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10,白日を望め  作者: 雪無
7/8

観測記録深淵

 


────世界が新年を祝福する日に生まれ、Ωの『天変地異』として息をした。




 生まれたばかりの頃のことはよく知らない。ただ、その日のうちに、おれは捨てられたらしい。


 ……便宜上、捨てられたと言うしかないけれど、別して母親を恨んでいるわけではない。母は、生まれたばかりのおれを抱いて、雨に濡れ浸しになりながら役所で届出を出し、その足で児童施設へと赴いたという。

 施設は、Ω『天変地異』の保護団体が運営しているところだった。政府に知られないよう、表向きは一般のバース児童施設で通っている。

 設備は馬鹿みたいに乏しくて、夏に扇風機は回るが、冬にヒーターや暖房はつかない。ホテルみたいな個室はなくて、子供たちは身を寄せ合いながら布団を掻き集めて雑魚寝する。おれたちはそのほとんどが訳ありで、中学生や高校生、就職活動や番関係によって鬱になったΩの大人たちが幼い子の面倒を見てくれていた。


 面倒といっても、食事中に誤飲しないよう見守るだとか、おむつ替えとか、必要最低限の監督ぐらいで遊んでくれたり喧嘩の仲裁をしてくれたわけでもない。当たり前だ。みんな、自分のことで手一杯だった。

 Ω『天変地異』狩りはその時から顕著で、施設にいる誰もが明日をもしれない日常を過ごしていた。だから、生きる気力がない。周りの目は暗闇に澱んでいて、おれはいつもその目が怖かった。大きな穴みたいな目を覗くと、底知れない何かがこちらを見つめるのだ。



『お前、母親のこと憎いか?』


 おれがまだ五つの頃、監督していた一人の男がふとそう聞いてきた。擦り切れて、くたびれた体は四十ぐらいにも思えたが、今にして思えばたぶん三十前後だったろう。その人は、おれの母親から赤ん坊のおれを受け取った人だった。

 目はこちらを見ていなくって、自分に話かけてきたのかも怪しかったが、おれはとりあえず首を横に振ってみせた。憎くないのは、嘘ではなかったから。


『そうか』

『……どうして、そんなことを聞くの』

『……俺のお袋は、俺に名前もつけずにこの施設に捨ててった。でも、お前、お前は違うんだよなあ。ちゃんと名前をつけてもらって、あの女は小さいお前にこう言ったんだ。「愛してる」って。それって、すごいことなんだよ、わかるか?』


 頷くと、大きな掌がおれの頭を撫で回した。初めて触れてもらえた感触は、なんだかむず痒くて、温かった。

 どういう気まぐれだったかはわからない。それでも、おれはこの時、望まれて生かされているんだと生きる意味みたいなものを見出せた。


 Ωの天変地異。αの全知全能と比べれば確かにポテンシャル自体は低いものになる。だが、せっかくαと同等の力があるのに明日を悲観して死に怯え、何もしないのはとんでもない宝の持ち腐れされではないのか。視界が開けるような感覚に、そう思った気がする。

 政府がおれたちを消したがっているのなら、それに勝る力で圧倒すれば、いつか世界は変わる。そのはずだ。暴力には暴力で、知力には知力でぶつけるしかない。


 施設にいる子供たちは学校には行けない。その代わり、頼めば好きな教材を買ってもらえた。おれは来る監督生全てにありったけの教材を頼み込んだ。

 全員目を丸くさせていたけれど、まあ、子供の暇つぶし程度に思ってくれたのだろう。根掘り葉掘り聞かれず、適当に了承してもらって、おれは無事に勉学に励むことができた。


 知らなかったことがたくさん知れるのは、楽しい。乾いた砂漠地帯で新鮮な水をありったけ飲み込むにも似ている。命を繋ぐ透明な液体がどんどん体内に浸透して、自分自身の体が脳が潤っていく。それを感じられる。

 鉛筆や消しゴム、ノートもたくさん頼んだ。

 ノートが十冊を超える頃になると、おれの周りにも他の子供や大人がなんとなくそばにいてくれるようになっていた。死んでいた目には微かな光が宿っていて、好奇心でおれの手元を覗き込む。気は散ったが、悪い気はしない。


 ただ、わからない問題を教えてくれる大人がいないのは、何より辛かった。


 わからない。どこが? 間違えていることだけがわかって、解決策が何も思い浮かばない。書いて、間違えて、消して、書いて、間違えて、消して、ノートの見開きはすっかり黒く汚れていく。字が濡れたみたいに見づらい。余白を探すのに目が泳ぐ。消化不良の焦燥だけが、脳を支配していく。解けない、解けない、誰か、教えてほしい。答えを教えてくれとは言わないから、せめて、一筋の蜘蛛の糸を垂らしてくれれば。

 泣きたかったのに、泣き方はどの教材にも載っていなかった。



『ここ、方程式間違えてるよ』


 解けない問題から一ページも進まず、机に突っ伏していた日のことである。頭上から突然声をかけられた。

 寝癖のついた頭をもたげて、ぼんやり上を見る。

 若々しい青年がノートと開かれた教科書を見て穏やかに笑っていた。ここの施設では珍しい麗しさで、おれはきっと夢を見ているんだと思った。しゃがみ込んだ青年が、こちらを覗く。


『ボク、いくつ?』

『……五……あ、今年で六』

『ふうん』


 聞いてきたくせに興味なさげな声を出して、青年は教科書に書かれた数式を追う。そして初めのページを開き、基礎部分の例題を指した。とっくのとうに学び終えた正負の数。


『応用問題だね。いや、君の歳でこの問題を解きにかかるのはすごいよ。この問題では初期で習う正負が必要になる。あとはわかるかな?』


 寝ぼけた頭をフル回転させて、目を白黒させたまま問題に向かった。遭難した山道で、朝日に一本の道筋を導かれたかのような希望が、確かに目の前にあったのだ。

 言われたとおりにしてみると、あれだけ苦悩していたのが悪い幻だったみたいにすんなり解けてしまった。


『……解けた』

『まじ? すご! 教えても解けないかと思ってたのに!』失礼な言い回しだ。が、青年も嬉しそうにおれとはしゃいでくれた。


 その日から、青年は専属の監督生になった。朝に来て、おれの勉強を見て、夕方には帰っていく。

 聞けば、歳は十五らしい。なら、まだ施設にいてもいい年齢のはずなのに、彼は必ずどこかに帰っていく。その自由な背中が、とても眩しかった。きっと、自分では想像もできない街に暮らしているんだろうと思う。彼は、幼かったおれの憧憬であり、夢だった。


 もう、顔も思い出せないけれど。



『権能は確かに知力がものを言うね。でも、それだけじゃ、所詮はα止まりの能力になる』


 青年はどの権能の分野においても優秀な技量を誇っていた。そこらのαでは太刀打ちできないぐらいの、強さがあった。

 おれは貪欲に強欲に青年の能力を模倣し奪い、そして自分のものにしようと試みる。でも、どうしたって彼の領域には及ばない。

 悔しい、というより寂しかった。おれには何かが足りないような気がして、それは決定的な欠点にも思えたのだ。ピースはあるはずなのに最後の空白が埋められないパズルみたいだった。そんなの、不良品だ。


『知力にばかり頼っていたら、それこそお堅い頭になっちゃうよ。もっと想像して。二次元から三次元に、三次元から四次元にまで想像し、形にする』

 青年は手を出して、二本から三本、三本から四本に指を立てて見せた。『そのための権能だ。鷹、君は視力がとんでもなく良いね? どうしてそれを活かそうとしないの』

『……だって、あなたは視力の権能なんて使ってないから』青年を模倣している事実を自白し、おれは勝手に恥ずかしくなって口を引き結んだ。でも、彼は笑わない。


『俺のことを参考にするのは良いけど、俺になろうとはするなよ』


 ドッ、と強い衝撃が心臓を打つ。幼かったおれは、彼のその突っぱねる物言いを拒絶だと思った。憧れていた人に、恥ずかしい奴だと軽蔑されたような、真っ赤な色彩が太い血管から滲んでくる。自分の服の裾を握り締めて俯く。湧き上がる体温を胃の中に押し込む。

 ああ、泣きたい。そう思った瞬間に、青年がおれの肩を諭すように掴んだ。


『鷹、自由でいいんだ。自分のやりたいこと、望むこと、そういうことに貪欲になれ。強くなりたいと思うなら、俺以上を想像して、どうしたら俺を殺せるか考えろ。俺は君ほど目はよくない。もし、君がその人間を視認しただけで個人の体を征服できたなら、俺はきっと、君には敵わない』


 怖くなった。殺すだなんて、おれが想像していた強さはせいぜい相手を懲らしめるぐらいのものだったんだ。

 見入った目は、黒かった。それは絶望の色ではなくて、深海の底のような暗さだったと思う。光がないのではない。届かないのだ。何が泳いでいるの? 何がおれを見ているの────目の前にいる青年がほんとうに同じ人間なのか、途端にわからなくなる。


『君は強くなるよ、鷹』


 青年はそう言いながらスクールバッグの中から一枚のパンフレットを出して見せた。学校説明会と書かれた文字は簡素で、必然的にやたら詰まった漢字の方に視線がいく。


『私立凌駕国際高等学校……?』

『そうだ。俺がこれから通うことになる学校。君もここに来るといいよ。ここには、君の求める全てがある。学歴やバースなんて関係ない、実力こそが全てなんだ。平等ではないけれど、公平に君を求めてくれる』

『じゃあ、ここに入ったら、あなたと一緒に勉強できる?』

『それは難しいな! 待っててあげたいけど、流石にそこまで留年はできない』


 天真爛漫に笑う彼の瞼は細くなって、もうその暗闇は見えなくなった。けれど、今でもおれはあの黒が忘れられない。血生臭い暗黒が、脳裏に棲みついている。彼は何のためにおれにいろんなことを教えてくれたのだろう。

 その答えをくれる彼は、いない。

 青年はおれの頭を撫でてバッグを肩にかけ直す。帰るんだと思って、追いかけるように彼の服を小さく引っ張った。


『あ、明日も、勉強教えて』

『もちろん。明日も明後日も、明々後日も、たくさん教えてやる』


 明日も明後日も、明々後日も、青年には訪れなかった。

 その日の深夜に、彼は死んだ。おれはそのことを次の日の朝に聞かされたのだ。


 事故、と施設長は言う。それが嘘だということは、すぐにわかった。彼は、政府に殺された。


 天変地異であるΩの誰もが明日をも知れぬ日々を過ごしている。その絶望と恐怖をおれはどこかおとぎ話のように受け止めていた。

 政府という組織が永遠の悪者で、しかし、長く築かれた旧弊を切り開けるのはもしかすると自分たちみたいなΩの誰かかもしれない。処刑台に相応しいような希望を掲げて、おれは“強く”なろうとしていた。そんな強さは、なんの意味もなかったのに。

 暴力には暴力で、知力には知力で。


 ────では、殺戮には?


 殺戮で返す他ない。


 青年に追いつけなかった理由が、わかった気がした。


 パズルのピースが足りないと憂うのは、嵌め込んでいるからだ。バラバラのピースを見て、なんのピースが足りないなんて思わないだろうし、足りないピースを探そうとも思わないだろう。


 その日から、おれに勉強を教えてくれる人はいなくなった。構わない。考え方、導き方、応用の肝は全て頭に入っている。ただ一つ足りないのは、権能の実戦のみだったが……それは、おれがこの施設から足を一本出せば済む話だったのだ。


 襲撃を受け、人を殺したのはいくつの時だったか、誰だったか、どんな状況だったか。そんなものは覚えていない。でも、自分という心は案外容易く壊れてくれるものなのだと、それだけは知れた。パズルもドミノもトランプタワーも、花畑も、宝石も、優しさも、夜も、壊れるのは一瞬だ。

 砕けていくさまは雪を蹴り上げるみたいにきれいだった。あんまりに軽くて、細かくて、儚くて、もう、戻し方もわからない。わからなくなってしまった。


 施設を出たのは十三の頃だった気がする。記憶にない。そもそも、自分の軌跡なんて振り返る必要がない。


 殺される前に殺す。その度に、たくさんの権能を試した。複合型、精神型、遠隔型、支配型、無効型、死体の数だけ、襲撃の数だけ、実験ができたのだ。それだけは政府の奴らに感謝すべきなのだろう。


 恐ろしくてできなかった視覚を使う権能は、やってみれば大したことなくて、それどころか、まるであつらえたみたいにおれの肌に馴染んだ技法だった。


 展開する権能は、科学、身体、治療、言語の全て。おれはこれを自分の眼球に組み込んでオートマティックに対応できるようにした。

 権能の発動条件は「敵意」「悪意」「殺意」に設定する。最初は相手の脚を止めるところから、次は相手の内側に干渉する。少しずつどこまでできるのかを試していく。三度目、四度目……五度目の実験になる時点で、視界に入る人間全員の三半規管を支配できた。一キロでも十キロ先でも、おれにはそいつの肌のキワまで見える。十度目の実験────相手の心臓を潰すことができた。


 貪欲に、強欲に、思うがまま。やればやるほど、おれは“強く”なっていく。笑ってしまうほど虚しくて、泣きたくなるほどおもしろかった。


 高校に入学する頃には、おれは「深淵」と呼ばれるようになっていた。



◻︎



 ────十二????月二????日





 深海に目があるなら丁度その中央だ。



 次に瞼を開くと、辺りは一面の暗黒だった。



 光もなにもない。届かない。

 空間を把握しようと無意味に腕を伸ばしてみるけれど、底のような暗がりに触れられるだけで自分の位置さえ掴めなかった。


 何かが足りない。そう思う。つい一秒前まではあったはずの何かが──ピースが──足りない。

 捨てたはずの喪失感が蘇る。壊したはずだ。なのに、ずっと、足りないピースの形を覚えているような気がしている。もう一度、もう一度壊さねばならない。燃えカスのような欠片がまだ息をしているなら、今度こそ殺してやらなければならなかった。そう、この暗闇のどこかに“いる”はず────


『お前が深淵だな』


 足元から声がした。


 白い瞳孔が収縮し、すぐさま下を見る。眉間にナイフを突き刺したままの人間の頭部が黒い水面に浮かんでいて、その空洞になった眼窩は、虚にこちらを覗いていた。不良品みたいな口がガクガク痙攣する。声はそこから漏れている。

 周囲には、バラバラになった死体の四肢が球体関節人形よろしく散乱していた。それがこの死体のものなのか、将又、今まで殺してきた死体なのかはわからない。声が幾重にも重なって、不協和音を響かせる。


『αのメスでしかないΩが』


 深淵は、ようやくここが夢であることを悟った。


 幽暗にいた意識が急速に開けていく。吹き降りの声が死人の黒から劈いて、深淵はその骸を踏み躙りながら惑うように駆けた。探さなくては、と思う。

 なにを? 誰を、探している?

 螺旋階段を登ってくるようなけたたましい声が、思考の邪魔をする。


『所詮はΩの』

『天変地異が全知全能に敵うわけもない』

『お前が』

『殺せ』

『みるな』

『お前が』

『深淵』


 ────静かにしてくれ。こんなものは、なに一つとして望んじゃいない。


 足がもつれる。転ぶことはなかったが、前のめりになったおかげで面前に深海の底が迫った。


 その奥で何かが泳いでいる。響いている不協和音はもう声や言葉ですらなくて、ただ、自分を引き摺り込もうと腕を伸ばし、耳を塞ごうとしてくる。これ以上、見てはいけない気がしているのに、トグロを巻いて泳ぐ何かから目が逸せなかった。

 ぐるぐる、ぐるぐる、それは少しずつ近づいてきて、重なった声が深淵の頭を押さえつけている。粘着質な液体が後頭部を濡らし、重力に従いながら目尻や睫毛や眼球を腐らすように覆っていく。


 もうすぐ、それが見える。──いや、見えるのではない。最初から、それはこちらを見ている。覗いているから、見入られるのだ。目睫にいる。視界の焦点を当ててしまえば、それは、もう、





「鷹、目を閉じろ」







 気道が開くように、瞼が深くまたたいた。


 黒い視界から勢いよく顔を上げ、深淵は息継ぎをするために酸素を取り込む。は、は、とか細い自分の呼吸が聞こえる。

 気づけば、劈くような声は薙ぎ払ったみたいに消えていた。

 小刻みに顫動する瞳でもう一度下を見る。ローファーの爪先と黒い底が広がっているだけで、どこにも死体はない。深淵はゆっくり姿勢を正した。


 視界の端に、白い光が見える。


 声は、その方向から聞こえてくる。


「鷹」


 不協和音なんかではない、一人の、人間の声。自分はこの声を知っている。つい一秒前まで聴いていたような声だ。眼球を先に動かせば、首もそれに合わせて視線の向こうを向く。

 スポットライトの光、あるいは、斜光のような光がそこにだけぽっかりと降り注いでいた。中央には影が一本立っていて、ずいぶんと背が高い。

 目を凝らさずとも、その影にいるのが誰だかわかる。

 忘れていたわけではないけど、思い出した。あの形、シルエット。欠けていたピースの形。


 ────ああ、



「……ヘルツ」



 強烈な光が和らいで、細部が見えるようになる。

 赤茶の髪に、堅牢な体幹、彫りの深い顔立ちだが、笑うと少し幼くてなんとなくしつこい。スーツの襟についた数々のバッジだけが誠実に光っている。あとのネクタイやシャツのボタンなんかは上等なスーツが気の毒になるほどだらしないのに。──ヘルツは、深淵を見るとなんでもないように笑った。


 彼は深淵と一定の距離を保ったところから動かず、ただ、声だけが暗闇に響く。深淵もそこから動かない。


「待っててくれなきゃ、待ち合わせにならないだろ」

「本当に来ると思わない」

「約束は守る男なんだ、俺は」

「ここはおれの深層心理()のはずだけど。どうやって? ニヒツさんに手伝ってもらった?」

「ああ……待て、どうしてニヒツには敬称をつける」

「一度でも銃口を突きつけてきた奴に敬称が必要?」

「だから、それは……」


 二人の声が、暗闇に呑まれては消える。

 深淵は手元が明るいことに気づいて、上を見上げた。結晶を詰め込んだような果てない光が、自分にも降り注いでいた。距離はどのくらいだろう。二つのスポットライトばかりが暗がりに浮き上がっている。


 深淵は視線を戻して、ヘルツを見た。ヘルツも深淵を見ている。影が、足下に食い込んでいる。

 ヘルツには敵意も悪意も、殺意もない。そのどれも彼にはないけれど、深淵はただ一つだけわかっていた。



 彼は、自分と殺し合うためにきた。



 爪先で黒い地面を擦り、変に滑ったりしないことを確認する。権能も使える。ここなら、なんでもできる。だって、“夢”なのだから。


「……ヘルツ、さん?」そう児戯に言ってみると、ヘルツはあからさまに嫌そうな顔をした。

「最悪な他人行儀だ」


 深淵は無邪気に笑う。ヘルツもそのあとでくしゃりと相好を崩す。


『鷹、自由でいいんだ。自分のやりたいこと、望むこと、そういうことに貪欲になれ。強くなりたいと思うなら、俺以上を想像して、どうしたら俺を殺せるか考えろ』


 青年の声が深淵の脳裏で息をする。ヘルツも、想像しているのだろうか。自分を殺すための、至上の想像を。

 邪魔者はどこにもいない。

 肺に酸素を送る。二人はひとしきり笑いながら、表情だけを置いて腕を上げる。互いに、互いを指差して、その指は銃の形を模していく。

 銃口が、見合う。



「おれのこと、大切にしたいんじゃなかったの」

「そうだ。だから、お前が“望む”ことは俺が叶えてやりたいんだよ」



 親指を──引き金を──引いた。


 空気のような弾が破裂音と同時に撃たれる。深淵は右に顔を逸らし、ヘルツはすぐに身を屈めてこちらまで間合いを詰めてきた。学校で闘っていたあの殺し屋の動きを真似たのだろう。だが、そちらが学習したならこちらも学習しているのだ。

 ヘルツの右手には硝子のナイフが握られている。下からその切先が突き上がる。深淵はそれを頬の数ミリのところで避け、彼の硬い腕を両手で固定するように掴んだ。が、息をする暇もなく横から彼の左腕が薙ぐ。深淵は掴んだ腕を上に押し上げて、体勢を低くし、脚を振り上げながらバク転の要領で後ろに下がった。


 すぐに距離を詰められる。白い瞳孔に深緑の瞳が映し出される。


 深淵は透明なカッターを空中から生み出して、ヘルツの眼球の前に手首をかざし、自分のその皮膚に宿る何本もの脈打つ血管を勢いよく裂いた。夢のいいところだ。痛みもなければ、吹き出すものは黒い血液だった。

 ゼロ距離の血飛沫に、ヘルツは咄嗟に左へ避けるが、右目を塞がれる。


「────ッ」


 ヘルツはすぐさまリーチのある金槌を手に持って深淵の顳顬へと振り薙ぐ。深淵はその軌道に合わせて首を傾けた。金槌はバタフライナイフに変わる。

 ものを生み出す領域は科学の権能である。ヘルツはとにかく、場面に合わせ武器を代わる代わる変形させるのに富んでいた。

 しかし、それだけだ。ヘルツの体は大きく、動きは読めるし、対処もできる。あの殺し屋との戦闘の方がやはり実になった。白日の瞳孔を収縮し、彼の三半規管を制御する────


 ガクン、と、突如として、深淵の視界がブレた。前に進めない。


「え、」


 下を見る。足の真下、文字を踏んでいた。白い文字で〈止マレ〉と書いてある、文字を。

 それは深淵が最後に使った、言語の権能と同等の仕組みであった。前を向くと、ヘルツは落とし穴を成功させた子供みたいに口角を釣り上げて微笑んでいた。


「さすが、日本人はルールを守る素晴らしい国民だ」

「わざと動きの読める視線誘導を、──」


 深淵の権能が発動する前に、ヘルツはナイフを投擲する。深淵はしかし、自分の眉間に迫る前に同じナイフを手に握り、彼が投げた以上の速度で振り投げた。

 切先が衝突し合い、透明なガラス同士に火花が散る。

 「動け」と言語の権能を上書きし、深淵は脚をそこから外してヘルツの射程距離に入る。左手に持った釘をヘルツの首に振り下ろす。骨を砕くほど重い一撃であった。その、はずなのに。


 ヘルツは右腕一本でそれを受け止め、深淵の手を跳ね除けた。


 強風に靡く二枚のカーテンが縺れ合うように、踊り合うように、打って、躱して、掴んで、削って、突いて、飛ばして、切って、紡いで、薙いで、見入って。二人は決して視線を逸らさない。

 ヘルツの爪が、深淵の喉笛を浅く裂く。黒い血液が無重力に舞う。

 深淵は、無我夢中の幸福に吐息を細めた。


 求めていた強さがそこにある。


 一方的な殺意でも、悪意でも、敵意でも色欲でもない。

 純粋に望み合って、傷つけ合う。

 ただ、貪欲に強欲に、自分の望むがまま。縦横無尽に。Ωの『天変地異』だろうがαの『全知全能』だろうが関係ない、同じ土俵に立って、同じ強さの上で相手を圧倒する。そんな力が欲しかった。その強さを持つ人と出会いたかった。それを運命と呼びたかった。


 ヘルツの次の殴打が迫ると、深淵は一気に開脚して下に沈んだ。そのまま後ろ手に両手をついて、両足で彼の脚を薙ぎ崩す。思惑通り、ヘルツの体は傾いた。

 肉食獣が獲物を焼き尽くそうとするように、深淵はヘルツの胸ぐらに掴みかかって、自分より遥かにウェイトの差がある彼を押し倒した。


 手にコンパスを握って、針をヘルツの喉元目掛け振り下ろす。

 ヘルツは両腕でそれを受け止める。それでいい。想定内だ。

 ぐ、と深淵は姿勢を前傾させてヘルツの瞳を覗き込む。重なったスポットライトで深淵の表情は黒く染まっていた。二つの満月をヘルツも見上げる。


 見つめ合っている。その奥にある不可侵の神経、鼓動、脳の信号。フラクタルに歪む、向こう側────


 バチンッ!


(……?)


 深淵の視界に流電が走った。


 深淵は思わず目を庇いながら、チカチカ火花を散らす視界で掌を眺め、視力を測るようにヘルツを見た。ありえない喫驚が、初めて自分の脈を早めている。ヘルツは、もがき苦しむこともなく、目尻に黒い血液を流しながら彼自身も驚いたようにまばたきを繰り返していた。

 深淵の口角がひりつく。こいつ、


(権能の展開と同時に、一瞬だけおれの視覚をジャックしたのか)



 つまり、権能同士の衝突である。

 ヘルツの上半身が跳ねるように起き上がる。深淵も対応しようと構えるが、小数点ほどの時間差で遅い。視界がぐるりと反転する。

 ──未知の領域でも、臆せずに行動に移す。ヘルツという男は、まだ未熟だろうと、精度が低かろうと、遊ぶように何もかもを試してくる。だから、彼の動きは読めても、動きの“起承転結”が全く読めないのだ。どこで致命傷の一手がくるかわからない。


 後頭部を地に着ける瞬間、深淵はヘルツの眉間に、ヘルツは深淵の喉元に銃の形を模した指先を突きつけた。


 雪崩の後のような静寂が噴煙をあげる。

 互いに肩を弾ませて、酸素を貪る。深淵は、自分が今どういう表情をしているのかは知れなかったが、ヘルツの口角は次第に緩んで、弧を描いていた。きっと、自分も、そんな顔をしているんだろう。

 

「起きたら、イチゴのアイスを食べよう」


 ヘルツの口が不意に開かれる。深淵は銃口を構えたままヘルツを見上げる。


「……いちごの」

「実家は少し辺鄙なところにあるんだが、そこには俺のお袋が住んでる。お袋が作るイチゴのアイスは世界一美味い」

「そっか」深淵はその味を想像して、噛み締めるように唇を引き結んだ。アイスを食べたことがないと言ったら、驚かせてしまうだろうか。「それは、楽しみだ」


 黒い世界は、月に食われていくようにぼんやりと薄くなりつつあった。もうすぐ、意識が戻るのだとわかる。

 今度は深淵から話を切り出す。


「おれは、君の部隊や国の人たちにあんまり歓迎されないと思うんだ」

「そうだな」ヘルツは当たり前のように頷いて、「でも、お前を独りにはさせない」


 銃口が少しずつほどかれていく。


 未だに実感できない。自分の生活が百八十度変わってしまうこと、日本では、自分はもう死んだことになっている事実。

 深淵は、自身の瞼に片方の指先を当てた。オートマティックにした権能も少し変えなければ。もう、必要以上に人を殺すことなんてしなくていいのだから。良いことだ。……良いことであるはずなのに、それを心から喜べない自分がいる。なんだか、物足りない気がしてしまう。

 欠けたピースの形は覚えている。自分に何かが足りないのも、わかっている。でも、決定的な何かがわからない。トグロを巻いて泳いでいたものはなんだったのか。


 自分の穴の開いた底を見れるまで、深淵にはまだ膨大な時間が必要だった。


「……明日も明後日も、明々後日も、おれに夢を見せてくれる」

「ああ、もちろん。明日も明後日も、明々後日も、俺がお前の望む夢を見せるよ。鷹」

「こんな夢でも?」

「こんな夢でも」

「なら、もっと強くなって。おれのために、もっと、もっと強くなって、おれを強くして」

「上等だ」

「約束?」

「約束」


 二人は解いた指を絡め合って、手を握った。

 ヘルツは深淵を掬い上げるようにして中腰に力を入れる。深淵の黒髪が重力に糸を引いて、持ち上がる。

 明け始めた白昼夢は水圧を恐れているのか、意識の浮上を感じさせない。どちらかといえば、沈没しているようでもあった。……万華鏡をじわじわと動かしていくような速度だ。

 人が覚醒する瞬間というのはこんなにも緩慢なものなのだろうか。夢の目覚め方なんて、深淵にはわからなかった。

 ──掴まれた手がヘルツの引力に導かれていく。

 深緑の瞳を、深淵は死体になった心地で見ていた。

 ──ヘルツの胴体が中腰より上にくる。

 もうすぐ、白い夢の底が見える。


「……一つ、教えてほしいのだけど」

「ん?」


 深淵は白い瞳孔だけでヘルツを見る。そうして、空いている手の人差し指をおもむろに上げた。



「“追跡型”って、これであってる?」



 なにが、と言う余韻もヘルツにはなかった。

 背後から迫った空気の弾が、ヘルツの心臓を的確に、正確に、狂いもなく、撃ち抜く。その弾は、深淵が開幕の初めにヘルツに撃ったものだった。



 仮初の心臓から黒い染みが滲み、微睡んで虚になったヘルツの瞼が閉じられる。


 ヘルツの体が深淵の方へと傾いた。起き上がりかけた体はそのまま元の位置に戻り、深淵は、彼を迎え入れるように両腕を広げる。

 雪崩れ込む大きな体を、深淵は腕いっぱいに抱き留めた。

 重い、とは感じないのに、妙に体温は温かかった。

 赤茶の髪が頬をくすぐって、深淵はわずかに瞼を細める。左手は広い背中に、右手は彼の後頭部に恐々と添える。どこも折れていないし、内臓も飛び出したりしていない。耐久性を試すように空っぽになったヘルツの体を何度か苦しめて、ようやくその頭を存分に掻き抱いた。


(ほんとうに、来るとは思ってなかったんだ)


 あの日。あの夕焼けの腐ったような放課後、深淵は確かにヘルツを生かした。が、精神汚染は他のメンバーと変わらず隙間なく施していたはずだった。自分にこれ以上干渉しないように。二度とこちらを覗く気なんて起きないように。

 しかし、どういうことか、この男は嬉々として“深淵”を覗きに来た。届かなかったのだ。彼の精神に、深淵の権能が。

 それどころか、ヘルツは深淵の視覚──不可侵の領域──に爪をかすめてくる。自分の求める全てを彼は持っている。



 意識のないヘルツの側頭部に頬を押し付けて、深淵は静かに笑った。


 望まれて、望んでみたかった。こんなふうに、壊れない人を抱き締めてみたかった。


「ヘルツ、おれたち、きっと運命だよ」



 白日が訪れる。

 世界が白ずむ間際、目尻に温かな雫が伝った。

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