観察記録2
────十二月五日。日本
紺色のプリーツスカートに、同じく紺色の学ラン。和気藹々とまばらな列をつくって生徒たちが下校していく。さすが、名門校というだけあって、誰しもに気品があった。
スコープで一人一人の顔を確認しながら、こうしていると変態みたいだなと思う。
情報によれば、深淵はこの下校時間に必ずこの道を通るらしい。正直、確証はない。何せ、深淵に関する情報は取り寄せようにもどれもことごとく“不明瞭”なのだ。
本来、対象を狙うなら、そいつのプロファイリングをし確実なルートで手段で殺すべきなのだが……詮方ない。実力勝負である。
(だが、所詮は温暖国家、日本国民だ。場数も経験もこちらの方が遥かに上だろう)
この一発で決めたいところだが、万が一、仕留められなくとも構わない。深淵はお友達を巻き込まないために狭い場所へ逃げるだろうし、ここ一帯の逃走経路は把握済みだ。
ヘルツは引き金に指を添えて、想像する。銃の構造、重さ、弾の速さ、火薬の破裂、その描く軌道。粒子の震え、消音の中にある悲鳴。
(俺の弾は外れない。外れはしない)
脳裏の端、意識したくもない注意事項がちらついた。
1, 決して目を合わせてはならない
2, 見られてはいけない
3, 対象の視界に入ってはいけない
4, 近接に持ち込んではならない
5, 毒の使用を禁ずる
6, 密室を作ってはならない
7, 見失うな
8, 声を聞くな
ごうん ごうん ごうん ごうん
鐘が鳴る。脳の奥、不可侵の領域で重い鐘が鳴っている。
9, 覗いてはならない
『────深淵だ』
ブツン、と、自分の頭から鐘が一つ止んだ。
「……は?」
ブツン。
「おい、どうした、応答しろ! なにがあった!」
一つ、また一つと自分の脳から雑音が消え、本来の自分だけの思考が戻ってくる。
喜ばしいことではあるのだが、状況は全く最悪である。自分以外のメンバーが全員死んだか、よくて戦闘不能状態に陥ったということだからだ。
──そんなこと、あり得るのか?
メンバーは自分を含めて六人。他の五人はそれぞれ高層ビルやマンション、一キロ先で待機しているものもいる。少なくとも、この近辺から視認できるような距離じゃない。驚異的な視力を孕んでなければ……。
ヘルツは逸る鼓動を押さえつけて、スコープを覗き込んだ。
先程まで歩いていた生徒たちが、いない。神隠しにでも遭ったかのように、ぽっかりと静かだった。
その道の中央、たった一人の生徒を除いて。
うねるような黒髪、身長175センチ、細身でやや猫背、右目と左の口端にホクロ。両目は、白濁した白──怖気立つ桃李のかんばせ。
「……深淵」
引き金をひく一秒前、わずかな隙間。刹那。白い目が、スコープ越しにヘルツを見た。
見たのにも関わらず、硝煙が上がった次の瞬間には、彼の姿はそこにいなかった。
ドッと冷えた汗が毛穴から吹き出す。
撃った。撃ったはずだ。あの小さな頭に向かって。肩には反動がじんわり残っていて、引き金の重い感触も指先が覚えている。弾は“必ず”当たる。ならば、どうして死体がない。血痕の一滴もない。
蛾の死骸が地中から萌芽するように、喉が渇く。得体の知れない汗が背中に滲む。異様な静けさは、それこそ、天変地異の前触れを彷彿とさせる。
キィ……と心臓を凍りつかせる細い音が背後に聞こえた。
銃口が玄関に向く。鍵を閉めていたはずのドアが開いていた。真っ赤な斜陽がそこから溢れて──── ヘルツの視界が、陽炎に呑まれたかのように歪んだ。
モスキート音を体の内側から叩きつけたみたいな細い暴力が耳鳴りとして襲ってくる。呼吸の仕方を支配されている。平衡感覚を見失っている。理解しているのに、自分の身に何が起こったのかわからなかった。
血の匂いが鼻に広がる。
白い洞窟が見える。目の前に、
どッ どッ
二秒の間もなく、ヘルツの体に重い衝撃が二つ加わった。
自分はまだ立っている。と、思っているのに、いつの間にか本来見るべきではない天井が視界いっぱいに広がっていた。
右腕が動かない。左足も、動かない。というより、動かせない。肺で息をするのも辛かった。
「……驚いた。追跡型の弾丸だなんて」
硝子同士がぶつかって、わずかに亀裂を走らせるにも似た声が遠く聞こえてくる。
白い目、眩むような美貌が、ヘルツを真下に見下ろしていた。
──決して目を合わせてはならない。見られてはいけない。対象の視界に入ってはいけない。声を聞くな。
辛うじて動く眼球と首を動かすと、学ランのズボンの端、黒いローファーの先端が見える。細い足首を辿って、またゆっくりと上を向く。
深淵の右肩からは血が滲んでいた。弾は確かに命中したのだ。彼はそこに指を突っ込んで、貫通しきれなかった弾を取り出す。
コン、という軽い金属音がヘルツの耳元で情けなく転がった。
(……自己再生……治療の権能でも最高位の能力だぞ。じゃあ、この攻撃はなんだ。腕と足が動かない……折れている? いつ? くそ、痛覚を遮断したのが裏目にでた)
彼の薄い唇が無感動に開かれて、耳触りのいい声が麻痺した心臓を撫でる。
「すごいね。物を操るのは科学の権能がなければできないし、それも並大抵以上の練度でないとおれには当たらないはずなんだけど。……その調子だと、神経もいじれるんでしょ。全然、痛がる素振りもない」
首も傾けず、白い眼球だけがヘルツを見下ろしている。凄然とした銃口を向けられている。
彼が指を一つ動かすだけで、自分の人生は幕をおろすだろう。それだけが、明白だ。
心臓が死を予感して、自分の体から抜け出したがっている。血液が、脳が、自分の体に助けを求めている。口で呼吸するたびに血が内側で滲んだ。
汝が久しく深淵を見入るとき──深淵もまた汝を見入るのである。
見入る。覗いてはならない、覗いてはならない。
(白い目が俺を見ている)
暗窖とした深さの知れない、黒よりも暗い白。白昼に見る夢。
影がヘルツの体に被さった。
まだ青々とした顔つきだというのに、こちらを見下ろす目は、表情は、砕けた月のように冷たく鋭かった。
ヘルツは残った意識で自己治癒を細胞に展開するが、目の前にいる相手の肩からはもう出血もない。すべてにおいて、深淵が上をいっている。
「──おれに、干渉するな。そっちの上司に、そう伝えておいてくれる」
そう囁いて、深淵は踵を返した。
遠のく視界の中で、ヘルツは自分が死なない事実より、手に届くはずの彼が離れていってしまうことに最大の焦りを感じていた。
行くな、行くな、行くな、行くな。
痛覚はまだ遮断している。右腕を下にしても、壮絶な波はやってこなかった。ヘルツは左腕を限界まで伸ばして、深淵の細い足首を掴む。
勃然とした引力に、深淵は驚いて足元を見やった。そこには、わずかな感心もあったように思う。
遺言のチャンスを与えてやるように、彼は少しの間立ち止まって、
「……なんだろう」
その声音がヘルツの傷口に甘く沁みる。
汗が頬を伝って、柔らかい髪を重く湿らせた。鉄の匂いが思考を鈍らせる。与えられた猶予が、刻一刻と失われていく。
下手なことは言えない。もしかしたら、彼と会話が成立したのは自分だけかも知れないのだ。心臓は未だうるさいままだった。
ヘルツは残喘保つ息を細く吐いて、
「今夜……空いてる……?」
「夢を見る予定がある」
そこで、意識は途切れた。
◻︎
────十二月十日。ドイツ バース軍事医療機関内部。
白い空間に規則的な機械音が重なりあっている。奇妙な薬剤の匂い、消毒液のキツい後味が鼻腔から広がって、数多の意識を揺らしていく。ちりちりとした痛みが体の節々から伝わってくる。
痛みは、温度であり、波であり、深さだった。計測できない痛覚が、確かに自分の体に宿っている。
「数値正常、意識もしっかりしてる。兄貴……ヘルツ少将、どこか具合の悪いところは?」
鼓膜を撫ぜる声に、あの透明な声を重ねてしまうが、抑揚はまったく違う。聞き覚えのある声だった。薄く開かれた視界に、自分と同じ赤茶色の柔らかい髪が見える。同じ髪質、同じ色をしているのに毛量は自分よりも多くてわさわさしている。それを揶揄すると、いつもいじける。緑の目は自分のものより遥かに静謐だ。
ニヒツ・バルツァー。ヘルツの弟の顔が、明瞭になっていった。
ここが病院だということは考えなくともすぐにわかる。ヘルツは意識的に眼球を動かした。
「ニヒツ……」
「うん?」
「俺は……」
ヘルツが言い淀むと、ニヒツは辛抱強く耳を傾ける。
周りでは看護師や他の医師があくせくと飛び回っている。彼も他の患者に手を回さねばならないだろうに、いつまでも兄想い、患者想いの律儀な弟だ。
自分と顔の造形は似ているのに、その純粋な愛嬌は弟にしか宿らなかった。
ヘルツは安心したように笑う。それに合わせて、ニヒツも優しく微笑んだ。
「運命の番に出会ってしまったかもしれない」
「CTでは脳に異常はみられなかったはずだけど」一秒前までの慈愛を容易く放り投げて、ニヒツはカルテと共に席を立つ。
ヘルツは慌てて右手を伸ばし、ニヒツの腕を掴んだ。
「話ぐらい聞けって!」
「おい、治したばかりなんだから、折られた方の手動かさないでくれる?」
「……折られた」
「そうだよ。兄貴、右腕と左足、折られてたんだよ。そりゃもう綺麗に、ポッキリと」
目を小さくしながら右腕と左足を動かすヘルツを見て、ニヒツは肺に溜まった空気を疲労と混ぜて吐き出した。パイプ椅子に再度腰を掛け、組んだ脚の上でカルテを開く。
権能の一つである『治療』──ニヒツは、軍事医療従事者の中でも一頭地を抜く『病気や怪我を“なかったことに”できる権能』の取得者であった。
権能は異能ではあるが、しかし、その実力はすべて経験や知識に託されている。脳という宇宙の動き、筋肉の仕組み、細胞の仕組み、ニヒツという男は莫大な医療知識を死に物狂いで得て、今、この場所に立っている。
ペンの先で頭を掻きながら、ニヒツは何枚かの診断書をヘルツのベッドに広げた。
「兄貴以外のメンバーも全員命に別状はない。ただ、四肢と……三半規管はやられてたな。精神汚染も酷い」
「三半規管? それをどうこうできるのは治療の権能だろ」
「治療がすべて治すための行為だとでも?」
含みのある言い方に、ヘルツは眉と視線を上げた。
カルテには各々の損傷した箇所、触診、問診の結果が事細かに書かれていた。ニヒツはその文字を指先で弾く。
「治せるなら、壊せるんだよ、兄貴」
カルテに視線を落とす。ヘルツを抜かしたメンバー全員の問診欄には、『精神汚染あり』と達筆な文字で記されていた。
精神汚染。つまり、精神病棟行きということだ。
ニヒツの権能は心理医学に精通していない。心の病は治せなかった。
カルテを回収して、ニヒツは膝の上で指を組む。そうして、表情を仕事に切り替える。問診は、ヘルツのみ未だ空欄である。埋めなければならなかった。
「ヘルツ少将。腕や足、他に気になるところは?」
「ない」
ペンが素早く紙の上を滑る。
すると、ニヒツはおもむろにヘルツの目元を軽く掌で覆った。薄い暗がりが視界に靄となって現れる。
「この暗さに恐れや違和感を覚える?」
「……いや、別に」
掌が離されて、またペンが素早く動いた。淡々とした作業は変わらないが、ニヒツの表情はどことなく安堵に弛んでいた気がする。
(他の奴らはここでアウトをくらったわけか)
眠るのが辛そうだ。
ニヒツの視線が上がる。射るような目に、ヘルツは少しだけ姿勢を正した。
「……兄貴。“深淵”について何か、思うところは?」
「運命ってやつだと思います」
時計の静かな足踏みが互いの間を通る。見つめあっていた時間は十秒もあったか、定かでない。
巨大な溜息が、ニヒツの肺から搾られた。
「どうしてそこだけ様子がおかしいんだ」
「俺は真面目な話をしてる」
「こっちも真面目に聞いてんだよ! 仮に運命の番だとしたら、フェロモンの値に変化がなくちゃおかしいだろ。兄貴はちゃんと正常でした」
「あんなに心臓が湧き立ち、血潮が疼き、本能が悲鳴を上げたんだから運命に決まってる」
「人間、死に直面したら誰でもそうなります」
「お前……! お前……ッ!」
ヘルツは歯茎を剥き出しにして行き場のない両手を広げていたが、ニヒツは困却極めてパイプ椅子の背もたれに深く体重を預けた。これも精神汚染のうちに入るのだろうか。いや、他が恐慌状態で彼だけが心酔というのはおかしい。
恋の病という病は確かに存在するけれど、ニヒツの専門外である。精神障害の部分はひとまず、空欄のままにするしかないだろう。
まあ、元気ならば何も言うことはない。
ニヒツはわずかに愁眉を開いて、カルテを閉じた。
他のメンバーは命に関わるほどではなかったにしろ、何より精神汚染が酷かった。少しでも暗闇を見るとパニック状態になり、ろくに眠れもしない。“深淵”という単語を聞くだけで処刑場に送られる囚人のように、正気を保てなくなる。「覗かない、覗いてはならない」それだけを懺悔みたいに繰り返す。
あれではしばらく、軍でも使い物にならないだろう。
だが、精神にあそこまで関与できる『治療』の権能は禁忌レベルで少ない。もしくは、『治療』と『言語』の合わせ技か。どちらにせよ、並のαでだってそこまでできるやつはいないのだ。
『天変地異』が『全知全能』を上回る──。
ピ、ピ、と規則的な電子音が鼓膜の遠くで響く。メトロノームのように響き続けるそれは揺れる思考を慰撫してくれる。しかし、どこかで不安を覚えるものでもあった。もし、この規則的な音が、不規則になったら? 大変なことだ。そうなるんじゃないか、そんな不安が、少しの期待の中にある。ピ、ピ、ピ、ピ、と規則的な電子音が────
「……ヒツ、ニヒツ!」
ヘルツの声に、ニヒツは意識を浮上させた。
「ごめん、兄貴。なにか言った?」
「いや、さっきから言ってるが」
叱言をいうヘルツの口調に、ニヒツは苦く笑って先を促した。気になることがあると沈思してしまうのは、悪い癖だ。
ヘルツは視線を手元に落として、手首から伸びる点滴の管を見る。
「深淵の殺害はやめにする」
看護師の走る足音、廊下に行き交うワゴン、患者を気にかける声、点滴交換の時間。白い病棟に反響する音が、二人の空気だけを締め出した。
ニヒツは先の読めない状況に眉を寄せる。
深淵の殺害取り消しは妥当だとは思う。それを上が承諾してくれるかは別として、深淵の接触自体が困難である今、殺害など到底現実的ではない。
けれど、それは声を高らかにして宣言するほどのことでもないだろう。首を傾げながら、ニヒツは「まあ、うん、それで?」と委細を求めた。
「その代わり、深淵を我が国に迎え入れ、俺の隊に入れる」
ヘルツのまじめくさった物言いに、ニヒツは思わず乾いた笑いをこぼした。正しい反応であるはずなのに、誰一人としてその微苦笑を拾い上げてくれる者はいない。
「面白い冗談、──」
「冗談でこんなこと言うわけないだろ。キチガイじゃあるまいし」
「冗談じゃないなら生粋のキチガイだよ!」
大きく轟いた声に、何人かの看護師が病室に顔を覗かせる。心配半分、非常識を疑う目が半分で鋭く二人を見つめた。ニヒツは狼狽して愛想笑いを浮かべると、なんでもないと言うように片手を振ってみせる。
息を鳴らして散っていく数人の後ろ姿を確認した後でニヒツはパイプ椅子から立ち上がり、ヘルツに詰め寄った。
「深淵の殺害は日本からの依頼で、それを不可能と判断して断るのならまあいい。だけど、殺害しないと断った上で日本から深淵を攫うのは向こうに喧嘩を売ってるようなもんだ」
「日本政府は深淵を殺したがってる。つまり、いらないってわけだ。それを引き受けてやるって言ってるんだし、別に黙って攫う気はない。ちゃんと深淵と交渉するさ」
ニヒツは悲鳴を上げ始めている顳顬を指先で揉んだ。
ことの重大さをわかっていない兄に、どう説明したらいいのか。国家資格よりも難しい問題である。
深呼吸を大きく繰り返して、酸素を充分に体へと循環させる。赤子に説明するように、赤子でもわかるように。そう念じながら言葉を選ぶ。
「……どうして日本政府は他国に頼るほど躍起になって深淵を殺そうとしてると思う」
「深淵がΩの天変地異だから?」
「精神汚染患者が五人も出て、三半規管を操れて? 全員四肢を折られてる。どう考えても特定危険因子だからだよ。兄貴、今回兄貴の部隊が生きて帰って来れたのは、深淵が意図的に生かしたからだ」
ヘルツはわかってると知ったかぶろうとしたが、知ったかぶれるほどその意味を理解できていなかった。迷うように視線を彷徨かせた後で「……つまり?」
「全員を視認したんだ。“外国人”だって」
「面白い冗談……」
そこまで言いかけて、ヘルツは息を飲んだ。
思考が少しずつ開けていく。そう、他の五人は視認が不可能なはずの場所にいた。そもそも、四肢を折ったのだって一体どうやったというのか。
ニヒツはヘルツの顔を読んで、先に口を開く。
「煉瓦だよ。現場に飛散していた武器は、煉瓦。投擲して命中させたんだと思う。権能の『身体』を習得してるなら不可能じゃない。実際、兄貴の腕と脚は綺麗に折られていたけど、他の五人は衝撃による骨折で内部損傷が激しかった。……視力の部分はわからない。もしかしたら、深淵が持つ特殊な権能なのかも」
話しながら、自分の語尾が気球の如く上昇していっていることにニヒツは気づいていなかった。
わからない。わからないという空白に立ち会える瞬間はニヒツにとって運命に等しいほど貴重な時間であった。
イレギュラーな存在。まだ未開拓の領域がある。その事実は天文学的な興奮を引き連れてくる。知りたいと思わせてくれる存在が、自分の人生に残っている。
それを知るまでは、死ねない。
ニヒツの体にはヘルツと同じDNAが流れている。
深淵を嬉々として覗きにいきたいと思う血が。
それを察せられない兄ではなかった。
ヘルツは不遜に口角を上げて、ベッドに深く沈んだ。
「尚更、こっちに欲しい戦力だろう。大統領が変わってから、確かにこの国の治安は良くなってる。だが、近隣国との雲行きは怪しくなる一方で、田舎の方じゃバースのいざこざも絶えなくなってる。深淵を我が国、我が軍に迎え入れれば果たして何万の人間が死なずに済むと思う」
「そのためにこちらの戦力を何万削ると?」
しかし、感情的な情熱より冷静さを制するのはいつだって弟の方でもあった。
ニヒツは胸の前で腕を組み、白い病室の窓を見る。
「おい、俺たちが向こうの戦力に負けるって言いたいのか」ヘルツの声が暗澹に低くなる。
「僕が言ってるのは日本政府の戦力云々じゃない」
「なんだよ」
「深淵に負けるって言ってるんだ」
ポカンと、風船の空気が抜けるようにヘルツの表情から活気が抜ける。馬鹿っぽい顔に、普段なら笑うところだが、ニヒツは特ににこりともしないで窓から彼の目に視線を移した。
困惑したように目を泳がせて、ヘルツは言い訳がましく肩を竦める。
「深淵とやり合う気はない。ちゃんと勧誘するさ……それに深淵にとっても悪い話じゃないはずだろ。少なくとも、殺されるよりかは」
「おそらくだけど、深淵は軍隊だとか国の争いだとか、そういうのは何も望んじゃいないし興味もないと思うよ」
そんなことはない、と言いかけたヘルツの脳裏にあの冷たい声が想起された。
────おれに、干渉するな。
水深も濃度もわからない、冷徹な白い拒絶。
苦虫を噛み潰したか、ゴムを噛んだかといったふうにヘルツは不機嫌を惜しげなく晒した。
「知ったように言う」
「βだからかもね。兄貴より俯瞰できるのは」
「バースは関係ないだろ。今の時代、ナンセンスだぜ」
そうヘルツが言うと、ニヒツは喫驚して目を丸くさせた。
「どういう心境の変化? 兄貴が第二性を平等に見るなんて」
「俺は元々差別主義者じゃない」
「そうだけど、でも、いつもαだからとかβだからとかって言えば納得してたから」
ヘルツは心外そうに眉を上げる。対して、ニヒツは意外そうに眉を上げた。
兄は良くも悪くも周囲の影響を受けやすい。Ω『天変地異』に対する虐殺的な行為も彼はすんなり受け入れて、そういうものだと達観していたし、元首が変わった今も、差別化をなくす運動には反対も肯定もせず、そういうものとして見ている節があった。
深淵と接触して何か価値観が変わったのかもしれない。
それを運命と呼ぶなら、確かに、そうなのだろう。
ニヒツは壁にかけられた時計を瞥見した。もうすぐ昼食の時間になる。このまま三日ほど経過を診て、問題なければ退院させよう。その間で、冷静になってくれればいいのだけれど。
ベッドから上半身を起こして、前に突っ伏している兄を苦笑気味に見やる。おもちゃを買ってもらえない子供みたいだ。
ぐぐもった声が、そこから聞こえてくる。
「……会って、話をするのも無謀だと思うか?」
「勧誘? だから、やめときなって。自殺しにいくようなもんだ」
「違う。もっと普通に……クラスメイトと話すような感じで。そんなので、いいんだよ」
「それができたら……」そう言いかけて、ニヒツは星が明滅を繰り返すように目を見開いた。解けなかった問題の抜け出し方を見出したときのような高揚感が沸き上がる。ほんの些細なケアレスミス。少し考えればわかったことだ。
接触不可能なΩの天変地異保持者。視認されれば終わる、深淵。だが──……。
まだ、彼はティーンの青年なのだ。
ニヒツはすっかり萎れているヘルツの肩を強引に揺さぶって起こした。
「兄貴。大丈夫、兄貴が正しいよ。どうにかできるかもしれない、僕たちはたった一つ、深淵を覗く視点を変えればいいんだ」
たとえ、それが劇的な運命でなくとも。
覗いた先が白日の死であっても。