観察記録3
────十二月十五日。ドイツ、首都ベルリン。バース軍事情報局内部。
会議室に立てかけられた時計が、楕円の円卓を囲む彼らを静かに見下ろす。
上級将官のノアは顳顬を労り、スクリーンの前ではニヒツが腕を組み、ヘルツは革製の椅子に沈む。
だだっ広い会議室にたった三人の男が花も色もなく唸って、スクリーンに映し出されている美貌を鑑賞していた。
「……それで本当に深淵を殺せるんだな?」
「殺しませんが」
「兄貴は黙ってて」
ヘルツの退院後、彼らに収集をかけたのはニヒツであった。
ヘルツが深淵を保護したがっていることは彼本人が上官に提言して早々に却下が出ている。それを踏まえた上でニヒツはノアにこう進言したのだ。
『しかし、ヘルツの気概を利用すれば、深淵の隙ぐらいは見つけられるかもしれません』
白衣の胸ポケットからボールペンを出して、ニヒツはスクリーンにある深淵の年齢部分を指した。他二人も十八と書かれた項目に注目する。
「僕らは深淵を危険物として認識しすぎているんです。いいですか、彼は、まだ十八の子供なんです」
ノアがすかさず口を開く。「負傷者を六人も出し、うち五人は精神病棟送り。日本でも殺し屋を死体にして返しているような奴が、“ただの”子供だと?」
ニヒツもそれには肯定して、苦いものを口にしたかのように口を引き結んだ。しかし、本題はここからである。
「彼が永遠孤独の身でいるなら、話は変わってきます。ですが、プロフィールを見る限り彼は将来有望な道を真っ直ぐに進んでいる。つまり、普通に学校へ行き、友人たちと切磋琢磨し、昼ごはんをどこかで食べ、きっとスーパーやコンビニにも寄っている」
「……それが?」
「深淵に“見られたら終わり”“視認されるな”。これって、日常生活ではあまりに難しい条件だと思いませんか。彼の周りには彼と普通に話して、接していられる人たちがいるのに」
「羨ましすぎる」
「兄貴は黙ってて」
ヘルツは怏怏として楽しまず、不機嫌にむくれて鼻を鳴らした。
プロジェクターに繋がれているパソコンのハードディスクには日本政府から送られてきた深淵の情報が雀の涙ほど組み込まれている。こちらはそれを頼りに深淵の行動パターン、性格、弱点を割り出さねばならない。
私情や先入観は捨てているつもりだが、一度分析した結果で自分を疑い始めると深淵より先にラビットホールに落ちてしまう。──彼は、まだ子供。では、どのくらいの子供なんだ? 人を殺せる子供が一体どれだけ……。
得意の俯瞰は程々に、ニヒツは自分を鼓舞して豪語する。
「殺意や敵意を持たなければ、日常の中で深淵と接触できるかもしれない」
ジジ、とノイズ混じりの音がして、映像がブレる。
ノアの顔色は、しかし変わらず船酔いのように彷徨っていた。卓上に両肘をつき、頭を抱える。
「ヘルツ、お前、引き金を引く瞬間に殺意を?」
話題を振られたのにも関わらず、ヘルツは椅子に沈み込んだまま怠惰に右手を振った。「まさか、殺意や敵意なんて、衝動的な殺人じゃないんですよ。我々は仕事でやってんですから」
ノアは提出された仮説を疑うようにニヒツを銀の瞳で見やる。
だが、ニヒツはその懐疑を嘲笑で返した。
「人間の意識の深さをどれだけ把握しているおつもりですか? 人を殺すという行動にはその意識がある。表層で感じていないだけで、銃声が響くわずかな衝撃に殺意は滲む。何かを意識せずにことを成せる人なんて、それこそ希少だ。精神に異常をきたしているか、無の境地を知っている人か、どちらかです」
遠回しに否定されたヘルツはますます口を尖らせたが、反論するには確かに確証などなかった。あの時、夕暮れが目に痛んだ瞬間、深淵を見た刹那、自分は彼をはっきりと認識してしまったのだから。
ノアは溜飲が下がらないまま、それでも何歩か譲ってニヒツに作戦を促す。
「それで? その理屈が通るとしたら誰をどう派遣するんだ」
ニヒツの視線が、ヘルツに向く。それにつられてノアもヘルツを見た。
二つの視線にヘルツはだらしない姿勢を保っていたが、やがて視線の意味がわかると、飛び跳ねるようにして椅子に座り直し、
「俺か!」
「そう……そうなるよ。深淵と“普通”に話せる可能性が見出せそうなのは兄貴だ」
ノアの眉間に曇天が燻る。「殺しに行くんだろう」
ニヒツは上官の口を黙らせるように目睫の間に近づき、圧迫した笑みを貼り付けた。
「深淵に関して、こちらはあまりに情報が足りなさすぎる。そうでしょう。接触できたとしても、すぐに殺そうとしたら今回と同じ二の舞ですよ。深淵と無傷で接触できるか、意思疎通が図れるか、その確認をするための作戦です。承知いただけますね」
常なら、立場と権利に物を言って口を慎めだの無礼だの言えたが、ノアはニヒツの恫喝めいた気迫にすっかり飲まれてしまっていた。今年で五十六になった白髪混じりの後頭部を労るように撫でつける。
実際、彼の作戦を否定したところで次の作戦などありはしないのだ。損切りでも試せるものがあるなら試すに越したことはない。
椅子の軋む音が場違いに弾んで響く。
ヘルツは先ほどと打って変わり、おもちゃを与えられた子供宛ら喜悦に表情を綻ばせていた。
「日本から取り寄せた情報はアルファベットにも満たないものばかりだからなあ。深淵の住居も知れない」
「後を尾けたら?」
「意識せずに、か? それこそ無茶だ。俺が深淵なら尾行の時点で殺してる」
「近くのコンビニとか……」
問答を繰り返す兄弟を、ノアは孫の成長を垣間見たみたいに意外に思って眺めた。
────あの何でも達観したようなヘルツが、積極的に作戦について議論している。今までどんな理不尽な作戦にも異を唱えず、論じもせず、そういうものとして扱っていた人間が、たった一人と話をするためだけに必死になっている。
暗殺部隊にいる軍人としては不必要な感情かもしれない。けれど、今の彼は今までのどんな場面より人間的で、生命力に溢れていた。
「生徒の連中を買収して協力を促せないか」ノアもそれとなく会話の輪に入る。
「それも難しいでしょうよ、上級将官。あれは学校ぐるみで深淵のバックアップに入ってる。生徒全員が敵だと思った方がいい」
ニヒツは端末で深淵の在学する高校を調べる。ノアは数少ない情報の抜け穴を一考する。
時計の針を気にするものは、この場に誰一人としていなかった。
〈私立凌駕国際高等学校〉
「あっ!」
ニヒツが声を上げると、二人は椅子を彼の方に寄せてその画面を覗き込む。
「何か見つけたのか」
「この学校、今年うちに入ってきた看護師の母校ですよ」
日本の中でも三本指に入る難関校。高い倍率に比例した難易度は数多の受験生を苦しめ、面接はどんな一流企業の面談にも勝る地獄なのだという。しかし、バースに一切の偏見がないのでも有名で、学費の保障も手厚い。
実力こそが至高。全てを凌駕してこその才能。才覚を発掘し育てることこそ理念。
学校のホームページには在校生の言葉や華々しい学外活動、校長の挨拶などが綺麗に並んでいた。
「入学してくるのはαやβがほとんどで、Ωが合格したのは十年ぶりらしい」
端末を眺めながら二人は「なるほど」と相槌を打っていたが、ヘルツはユウレカ!とでも言うように指を鳴らしてみせた。
ニヒツとノアの目が丸くなる。こういう時の彼に期待していいものか、二人は判断に迷っていた。
「日本には食パンを咥えて走ってれば曲がり角で運命と出会えるっていうジンクスが」
「この学校のホームページ見た後でよくそんなことが言えるな」
「人の話はぜひ最後まで聞いてくれ」
天秤が否決に傾き、二人の眉間に深い影が落ちる。
ヘルツは特に怯む素振りも見せず得たり顔で両腕を組んだ。
「つまり、朝の通学路で仕掛けるって言いたいんだ、俺は」
「……それでどう待ち伏せするつもり?」
「前回と同じ場所だ。時間はまあ、朝の五時ぐらいに張ってればいずれ通り過ぎるだろ」
会議室全体に珍妙な沈黙が揺蕩う。
ニヒツは医学に長けていれど、将略には乏しい。馬鹿みたいな作戦だとしか思わなかったが、他者の不意をつく策謀とはいささか滑稽と無縁でいられないものである。隣で聞いていた上級将官ノアはその点、理解が早かった。
「まあ……確かに、それが妥当ではあるかもしれん」
「本気ですか? 上級将官殿」
「深淵のようなタイプは、こちらがどう出たからといって自分の生活スタイルを変えるようなことはしない。相手の策略に左右されない強さがあるからな。だから、前回と同じ通学路で張ってれば、上手くいくかは別として会える確率は高い」
ヘルツは小躍りするみたいに椅子から立ち上がる。スーツの襟についたいくつものバッジが聡明に麗しく光った。そこで初めて時計を見やり、つま先を扉へと向ける。
「では、そういうことで」
「ちょっと待ってよ、兄貴。登校する生徒に学校まで着いていく気? それとも二、三分話して終わらせるの?」
「いや? あわよくばそのままサボらせる」
ニヒツは息を詰まらせた。かつて勉学に励んでいた身からしてみるとなんとも迷惑千万な提案である。彼はヘルツと違ってそこまでは割り切れない。苦々しい顔を浮かべながら、「サボらないと思うけど……」と口をこぼす。
ヘルツは眉を上げてニヒツの顔を見た。その眼差しは、小さい弟を見守るようでもある。
「お前、高校のとき、俺が映画観に行こうって言ったら普通に学校サボって着いてきたろ」
ニヒツは大きなまばたきを落とした。その脳裏に、ポップコーンの匂いが想起される。
勉強やαに生まれなかった自分自身のことでいっぱいいっぱいだった高校の頃────泥濘に嵌ったような朝を迎えた日。突然兄が部屋にやってきて『観たい映画あるんだけど、行こうぜ』となんでもないように言ってきたことがあった。
当時兄は大学生で、午後からの講義まで時間があったらしい。人が毎日毎日辛酸を嘗めてるのに、この兄貴は、と思わなくもなかったが、不思議と重かった体はすんなり起き上がれたのだ。
最近どう? 友達は? そんな話もせず、ただ黙ったまま寝起きの顔で映画館に連れられた。聞かれたことといえば、ポップコーンの味は? キャラメルかソルト、ハーフ、どっちにするぐらいである。
正直、観た映画の内容はこれっぽっちも記憶に残っていない。それぐらい、眠たい映画だった。抽象的で、夢でも見ているみたいな映画。ずっと、こんな夢を見ていたいなと思わせてくれるような色彩。
親からどんな気分転換を促されても頑なに断っていたのに、兄から連れられた映画は何にも考えないで行けたのを覚えている。兄は、多分、自分が良い仕事に就こうが路頭に迷おうが、変わらず映画に連れてってくれる。兄は、そういう人だ。弟は弟という生き物で、それ以上もそれ以下もない。そういうふうに見る人なのだ。
互いに忙しい身にはなってしまったけれど、ニヒツは今でもよく休憩時間に映画を観ている。抽象的で頭に何にも入ってこないような、そんなもの。
ヘルツには権能では得られない、人心掌握の才がある。
だが、それが果たして深淵にも共通するかはわからない。ニヒツは嫋やかになりかけた表情を引き締めて、ヘルツを見た。同じ深緑の目が合わさる。
「それは、僕と兄貴だったからで……」
「深淵も、皆勤賞を狙うような男じゃないと俺は思ってる。それに俺と深淵は一回見合ってるからな、真っ赤な他人ってわけじゃない。まあ、万事上手くいくさ」
そう超然としてニヒツのもさもさした髪を乱雑に撫でると、ヘルツは会議室の扉を開いた。こういう理屈では言い難い安心感を覚えるときに、ヘルツが少将であることを思い出す。彼の部下は彼が上司だからこそ怯まずに現場へ赴けるのだろう。なんとなく、大丈夫な気がする。そんなふうに思えるのだろう。
ノアも席を立ち、プロジェクターの電源とパソコンの起動を落とす。
後難はやはり拭えないが、それでも深淵の情報を少しでも得られるならそれに賭けるしかない。
深淵もかつてのニヒツと同じ、夢を望むような寂しさを忘れていない青年であることを祈って。
ニヒツは端末をスクロールして、その記事に目を落とす。
〈××年度 私立凌駕国際高等学校入学生 首席代表 月見山 鷹〉
──実力こそが至高。全てを凌駕してこその才能。才覚を発掘し育てることこそ理念。
まるで彼のためにあつらえたかのようなスローガンだ。その重さを彼はずっと背負ってきている。しかし、無理をしていれば人間の体はいつしか限界を迎える。
彼、月見山 鷹も、きちんと空腹を感じられているだろうか。そこまで考えて、ニヒツは首を振った。職業病は、これだから困ったものである。
廊下に出ていたヘルツがノアの隣に歩調を合わせる。
「腹へりましたね、上級将官」
「どうしてそれをわざわざ私に報告する」
「いやあ、俺としては美味いシュニッツェルが食いたいなって思うんですが。ニヒツ、お前は何が食いたい」
「上に同じです、上級将官殿」
「卑しいぞ、バルツァー兄弟め」
少し笑って端末を閉じる。
時計の針はとっくに昼を越していた。