溺心
気がつくと、男はそこに立っていた。
そこと形容したが、そこが何処であるか男は知らない。覚えのない風景だったのだ。
地面は歪み一つなく、まっ平ら。空は雲どころか太陽も月も星もない。
そのどちらもが、線香の灰を塗りたくったように薄い鈍色で、どこまでも続いていた。
何処も彼処も同じ色で、壁があるのか、果てがないのか、判別がつかない。
空など初めから無くて、同じ色の天井で塞がっているのかもしれない。
見慣れた空とはかけ離れている。男は自身の知る世界ではないのだと直感できた。
天然どころか人工の光源すら見当たらないのだが、物の形がはっきりと見えた。
特別、明るいわけでもないのだが。
目の前には大きな箱がある。
背景と同じ鈍色で、今にもこの世界に溶けて消えてしまいそうだが、明確に輪郭が浮き彫りにされた四角い、四角い箱だ。
ビルのような縦長であるとか、面積が広くて平べったいとかではない。正多面体で、正六面体で、立方体な、四角い箱だ。
箱と評したが、見ようによっては建物と呼べなくもない。だが、それほど精巧な作りだと、男は思えなかった。
表面はなだらかで、凹凸もなく、外壁にデザインらしい意匠はない。
塀で囲われるでもなし。表札なども掲げられていない。
住居ではないのかもしれない。
遠くから見る限りでは材質が全く分からなかった。
高さは十メートル前後の三階建て相当。向かい合って見える面には、一階に両開きの扉が一つ。
二階と三階に該当する位置には真四角の窓らしきものが二つずつ、将棋盤のように均等に並んでいる。
他の面の外壁も同様なのか、男の立っている場所からは見えなかった。
中の構造は窺い知れないので、階層として区画が分かれているかは定かでない。
扉はぴったりと閉じられている。継ぎ目とノブがなければ扉と判別できない。
窓の方はというと、硝子や蓋が嵌められている訳ではないし、庇もない。四角い穴がぽっかり空いているだけだ。
眺望や採光には適しているが風通しは良すぎてあまり余るように思える。少なくとも雨風は凌げないだろう。そもそも、窓ではなく別の用途で空いているのかもしれない。
四角四面の建物らしきものは一見、不要なものを取り除いたシンプルで合理的な装いともいえるが、男には単に色味の無い世界から乱雑に切り出して、ただそこに置かれているようにしか見えなかった。
簡素な造りといえば、虫や動物が地面に穴を掘ったり、土や枝葉を積み上げた簡素なものでも、それは巣として成立するものだ。
それと比べれば、確かに目の前の箱は人の手が加えられた印象を受ける。
だが、意図がまるで見えてこない。
住もうと思えば、住めそうではある。
物を収めようと思えば、それなりの大きさではある。
考えようによって用途は思いつくのだが、しっくりこない。
箱はまるで廃墟のようだ。
いや、廃墟ならば、かつては人が使っていたのだろうと思える。
月日を経て、雨風に曝され、ついには手入れが行き届かなくなり、後は崩れるのを待つだけの寂れた姿であるだろう。
箱は古くもない。草臥れてもいない。
けれども、新しいのかは分からない。建てられたばかりの頃を見たことがないからだ。
新古の程度すら知りもしないのに、ただ外界と内界を隔てるだけの壁を組み合わせただけのようなものと、感じられた。
唯一、男の尺度でも分かるのは、目の前にあるその箱が、燃えているということだ。
窓から炎が吹き出ている。色味の無い世界でただ一つ、その赤だけが明滅して存在感を放っていた。
不思議なことで男の中に危機感はなかった。
見知らぬ土地だからだろうか。関わりのないものだからか。
身の安全が確保できるほど距離が離れているし、周囲に他の建物がないので火の手が回る心配はいらない。
否。男の常識とは異なる非日常的な状況で、火災という同じく非日常な現象が起きていても実感が湧かないのだろう。テレビ越しでニュース番組を見ているのと変わらない。
だが、それはあくまで男の所感である。
それなりの大事なのか、周囲にはまばらに人の姿が見える。
いつからこれほどの群衆がいたのだろう。男は見知らぬ世界にただ一人でいる心持ちだったというのに。
続々と集まってきているのだが、あれは野次馬だろうか。それとも消火活動の為に駆けつけたのだろうか。
そもそも、男か女か、人だかりの詳細が分からない。
背丈が同じにも見えるし、差異があるようにも思う。
目で見ているのだが、どこか朧げで、ぼやけていて、顔も体型も服装も認識できない。
群衆も背景と同じ色合いで、今にも消えそうなのだ。
透けていたり、宙に浮いていたり、恨めしそうにしてもいないのだが、まるでオバケのようである。
言葉でもない声で、ザワザワと微かにどよめいている様子だ。
火事のことなど頭からこぼれ落ちて、オバケの群衆を眺めていると、一部のものがホースを手に放水を始めていた。方々から水が線のように伸びて、箱をめがけて飛び交っている。
消火栓も防火水槽も消防車すらも見当たらないが、何処から水を引いているのだろうか。
気がつくと、男の足元にもホースの先端が転がっていた。確か筒先だか管槍とかいう名前だったか。
そのホースを手に取ると、何も操作をしていないのに水が噴き出した。
止め方も分からないので、吹き出る水を箱へと向けた。条件反射だ。
目の前に火の手が上がっていて、手元には水がある。せっかくなので消してみよう、そう思っただけだった。
正義感などはなかった。
兎に角、勢いよく飛び出る水流を当てようとホースを右往左往させていたのだが、未だ無事な屋根に被っては、外壁を伝って流れ落ちるばかりで効果がないと悟ると、窓のような穴に矛先を変えた。
どれほど消火活動を手伝えばいいのか、門外漢の男には塩梅が分からなかった。
遠く離れた箱の、窓のような四角い穴から、火がチラチラと顔を覗かせているだけで火元がまったく見えない。
屋内が燃えているのか、家財が燃えているのか。
水をかけていれば収まるのか、手遅れなのか。
もとより男には、それを確認する度胸もないし、方法も思いつかなかった。
消火というより、水遊びの延長線に火災現場がある。その程度の認識でぼんやりと放水を続けていると、漸く箱から火の手が消えた。
鎮火したように見える。
窓のような穴から火の手が伸びることはなくなった。わずかに燻る煙が弱々しく屋外へと漏れては鈍色の世界に解けて混じり合う。
案外、まだ中で火種がくすぶっているかもしれないが、周囲も同様に消化の手を止めていたので男もそれに倣い、いつの間にか水の出なくなったホースを足元へ放った。
誰ともなく、建物の中を見てみようという声が上がった。
誰が言ったかは分からない。誰がどれだか識別できないのだ。
オバケのような人々が、わらわらと箱へと寄りつく。
確かに、少なくとも火の勢いは収まった。中の状況を確認するなら好機である。
怪我人がいたら大変だろう。
人命救助の心得は持ち合わせていなかったが、男も建物へと歩み寄った。
オバケのようなものがドアノブに手をかけて開くとまるでダムのように、大量の水が扉を勢いよく押しのけて流れ出してきた。
波のように押し寄せる水の塊は箱の外へ躍り出て男の膝を濡らした。
本物の波とは違い、返すことなく何処かへと流れていってしまった。
あまりの水量とその圧で僅かに後ずさる。
溜め込まれた水は建物の中にあったと思われる物も押し流してきた。食器やら家具やらの家財だ。住居だったのかもしれない。
それらと一緒に流されてきたものに男は目を奪われた。
人だった。それも数人。五、六人はいるだろうか。
水は地面に染み込んで、濡れた死体だけがぺたりとのびている。
箱の外に集ったオバケの群衆とは異なり、明確に人であると認識できる。
髪型の違いも分かるし、肌は生々しい。同性も異性も確認できる。
というより、肌がむき出しだ。裸なのである。衣服をまったく着用していない。
男の価値観において、屋内での衣服の着用は必須ではない。
暑ければ脱げばいいし、寒ければ着込めばいい。
多少、度が過ぎてもそれが他者に迷惑をかける行為でなければ、例え全裸であろうと構わないと考えている。
故に裸体であることに関しては、然して気にも留めなかった。
それに、この人たちは死んでいる。ぴくりとも動かないのだ。
火災現場であるのだから死者がでることもあるだろう。
呼吸をしているふうでもない。一時的に止まっている、ということもありえるがそうは見えなかった。
体は青白く、生気が感じられない。
気になったのは、流れてきた裸の人間たちはキレイであったことだ。
容姿が整っているとか、均整が取れているとかいう話ではないし、贅肉がないだの筋肉質だの豊満だのと芸術的観点や性的観点において論評する趣味があるという事でもない。死体性愛者でもない。
傷が、ないのである。
男は実際の火災現場を目にしたことはないのだが、燃えている建物で死んでいた人というのは火傷であるとか、燃え崩れた建材に押し潰されるなどして怪我を負うものでないのかと思う。あくまで、イメージだ。
それだというのに、死体には目立った傷が見当たらない。
露わになっている肉体は、異様に青白いこと以外には、赤く焼けただれてもいないし、黒く炭化してもいない。
実際は、煙に巻かれて呼吸が出来ずに亡くなることもあるという。
酸素が得られず窒息するとか、燃焼ガスを吸引して中毒死してしまうとかだ。
表皮の燃焼は程度によっては死に直結しないし、主要臓器には中々火が届かないそうだ。勿論、重度の熱傷によるショック死というのもあるのだろうが。
だが、息絶えて動かなければ、やはり火に晒されて焼けていても、おかしくはないのだろうか。あんなにも、メラメラと燃えていたというのに。
いや、それほど燃えていない。
火の手は窓のような穴から僅かに見えていたくらいで、外壁や屋根はさほど燃えていない。
色味のない鈍色の世界では、あの時の炎の赤は際立っていたが、原形をほとんど変えずに焼け残った箱が、火災の程度を物語っている。
しかし、屋内の状況は違ったかもしれないではないか。
箱は燃えにくい素材なのかもしれないが、人はそうではない。
なんで、こんなにもキレイなのか。
火災に見舞われなくとも、生前に傷つく機会はいくらでもある。
家財と一緒に放流された時に、それらとぶつかりあって痣の一つでも出来てもいいのに。
地面に打ち上げられた彼らは、作為的なまでに傷一つない。
どうして。
意識が思考に沈みかけた最中、男の中に一つの疑念が浮かんだ。
燃えて死なないことはあるのだと知識として有しているのに、焼けていないことに対して異常に拘っている。
男は心の奥底で、目の前の死体たちに燃えていて欲しかったと思っている。
願っている、と言い換えてもいい。
正確には、焼けて死んでいて欲しかった。
なぜだろう。
仰向けに倒れている死体は唇まで真っ青だ。到底、熱気に溢れる火事の場から現れたものには見えなかった。箱の中はそれほどに冷たかったのだろう。
男はその死体の有様に何処か見覚えがあった。
死体を見慣れている訳ではない。知人でもなかった。
過去に、生きている人間が同様の相貌であったのを見た。
学生のころ、水泳の授業で長時間、水に浸かったままでいた学友が体温を極端に下げていた時だ。夏場にしては気温はそれほど高くなく、水温はとても冷たく感じられた。
死体たちはそれとよく似ている。
白くて、青くて。
焼死といわれても疑問を感じるが、水死といわれるとそう見える。
けれども、これらは確かに火事場から出てきたのだ。近くに川も海もない。
誰かがわざわざ溺れて死んだ人々を建物に押し込めて火を放ったのだろうか。そんな手間のかかることをするのだろうか。
いや、するかもしれない。
男は殺意を抱いたことがない。裏を返せば男の理屈に沿わないことをしでかすやもしれない。
死んでも尚、焼きたくなるほど憎かったか。
死んだ人間を人目に晒したくなかったか。
あるいは、火葬にでもしたかったか。
やはり、男には分からない。
分からないことには現実味がない。真実味が味わえない。
もしそうでないのなら、この人たちは一体いつ溺れたのだろう。
いや、溺れたとは限らない。
火が回る前に、水が満たされる前に、死んでいた可能性もある。
突然の心停止でも、持病でも、寿命でも何でもいい。
あらゆる死にざまを夢想し、その中を必死にもがいた。
巡り巡って結局、思い至ったのは扉を開けた時に溢れ出た大量の水だった。
あれだけの量ならば、屋内をある程度満たしていたことだろう。
あの水はいつからあったのか。火事が起きる前にはあったのか。
一階の扉はぴったり閉じていて、露ほども屋内の水を漏らさなかった。
それならば消火の際に放水した水と合わさって、窓から溢れてもおかしくはない。長い時間、消火活動は行っていたのだから。
だが、外から見ていた限りでそんな様子はなかった。
だとすれば、あの水は。この死体は。水を箱にに流しいれたのは。
真相など分からない。
箱がガラス張りの水槽のようで、中の状態が見えていたのならいざ知らず、軽く水を被る程度の量を目にしただけだ。並々満たされていたかどうかなど、今更知りようがない。
いや、知りたくない。故に考えた。その事以外を考えた。
渦巻く頭の中で、その事を思い浮かべないように努めた。必死に押しのけ続けた。
それでも無視できないほどに大きくうねり、頭の中でうるさいほどこだまする。
こんなにも静かなのに。
なぜ、誰も何も言わない。
箱が焼けていた時はあれほど騒いでいたオバケのような群衆は、先ほどとは打って変わって沈黙を続けて、男の周りで点在しているだけだった。
違うのだ。そもそも彼らは一言も発していない。
箱が燃えている時も、物や空気が燃え爆ぜるような音もしなかった。
箱から溢れ出た水でさえ怒号を上げなかった。
初めから耳には何も届いていない。
静寂が鼓膜を押し固めて何も聞こえやしない。そういう世界なのだ、ここは。
目に見える情景で、勝手に音を想像していたに過ぎない。
でも、もう音を想像する余地は男の頭に残されていない。
見たくない現実に背を向けて、聞きたくない無音を手で防いだ。
呆然と立ち尽くすばかりでいると、地面に転がる死体から奇妙な音がする。
こぽ、こぽ。
ふり返ると、開け放たれていた口の端から水が溢れ出ていた。




