陰洲鱒町の生徒
1
雷蔵が響子と毅を乗せて、諫早市の鷺山製薬株式会社へと向かっていたころ、ニーナは“みなも”とタヱを車に乗せて黒船高校へ向けて走らせていた。ニーナの車はモデルチェンジをする前の型のテールライトがツインのタイプある、白いスカイラインに二人を乗せて、過去に摩魚が高校生だったころに教えていた教師の元をたずねに向かっていた。
その者とは、三条冬美。三五歳、独身。長崎県立黒船高等学校で教師を務めている女だった。冬美は、今も現役で生徒たちに勉学を教えている。そして『就職相談室』と書かれた部屋で、ニーナたちは冬美を待っていた。数分の経過したのちに、やがて、冬美が姿を現して椅子に腰掛けてニーナたちと向き合う。冬美の容姿に、驚きを示したニーナたち。この女教師は若々しかった。まるで、摩魚より少しだけ年上にしか見えない。整った細面の顔立ちに、高い鼻梁と大きくて凛とした瞳。百七〇の長身で、スレンダーな身体つき。肩まである焦げ茶色の髪の毛を、真ん中に分けていた。冬美がニーナたちへと目を配っていったのちに、話しを切り出す。
「初めまして。私が三条冬美といいます。過去、海原摩魚さんのクラスを担当していました」
「こちらこそ、初めまして。摩魚の妹の、みなもといいます」
みなもの挨拶に、ニーナとタヱも後に続いて挨拶をした。
みなもは口を強く結んで決意を固めて、冬美へと聞いていく。
「姉のクラスに陰洲鱒町から通っていた生徒はおりましたか?」
「ええ、二人いました」
「その方たちに、なにかと変わった様子は見られませんでした?」
「変わった様子……?」
冬美が怪訝な顔をした。
みなもは、それに慌てる。
「え、あ、いや、なにか姉との関わりは見られなかったか……と?」
「いたって普通に可愛い生徒たちでした。ただ、摩魚さんに纏わりついていた女の子がいたのです。陰洲鱒町の出身で、浜辺亜沙里という生徒です」
「もうひとりは、誰ですか?」
「海淵龍海です」
二人目の名に、タヱが顔を一瞬だけ険しく変えて即座に治めた。ニーナはそれも見逃さないで、タヱも含めて、冬美、みなものそれぞれの表情の変化を観察していたのだ。みなもと冬美との会話は、続いている。
「姉は、その浜辺さんに対して、どのような反応や会話をしていました?」
「迷惑そうでしたね……」
「迷惑がっていたの?」
思わず感情が入ってしまう。
冬美は冷静に話しを続ける。
「ええ、あの子にしては珍しく何だか相手を鬱陶しく思っているのが察しできましたよ。摩魚さんは表裏を持つ生徒ではなかったわ。しかし、亜沙里さんのべた付きを思わせるあの纏わりつきには流石に迷惑がっていたみたい。まあ、その亜沙里さん自体に粘着的な性格だったから、クラスでもその子に対しては幾分かの距離が置かれていたし。でも、亜沙里さんの外見は、摩魚さんと並ぶ程の美人さんでしたね。二年生の半ばくらいまでは、摩魚さんとにこやかに話す可愛らしい女の子だったんだけれども、その二年生の夏休みを過ぎてから急に物静かな女の子へと変わってしまったんです。―――変わったのは、亜沙里さんの躰に目に見えて起こっていたの。私、確かに見たんです。亜沙里さんの首筋の辺りに魚の鱗と、指の根元に薄く張られていた膜みたいな物が。あれは多分、水掻きじゃないかしら」
「三条先生、その、浜辺さんて方は奇妙な小物を持っていませんでした?」
タヱが横槍を入れてきた。
冬美は改めて、タヱの身なりと容姿に目を配っていき、軽い笑みを浮かべる。
「あなた、陰洲鱒町の方?」
「はい」
「そういえば、神道ともバラモン教ともキリスト教ともイスラム教とも違う宗派だったみたい。龍海君も亜沙里さんと同じ。えーと、二人がダゴン様と言ったことを覚えているわ。あれは、そう、放課後だったかなー? 陰洲鱒町へと帰りの船の時間が迫っていた時なのに、二人は未だに帰る身支度をする様子なんか見せずに、口論していましたよ。そんな口論していたさいちゅうに、龍海君と亜沙里さんの口からダゴン様がなんたら、いやダゴン様はそんなことどうたらと連呼していたのね。すると、摩魚さんをダゴン様の生贄として連れて行くと言い張っていたのは、龍海君で。摩魚さんをダゴン様に生贄として捧げるのはまだ早いと反発していたのが、亜沙里さん。お互い譲らずでいつまで続くのかと思って様子を見ていたらね、二人は口論を突然に一旦止めて抱きしめ合ったの。すると今度は、そのまま龍海君が亜沙里さんを押し倒して男女の行為を始めたんだよね……。私、訳が分かんなかった」
「“夫婦喧嘩の後のセックス”みたいな?」
「そうそう、そんな感じ」
みなもと冬美のそんな言葉のやり取りを聞いていて、タヱが頬を赤くして顔を伏せた。意外にも、この黒服の女はウブらしい。更にタヱは、広いカウボーイハットの鍔で目を隠す。その様子を脇で見ていたニーナが微笑んだのち、再び、みなもと冬美の会話に戻る。
「あの日は、見ていた私が恥ずかしくなって、途中で止めて仕事に戻っていったよ。それからだったかなー? クラスの生徒たちからたびたび、亜沙里さんと龍海君が放課後に教室で逢い引きしているって話しを聞いたのは。あの二人、私以外からも見られていたみたい。それとね、さっきあなたが、そう、潮干さんが聞いてきてくれた奇妙な小物の事なんだけど。これは私が見たわけじゃなくて、他のクラスの生徒から聞いた目撃情報だよ。―――この日は昼休み中だったらしいんだけど、三階の音楽室の前を通り過ぎようかとしていたときにね、その生徒がなにかを祈るような声を耳に入れたから気になって部屋の中を覗いて見たそうよ。で、中に居たのが亜沙里さんと龍海君だったらしくてね、その二人が教卓に像を置いて祈りを捧げていたんだって」
「その像は、どのような形をしていました?」
「まず、色は金色。そして形は、頭が魚の筋肉質な男の身体の像だったと言っていたわ」
「蛇轟って呼んでいたんですね?」
タヱが顔を上げて、冬美に確かめた。その質問に女教師はゆっくり頷くと、みなもに話しを続ける。
「そう。その子たちがね『いあ、いあ、ふたぐんなんたらかんたら』って何回か繰り返していたらしいよ。―――んー、間の言葉はなんて言っていたのか聞き取れなかったらしいわね。何だか日本語とも違う言葉を二人は云言っていたんだって」
「なるほど……。で、あのーー、三条先生」
「はい?」
「その、亜沙里さんに対して姉が鬱陶しくというか迷惑がり始めたのは、いつ頃からか分かりますか?」
「あー! その原因を私、見たの! 二学期が始まって数日が過ぎた時に、放課後の教室で摩魚さんが亜沙里さんから襲われている姿を目撃したんだ」
「いっ、いきなりですか!?」
「いいえ、ちゃんとそれにも前兆らしき行動を亜沙里さんはとっていたの」
2
「八月になる前にね、摩魚さんが私のところへと肩が痒いと言いに来たんだ。なにか肩と鎖骨との辺りに出たり消えたりして、魚の鱗が浮いてくると言って不思議がっていたわ。私も見せてもらったんだけれど、確かに摩魚さんの肩には鱗が出ていたよ。虹色に輝いて綺麗だったなあー。まあね、見てみた私もなにがなんだか解らなかった。だけれど、ね、やっぱり綺麗な子には綺麗な鱗が生えるのかなぁってそのときは妙に納得してしまったんだ、私。―――それから八月に入って、亜沙里さんが摩魚さんに送る目が怪しくなっていったの。でも、ほら、目つきが怪しいってだけで生徒に注意はできないでしょう? だから、私は様子を見るだけにとどめていたんだ。そして夏休みを終えて二学期が始まったときには、亜沙里さんが物静かな感じへと様変わりしたと同時に、ますます摩魚さん送る目線が怪しくなってしまったんだ。その怪しさってね、摩魚さんに対して何だか妬みと羨みと、それに恋い焦がれていたみたいなんだ。摩魚さんと話す時は、亜沙里さんは彼女の肩から腕に絡み付くみたいに触り始めたのよ。だから、男に疎かった摩魚さんでも、そうした“雰囲気”を感じていたらしくてね、彼女にしては珍しく亜沙里さんから距離を置きだしたみたいなんだ。―――そうやって日にちが経っていったとき。その日に私は放課後に教室へと忘れ物を取りに来たときだったのよ。教室の中から摩魚さんと亜沙里さんの話し声が聞こえて、なにごとかなと思って開いていた扉の隙間から覗いたの。するとね、鱗が生えているんだったら脱いで見せてと亜沙里さんの怒鳴り声がしてさ、その後すぐ、摩魚さんへと掴みかかったと思ったらそのまま押し倒してね、床の上で制服を引き剥がしていったんだ。摩魚さんは抵抗していたみたいなんだけれど、亜沙里さんって意外にも力があったみたいでね、摩魚さんを完全に押さえつけた結果は制服だけでなくインナーも引き剥がし始めたのね。そして、息を荒げながら亜沙里さんは摩魚さんに強制的にキスしたんだ。次は摩魚さんのはだけた肩を見つめて、亜沙里さんが瞳を潤ませて“スッゴい綺麗……”って上擦った声を漏らしてね……、彼女の鎖骨を舐め始めたのよ」
冬美は身を乗り出すように両腕を机に乗せて、語りかけていく。
「このままじゃ摩魚さんの身が危ないと思った私は、駆け寄って亜沙里さんを蹴り飛ばしたの。そしたらね、亜沙里さんから睨みつけられたものだから、私はとっさに身構えたんだけれど、すると彼女はなにをすることも無く教室から出て行ったんだ。あのあと、摩魚さん、大泣きしていたな……。初めて見たよ、摩魚さんがあんなに泣く姿。襲われたのが、よっぽど恐かったんだろうね……。私ねー、今でも後悔しているんだ。あの日、もう少し早く摩魚さんを助けるべきだったと。―――亜沙里さんは私に蹴飛ばされた割には、不登校する事も無くって卒業まで学校に居たわね。龍海君も同じように、地味な印象を保ちながら学校を卒業したよ。けれど、あの二人ね、卒業して陰洲鱒町に戻って住むかと思っていたけれど、未だ長崎市内に身を置いているらしいんだ」
「その二人の現住所、分かります?」
「ああ、その辺は大丈夫。卒業生が教えてくれたからね」
「ありがとうございます」
「いいえ。私の分かる事って、これくらいだからさ。―――ひょっとして、あなた方は亜沙里さんの家に行くの?」
「ええ……、はい……」
みなもはバツが悪そうに答える。
すると、冬美が真剣な顔をしてひと言。
「亜沙里さんと龍海君には充分気をつけて。あの二人は、なんだか危ない物を持っているから」
「お気遣い、ありがとうございます。分かりました、先生」
3
「ごめんください。私、海原摩魚の妹の、みなもといいます。浜辺亜沙里さんはいらっしゃいますか?」
冬美から情報を得たのちに、みなもたちは三人、亜沙里の住む賃貸住宅街へと足を運んでいた。長崎の市街地から少し離れて建つ賃貸住宅街は、どこかしら物静かで薄暗い。なんだか物騒な印象も感じ取れた。海沿いに連なる一軒家たちは、まるで人が住んでいる気配が無い。先ほどまで晴天だったロイヤルブルーに染まる空が、市街地から此処に移るやいなや一転してスモークブルーの空へと変わった。そして、賃貸住宅街の全てがそのような色に染められているようにしか思えないのだった。少し前のこと、あと少しで亜沙里の住む賃貸住宅に到着するといった道を移動していたとき、ニーナが運転する白いスカイラインとある一台の黒い大きなワンボックスカーとすれ違ったのである。その大きな黒い車の窓からは、白髪の老婆を目撃した。両目は人の“それ”ではなくて、眼が黒く瞳は銀色であったのがひどく印象に残った。あと、車内はその老婆を除いたら全て男性たちだったのだ。これを見逃さなかったニーナは嫌な予感がした。女としての、嫌な予感である。車の走ってくる方向からどう考えても亜沙里の住む家からだったからだ。ハンドル操作をしながらも、嫌悪を浮かばせた顔つきに一瞬変わった。
みなもは、もう一度、借家の玄関の呼び出しブザーを鳴らしてインターホンから挨拶をする。数十秒後にようやくノブが回る音を立てて、玄関の扉は開いた。そして、浜辺亜沙里が姿を現す。