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10,白日を望め  作者: 雪無
8/8

観測記録終結

 


────三月二十六日。ドイツ、首都ベルリン。バース軍事情報局内部。




「それで、心臓を撃ち抜かれる瞬間ってこんな感じなんだなあ、って」

「兄貴、その話、朝から十回は聞いてるよ。資料提出しに来ただけなんだから、さっさと受け取ってくれ」


 ヘルツは自分の無駄に大きなデスクに両足を乗っけて、椅子に深く沈み込んだ。

 ドイツ、バース軍事情報局内部にあるヘルツの自室は私物や書類がそのまま放られ、整頓とは無縁のところにあった。足の踏み場があるだけでもマシに思える。

 定期的に更新されるバース権能資料をまとめて持ってきたニヒツは、その置き場に悩んで眉を潜めた。


 後ろのカーテンの向こうでは、果てしない青空が翼を羽ばたかせるように広がっている。




 ──深淵がドイツに移住して、約三ヶ月が経つ。



 この国の情勢は相も変わらず、バース制度のいざこざはあるし、昨今ではΩ『天変地異』である元首の反乱分子まで活発になってきている次第だ。たかがΩの一人や二人増えたところで、一つの国が劇的に変わることはなかった。

 たとえ、そのΩに、国一つ滅ぼす力があったとしても。

 一つ、二つ変わったことといえば、元首の秘書がもっとマシな人間に入れ替わったこと、そして軍全体の士気が上がったことだろうか。


 秘書に関しては特に特筆すべきことはない。深淵を連れて元首の元へ挨拶に回った際、『“本音”でおっしゃられたら如何ですか』と、深淵がおべっかを使う秘書に“言語の権能”でそう言っただけだ。……性悪な秘書だとは思っていたが、あそこまで罵詈雑言が出てくるとはその場にいる誰もが思わなかった。腹を抱えて笑っていたのは列席者の中でヘルツだけだった。



 軍隊に所属しているバースはほとんどがαで、当然、Ωを──それも『天変地異』を受け入れるとなれば賛成派と反対派で対立するのは避けられない運命であった。

 深淵という紅一点の美貌を、誰もが懐疑的に、あるいは邪欲に見ていた。

 信頼関係を築くには時間が必要だが、力の差を示すなら実力行使がなにより手っ取り早い。ヘルツは、一番部隊に深淵を入れ、内乱の起きている地域へと送り込んだ。深淵には「好きにやれ」とだけ言っておく。一月一日のことである。


 ──結果。死傷者百人超、いずれも反乱軍。第一部隊、全員無傷の帰還。内乱の鎮圧は成功……この成果、わずか、一時間足らず。


 作戦実行者、深淵。ただ、一人。



 流石に殺し過ぎではあったので、ヘルツ、ではなくニヒツの指導は入ったが、その日から深淵のヒエラルキーは軍事内部で逆転劇をみせた。

 彼は、正式にドイツバース軍へと入隊を果たした。


 深淵の唯一ともいえる欠点は、自明であるように“協調性”と“手加減”だろう。部隊では、特に、ソロプレイではままならないことの方が多い。しかし、深淵は今まで一人で全てを片し、制圧し、圧倒し、駆けてきているのだ。

 致命的であったのは、深淵の提出する作戦に部隊の誰も足を揃えてついていけないことであった。ついていけるのはヘルツぐらいで、他のαは、深淵の実力に見合わない。


 誰かを指導する場合においては、自分のレベルを相手に落とし込んで教えてやるのが最善であろうが、部隊でそんな優しさは通用しない。弱者は強者に合わせなければならなかった。

 深淵の作戦は、決して不可能なものではなかった。むしろ、効率的で合理的、最善、最良の作戦なのだ。──誰もが、深淵ほど強ければの話であるが。


 部隊内部で深淵に対する排斥が起きるかとも危ぶまれた──が、しかし、意外にも、雲行きは真逆の好転の方向へ流れていくこととなった。


 なにせ、軍にいるのはα『全知全能』がほとんど。プライドはもちろん、闘争心も向上心も化け物みたいな連中ばかりが揃っている。

 深淵という傾国的な美しさを目の前にしながら、無様に逃げ帰る者は誰一人としていない。そんなことがあれば、α『全知全能』の名が廃る。

 実戦を通して軍の士気は上がり続け、深淵は他の隊員に引っ付かれるようになった。


 権能の使い方、振る舞い方など指導を乞われるたびに、深淵も不器用ながら他者との関わりをもった。周りと比べ、身長が低い分、たまに人の壁で見失われる時はあるけれど、少しずつ、上官らにも可愛がられている。

 ニヒツはその様子に胸を撫で下ろした。

 心中穏やかでないのは、ヘルツだけだった。


 そして昨日と今日。深淵はドイツを離れている。



「たった二日、日本に帰るだけ。しかも卒業式っていうおめでたい日なんだから。その現在進行形の思い出を語るのやめてくんない」

「この前の夢ではあと少しで勝てそうだったんだ……」

「兄貴、何度も言ってるけど、鷹くんの“深層()”に接続したまま寝るの危ないって。その心臓ぶち抜かれたのだって、鷹くんがそうやって強制的に深層から追い出していなければ、兄貴は死んでたんだよ。親族が夢に殺されましたなんて、恥ずかしくて僕も死ねるよ」


 諦観したように口をこぼしながら、ニヒツは手に持った資料を未読に積まれた紙の束の上に置いた。ヘルツは馬耳東風に虚空を見ながら唇を尖らせている。この資料も、いずれ未読の束に組み込まれてしまうのだろう。全く、現場以外ではどうにもだらしのない男だ。


「チェスみたいなもんだ。ちゃんと弁えてるよ」

「弁えてるのは鷹くんだけだろ。兄貴の寝相、最悪すぎるって。本当に同じ夢を見てる?」

「ああ言えばこう言うなお前は! 鷹の隣で寝られてるだけいいだろうがよ」

「右が戦場、左が墓場みたいな寝相の差なんだぞ」


 深淵という存在が訪れてから、兄弟二人の生活もがらりと変わった。


 ヘルツとニヒツは、互いが住んでいたアパートを売って、深淵と三人で暮らせる部屋を買った。どちらも軍事関係に携わっているから、金だけはある。選択肢は選り取り見取りだった。最初こそ深淵は遠慮していたが、煉瓦造りの街並みを案内すると、物珍しそうにしながら内見に積極的になった。


 外壁に塗られた塗装の色は肌色のものもあれば、黄色や水色のものもある。どこを買っても良かったが、深淵はここが良いとは言わない。自分の意思を、希望を、どう相手に伝えたらいいのかわからないようだった。

 二人は、暗黙の了解で深淵の些細な表情を見るようになった。皮膚の動き、白い目の動き。呼吸の一つから深淵の感情を探る。


 古本屋に近いアパートの一室を見たとき、深淵の瞳孔はわずかに揺らいだ。光風に花弁が擽られるような変化を二人は見過ごさなかった。


 現在は、三人でその一室に住んでいる。各自、作業部屋はあるけれど、寝るときはキングサイズのベッドでバランスの悪い川の字を作って寝ていた。もっとも、ヘルツと深淵は現場によって帰れない日もあるし、ニヒツも急患があれば夜間でも出勤しなくてはならなくなる。

 三人が揃う日は貴重だ。

 休暇が被った日には、必ず実家に顔を出すようにしている。ヘルツたちの母親は深淵と──兄弟二人より早く──打ち解けて、今では“義母さん”、“シュヌッキプッツィ(愛しい子)”というような感じで呼び合っている。


 母親と深淵はよく二人でパズルをする。三万ピースほどあるパズルを陽が暮れるまで、組み立てている。


 微笑ましい光景ではあるけれど、深淵にとってそれが楽しいことであるかは定かでない。今のところ、深淵の心臓部に一番近く寄り添えているのはヘルツぐらいだ。

 ニヒツは、だからこそ危険な深層心理への接続も強く止められずにいる。深淵に棲まう何かを覗けるのは、ヘルツだけであるかもしれなかった。


 深淵が一度でも日本に帰ってしまうこと、そのことに懸念がないと言ったら嘘になる。

 ヘルツもニヒツも、けれど深淵を信じるしかない。

 彼が、無事に戻ってきてくれる──独りになる道を選ばないでいてくれる──ことを。

 飛ばした鳥が、手元に帰ってきてくれることを、祈った。


「ほら、兄貴。しゃっきりして。仕事があるでしょ」

「くそくらえだ」


 コン、とノックの音が二人の空間に響いた。

 ヘルツは背を浮かし、ニヒツも弾かれたようにクラシックな木製のドアを見遣る。


「ヘルツ。仕事だ。南の方でテロ組織の……おい、なんだその態度」


 扉を開いたのは、上級将官であるノアだった。

 ニヒツは辛うじて規則正しい敬礼をしているものの、かたやヘルツは溶けかけの蝋燭みたいな動きで手を振る。あまりの不敬振りにノアは言葉を失ったが、その顔は直きに歪な音を立てて皺だらけになった。


 ドアの側面を二度ほど乱暴に叩いて、「ヘルツ! 仕事だ! 現場に行けッ!」


「……兄貴」怒髪天を衝く上官の様子を横目に、ニヒツは小声でヘルツに促した。ここで職は失いたくない。

「今、行きまーす……」


 重い腰を上げて、ヘルツは立ち上がる。反動で回りかける椅子を膝で食い止めると、背に引っかかっていたスーツの上着を取って羽織った。


 この国は今日も変わらない。

 誰がいようがいまいが、人々の暮らしには何も影響はなく、バース差別はなくならないし、争いは続いている。そして誰もがその事実に目を瞑ることができている。深淵を覗き続けられる人間は限られている。

 そうやって世界はバランスよく回っているのだから、ちょうど良いのかもしれないが。

 

 立った拍子に、ヘルツのデスクから一枚の紙切れが落ちる。


 普段なら面倒くさがって拾いもしないが、どうにもそのくしゃくしゃに捩れた紙が気になった。腰を屈めてそれを拾い上げる。


「兄貴?」ニヒツは一向に扉に来ないヘルツを思って振り向いた。「どうしたの」


「……あー、先に行ってていい。すぐに向かう」


 ニヒツは訝しんで口を曲げたが、仕事を放り出すような男でないのは知っている。ノアに続いて、ニヒツは部屋から出た。

 ヘルツは二人が出て行ったのを見届けて、紙をデスクに広げる。ヨレているところは掌の摩擦で伸ばし、まだ息をしている文字を感慨深く眺めた。


「こんな注意事項、今にして思えばよく真面目に聞いてたな」


 そして、一本のペンを手に取る。悪戯に浮かべた口角の唇でキャップを外し、項目の最後にある余白にインクを滲ませた。





◻︎




 ────同日。ドイツ南部、テロ組織拠点





 ごうん ごうん ごうん ごおん



 鐘が鳴る。脳の中、最深部、不可侵の領域で、荘厳な鐘が鳴っている。


 絶え間なく鳴り響くそれらは、やがて一つの音になるために重なっていく。前まではなんとも思わなかったその音も、今は、安っぽいイヤホンのような耳触りに思えてしまった。

 ヘルツは肩にライフルを担いで、一本の木の裏に身を潜めた。背後には無数の雑木林が広がっていて、林の下には、集落のような物々しいテントが並んでいる。


「こちらアインス、思考共用は良好か?」


 返答がない。

 ヘルツはもう一度、今度はゆっくりと脳内で点呼を開始する。


「こちら、アインス、思考共用は良好か?」


 待つ。……返答なし。

 接続が良好ではないのだろうか? 

 

 しかし、思考は滞りなく接続されているし、誰一人欠けたような様子もない。そもそも先ほど配置についたばかりなのだから、欠員が出るのはおかしい。

 ヘルツは眉間を揉んだ。脳の奥が憂鬱に痛む。


「こちら! アインス!! 不感症ならそう言え! 良い医者紹介してやるから」


 脳を煉瓦で殴打するような声に、メンバーの呻吟が脳裏のあちこちで広がった。


『……こちら、ツヴァイ。思考接続に不感症とかないはずです』

『こちらフィーア、察してほしいね。みんな今回の迂遠な作戦に気が乗ってないんだ』

『ゼックス。医者ってどうせニヒツ先生でしょ。やめてやれよ、ニヒツ先生が気の毒でならないよ』


 それぞれが一言ずつ文句を語尾にして点呼が終わる。ヘルツはようやく息を吐いて、木の荒れた肌に背を預けた。気怠い息を吐く。


 今回の作戦に気乗りしていないのはヘルツも同じことだった。


 国家反乱組織、そのうちのグループの一つ『ピカロ』────彼らの拠点となる基地の排除及び反乱者の一掃がヘルツたちに課せられた任務である。


 まず、ヘルツがテントから出てきた反乱者をサプレッサー式の麻酔銃で眠らす。その後、様子を見に来るであろう不穏分子共を射殺。混乱に乗じて首謀者を探し出し捕縛、その後残党を掃討し、完遂。というのが今回提出された作戦の概要である。

 悪くはない作戦ではあるはずだ。前までなら、全員納得して誰一人文句を言うやつなどいなかっただろう。では、なぜ、今回に限ってこうも気が重いのか。答えは明白であった。


 ──メンバー全員、深淵のいる効率的で合理的、最善で最良の作戦に慣れてしまったのだ。


 ヘルツは黒く光る銃の肌を撫でて、瞼を伏せた。


(こんな副作用が出るとはな)


 甘えていたつもりはないし、頼り切っていたわけでもない。だが、“絶対的な強さ”を持つ人間が身内にいるというのは、それだけで自分も素晴らしい才覚に至る人間なのだと勘違いさせる効果がある。その輝かしいファムファタルに当てられて、自分の値打ちを見誤る。

 今、自分たちの戦力で妥当な作戦が、まるでふさわしくないように思えてしまうのだ。

 完璧で理想的、殺戮的で自由な作戦が成功するのは、ひとえに冠たる指揮者がいるおかげであるというだけなのに。


 ヘルツはそれに気づけているが、他のメンバーはその盲目さに気づけていない。

 この状態で作戦を決行するのは、コンディションの面で危険だった。思考も、注意散漫に漏れ出ているやつが多い。


『二月と同じ掃討作戦でよくないか?』

『こんな作戦でちまちま殺してたらキリないぜ』

『というかノイズ入ってる? おいおい誰か寝てるのかよ』

『催涙弾を中央にぶちまけて、誘き寄せた奴らを片っ端から撃っていけばいいだろ。二月はそうしたじゃないか』


 それならお前は一キロ先の人間の肌のキワまではっきり見えるんだろうな。血管の浮く喉元で出かかった針を、ヘルツは飲み込んだ。

 白い煙の中で作戦が上手くいったのは深淵の視力と権能のおかげである。深淵を抜いてそんな作戦をしても、催涙弾でこちらはなにも見えないし、絶対に一人や二人、三人には逃げられる。


 作戦決行まであと三分。

 時間がない。


 今日でこのグループを始末しなければ、今後、元首に対する反乱勢力は水を吸ったスポンジみたいに力を増すばかりになるだろう。──テロ、それだけは命にかえても阻止しなくてはならない。

 自分たちが戦場にいるのは、殺しを楽しむためでも、自分の力を誇示するためでもない。危険分子を取り除くためだけにここにいる。目的と手段が入れ替わっては本末転倒だ。


 あと二分。


 銃の引き金にはまだ指をつけない。掌は汗で湿っている。

 空を見上げても高々と林立する枝葉で空はよく見えなかった。ただ、少しずつ影の濃度が増していくのを見て、黄昏時が近いのだということはわかった。


 脳裏に、あの日の情景が蘇る。アパートの一室、窓辺から覗かせた銃口。“深淵”を覗かぬように照準を定めた光景、肌を焼いたような夕焼け。

 自分を見た、白日の瞳────


『誰か催涙弾持ってないのか?』

『一時間もかけてらんねぇって』

『やっぱり、今からでも作戦を変えた方がいいんじゃ……』


 過去の美しい情景を覗いていたいのに、外野のコーラスがうるさすぎる。これだから思考接続は嫌になるのだ。

 ヘルツの血液に流れる憂鬱はいよいよ溶岩と化して、巨大な溜息を噴火させる。後頭部を乱雑に掻き、なんの脈絡もなく、彼は指先でアイドルみたいなハートマークを作った。


 作戦決行まで、あと、一分。


「こちら、アインス。俺が今どういうサインをしてるか、見える奴いるか? いたら、作戦を変えよう」


 ノイズが鳴る。耳鳴りのようなノイズが、鐘の音を鈍くする。その音を、どうしてか自分は知っている気がした。

 周波数を合わせるかのように、一つの思考がクリアになっていく。

 雑木林の暗がりの向こう。脳の最奥。


 何かに、覗かれている。



『────指ハート』



 ヘルツは深緑の瞳孔を奥に窄めて、目を見開いた。


 どこまでも通るような美しい音質が一番高い鐘の音を鳴らす。風が吹かしたといっても納得できるほど一瞬の、声。──いや、でも。まさか、そんなはずはない。

 残り香を探る暇もなく、次に脳に響いた声は切迫した金切り音だった。


『こちら、ゼックス! 九時の方向から不明の発射物を確認、着弾までおよそ十……いや、間もなく、──』


 ヘルツが拠点の方へと視線を移した瞬間に、空を裂いた巨大な白煙がテントの全てを燃え上がらせた。思考の中で焦燥の声が広がる。ヘルツは腕で顔を覆いながら、メンバー全員の声を確認する。味方の範囲で攻撃を受けた者はいない。

 現場に一番近いドライが状況を興奮混じりに報告する。


『こちらドライ、テントから出てくる奴ら、全員行動不能状態に陥っています! 視界不明瞭で細部までは確認できませんが、催涙弾……にしては敵の苦しみ方が違うような』

 ヘルツは上空から接近してくる音を察して声を荒げた。「静かにしろッ! 何か近づいてくる」


 低く唸るようなプロペラの轟音が腹の奥を擽ぐる。ヘルツは上を見上げ、雑木林の彼方を見据えた。ザワザワと激しく身を揺らし始める木々が、波打つようにこちらまで爆風を連れてくる。

 一つの影が、その姿を徐々に大きくさせていく。


 やがて、ヘルツのいる雑木林のすぐ真上に、殺意の塊のような軍事用戦闘機が飛来して動きを止めた。


 黒い機体の扉が、不意に開き始める。


 銃の引き金に指をかけようか本能が迷っている。敵か新たな勢力の奇襲だったらどうするんだ。そう言い聞かせるが、ヘルツはその大きな影から目が逸らせないでいた。

 見えなくてもわかる。今、この場にいる敵、味方、全員が、この黒い色彩を見上げ、覗いている。



『ゼックス、ツヴァイは十二時の方角を包囲して。それ以外はそのまま作戦どおりに、アインスの合図を待つこと。……ところで、思考の傍受にも気づけないの? αの『全知全能』ともあろうものが?』



 黒く畝った髪が強風に遊ばれ、漂白された肌が、機体の扉から覗く。


 千の死体が似合う美貌と、二つの白い銃口が地上を見下ろしていた。



 脳の中は散弾で撃たれたかのように静まり返る。隊員の誰もが、明瞭な声に耳を傾けている。一つとして聞き漏らさないよう、命令を待つ軍犬のように。

 ヘルツは声にならない口を開閉させながら天を見上げ、歓喜と困惑と興奮に呼吸を震わせた。


「────……鷹」



 白い瞳孔が、真っ先にすぐ下に向く。人の可能性を逸脱した天変地異が────

 深淵が、こちらを見る。



「『ヘルツ』」



 下降用の命綱を腰に巻いた体が、フッと宙に放られて、真下に落ちていく。ヘルツはライフルを背に回して両腕を広げた。地面に足が着く前に、飛び降りてきた華奢な体を抱き留める。

 存在を確かめるように、強く、強く背中を抱いて、ヘルツは深淵の黒髪に鼻腔を通した。日本の匂いがまだ僅かに残っている気がする。深淵は腰の命綱を解いて、戦闘機に腕を振ってみせる。それを合図に、黒い機体はゆっくりと上昇を始めた。


 ヘルツに抱きしめられていると、深淵の足は一向に重力を実感できない。深淵はヘルツの背を軽く叩いた。


「苦しいよ」

「お前、どうして。卒業式は……」

「昨日で終わった。作戦の途中だろ、離して」


 そう強めに言われて、ヘルツはようやく深淵を下に下ろした。

 深淵は学生の制服ではなく、こちらが至急した軍服の上着を羽織っていた。腕の埃をはらって、深淵はヘルツと真っ直ぐに向き合う。

 一触即発を彷彿とさせる目で見つめ合い、どちらからともなく口を開いた。


「おかえり、鷹」

「ただいま、ヘルツ」


 唇に朧げな笑みを引っ掛ける。しかし、余韻に浸る間もなく、二人の思考回路は同時に切り替わる。


 深淵はヘルツの隣に並んで、下を見下ろした。白煙はまだ濛々と拠点を覆っていて、ヘルツの視界は不明瞭なままだ。が、深淵には見えている。一人一人の辛酸を嘗める姿、苦汁に歪む皺の動き、人数、武器、行動、その全て。

 白い瞳孔が収縮する。低い悲鳴がのたうち回って広がっている。武器を促す声が聞こえる。

 深淵は首元の黒い鋼のチョーカーを指先で掻きながら、浅い吐息を口の先で燻らせた。


「何人か、効きが悪い。権能を遮断する装置か何かでも着けてるみたいだ」

 ヘルツは首を掻く深淵の指先を軽く制した。「二月の掃討作戦じゃ無理ってことか? あと首を掻くな、かわいそうだろ」

「慣れないんだよ、チョーカー」深淵はそう嫌そうに呟きつつ、眉を潜めて、「……おれがいつ、二月の掃討作戦を決行するって言った?」


 深淵の言葉にヘルツは目を丸くして、下で蔓延する白い霧を見る。ならば、なぜ、わざわざ作戦を無視して催涙弾を打ったのか。彼がそう聞く前に、深淵はどうでもいいように爪を気にして口を開いた。


「基地の様子を“見た”。あのグループは権能の対策をしてる。こっちの気配にも気づいてたし、あのまま突入するのは危険だと思ったから、制しただけだよ。主導権を向こうに握られたくない」

「権能の対策?」


 真偽を疑って、ヘルツの顔色が曇る。「権能が通用しない?」

 深淵は少し考えるように眼球を半円させた。


「通用しない、というより、効きが悪いんだと思う。支配型の権能と相性が悪い。特に治療、言語、身体あたりの組み合わせ」


 また無意識に首筋のチョーカーを掻こうとする細い指先を、ヘルツがすかさず止める。

 深淵が今までチョーカーを着用せずに生きてきた事実を知った時、ニヒツは医師として卒倒し、ヘルツは肝を液体窒素にまで冷やした。強さこそが防御とはよく言ったものだが、深淵は本当に極端だった。

 これはいい機会だ、とも思う。自分たちにとっても、深淵にとっても。


「鷹、お前は……」


 ぱん。


 軽い音が響いた次の瞬間、ヘルツの面前に深淵の腕が敏速に伸ばされた。

 ヘルツの鼻先には深淵の手の甲があり、あと数ミリの間で動きを止めた銃弾が、深淵の白い掌から落ちる。コン、と馬鹿っぽく転がった銃弾は雑草の上で気持ち良さそうに眠った。

 深淵は無感動に前を向いたまま、ヘルツはうんざりしたように顔を片手で覆う。


 どうやら、作戦を立て直す時間はもうないらしい。


「鷹、思考接続」ヘルツは端的に促して、ライフルの撃鉄を起こした。

「今、繋ぎ直す」

「ああ、待て。もしかしたら繋がりにくいかもしれない。あいつら、不感症なんだ、許してやってくれ……」


 深淵は意外そうに瞼を上げて、「だから、おれに思考を傍受されるわけ?」

 それを言われてしまったら、自分も不感症のうちに入ってしまうだろう。ヘルツは自分の吐いた冗談で深傷を負った。そもそも思考の傍受なんて、誰も気づくわけがないのだ。──深淵を除いては。


 思考が、繋がる。鐘の音が鳴る。不純物のない、最高音質の音域が脳内に広がっていく。


「こちら、ヌル。思考共有は良好ですか」


 即座に返答が響いた。


『こちら、ゼックス。思考共有は良好。そんな品のない男より今夜俺とお食事でもどう?』

『こちらツヴァイ、良好です。ご卒業おめでとうございます。結婚を前提にお付き合いして下さい』

『こちら、フィーア。思考共有、良好。頑張るので、ご褒美が欲しいです。せめて投げキッスでも』

『こちら、ドライ……良好です。あ、あの、一月一日の作戦で助けてもらったものなんですけど、俺が選んだチョーカーをつけてもらえませんか!』


「おい、プロポーズしてる奴、覚えたからな」


 それぞれが一言ずつ口説き文句を語尾にして点呼が終わる。

 これはヘルツの部隊で行われる恒例行事であった。深淵との接続の際は、必ず語尾に真っ赤な花束つける。最初こそ、コミュニケーションのために誰かが戯れに始めた揶揄だったのだが、今や隊員の一人一人が仄かに本気になっていた。

 それに対する深淵の返答は、いつも決まっている。


「いい夢を見せてくれる人が、もういるので。……時間がない、今回は扱う権能に注意して。支配型の権能の組み合わせ、精神汚染なんかはあんまり効果がないと思う」


 ヘルツが深淵の肩に手を添える。深淵は眼球だけを動かして彼を見た。

 指を自分自身に指しているヘルツに、深淵はそっと発言権を譲る。


「こちら、アインス。まあ、そういうわけだ。今回、ヌルは俺のバックアップについてもらう。わかるな? 奴らの汚い首を獲ってこれるのはお前たちが優勢ってことだ。逆を言えば、俺の補佐についてるヌルよりも劣った結果を残す奴はαを名乗る資格もない」

「それ初めて聞いたんだけど……」


 不満に顔を歪める深淵の額を、ヘルツは指先で軽く打った。深淵の口が渋々縫われる。


「いいか。我らが司令塔()に誰が多く首を差し出せるか、首謀者をいち早く捕縛した者だけが勝鬨を上げるに値する。『全知全能』の使いどきだ。我が国の女王陛下、我が国の平穏を揺らがす不穏分子は全て抹殺しろ。奴らに思い出させてやれ」


 ヘルツは辛辣な笑みを彫りの深い影にたっぷりと乗せた。


「“深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いてる”ってことをな」


『Verstanden, Chef』


 接続が閉じられる。

 直きに、下から乾いた銃声がいくつも響き渡った。

 目には目を、暴力には暴力を、殺戮には殺戮を。そんな日常は日本でもドイツでも変わらない。だが、自分たちが血に濡れている分だけ、こことは違う場所に平穏が存在しているのなら、それはそれで良いものだと思えるのだ。

 深淵はしばらく重い雷雲を表情に燻らせてヘルツを睨んでいたが、ヘルツのむい、とやましく真一文字に結ばれた口元を見てしまうと毒気を抜かれたように溜息を吐くことしかできなかった。

 二人は雑木林の斜面を散歩のような足取りで降り始める。


「悪かったよ。勝手に決めて」

「気にしてない。相談してる時間、なかったから。……それに九さんにも言われたんだ」

「なんて言われた?」

「おれが前線に出ると、周りが育たないって」

「ごもっともだ」


 薄くなった白煙の向こうでは、赤い色彩が少しずつ加わり始めている。人の影が、巣を襲われた蟻みたいに動き回っている。

 自由に生えた雑草が二人の靴底に踏まれて、倒れていく。枯れてはいないのに、痛そうに思えてしまう。それは、人を一人殺すことより余程良心を慄す感触だった。


 ヘルツはちょっかいをかけるように深淵の背中を掌で叩く。


「まだ軍服に着られてるな」

「チョーカーよりはいいよ。……外しちゃだめ?」

「天と地がひっくり返っても着けていてくれ……頼む……」


 空に滲んでいた太陽の残滓は、もう、どこにも見当たらない。海の底が空に波打っている。

 ぱん、ぱぱぱぱ。

 前方で響く空虚な音、陳腐で個性のない阿鼻叫喚。αの『全知全能』たちが、同じαを殺すための想像をしている。共食いみたいだ。そこにΩが加わることは、やはり冒涜に近いのだろうか。深淵にはまだ答えが出せない。

 深淵は制服の内側からバタフライナイフを取り出した。たった一本のナイフだ。その心許なさにヘルツはやはり眉を下げてしまう。


「……それだけか?」


 雑草の踏みづらい感覚がなくなり、二人は黄土色の砂っぽい地面に立つ。

 深淵は挑発するように眉を吊り上げると、右横の薄暗い煙の中から出てきた敵の男の頭に目掛け──視線はヘルツに結んだまま──バタフライナイフを投擲した。追跡型の応用で手元に帰ってくるナイフを掴む。

 証明するように瞼を細め、


「充分」


 前線にいなくても仕事を奪われそうだ。

 二人は暗くなった霧の少し手前で足を止め、そこからは動こうとしない。動く必要がなかった。今回の主役は自分たちではなく、青いプライドをかけた隊員たちである。

 ヘルツは左手につけた腕時計を見た。雑木林から移動を始めて、のんびり五分ぐらいはかけただろう。


 ────ハンデは存分にくれてやった。


 赤茶の髪を撫でつけ、互いに埃っぽい酸素を吸う。


「ヘルツ」

「なんだ」

「今夜、予定は?」

「お前の夢で埋まってるよ、鷹」

 そう言うと、深淵はおもちゃを握りしめたように密かに笑った。

「勝ったら、いちごのあいす食べたい」

「そう言っていつも食えてるだろ、かわいい奴め」

「どうだろう、今日はヘルツが勝つかも」


 二人の濃い影が重なる。キスのできる距離。相手に致命傷を与えられる距離。無彩色と深緑の目が中央の溝を見つめる。ヘルツは深淵の額に、自分の額を押し当てた。

 瞼を閉じて、繋がるのはその暗がりのもっと奥だ。


「好きにやったらいけないんだよね」

「そうだな。だから、まあ」


 耳鳴りがする。瞼の裏側、血管の透けるノイズ。角膜、虹彩、網膜、水晶体、硝子体──……瞼の奥、深淵の最奥。白日がある。その先にあるものが破滅だとしても、それから目を逸らすことなどヘルツにはできない。

 人は、それを運命と呼ぶ。


「適当に愛してやれ」


 瞼を同時に押し上げる。広がるのは、星屑をつなぎ合わせたようなフラクタルだ。

 暗闇の向こうで飛び交う銃弾の軌跡、銃から散る火花に焼かれた蛾の姿、敵か味方か、そいつの一ミリの表情すら見える。誰がこちらを覗いているのかも、わかっている。


 深淵の瞳孔が収縮する。


 二つの白い満月の先に照準を当てて、ヘルツは引き金に手をかける。弾は決して、外れない。


「了解、Liebling(ダーリン)



 この目は、お前を見ている。
















 ────α、β、Ω、世界は男女の性別の他に第二性によって構築されている。そして、それは能力の格差でもあった。


 αに生まれたものは『全知全能』

 βに生まれたものは『部分日食』

 Ωに生まれたものは『無能』


 しかし、Ωには稀に、特異な体質を持って生まれてくる者がいる。αと同等の力を孕み、ともすればαすら凌駕する絶対的な力を保有する者たち。


 彼らの存在を、『天変地異』と定義する。


 我々、権能機関には、彼らの実態と潜在的に宿る猟奇的精神の観測が義務付けられている。

 現在、世界に確認できているΩ『天変地異』は九十九名。討伐成果は順調に進んでいると思われる。



 〈1〉危険因子、十名。未だ、討伐成果は上げられず。迅速な対応が必要と判断される。


 ※ 最重要特異危険因子、四名

 〈殲滅〉〈深淵〉〈淘汰〉〈累卵〉──……日本政府より〈深淵〉の死亡通告承諾済み。しかし、証拠不十分により否決。引き続き観測を求む。


 繰り返す、引き続き最重要特異危険因子の観測を求む。


 尚、観測されたデータは機密事項に保存し、元データは十秒後に全て消去すること。


〈記入欄〉


 〈深淵に関する注意事項〉


 1, 決して目を合わせてはならない

 2, 見られてはいけない

 3, 対象の視界に入ってはいけない

 4, 近接に持ち込んではならない

 5, 毒の使用を禁ずる

 6, 密室を作ってはならない

 7, 見失うな

 8, 声を聞くな

 9, 覗いてはならない



 ────……データを消去中



 ────────

 ────────…………



 〈消去完了〉



 〈観測対象〉


 α『全知全能』ヘルツ・バルツァー

 Ω 『天変地異』月見山 鷹〈深淵〉





〈以上、観測記録を終了する〉





 ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました!


 本作は及川奈津生様主催の現代異能バトルBL企画参加作品となります。



 オメガバース、大好きです。あんなに差別が顕著な世界で、どのバースも必死に食らいついて生きている。それは私たちが住まう現実とさほど変わらないのかもしれないけれど、彼らはそういう運命的なものに強く抗うんですよね。

 その感情の抑揚、生き様が大好きで。今回はそれに上乗せして権能という新たな能力差を付け足しました。だいぶ治安の悪い世界が舞台です。


 私は厨二を全力で謳歌していた暗黒時代があったので、バトルBLの企画の話が流れてきた時、もうそれはそれは興奮いたしました。設定を考えるの楽しすぎ。


 強い受けはなんぼあってもいいと思っています。深淵はそんな気持ちから生まれました。誰にも当てはまらないような強さでも、噛み合う歯車はある。その歯車が、ヘルツです。

 彼らは運命の番ではなくて、お互いにまだそのバース上の運命とは会えていません。出会ってしまった時、どうなるんだろうなあ、とは思うのですがきっと二人なら大丈夫。深淵の強さは変わらないし(魔法の言葉)


 ただ、強い故に道を踏み外しそうな場面はいくらかあって、その時にヘルツは深淵の手を握ってあげられる。彼は、そんな男です。


 ヘルツ、ニヒツ、深淵。三人はこれからも一緒に過ごしていくのだと思います。


 作中、観察記録4で出てきました本の内容は「若きウェルテルの悩み」 ゲーテ 高橋義孝(訳)〈新潮文庫〉より抜粋いたしました。

 私の性癖を狂わせた小説です。未読の方はぜひ、一緒に狂ってください。



 何はともあれ、二人の観測記録をここまで読んで下さった読者様、本当に、本当にありがとうございます。この物語が、日常の中のほんの些細な刺激になっていたなら、それ以上の幸福はありません。


 この場をお借りして、こんなにも素敵な企画を開催してくださった及川奈津生様に今一度お礼をさせてください。

 及川奈津生様、現代異能バトルBL企画、とっても楽しかったです。この企画がなければ、このお話も登場人物たちも生まれはしなかったでしょう。輝かんばかりの素敵な企画を、本当に、ありがとうございました!


 それでは、またお会いできますよう。

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