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10,白日を望め  作者: 雪無
6/8

観察記録5

 ────十二月二十日。日本 時刻十九時



 古本屋から出て、入り組んだ道を選びながら移動していると確かに不自然な気配が二人の背中に引っ付いて周っているのがわかった。物騒なコバンザメである。深淵を先頭に、後ろをヘルツが着いていく。迂回しながらでの移動だったので、学校に着くまで三十分以上はかかった。


 私立凌駕国際高等学校。正門は侵入を許さないような鉄格子でできており、外観はミッション系の大学を彷彿とさせる。校舎までの道のりに礼儀正しい植物が花壇に植えられ、全体的に緑が多い。待ち構えている学舎は教会のような造形だが、窓はどれも黒かった。

 照明一つとない暗がりに、ぼんやり荘厳な建物が聳えている。遠くから見るとまるで大きな口だ。夜の学校というのはどうしてこんな無条件に不気味なのだろう。

 裏口を使うのかと思っていたら、深淵はすんなり正門の鉄格子を押して、正面から入っていった。


「相手の配置はわかるか」


 ヘルツが静かに口を開くと、深淵は特に構う素振りもなく右肩を軽く上げて、


「まだなんとも。一人は学校内に潜伏していてもおかしくはないと思うけど……」

「視覚接続は?」

「タイミングが重要になるんだって。今じゃない。これで五回目だよ、どうしてそんなやりたがるかな。痛い目みたばかりだろうに」

「もう一回見たくて……」

「おれの知らないなにかでも見た? 怖いよ」


 深淵の呆れた声を聞いて、ヘルツはそうかと思う。深淵はずっとあの神々しい世界で生きているのだ。つまり、他の視界を知らない。解像度の高い視界が当たり前で、ヘルツがその眩さにどんな感銘を受けたかなんて理解できないのだ。

 しかし、絶景というのはいくらみたっていいものである。ヘルツはもう一度、あるいは今にでも深淵がなにをどう見ているのか、どう見えているのか知りたかった。覗いてみたかった。もう恐れはない。暗い視界の中では花壇に植えられた花も明度がわかるぐらいで色は区別が中々つかないのだから。

 いくつかの花壇を通り過ぎ、校舎が目の前にまで迫ってくる。実演場といっていたからもっと物々しい雰囲気を想像していたが、いたって普通の私立らしい校舎だ。上履き持ってくるの忘れたな、なんて呑気なことを考えてしまいそうなぐらいに。

 短い階段を登って暗い玄関を見渡そうとした時、深淵の動きが止まる。ヘルツも少しばかり蹈鞴を踏んで立ち止まった。

 霜が結晶に変わっていく静寂さ。空気が張り詰めるような膨張。

 深淵の右手が糸に吊られるように、ゆっくり上がっていく。前を見たまま、その右手を後ろにいるヘルツの胴体へと当てがう。そして、


「────くる」


 二つのことが同時に起こった。

 深淵はヘルツの胴を押し退けて体を翻し、その直後、玄関のガラス戸を突き破ったボウガンの矢が真正面から二人の体すれすれに飛んできた。ヒュンッと風を切る音は、背後の暗闇へと消えていく……ことはない。矢は暗がりからもう一度姿を現し、魚のような動きで、ヘルツの背中に迫る。

 深淵は、しかし彼を守るような動きはしないでその勢いのまま暗い玄関へと飛び込んだ。ヘルツもそれに構わず、ホルスターからリボルバーを抜き、寸前のところで矢の先端を受け止める。弾かれることもなければ、矢の勢いは磁石みたいに衰えることを知らない。

 相手が使った権能は十中八九「科学」と「言語」である。ヘルツは笑ってしまいそうな口角を下手に引き締めた。


(わかる。俺もそうしたのだから)


 風を切る音が再度、奥から掠める。もう一本の矢は深淵が対応した。

 深淵は矢の先端に掌を翳し、触れずにその動きを止める。暗闇の中で、白い瞳だけが満月の如く浮かんでいた。ヘルツの位置からでは相手の姿も音も不明瞭だが、深淵は確実に視界に捕らえたのか、緩慢な動きで首を右の廊下に向けて歩き出した。

 カラン、カラン、と矢の空虚に落ちていく音だけが鮮明に聞こえてくる。命が擦り切れていく音だ。

 その奥から「あ゛ぁッ!!」と悲痛な声が木霊する。

 ヘルツは好機を見逃さず、矢の動き、速度、的、軌跡を脳裏に展開し矢の胴を掴んだ。


「貰えるもんはありがたく、索敵に使わせてもらおう」


 権能の上書きはより優れた権能を保持しているものが勝る。

 ヘルツは矢を大きく振りかぶって「感覚共有」と「追撃」「対象外」を縫い合わせ、科学と言語の権能を展開し、空へと投擲した。矢は虚に飛び上がったが、間も無くして、東の方へと飛んでいく。敵の居場所がわかれば、ヘルツの五感に通じるようになっている。先手を打てれば幸いだが、雲行きは未だ怪しいままだ。

 ヘルツは急足で玄関に入り、右手に向かった。

 しかし、矢の亡骸が点々としているだけで、廊下のどこにも彼の姿はない。ヘルツは見当をつけて二階へと続く階段に上がることにした。

 踊り場を上がった左廊下の奥に深淵はいた。

 黒い鏡はマジックミラーになっているらしく、外の景色は不自然に明るく見える。濃い影を落とす深淵の後ろ姿に怪我をしたようなブレはない。

 深淵は首を横に傾けて、瞳孔を真っ先にこちらへ寄せてくる。──こればかりは慣れない。得体の知れない動きだと本能が察知して、嫌な寒気をつれてくるのだ。


「矢は?」開口一番に深淵はそう問う。

「索敵に使った」


 深淵が踵を返してこちらに戻ってくる。その手には細い血液を垂らしたコンパスが握られていて、薄暗い廊下の最奥に人のような影が横たわっていた。

 周囲に血液が四散した痕跡も、派手に争った形跡もない。死屍累々と転がっている矢だけが、相手の最期の抵抗を虚しく物語っている。深淵はハンカチでコンパスを雑に拭いて眉を潜めた。


「追跡型は嫌だな。……君もそうだったけど、海外のαは追跡系が必修なの?」

「現場ではよく使う。というか、俺のをこんな半端なものと一緒にするな」

 深淵は気軽に笑った。「それもそうか。君のは、痛かった」

 右肩を撫でる彼の仕草に、ヘルツはどきりとする。妙な背徳感が湧き上がるようで、深淵の無防備さはどうにも大人の頭によくない。

 取り繕うように視線を泳がせて、背後の死体を見る。首、肋、胸と急所を的確に突かれていた。


「……権能の無効化ができるのか」

「少し違う。上書きと同じ要領って言えばわかる。同等の権能を展開して打ち消してるんだ」

「そのまま反撃したらいいだろ。二度手間じゃないか」


 深淵はヘルツを横目で一瞥し、廊下を歩き出す。ヘルツもそれに続いた。矢はまだ敵の位置を当てていない。


「反撃って面倒だよ。消耗戦になるし、相手の手の内で踊らないといけなくなる。それだったら、一回リセットして自分の攻撃から始めた方がいい」


 それができるのは、おそらく深淵か相当の手練れぐらいだ、と言いかけたのを喉元で飲み込んだ。そうだよなと共感できる境地にもいない。ヘルツは肩を竦めることで納得したような風を吹かした。

 右の廊下には一年のクラスが三組ほど続いている。突き当たりは多目的室で、そのすぐ手前に三階へと続く階段がある。目もようやく暗闇に慣れてきた。

 二人分の足音が光沢のある廊下に小さく染み渡り、束の間の小康状態が続く。

 会話という会話はなかった。だが、どういう基準を満たしたのか、一年二組を通り過ぎる頃に前を歩く深淵から声をかけられる。


「おれのこと、あんまり聞いてこないね」

「何が?」

「もっと根掘り葉掘り聞かれるかと思ってた。どういう生まれなのか、どうしてこの学校にいるのかとか。元々、おれを殺すために日本に来たのにさ」

「ああ……いや……」ヘルツは返答に困って後頭部を掻いた。言葉を選んでいるうちに疾しい緘黙になってしまいやしないか、そればかりが気がかりであったが、幸い、深淵の様子はボール遊びのように穏健なものだった。


「鷹から話してくれるのを、待ってる」

「……おれから?」

「それが一生かかっても、お前が最後まで何も言わなくても構わない。過去や人の事情なんてそんなもんだろ。それより、お前がドイツで何をしてみたいか、どこをみてみたいか、そんなことが知りたい」


 深淵は肩越しに振り返って訝しげにヘルツを見る。しかし、ヘルツの明るい表情を視界に入れるや否や、彼は呆気に溜息を吐いた。


「まだドイツに行くって言ってない」

「えっ、あ。そ……し……四月のイースターにはオースターブロードっていうパンがパン屋に並ぶんだが……」

「急になに」

「プレゼンをしようと思って……ドイツの」

「どうして」

「楽しい国ではあるんだって、わかってもらえたらと」

「それでおれが楽しそうだから行くってなると思ったの?」


 図星を突かれたヘルツの口元がむいっと真一文字に結ばれると、深淵は静かに、しかし確実に肩を震わせて笑った。右目尻と左の口端にあるホクロが弛む。年相応の笑顔は少年然としていて、彼が十八歳であることを思い出させてくれる。数分前に人を一人殺したとは思えないほど。

 ヘルツはその笑顔に安心を覚えると同時に、もう彼は“一般人”に戻れないことを悟った。そうさせてしまったのは、この社会であり世界だ。彼をドイツに囲っても、きっとやらせてしまうことはこの日常と変わりない。


(それでも、こことは違う)


 深淵はひとしきり笑った後で、満足したように前を向いた。

 もうすぐ階段に差し掛かる。


「……古本屋で読んでたあの本、全部は読めていなくて。海外の本は、その国で読んでみたくなる。文字だけじゃなくて空気とか匂いとかそういうのを実際に感じてみたくなるんだと思う」


 結ばれていたヘルツの口角が喜色に舞い上がる。「弟と気が合いそうだ」


「弟さんが?」

「ああ。俺より三つ下の……今年で二十五になった男だ。医療機関で働いてる」

「すごい、優秀なα家系だ」

「いや。弟はβだよ」


 階段を登っていた深淵の足が不意に止まり、失言をしたといったふうに戸惑って彼は振り向く。


「ごめん。先入観でものを言った」

「気にしなくていい、俺たちの家系が珍しい方なんだ。……でも、自慢の弟に変わりない。お前にも会わせてやりたいよ、──」


 階段の踊り場を踏む。ヘルツは、その瞬間にビリッと電気が走る感覚を覚えて深淵の腕を掴んだ。

 突然の引力に深淵は息を呑んだが、ヘルツは三階を見上げて無言のまま首を横に振る。──敵の位置が把握できたのだ。

 巻き戻るようにして踊り場の奥へと身を潜める。深淵も瞼を伏せて気配を手繰る。建物内にそれらしい気配はない。不気味なほどの静寂が肌にまとわりついていた。


「……おれが視認できる場所にいる?」

「どうだろうな。東の方に一人いる。体育館があるならその辺りだろ」

「矢は当たらなかった?」

「感覚的に当たってない。一人はスナイパーだと仮定して、問題はあと一人の居所がわからないってことだ」

「君が敵ならこの後はどうする」

「標的が階段を上がった瞬間に銃で窓をぶち抜いてから突入、まとめてボン」

「なるほど」


 深淵は真面目な顔をして口元に手を当てたが、すぐに顔をあげて、


「なら、勝てそうだ」


 そう微笑んだ。



◻︎




 鐘が鳴る。脳の中で、ヴェールを被せるような鐘の音が反響している。どこまでも鮮明で、透明な音だった。



 ヘルツはリボルバーを構えて二階の廊下、真ん中の窓にしゃがんで身を潜めていた。

 三階に続く踊り場には、深淵がまだ待機している。


 窓の枠から顔を僅かに覗かせて、外を見る。体育館は見えるが、敵の姿はここからでは確認できない。ヘルツは少し進んで景色の角度を変えた。

 脳の奥で心地のいい声が聞こえる。


『どう? いた?』


 ヘルツも口を閉じたまま脳に声を響かせる。


「いや。今位置を調節してる」

『少しでも見えたら教えて。あんまり遅いと向こうが気づく』

「……善処する」


 深淵が提案してきた作戦は至ってシンプルなものだった。



「敵の攻撃と同時に敵を殲滅する」作戦。



 思考と視覚を接続し、ヘルツは二階でスナイパーを、深淵はヘルツがスナイパーを見つけたと同時に三階へ。スナイパーの動きと同時に視覚を繋ぎ、ヘルツの視界越しに深淵の権能を発動、ヘルツも直後に攻撃を開始。スナイパーを倒したと同時に飛び込んできたもう一匹の夏の虫を駆除。という算段になる。

 深淵曰く「まあ、一気にやれなくても構わない。大事なのは、こちらの土俵に相手を引き摺り込むことなんだから」

 ──ヘルツは再度窓を覗く。まだ、相手は見えない。

 ここに構えてから三分は経過していた。気が急いてくる。しかし、今に急いで失敗する方がずっと危険だ。心臓ばかりが駆け足に騒ぎ立てる。リボルバーのグリップを握ることで、手に滲んだ汗を擦り潰した。

 廊下の奥には、命を終えたばかりの死体が項垂れて座っている。影になっていて、その顔は見えない。見えないから、こちらを見ているのではないかと気がしてくる。死人の無音が背筋を重たくする。


 深淵との思考接続は驚くぐらいにクリアで、それはさながら何十万もするイヤホンのようでもあるが、深淵はこちらが不安になるほどなにも思考してこない。

 通常、思考接続では、互いの思考の断片がオルゴールみたいに垂れ流れてしまう場合が多い。それは仕方のないことで、雑音だと割り切ってしまえばよかったし、時にその雑音は精神安定剤みたいな役割も果たしてくれていた。

 だが、深淵の思考はそんな雑音が一切ないのだ。

 遅いとも、なにをしてるんだとも、なにもない。死んでいやしないかと不安になるほどだった。


 ヘルツは唇から細く息を吐く。冬だというのに、体の中はこんなにも熱い。


 窓の手前から奥に身を引いて、半歩下がる。


(深淵にそうしたように、見る視点を変えろ。自分が想像していなかった角度を見つけろ)


 窓から、体育館に被さる木が見える。

 今度は、斜めに半歩ほど下がり、右に移動する。

 木が少しずつ視界から退いていく。

 あと、あともう半歩────「あ、」


「『見えた』」



 ガシャンッ!


 窓が砕け散る音と共に時間が動き出す。

 ヘルツの視界が深淵と繋がってフラクタルに歪み、豆粒みたいな影が体育館の屋根上で踠き始める。ヘルツはリボルバーを構え、躊躇なく窓を二発撃ち抜いた。

 弾は決して外れない。蠢いていた影の動きが止まったのを確認して、彼はすぐさま階段へと踵を返す。

 ドンッ、と強い衝撃が三階から聞こえてくる。

 ヘルツは一度立ち止まって、深淵の視覚に自分の視覚を繋いだ。白い景色が目の前に広がり、少しずつ晴れていく。

 直後、視界のすれすれに拳が掠めた。


「うおっ」


 ヘルツは思わず身をのけ反らせたが、それは自分に対して繰り出された攻撃ではない。これは深淵の視界なのだから。

 光の粒子が飛び交う中で、寧日なく拳や蹴りが目の前を散らす。一瞬の隙間でようやく防具スーツを着た男だということがわかった。深淵よりよほど体格もよく、動きも素早い。彼が深淵の視界に入って生きていられるのは、おそらく深淵に権能を発動させる暇を与えていないからだ。

 相手は日本政府から配布された深淵の注意事項を当てにせず、最初から深淵の覗き方を心得ていた。

 銃弾のような拳が飛び出してくる。常人なら反応できない速度で捻った蹴りが連続で打ち出され、視界から観測される深淵の動きは防御に徹しているようだった。相手の腿にあるホルスターには短剣があり、靴の踵には鋭利な刃がある。どちらを食らっても終わる。


 (相手の展開している権能は身体と科学……か? 俊敏な動きで鷹が権能を展開するのを防いでる。だとしたら、俺が今物理的に助太刀をしてもかえって逆効果だろう)


『身体と治療だよ』


 脳の奥から息一つ上がっていない深淵の声が木霊する。ヘルツの肩が僅かに跳ね上がる。思考が深淵の脳に少し漏れ出たのだ。

 ヘルツはカンニングを誤魔化すみたいに慌てて視覚接続を解いた。薄暗い階段が蘇ってくる。覗き見した後の生暖かい疾しさを隠すため、早めに脳内で応答する。


「治療? どこでわかる」

『すごいよ。この人、人間離れした動きを火事場の馬鹿力で無理矢理出してるんだ。自分の骨や筋肉を自分で破壊して、それを治療しながら闘ってる。だから、科学の権能独特の“読める”動きがない』


 ヘルツの中で、子供地味た嫉妬心が萌芽する。は? 自分の方がもっとずっと天地よりすごいし、といった感慨である。深々と寄った眉間はそのままに、熱くなった喉元を引き締めて辛うじて声を絞り出す。


「……お前は無事なんだな?」

『問題ない。こっちは一人で平気だから、そこで待機してて』

「いや、おい、鷹、──」


 それきり、応答はなかった。

 ドン、ドッと衝撃音が花火のように上で響く。止まった足先を見下ろして、ヘルツは余った時間を掌の中で握り潰した。

 ──一人で平気。深淵の淡々とした声が鼓膜の裏で回っている。

 彼は決して一人ではなかったのだろうけれど、いつだって独りで立っている。彼の歳ならまだ誰かに助けを求めたくなるだろうに、誰かの背におぶられていたいときだってあるだろうに。

 それを許される環境に彼はいない。

 踵を後ろに下げ、階段から遠ざかる。少しずつ上の音が離れていく。


 ヘルツは、階段を駆け降りた。


「独りじゃできないこともあるんだ、鷹」


 一階の廊下に出ると、左右に続く各教室のプレートを見る。無駄に広い廊下を恨みそうになるが、仕様がない。とにかく、放送室を探した。

 上からの音はまだ微かに響いている。視覚を接続したままでは走れないので、彼らがどういう状況かはもうヘルツにはわからない。深淵が負けるとは思えないが、その驕りは、油断に繋がる。

 思考の中の深淵はどこか高揚していた。壊れにくいおもちゃを手に入れた子供のように。その好奇心と残虐性は子供特有のものというより強さが孕む危うい本能である。

 それに身を任せていると、いつか足元を掬われる。だからこそ、ライ麦畑より外に落っこちないよう手を掴んでやるのが、パートナーの役目だ。


 職員室、図書室、保健室を過ぎた突き当たり、目的の放送室はあった。

 鍵を探している暇はない。ヘルツは引き戸の鍵穴を覗き込んで、見当する形を記憶の中で探す。銃弾を作ったように掌の皮膚を爪で裂いて、血液から鍵を複製した。

 鍵を開けると、埃っぽい曇った匂いが鼻腔をつく。

 薄暗い放送室の中には、防音室とパイプ椅子、長机が並んでいた。暗闇に慣れた目を潰さないために、手探りで防音室へと足を進める。古いドアノブを回して中に入ると、窮屈に詰め込まれた重々しい機材がヘルツを迎えた。


 各機材の電源を入れ、マイクが設置されている音声調節卓につく。

 そこにはコールサイン、アナウンスボリューム、ライン入力、主音量、スピーカー配列──毒矢、ガス、槍、電気の辺りは見なかったことにした──などが搭載されており、ご丁寧に操作手順の番号を振ったテープも貼られていた。誰にも優しい、説明書いらずである。

 番号どおりにスイッチを入れ、後はマイクの電源を入れるだけになる。ここからはタイミングが肝だ。


 ヘルツは今一度、瞼を閉じてその裏側を見る。白日の眩さに、視覚が繋がっていく。


 ぐるんと視界が反転した。



 右目の端がうっすら赤い。血が流れている。

 繋がれているのは視覚だけで、嗅覚も痛覚も感じられはしないのに、鉄の匂いさえ手に取れるようだった。ヘルツの心臓が深淵の心臓と同期したように逸る。

 あの深淵が、攻撃を受けたのだとすぐにわかった。

 相手の猛攻は未だ衰えず、狭い教室の中で二人は爪を立て合っていた。椅子や机を飛び越え、ときに蹴り上げ、まるでパルクールだ。

 深淵の視線は相手の動きから一切離れようとしないが、時折、黒板の方を気にする素振りを見せる。何か考えがあるのだろう。だが、黒板に近づく隙もなかった。相手の細い余白を狙って深淵も人間離れした横殴りの蹴りを繰り出すが、相手はそれを避けずに受け止める。あらぬ方向に腕が捻じ曲がっているけれど、相手は痛がる前兆すら見せなかった。

 ヘルツが前に自身に施した痛覚の遮断である。

 ホルスターから抜かれたナイフが、深淵の首元目掛けて薙ぐように振り下ろされる。視界が両腕に塞がれて、衝撃に目の前が揺れる。振り払う前に、ナイフはすぐさま矛先を脇腹に変える。深淵はそれも受け止めるが、次には膝が腹部に向かって飛んでくる。受け止めきれない。


 平衡感覚を手放したみたいに世界がブレて、最後に床と受け身をとった手が映し出される。汗と、血液混じりの唾液が床を汚していた。これが夢なら、おそらく、次には殺されている。そして冷や汗をかきながら飛び起きるのだ。


(だが、これは夢じゃない)


 深淵は体を捻り上げて立ち上がる。

 黒板は、背後にあった。しかし、相手も一秒の間もなくこちらに突っ込んでくる。


 ────今しかない。


 ヘルツは深淵と思考を繋いだ。


「鷹! “耳を閉じろ”!」

『っ!』


 視界がフラクタルに歪む。彼が自分自身に権能を展開したのだとわかる。

 ヘルツは校内放送とマイクの音声をオンにした。


 権能『言語』──言語とは、必ずしも言葉に限らない。例えば、イルカやクジラが使う周波数もそのうちに組み込まれる。

 そして、人間が最も不快に感じる周波数帯は、二千から四千Hzである。

 あの、黒板をフォークで引っ掻く音。


 ヘルツはその音を、自分の喉から大音量で放送したのだった。


 深淵の視界で、目の前の男が硫酸を嘗めたように悶え、耳を塞ぎながら膝をつくのが見えた。

 視線はすぐさま黒板に向けられ、深淵はそこまで一目散に駆け寄る。白のチョークを手にとり、素早く丸い円を描き、その中央に文字を書く。


〈起爆〉


 そしてカッターを取り出した──瞬間、踠いていた男がナイフを構えて動き出す。しかし、もう、遅い。

 深淵は左へ重心を傾け、ナイフを避けるとそのまま男の手首にカッターを突き刺して、皮膚の中でその刃を折った。手放されたナイフを拾い上げ、教室の一番後ろまで飛び退く。

 男の頭がちょうど、〈起爆〉の文字に被さった。

 深淵はナイフ投げと全く同じやり方で、ナイフを投擲した。銃弾のような速度は身体と科学の権能で、黒板の文字は言語と科学の権能だ。ヘルツは、その意味をようやく悟った。


 男の眉間をナイフが穿ち、黒板の〈起爆〉に突き刺さる。



 強烈な光と轟音と共に、深淵の世界は暗転した。





 「鷹ッ!!」


 思考と視覚の接続が強制的に解除された瞬間にヘルツは叫んだ。思考と視覚接続の強制解除。つまり、彼は意識を失ったか最悪────。

 ヘルツは騎虎の勢いで放送室から飛び出した。

 胃の中で乾いた鉄の味がする。言語の権能を使った副作用なのか、それとも不安によるものなのかわからない。考えがあるのだろうとは思っていたけれど、まさか、こんな相打ちのような作戦だったとは。

 わかっていたら、止めた。思考で漏れていたら、すぐにでも止めたのに。


(……いや、止められただろうか。あいつは、夢のように不自由で、泡沫みたいに不安定で、白日のように鮮烈だ)


 自分はあの男の何になれるというのだろう。運命でも、なんでもない、ただのΩとαが。

 いい歳をして、泣きそうに震える脚を叱咤する。

 数段飛ばしに階段を駆け上る筋肉は、脆弱な精神とかけ離れたところにあった。そう、自分にはない可能性を、魅力を孕む彼だから、こんなにも心は、本能は焦がれる。

 彼は、夢のように不自由で、泡沫みたいに不安定で、白日のように鮮烈な……独りの人間だ。


 三階にたどり着くと、そこは黒い怪物のような煙で濛々と覆われていた。


「鷹ッ、いるなら返事をしてくれ! 頼む、鷹!!」


 ヤスリで削った後の喉を引き絞って声を響かせる。

 煙を掻き分けながら歩を進めていくと、少し先に揺らぐような影を見つけた。煙のせいで、距離感が掴めない。それでも、かすかに、声が聞こえてくる。


「……ルツ」

「鷹、無事か! 今そっちに行くから、──」

「くるなッ!!」


 張り詰めたような怒号が煙に亀裂を走らせる。権能を使わない、深淵の初めてみせた拒絶だった。

 困惑と動揺にヘルツの脚は止まる。「なにか……」


 あったのか。そう問いかけようとした、刹那。吐き気を催すほどの甘い香りが鼻腔を貫いた。


 それは、αなら誰でも隷属にならざるを得ない誘惑の香り。

 本能を爛れさせる、強烈な甘い桃源の芳香。────Ωの発情期(ヒート)であった。


(発情期!? こんな、急に……? どうして。あいつはそんな素振りを見せていなかったし、俺だって予感も何も)


 ヘルツは慌てて口元にスーツの袖をあてがう。煙と一緒にフェロモンをだいぶ吸い込んでしまった。背筋に冷たいような熱いような汗が伝う。背骨から血が出てないかと不安になる。

 煙の向こうから、弱々しい声が木霊する。


「迂闊だった。相手の懐にそういう……薬が仕込まれていたみたいで……爆発したら、っ、それが」

「いいから、喋らなくていい」


 ヘルツはゆっくり、煙の朧な影へと近づいていく。鼻を塞いでいても、フェロモンは棘のように肌に突き刺さってくる。

 本能が彼を、Ωを求めている。しかし、それは純粋な心などではなく、醜悪な獣欲に近かった。Ωの天変地異、より強い遺伝子が残せる、残したい。支配欲、嗜虐心、緊張後の興奮がそれらを促進させる。

 理性の死んでいく音が聞こえてくるようだ。否応なく、冷静な言葉が激情の炎に焚べられていく。

 ヘルツは震え始めた手で、スーツの胸ポケットをあさる。

 白い錠剤が一錠ほど入った小さいジップロックを汗まみれの手に握り締めた。


 視界が開けていく。

 うねるような黒髪、細身でやや猫背、右目と左の口端にホクロ。両目は、白濁した白──深淵が、廊下の窓に身を預けたままこちらを見遣っていた。

 安心と拒絶が混ざったような視線を向けて、ぐらりとその身が傾く。ヘルツは翼の燃えた天使を受け止めるように両腕を伸ばし、深淵の体を抱き支えた。煙が二人を避けて、舞い上がる。


「……触るなってば、こっちにくるな」

「放っておけない。お前を」


 深淵の腕が力無くヘルツの胸板を押し返す。が、当然びくともしない。

 強烈な香りはじわじわと強い根を張って、血液を狂わせていく。ヘルツはとにかく深淵を掻き抱き寄せるようにして座り込んだ。祈るように抱き締めた。窓際の壁はひどく冷たかった。


 よく見れば、深淵の額からは乾いた血がこびりついていて、制服は埃まみれであちこち擦り切れている。そこから香る濃密な馥郁はヘルツのαとしての本能を黒く蝕んでいく。

 今すぐにでもこの瑞々しい強さと項を暴いて、犯して、番にして────。

 深淵の後頭部を右手に抱いて、ヘルツは身を窮屈に丸めた。彼の肉骨を腕に実感していなければ、正気を保てない。フーッ、フーッと熱い吐息を歯の隙間から垂れ流しているのがどちらなのか、それを意識する思考さえ二人にはなかった。

 深淵は、しかし間欠的に意識を取り戻しては瞼を伏せて緩く首を振った。ヘルツの腕の中で熟れた体を捩り、溺れたように踠く。愛情を怖がって拒む、子供そのものだ。


「いやだ……嫌だ。離せ、離してくれ、──」

「離さない。鷹、お前を、独りにしたくない」

「嘘だ。そう言って、そう言って、あんたらは」

「嘘じゃない。わかってくれ、鷹。俺はお前を大切にしたいと思ってる。嘘だと思うなら、今すぐ権能を使ってくれて構わない」


 ヘルツは深淵の後頭部に添えていた手を緩め、その白い目の視界に入るように彼の顔を覗き込んだ。

 互いの目には枯木のような細い血管が走っている。瞳孔は惑星の鼓動みたく収縮を繰り返すばかりで、見つめ合うその奥にあるのは、白日と森林の鮮やかな色彩だけだ。

 深淵の筆で描いたように美しい目尻が歪に弛んでいく。胸を突っぱねようとしていた力は弱まり、抵抗の代わりに、深淵は額をヘルツの胸板に埋めた。力無くもたれて、前髪が乱れていく。次第に震え出した肩を、ヘルツは抑え込むようにして包む。そんなことしかできない。

 燃え盛る本能の鼓動は彼にあられもなく聞こえているのだろう。

 曇った声が、ヘルツの胸元から響いて、伝播される。


「Ωの天変地異になんて、生まれたくなかった」

「……ああ」

「どれだけ強くなったって、こうなればもうダメになる。おれは、普通に、平穏に生きたいだけなのに」

「わかってる。お前のせいでもなんでもないよ」

「誰にも、っ、迷惑なんて、かけたくない。君にだって」

「何を言うんだ、鷹」


 ヘルツは赤子をあやすように深淵の髪に頬を擦り寄せた。甘い香りの中に、血の匂いがする。彼は、きっと、こんな壊死した夜ばかり過ごしてきた。夢を見る予定なんて、なかったはずだ。


「迷惑なんてたくさんかけていい。俺のことを、傷つけたっていいんだ……そうしたら俺もやり返そう。でも俺はお前よりかは弱いから、きっとすぐに嬲り返されて……そうやって傷つけ合いながら一緒に眠ろう。俺は鷹のそばにいる」


 深淵の顔がゆっくりと上がる。泣いているのかと思っていたが、その目に涙の跡はなかった。花弁を落としそうに泣きそうな顔だけがヘルツを見ている。

 ヘルツは彼の目尻にかかった血を拭ってやり、握っていたジップロックから錠剤を取り出した。


「……それ」

「抑制剤だ。飲め」

「なんで、君が持ってるの」

「弟に、αなら持っておけって」


 深淵は躊躇ったあとで、首を横に振る。ヘルツの頬に深淵の手が添えられる。


「ヘルツ。君の番にしていい、おれを」


 こう言われることはわかっていた。ニヒツからΩの発情期についてはよく講習を受けていた。


『発情期を迎えたΩは早く解放されたくて、αを受け入れやすくなる。だから、どんなに甘い言葉を言われても本気にしてはいけないし、そのとおり襲うなんて以ての外だ。聞いてる? 兄貴? 寝るな、おい』


(ちゃんと聞いてたさ、ニヒツ)


 深淵の熱くなった額を撫でて、ヘルツは頬に感触を残す手を引き剥がし、空腹の本能を偽るようにして笑った。


「それは、ダメだ」

 深淵の表情に絶望が掠める。「どうして。だって、運命だって言ってくれた」

「運命だからこそ、踏み躙りたくない。鷹、鷹……頼む。大切にさせてくれ」


 薄い唇のふちを指先で辿る。深淵はその体温を初めて知ったというふうに困惑して、それでも咀嚼しようと視線を泳がせる。力んでいた体が、少しずつなだらかになっていく。

 やがて、彼はヘルツの目を見ながら恐々と口を開けた。

 白い歯の奥にてらてら光る赤い粘膜と、柔らかそうな舌が見える。不可侵の領域に、今なら触れられる、そう本能が囁く。心臓が急速に焦れて、ヘルツの口内に唾液が氾濫する。誰か殺してくれとすら思う。しかし、その“誰か”は目の前で自分に縋り、助けを求めているのだ。彼を救えるのは、愚かな自分しかいない。

 固い唾を飲み込んで、ヘルツは白い錠剤を深淵の口の中に入れた。


 煙は少しずつ晴れてきている。だが、到底動ける状態にない。特にヘルツは深淵を抱きしめることでいっぱいいっぱいだった。

 蜜のように重いフェロモンも、薬が効いてくれば鳴りを潜める。深淵も今より楽になるはずだ。

 ヘルツは片方の手で端末を取り出し、電源を入れる。


(……救急車……は、呼んでも意味がない。どうせ政府の奴らに殺される。上官もドイツで……ああでも報告はしないと。いや、報告は後回しにして)


 朦朧とした意識の中で浮かんだ一つの最善策は、ヘルツにとっての賭けだった。

 腕の中で脱力している深淵の呼吸も発熱から平熱の柔らかいものになりつつある。苦しさは紛れているのだろうけど、所詮はその場凌ぎの抑制剤で、彼の辛さには波が訪れる。そして、自分の欲望もその波に左右される。次に高波が打ち寄せたとき、果たして地に足を縫いつけていられるかなんて全く自信はなかった。

煌々と光る青い画面を指でスクロールし、連絡先を開く。その一番上に表示されている人物の名前を押した。


『はい』


 ワンコールもしないうちに応答され、ヘルツは感心半分、面映い気持ちで肩を揺らしてしまった。


「悪い、こんな時間に」

『今に始まったことじゃないでしょ』

「だな。……少し、まずいことになった。鷹……深淵が発情期促進系のドラッグを吸い込んだ。俺も影響を受けてる」

『……抑制剤は?』

「飲ませた。応援か救助を頼みたいんだが……どうしたらいいのか、俺にはわからなくて」

『いいよ。そこにいて』


 電話は繋がったまま、その抜こうで足音がしている。地面の硬質な音から、硝子を踏む音に変わる。それと同時に階段の向こうから微かな光のような音が聞こえてくる。

 夢の微睡みから覚めた深淵が、咄嗟に肩を強張らせて目を見開いた。

 電話の音は階段を登る音に変わる。少しのズレで、階段を登ってくる誰かの音が学校内でも不気味に反響していた。それが誰なのか、ヘルツだけが知っている。何も知らない深淵はすっかり緊張して、ヘルツの体を弱く押しやり、彼を守るような態勢に入ろうとする。ヘルツは深淵を宥めるようにしてそっとその手首を掴んだ。

 階段を上り切る音。

 それは、もう間近に迫っていた。


 コッ、コッ、コッ、コッ、と電話と現実とが重なる。


 煙は、やがてその人物を避けるようにして霧散していった。白衣の裾が揺れ、ヘルツと同じ赤茶の髪が柔らかく弾む。深緑の目が呆然とする二人を見て、笑った。


「『本当に世話が焼けるね、兄貴』」


 カジノでロイヤルストレート勝ちした気分だ。ヘルツの口角も大いに、盛大に、盛り上がった。


「お前には頭が上がらないな────ニヒツ」


 ニヒツは右手に黒いケースを携えて、早足にこちらへと歩み寄る。

 深淵の体は強張ったままだったが、座り込んでいる二人に目線を合わせてしゃがみ込むニヒツの顔を見ると、彼はぽかんと口を緩く開閉させて、


「……ヘルツの……」

「初めまして、深淵……いや、月見山 鷹くん。僕はそこにいる愚兄の弟、ニヒツ・バルツァー。君のことは兄からよく聞いている……え、すごいな、どうしよう。未知の化学物質を観測した時よりも気分が舞い上がってる。その目は生まれつき? 白内障とも緑内障とも違うな。色素の問題? それともやっぱり先天性の何か特殊な変異なのかな」


 言いながら、ニヒツは黒いケースを開き、手際良く鎮静剤と消毒液、包帯や脱脂綿など医療器具を取り出して準備を進めていく。

 深淵は瞳孔を開いて密かに権能の展開を試みたが、発動はしなかった。つまり、彼もヘルツと同じく自分に敵意も悪意もないということになる。その冴え冴えとギラついた目から、科学者よろしく興奮しているのはわかるが。


「どこか痛むところは?」

「……ない、です」


 肩の力が抜けていく。もう、いいんじゃないか、そう思えてしまう。


「ない? いやでも、額のところ裂傷の痕みたいな血液が……」

「治療の権能で治したので」

「治療……もしかして自己再生? 最高位の権能だよ、それ。初めて見た……あ、後でサンプル撮っても……」

「あの」


 深淵は緩みそうになる心臓を躾けて、声を精一杯振り絞った。

 注射器を用意し始めていたニヒツの手が止まる。


「どうしてここに。おれはずっと気配を探っていたのに、あなたの気配はなかった。盗聴だって形跡は何も」


 ニヒツは深淵の背後にいるヘルツに視線を送る。説明不足を咎めるように目を細めた後、ニヒツは深淵に向き直った。


「僕も仕事があるからね。兄よりは遅く日本に来たけど、兄はずっと、僕に思考を接続していたんだよ。だから大体の事情も情報もわかった。……君が警戒してしまうからって、気配は消してたんだ。まあ、僕もいざというときのピンチヒッターぐらいの感覚でいたわけだけど」

「……必要になったな。ピンチヒッター」


 場違いに指を差し合う兄弟を見て、いよいよ深淵の体から力が抜けた。ヘルツはもたれかかる深淵を支え、ニヒツは柔らかく深淵の手を握る。

 そこには、確かな愛情と温もりがあった。夢のような、感触だった。

 微笑んでいたニヒツの口元が僅かに引き締まる。


「鷹くん。きちんと聞いてほしい。これから、君はここで死ぬんだ」

「え」

「正しくは、死んだことにする。それで、後処理が終わるまで、僕らの国に来てもらう」


 深淵の顔が驚愕に見開かれ、最初からこういう魂胆だったのかと後ろにいるヘルツを睨む。が、ヘルツもこれは初耳である。慌てたように首を振って眉を下げた。その様子に、深淵はひとまずニヒツに視線を戻す。感情のまま口を開こうとしたが、ニヒツの真摯な表情を見てしまえば膨らんだ怒りは萎まざるを得なくなった。

 ヘルツのような自由奔放さがない分、強く言い出せない。


「……そんな、急に言われても。クラスメイトにも挨拶や、卒業だって……おれは」

 ニヒツの表情が安心させるように弛む。

「大丈夫。卒業式には日本に一度帰れるようにする。学校にも、説明はしてあるんだ。……鷹くん、勝手なことをして申し訳なく思うよ。でも、君もこのままの生活を続けるわけにはいかないだろう。変化を恐れていては、何も変わらないし、何も手に入れられない」


 注射器の中には鎮静剤が入っている。痛みや苦しみを夜に変える、魔法の液体。ただし、これを打てば、深淵が次に目を覚ます場所はドイツになる。

 ニヒツは深淵の様子を覗いて、ゆっくり確かめるように彼の右袖を捲った。深淵は外気に触れた肌に焦りを覚えて立て続けに口を開く。


「で、でも、死体は。死体がなければ、政府は納得しない……」


 まるで注射を嫌がる子供みたいだ。そう自覚すると、深淵の頬は違う意味で赤くなった。駄々をこねるなんて、生まれて一度だってしたこともなかったのだ。みっともなくて、恥ずかしくなる。注射が嫌なわけではないのに。

 ニヒツは、しかし笑うでも揶揄するでもなく、見守るように柔らかく微笑んだ。

 漂っていたはずの煙は辺りからすっかり消えている。


「僕の権能と兄貴の権能があれば問題ない。それに、一つは木っ端微塵になっちゃったみたいだけど、新鮮な死体はあと二体もあるからね! 君そっくりに整形させてもらうさ」

「俺にも鎮静剤を打つのに、働かせるのか」

「兄貴は鎮静剤の効きが悪いんだから、その間少し無理をしてもらう」

「とんでもないな」


 ヘルツはそれでも、気軽に笑った。

 深淵の白い腕に触れて、その顔を覗き込む。彼の柔らかい肌は表面だけが冷えていて、ヘルツの熱い掌の温度を存分に吸収する。

 深淵は、静かに振り向いてヘルツを見入った。針の先端が優しく皮膚にあてがわれる。


「鷹。今夜、予定は?」

「……ない」

「そうか、なら」


 ちくりとした擽ったい痛みが──安らぎが──体内に注ぎ込まれる。

 深淵の瞼が重くなる。



「夢で、待ち合わせをしよう」




 彼の意識は、そこで途切れた。

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