける。
「君は、潮干舷吾郎さんとリエさんの娘さんだね。そして、ミドリさんの妹でもある」
「はい。ーーーよく分かりましたね。私とは初対面なのに」
「そりゃあな。お母さんにそっくりだからね」
「ありがとうございます」
照れくさそうに微笑んで、会釈をした。
それから、有馬教授はニーナに向き直る。
「その潮干ミドリ君だが」
「なんですか」
「海原摩魚君とは“ひじょうに仲が良くて”ね。この大学にだけでも三回か四回ほど連れて来ていたよ」
「一年間でですか?」
「多いだろう」
「多いですね」
「だけど、摩魚君もミドリ君もこの大学にいる在校生と私以外の教授たちに警戒していてね」
「え? それ、構内に蛇轟秘密教団の信者がいるんですか?」
「いいや、教団の関係者はひとりもいない。そのかわり、院里学会の学会員が“あちこちに散らばっている”んだよ。ここにきたミドリ君は、十字架に警戒していた。あれは、怯えていたに近いな」
「うっそーん。院里学会って、ここも縄張りにしていたんですか」
ニーナは絶望気味に驚いた。
風通しの良くなった出入り口に群青色の瞳を鋭く送った有馬教授。
日の光を反射して十字架を輝かせていた生徒らを発見。
この部屋を見ている目付きは、穏やかではない。
ニーナ、みなも、と気づいて出入り口に顔を向けた。
そして、最後はタヱが首を向けていく。
その黒衣のワンピース姿の娘と目が合ったとたんに、学会員の生徒たちは「なんだアレ? こっち見たぞ」「え、マジ? 眉毛なくない?」「なんでマントしてんだよ?」「やだ。アレ多分、陰洲鱒の人じゃないの?」などなど、あんまり良い感じではないひそひそ話しをはじめていった。これは当然、タヱにも聞こえていたわけであり、その学会員の生徒らに強い視線を送ったときに、目を見開き稲穂色の瞳を金色に光らせたのだ。すると、当の生徒らは怯えた表情を出して、そそくさと部屋の前から立ち去っていった。数秒後、首を有馬教授に戻して微笑んだ。
「有馬教授の言う通り、陰洲鱒の私を怖がりましたね」
と、鈍色の尖った歯を見せた。
ニーナと“みなも”は今度はタヱに顔を向けていく。
有馬教授も驚いていたようで。
「なにをしたんだね?」
「とくに、なにも」
薄笑いを浮かべて返す。
この表情を見ていたニーナが。
「あのさ。タヱちゃんさ。あなたって子はさ」
「うふふ」
「あーん、もう。可愛い」
笑顔にメロメロになる。
「マジ可愛い」
みなもも同意見だった。
“虫”を追っ払ってくれて安心したのか、有馬教授はさっきよりもリラックスしていた。海原摩魚をはじめ、陰洲鱒町出身の潮干ミドリと海淵真海と摩周ホタルだけではなく、その他の女子生徒たちにも実害が出ているといった院里学会の学会員たちによる“嫌がらせ”を耳に入れている以上は、長崎大学にいる間の有馬哲司教授はなかなか気が抜けないでいた。それが今しがたこの黒衣の娘が追っ払い、その前は先客の榊雷蔵がサークルの学会員たちを“撫でて”くれた。この大学で、こんなにまで爽快な気分は感じたことがなかったから、気が緩むのも致し方ない。鼻で軽く溜め息を出したあと、有馬教授は口を開いていく。
「ミドリ君は、芸能界でも院里学会から嫌がらせを受けていたのではないか? あの怯えかたを見れば、尋常ではなかったと思う」
「そうですね。嫌がらせを受けたときは、よく家に電話してきていました」
「それは辛いな……」
タヱの答えに、有馬教授は眉を寄せる。
しかし、私がしんみりしてもしょうがないわけだが。
ここは仕切り直して。
「ーーーよし。その陰洲鱒町とミドリ君の情報なら、映像を見た方がいい。それを幸運なことに、この大学のサークルで映像に関する活動をしている生徒がいてだな。今からそこに行って、貸してもらえるように交渉をしてみようと思っているんだよ」
「え! マジですか? ありがとうございます、教授!」
パアアッと明るくなったニーナ。
3
その道中に起こったこと。
廊下を歩きながら、タヱは口を開いてきた。
「今日はひとつ、皆さんに協力してほしいことがあります」
と、軽い会釈。
この言葉に有馬教授と海原みなもと尾澤菜・ヤーデ・ニーナは足を止めて、端に寄った。「どういうこと?」とのニーナの問いかけに左右前後に目配せをして、タヱは再び切り出してくる。
「有馬教授もご存知だったかと思いますが。ここ大学内の盗撮常習者がいますよね?」
「ああ。女子たちは困っていたよ」
「とくに、陰洲鱒町の生徒の海淵真海さんと摩周ホタルさんが酷さに悩んでいたと聞きます。あと、海原摩魚さんも。そして、私の姉のミドリも“ここ”にきたとき盗撮されました」
「あのゴツイ改造車に乗ってきたのは、君のお姉さんだったのか」
「はい」
行き交う在校生と他の教授たちの胸元を確認して、目線を戻す。
「放送部に行く前に、協力をお願いしたいのです」
「どんな?」
ニーナの問いに、タヱがひと言。
「ひとつ、お芝居してください。盗撮常習者と思われる生徒から、姉のVHSを確保したいのです。炙り出してやりますよ」
三人からの視線を見て。
「大丈夫です。誰かは見当はついています」
「すまない。私は見るのは好きだが、演じるのは苦手でね」
「ごめんなさい、タヱちゃん。あたしも演技はちょっと」
有馬教授の会釈と“みなも”のご免なさいの手合せを見たタヱは、微笑みかけて語りを続ける。
「気にしないでください。そうだろうと思っていました。教授と“みなも”さんは、そのままでお願いします。あ、みなもさんは私が相手を引き付けている間に、部室をスマホで撮っていてください。そして、お芝居の協力をニーナさんにお願いしたいのです」
「ん? あたしで良いの?」
まるで我が妹を見るような微笑みをタヱに向けた。
これに、ニコッとしてニーナに返す。
「はい。部室に入って会話が進んだところで、タイミングはあなたに任せます。私の日除け帽をサッと取ってください。そして、目当ての部員に私の歯を見せたり足を触らせたりして、姉の情報を聞き出したりテープをもらったりするので、そのときの私への突っ込みをニーナさんのアドリブで良いのでお願いします」
「なるほどね。ハニートラップか。ーーーでもタヱちゃんさ。情報を得るためだけに好きでもない男に自身の身体を触らせるって、そうとう精神的にも肉体的にも辛いことのはずよ。あなた、それでいいの?」
ニーナは、珍しく厳しい顔つきを見せた。
タヱも、鋭い目付きになる。
「相手は私の姉を侮辱しました。そして、陰洲鱒の女の子たちも。さらに今は、みなもさんの姉である摩魚さんもです。素性はある程度こちらで調べている上でのことです。覚悟しています」
そして、鈍色の尖った歯を見せて両端の口角を高く上げた。
「さんざんやってきた“ツケ”を払わせてやる。そして、相手を欺けたら腹を抱えて大笑いしてやりますよ」
ニタアと笑みを浮かべた。
これに恐怖を覚えた三人。
「タヱちゃん。顔! 顔!」
「は! つい……」
ニーナから笑顔を指摘されて、タヱは我に返った。
4
ニーナたちは有馬教授に案内されて、放送部に来ていた。全国ネットで放送している、朝のニュース番組にある内のひとつで、武道家名優がコーナーを任されており、その内容とは日本各地の食材を求めて取材をするという旅番組だそうだ。食も地域の伝承に根付いているものだと言って、有馬教授がそのワンコーナーだけを録画して保存しているという。ときどき、映像資料としても編集をした上で講習で使用をしていた。
有馬教授が放送部のドアをノックする。
「深沢君は居るか? 私だ、有馬哲司だ」
「はい、ただいま」
扉の向こう側から線の細い声が返事して、ノブを回して開けられた。中から出てきたのは、ひょろりとしてなよった感じの青年。縁無しの眼鏡をかけているが、顔立ちは決して悪くはなかった。
深沢文雄。放送部部長。
現在、四年生。
文雄は眼鏡を正すと、その後ろに立つ女三人に目をやった。
「お疲れ様です、教授。―――その方達は?」
「うむ、励んでいるようだな。ちょっと『漢!食材独り旅』のテープをここに居る尾澤菜さんに貸してはくれまいか?」
「それは構いません」
文雄からの承諾を得たニーナが、手を合わせるなりにキラキラとした笑顔になって「ありがとうございまあーーっす」お礼を言った。もちろん、語尾にハートマークの気持ちは忘れずに。それから、文雄に案内されて部室に入る。と、そこは、部屋中が直線にて構成された黒と銀色と灰色との無彩色無機質の世界。みなも、タヱ、二人ともに確認していくように周りを見ていく。
「足下をお気をつけてください」
と文雄が注意を促していった床を見ると、清潔にはしているが色とりどりのコードが端々に灰色の床を這っていたので用心して足を進めて行ったら、ブラウン管テレビの並ぶ部屋へと辿り着いた。
「テープの保管場所はこちらです」
と、文雄の指を差したその先には『テープ保管庫』と表記。
「ここに陰洲鱒町に関する資料映像があるのね」
「はい」
ニーナの呟きに、文雄は答えた。
そして。
「これです」
例のテープがニーナに手渡された。文雄へ向けて、芯から屈託のない笑みで「ありがとね」と礼を述べる。しかし、情報はひとつだけは持って帰らないニーナだ。再び、ポシェットから写真を取り出して尋ねてみた。
「深沢君、この女の子に見覚えない?」
写真の顔を見た瞬間に、文雄の身体に衝撃が走る。
「み、ミドリさん!」
「え? 知ってんの?」
今度は、文雄の目を見てたずねた。
「この女の子に見覚えがあるんだ?」
「見覚えもなにも、僕らの間では有名人です! しかも、美人すぎてあまり仕事が回って来ないって悩んでいました」
「あのさ……“僕ら”って……?」
「ネットです」
「うわ……」
ニーナに続いて、みなもも驚く。
タヱはというと、含み笑いを浮かべていた。
文雄は語りを続ける。
「潮干ミドリさんは帆立プロダクションに所属していました。けれども、多分周りが嫉妬したんでしょうね。バラエティー番組でレギュラーが採れそうになっていた矢先に、突如、番組プロデューサーから降板を言い渡されたり。あとは、契約が決まっていたファッション雑誌から突然の解約申し出を受けたりなどの他の大手の芸能事務所から圧力をかけられて、結局はあまり仕事に恵まれていなかったのです。―――それはもう、女の子タレントたちの対応は冷たかったらしいですね。事務所の社長に相談をしていたそうです。ええ、ブログでの袋叩きにもあいましてね、他の女の子タレントたちの擁護派から罵詈雑言の書き込みが絶えなかったそうで。でも、いったんはミドリさんに魅了されたのですが、それが、彼女の住所というか出身が陰洲鱒町と分かったら手のひら返しでしたね。べつだん、とくに出身は隠していなかったんですよ。僕から口に出せないくらいに酷い言葉がミドリさんの事務所のブログに飛び交っていました。マスコミの標的にもなりましたよ。都会で借りて住んでいたマンションにまで張り込みが居たそうですからね、ミドリさんは相当、神経をすり減らしていたのだと思います。多分、なんらかのスキャンダルを掴んで、それをネタに叩き潰してしまえと狙っていたんでしょうね。しかし、ミドリさんの生活が慎ましい事が幸いして、マスコミは結局スキャンダルを獲られずじまいでした。―――でですね、ミドリさんが陰洲鱒町に里帰りをするときだけは、ピタッと追跡張り込み取材が止んでいましたよ。やっぱり、流石のマスコミも陰洲鱒町だけは勘弁してほしかったのでしょうね」
文雄がここまで語り終えたときに、ニーナの後ろに立つタヱが口を開いた。途中、ぶっ!と吹き出した声をタヱから聞いた気がした。
「深沢さん、その女の人は私の姉です」
それを聞いて驚く文雄に、タヱは笑顔を見せて続ける。
「周りの状況がどうであれ、姉がそうやって光りを浴びようと懸命になっていた事が分かって、私は妹として誇りに思います」
そう言い切った女の顔を黙って見ていた文雄は、奥からくる震えを感じていたらしい。だがそれは、決して恐怖からではなく、歓喜からだった。
「き、君がミドリさんの妹さんなんですね?」
「はい」
タヱは恥ずかしそうに顔を俯かせる。
ニーナがそれを見て、ニヤリとして手を伸ばした。
「タヱちゃん。部屋の中くらいは帽子取りなよーー、ね」
「あっ……!」
鍔の広い黒の日除け帽を突然外された瞬間、色素の薄い髪の毛がフワリとなり、硝子窓から射し込む太陽光で毛先が黄金色に煌めく。大きな瞳を更に見開いて、文雄と目を合わせたあと素早く顔をそむけた。
文雄の眼差しは真剣。
「今、あなたが慌てたときに、尖った歯が見えました。それって陰洲鱒町の方々の特有の現象ですよね。すみません、もう少しよく見せていただけませんか?」
「え? ええ。いいですよ」
薄笑いを浮かべて、承諾した。
「タヱちゃーん、気をつけてねん。深沢君、ジッパー下ろして“あなた”の口に突っ込むかもしれないよ」
「にっ、ニーナさん! 変な冗談はよしてくださいってば!」
みなもが目を剥いて突っ込んだ。
「凄い。これが陰洲鱒の歯なんですね。なんでも噛みきりそうだ」
「なるほどな、全ての歯が鋭利に尖っているよ。不思議なものだ」
有馬教授も参加していた。
文雄の指で顎を上げられて、鈍色の尖った歯を見せていた。
有馬教授のはなんとも思わず構わなかったが、文雄の行為に関しては別で、頼んでもないのになんの断りもなく私の顎を指で持ってきたなんて、本当にコイツは陰洲鱒の女をなんだと思っているんだよと、嫌悪感がわいてきた。そして、文雄と有馬教授はある程度タヱの歯を見て満足したのか、顔を離して、ニーナ達へと新しい情報を切り出していく。
「そうそう、ミドリさんについてですね、映像の記録が残っているのですよ」
「それ、本当!?」
ニーナが急かした表情になる。文雄は微笑んで言葉を続けていく。
「はい。特番で、レポーターを務めていました。ーーーこれです」
そう言って、文雄はニーナに手渡した。先ほど渡したテープとはまた別の物で、ラベルが貼ってある。
「なになに……? 『漢藤岡隊!UMA捕獲大作戦! 水棲怪獣たちとの激闘編』、だって」
と、読み上げたニーナが少し固まった。脇から覗き込んだ、みなも、タヱ、少々理解不能な様子。
文雄が戸惑う。
「あのー、なんだか空気が重たいのですが?」
「深沢君」
「はい」
ニーナに呼びかけられた。
「これに本当にミドリさんが出てんの? あなたの趣味で貸すつもりじゃないでしょーね?」
「ちち違いますよ。これにミドリさんがレポーターをしている貴重な映像が収められているのですから、間違いありません」
「藤岡猛氏は名優だ」
有馬教授から放たれた言葉。
瞬間的に、皆の動きが固まった。
「あー、なるほど、ね。教授がファンなんだ。あはは。年代的に無理ないし」
納得したニーナ。
文雄に向き直る。
「深沢君、ありがとね」
「いいえ、こちらこそ。お役に立てたならば光栄です」
そう言葉を返したのちに文雄は、タヱを見て話しかける。
「え、と。あなたのお名前は?」
「潮干タヱです」
「タヱさんですね、ミドリさんとよく似ています」
「ありがとう」
「先ほどは無理言って、歯を見せていただきありがとうございました」
文雄が手を差し伸べた。
すると、タヱは瞳を輝かせて嬉し恥ずかしな表情の中に、悲しげな様子が僅かに混ざったのを浮かばせた。“こういうこと”は陰洲鱒の女先輩たちに習っていて、できるようになっていたのだ。
「あ……その、私ほら、陰洲鱒の生まれだから……ちょっと両腕が普通じゃなくって。―――お気遣いは有り難いけれど、握手はできないんです。ごめんなさい」
「いやあ、それはそれで大丈夫です」
「……え?」来るかな?
「足で、お願いできますか」
「わ、私の足で良ければ、どうぞ……」
来た。私に乗ってきた。
照れ照れなタヱが、白く長い脚を上げて差し出した。
ハッとしたニーナは注意をうながす。
「タヱちゃん、気をつけて! 深沢君、あなたの脚でナニかする気よ!」
「ニーナさんってば!」
みなもに突っ込まれた。
とりあえずは文雄から情報が引き出せそうなので、ニーナは聞けるだけ聞いてみた。文雄との“足で握手”をし終えていたタヱは、男の見えないところで黒いワンピースの裾で足を拭いていった。
「深沢君、ミドリさんについては後どれくらい知っているかな?」
「ええと。ミドリさんは一昨年長崎に戻ってきました。帰帰ってきたら帰ってきたでカメラ小僧たちが待っていたんですよ。もちろん、スクープとスキャンダルですね。しかし、いざとなったらなかなかスクープが掴めないそうでした。ミドリさんのプライベートショットが撮れたはいいものの、お買い物風景どまりが良いところでしたから。自分の身の上を理解していたので、かなり用心深かかったのだと思います。ええ、賢い方ですよ。―――けれども残念な事に、この長崎大学のカメラ小僧、というか娘ですが、写真部部長でもある片倉祐美からベストショットを押さえられてしまったんです」
「なんだ、深沢君の彼女ではないか」
「教授、なにも公言しなくたっていいですよ!」
祐美は文雄の彼女だった。
横に居た、タヱの変化に気づいたニーナ。
「た、タヱちゃん? なんか、あなたテンション落ちてない?」
「いえ、お気になさらず」
潮干タヱ、無表情。
聞き込み再開。
「で、で、深沢君。ミドリさんはそのあと、どうなっちゃったわけ?」
「はい。ーーー僕がミドリさんに入れ込んでいたせいで裕美はヤキモチを妬いた結果、スクープをネタにしてミドリさんから陰洲鱒町についていろいろと聞き出そうとしたのです。で、不幸な事にミドリさんが男と逢っている写真を押さえられまして、このスキャンダルを発表されたくなければ私の本に来て、陰洲鱒町のありとあらゆる事と“あなた”についてもを喋ってもらうよと。結局はミドリさん、それに応じてしまうのです。―――放送部員から数人借りて、祐美が取材を敢行したんです。そのときに、ミドリさんに例の男と逢っていた写真を渡して取引成立ですね。そして後日に祐美と逢った時、アンタがミドリさんに夢中になる訳が分かったと言われました。インタビューをしていた映像があるそうです。しかも、裕美の所有物で、流出は一切なし。逆に今はそれがネットでは噂のみが広まって、ある事ない事を書き込まれてます。―――僕が以前に、ミドリさんにインタビューした映像を観せてほしいと頼んでみたのですが、祐美は頑として拒絶していました。なにかしらミドリさんと約束事を交わしていたのだと思われまして、裕美の奴は頑なな態度でしたね。アイドルの追っ掛け程度の気持ちじゃ観せられない、と突っぱねていました。―――とにかく、ミドリさんに関することで他のことでしたらば、あとは裕美に聞いた方が早いです。僕の知り得ることは、ここまでです」
文雄はそう言って頭を下げた。
ニーナがヒラヒラと手を振って、笑顔をみせる。
「いいって、いいってー。ありがとね。結構な情報を聞かせて貰ったし」
「そう言っていただけるなんて、嬉しいです」
「あ、そうそうそう。深沢君、海原摩魚さんとミドリさんとのなんかしらの接点があったかなんて、知らない?」
「いいえ、そればかりは」
「あー、ならいいのよ。それじゃ、今からその女の子の所まで案内してくれる?」
「はい」
その様子を見ていた有馬教授。
「ここから先は、君たちに任せて充分だろう。では、私は仕事に戻るよ」
5
そして、文雄はニーナたち三人を連れて片倉裕美の居る写真部へと移動をしていたときのことだった。スマホから音楽が流れて、文雄は電話に出る。
「裕美か、どうした?」
『ふ、文雄……、ごめん……』
電話の向こう側から聞こえる彼女の声に、震えと息切れが混ざっていたのを感じ取った文雄は動揺した。
「なにが起こったんだ!」
『しーーっ! しーーっ! 声デカい!』
「ああ、ごめん。―――そのなにかしら大変なことみたいだな」
『そう。変な奴に捕まっちゃってさーー! ソイツが言うにはね、ミドリさんが映っている関係の記録を渡せと迫っているんだ』
「今から助けに行く!」
『あはは……、ありがと文雄……。そんなだからアンタが好きなんだよねーー』
疲れた声でサラリとこう言われた文雄の顔が赤くなり、それを見られないようにニーナたちに背を向けて電話を続けた。
「で、ソイツはどんな風貌なんだ? 名前を言っていたか?」
『なんだか半分魚が混ざった顔してんだ……。名前はねーー、海淵龍海、だったかなぁ』
「海淵龍海?」
文雄から漏れてきた声を聞き取った瞬間、タヱの顔は鋭くなった。
「龍海!」
そして。
文雄がいち早く、写真部へと辿り着いたとき。
部室の扉を突き破って、ひとりの男が吐き出されて壁に背中を強く当てて床に落ちた。これに驚き絶叫した文雄。後からぞろぞろと来たニーナたち女三人。落ちて悶えていた男が片膝を突いて起き上がると、部室の方を睨んだ。その容姿は異形であった。
まず、鼻が無い。
そして、口が広い。
色素の薄い眼球。
どう見ても男の特徴は、魚類や水棲生物などの“それ”だ。しかし、髪の毛はリーゼントで決めているようだが、乱闘のせいで少々乱れていた。突然、部室から光りの連射が発しられて、異形な男は光りから庇うように腕で顔を覆っていく。そして聞こえてきた、部屋の中から女の勝ち誇ったかのような笑い声。
「はーっはっはっはっはっはーーっ! 海淵龍海さんとやら、この片倉祐美様からネガを取り上げようなどとは百万年早いわあ!!」
そう誇らしげに叫んだのちに、破壊された出入口からズン!と力強く出てきたのは、身長が百五〇センチほどの女だった。片倉祐美のあとから出てきた人物は、榊雷蔵だ。龍海との戦闘をしていたと思われ、雷蔵の身体の各所に攻防痕の痣と傷を確認できた。祐美が親指を巧みに使いこなして、カメラのネガを素速く巻き上げて人差し指でシャッターを次々と切っていった。
この女の行為を、タヱが睨んでいる。
これにたまらず龍海は腕で顔を隠した。
「分かった! 分かった! それは諦めてやる! だから撮るな!」
尖った歯を剥いて叫んだあとに、後ろに立つ青年を見て。
「それと榊雷蔵。この勝負、預けたぞ」
そう言ってようやく周りの状況に気づいて、タヱの顔を確認して顔を向けた。
「む。タヱか!」
「姉がお世話になりました」
こう軽く会釈して、龍海を睨み付けた。
アイコンタクトしていく。
「姉はアンタの為に人身御供になったんだよ」
「大きな誤解があるようだな。話したい事は山ほどあるが、今この人数は正直キツい。また会おう」
そう吐いて、龍海は廊下を走って行った。
「おととい来やがれ!」
祐美が中指を立てた手を、逃げる龍海の背中に突き付けた。
タヱは稲穂色の瞳を、この小柄な女に向けていた。
破壊された扉の屑を、清掃していく写真部の部員たちを尻目に、祐美は文雄とニーナたちを招き入れた。
「お騒がせしました」
「いいーって、いいーってぇー。こっちは助けてもらったんだから。ありがとありがとー」
頭を下げる雷蔵へ裕美は上機嫌に手をヒラヒラとする。
片倉祐美、四年生。
写真部部長。
百五〇センチの小柄な身の丈に、華奢な体つき。外見は眼鏡をかけた如何にもインドア派を物語っているが、ベストショットをレンズに焼き付ける為であれば、何処へでも足を運ぶといったアウトドア派な実体。執着心と根気と持続力と辛抱強さとのそれぞれがギュッと凝縮された感があり、それらが裕美の身体から滲み出ていた。腰まである黒髪を襟足で括っている。ミドリのスクープを押さえた張本人でもある裕美が、部屋に招き入れたメンバーの顔を確認した。
「皆さん、初めまして。私は片倉祐美といいます」
ニーナたちの自己紹介を聞いたあと、タヱに写真数枚と例のインタビューテープを差し出す。横からニーナがテープと写真を受け取り、「ちょっと、この子は両手がね」と言ったのちに、祐美は「あ、そうなの? 無神経だったわ、ごめん」と謝罪した。
タヱの顔をまじまじと見ていた祐美が、溜め息混じりに言葉を切り出す。
「はあーーっ……、陰洲鱒町の女の子たちってば、どうしてこう綺麗どころ揃いなのかしらね? けどあなたは、ちょっと萌えの部類に入るみたい」
「そうですか?」
ほくそ笑みを浮かべた。
ニーナが話しかけてくる。
しかも、祐美の肩に腕をかけてコソコソ話しを始めた。
「ちょいと祐美さん、ミドリさんについて少しうかがえないかな? あとは、摩魚さんとの関連性あるお話しが聞けたら嬉しいなあ」
「写真とテープ以外の情報?」
「そうそう、そこ」
「タヱちゃんを撮らせてくれるんなら、教えてもいいわね」
「セミヌードまでならタヱちゃんは大丈夫なはず、だから教えてちょうだいな」
ニーナの肩越に、タヱを覗いた祐美がニヤリとして親指を立てた。
「オッケイ、あなたいい人だねぇ。場慣れしてますなぁー」
「いやいや、あなたこそなかなかの切れ者だわさ。人の弱み掴んで交換条件を出してくるなんて、侮れないですなぁー」
「ちゃんと、タヱちゃんを口説いてくださいよー。あの黒いワンピースの中は、隠れナイスバディだから」
「任せて丁髷」
無事に商談成立といったとこで、女二人は「いやあーーっ、はっはっはっはっはーー」と笑い合ってお互いの肩を叩き合っている。それを端から見ていた雷蔵が、ニーナの奴またろくでもない事を持ち出したんじゃないか、と疑惑の目つきになっていた。
それから。
「お前、随分あっさりとテープと写真を渡したよな?」
文雄は彼女に不満げに聞く。
「タヱちゃん、ミドリさんの妹さんでしょ? 渡して当然じゃない」
自信たっぷりな祐美に、ニーナが横槍を入れて尋ねてきた。
ここでもまた、ぶっ!と吹き出した声をタヱから聞いた。
「あのさ、祐美さん。いろいろと聞く前にさ、なにが起こったか教えて」
「あ、そうそう、私さーー、部室に移動してたときに“あなた”たち三人を見たんだよ。そんときタヱちゃんの顔が目に入ったときに思い出したの。そしてね、ミドリさんとの約束を果たそうとして急いで部室に戻ったら、あの半魚人が現れてさ。私からネガを取り上げようと襲いかかって来たんだ。で、そんな中、校内を彷徨いて榊さんが助けに現れてくれたんだよねぇー」
「なるほどね、で、本題の摩魚さんとミドリさんとの関連性は?」
「彼女、文雄が入れ込むほどの美人さんでね。尻尾を出したとこをスクープしてやると、躍起になっちゃって。つい、パシャパシャーーっと戴いちゃった。流石ねー、どんな角度から撮っても絵になる女だったわ。でさ、追跡して四日目だったかな? とうとうミドリさんが男の人と逢っているところを納めてさ。次の日、彼女がいつも通る道で待ち伏せをして“あなた”とお話しがしたいとネガをチラつかせて頼んでみたら、決意した顔付きになって承諾してくれたんだよ。―――ああ、あの歴史科の別嬪さんとの関係はね、ひとっ言も喋らなかったわ。でもね、アタシ気になってしょうがなかったから、摩魚さんに探りを入れてみたのよ。やっぱりというか、彼女もミドリさんについてもひとっ言も語らなかったわ。けれどもね、あの辺鄙な場所の遊園地でアルバイトをしていたときのことを話している摩魚さんの顔って、なんだか嬉しそうだったよ。こんな私にも、友達ができたって。―――あとはそのインタビューテープを観てもらえればいいわ。―――ミドリさんね、インタビューが終わってから私に、タヱちゃんに会うまでは誰にも渡さないでと、念を強く押してきたから私もそこは同性。頑として守り通したわ。その結果こうして、タヱちゃんに渡せたんだからね。ミドリさんはね、あなたに込めた遺言をこれに残しているそうよ。大切にしてね」
語りを終えて、タヱに優しく微笑む。
「はい」
6
そうして、有馬教授の部屋に戻ってきた三人。
途中、雷蔵は緊急の電話を受けたとたんに血相を変えて離脱した。
恋人兼相棒の響子が得体の知れない老婆から投げられたのこと。
有馬教授は、三人の顔を見るなりに微笑んだ。
「お疲れ。タヱ君、目当ての物と情報は手に入ったかね?」
「はい。おかげさまで。皆さんのご協力に感謝します」
そう頭を下げていく。
みなもとニーナだけではなく、珍しく有馬教授も笑顔を浮かべていた。タヱは頭を上げたあと、黒いマントをかけている肩が震えていく。悲しい顔だと一瞬思ったが、それは単に笑いを堪えているものだと三人は分かった。閉じている唇から、“くくくく”と空気が漏れていく。次は、ぶーーーっ!っと吹き出して、とうとう声を大きく上げて笑い出した。少しだけ身体をのけ反らせて、高い笑い声を部屋に響かせていった。しばらく笑いを続けたあと終えたとき、笑い涙を稲穂色の瞳から流した顔を見せて、ひと言を吐き出した。
「あーー、可笑しい。ーーー次はあの二人が“ツケ”を払う番ですよ。有馬教授、少しの間ここを借ります」
「それはどうぞ。用件が済むまで使ってくれ」
「ありがとうございます」
会釈した。
だいたい三〇分経ったくらいか。
別のテーブルにノートパソコンを広げて動画の閲覧と、みなもがスマホで撮った放送部部室の内部にある物の特定をしていたとき、魚顔の青年が部屋に入ってきた。
「タヱくん。お疲れさま」
「あ、龍海さん。お疲れさま」
先ほどの睨み付けとは一変した、明るい笑顔で迎えた。
そう、その相手は海淵龍海。
「アドリブは勘弁してくれ」
「あはは」
「君という人は……。それより、目当ての物は手に入ったのか?」
「ええ。ここに」
VHSを二本広げて、笑みとともに見せた。