第一話 日常の崩壊
さわやかな陽気の夏の朝、誠一はいつものように気怠げにベッドから身体を起こした。
空を見上げればほとんど雲が見られない文句なしの晴れ、それにしては少し肌寒い気がした。
目覚ましをセットしなくてもよい穏やかな休日を迎えた誠一はしかし、まだ一人暮らしには慣れ切っていない。
病気で他界してしまった叔父の代わりに住んでもよいと言われて始めた一人暮らしであったが、自分しかいない空間としてはどうにも広すぎると思っていた。
大学1年の前期が終わり、誠一は夏休みに入っていた。アルバイトは個別指導の塾で週に2〜3度ほど、生徒達もまた夏休みということで普段より多くシフトを入れる仲間も多かったが、誠一は大学生初の夏休みを満喫したいと思い、そこまでシフトは増やしていなかった。満喫、といってもそこまで友達が多いわけではなく、自分から進んでサークルや夏のイベント等に繰り出すほど行動的ではなく、どちらかというと室内で漫画を読んでいたり、音楽や映画鑑賞をしている方が好ましいというタイプで、高校生の時より自由に振る舞える大学生活の長期休暇を噛みしめたい、という意味合いが強いのだろうと彼自身感じていた。
とりあえず日課のようにテレビをつけ、一応ニュースに耳を傾けておく。実家にいた時は些細な日常の出来事や社会情勢、芸能人が結婚だの引退だのという、自分にとってなんて事はない情報までも常に飛び交って少しうんざりしていたが、いざ一人になるとどうにも落ち着かなく、テレビでもつけていないと世間においていかれそうな気がした。
その日もキャスターが読み上げるニュースに特別気になるものはない。強いて言えば物価が少し上がるみたいだが、誠一は食への興味もそれほどなく、外食もほとんどしないため、一瞥くれる程度であった。ひととおりニュースを流し見て、テレビを消す。今日は特に予定もなく、出かけるつもりもない。よい一日になりそうだと思った。
予定のない休日を満喫していると、友達から電話がかかってきた。同じ大学の翔だ。彼とは新入生オリエンテーションで席が隣になり、少し話すうちにすぐに仲良くなった。入学早々友達ができるのは心強かった。
「今暇なんだけど、カラオケでも行かないか?」
翔から遊びの誘いが来るときは、このように急に言い出してくることが多かった。翔は誠一と対照的に非常に友達が多く社交的で、いつも忙しそうに色々なメンツと顔を合わせているため、急遽予定が入ったり無くなったりすることが多いらしい。
適当に合意して電話を切ると、誠一はおもむろに出かける準備を始めた。友達と遊べるのは嬉しいが、ゆったりと過ごす休日が終わってしまうのは少し残念だと思った。
雨なんて降りそうにないが、この時期は数時間後に急に雲行きが怪しくなることは珍しくないし、家にはあるのに外で余計に傘を買いたくもないので予め折り畳み傘を持って行くことにした。用意は周到な方がいいだろう。
着ていく服を適当に選びながら、1日の流れを漠然と考える。カラオケの後はファミリーレストランで駄弁ったり、ゲームセンターを見て回ったり。いかんせん大学生の1人暮らしで、そんなに気前よく出費する訳にはいかなかった。それでも翔とは気が合うため、話しているだけ楽しかった。
ゆったりと出かける支度を終えていざ出発しようとすると、翔から再び電話がかかってきた。
「急な用事でやっぱり遊べない」なんて言われることも予想していたが、翔からの言葉は思いもよらないものだった。
「なあ、なんかテレビの映像ヤバくね?」
まるで意味がわからなかったが、とにかく見てみろと言われたのでとりあえずテレビをつける。
そこに映っていた光景は、なんとも奇妙なものだった。
"行政機関の喪失? 繋がらない110"
物騒な見出しと共に映し出された映像は、誰もいないとある交番の映像。ジャーナリストが現場で懸命に状況報告をしているが、誠一にはあまり耳に入らなかった。
「どういうことだ?」
思わず呟いて他のチャンネルを回してみる。
"「一体何処へ?」見当たらない警官"
"ついに破綻か 賄いきれなかった税制"
どこのチャンネルに合わせても、不安を煽るような見出しに深刻な顔をしたニュースキャスター、コメンテーター等の映像が映る。
慌てて誠一は翔と繋ぎっぱなしになっていた携帯の電話に戻る。
「なあ、今警察がいないって何が起きてるんだ?」
「実は俺も知り合いから連絡来て、ニュース見てすぐお前に電話したばっかりだからあんまりよくわかってねえんだ」
翔は残念そうに答えた。
「今ネットで色々調べてるんだが、どうやら行政機関の一つの警察に充てる税金がなくなったから、全国の警官たちが続々クビになったり逃げ出したりしているらしい・・・つい数時間前から起こったみたいだな」
スマホで調べながらそちらに意識を向けているのだろう。翔の言葉は辿々しかった。
いきなりそんなことを言われても、まるで理解できるはずはない。
悪夢でも見ているかのようだ。
「警察がなくなったって、そしたらこの国の治安はどうなるんだ・・・」
呟くように誠一が言うと、当たり前だろうと言わんばかりに翔が答えた。
「そりゃ最悪だろうよ。いくら法で規制されてたって、罪人をとっ捕まえる人がいなけりゃ裁くことすらできねぇしさ」
「なんでそんなに落ち着いていられんだよ!?」
「取り乱したって俺らにはどうしようも出来ねぇだろ!!」
珍しく誠一は声を荒げた。
そんなことは無論わかってはいたが、妙に落ち着いた態度の翔につい腹が立ってしまった。
「とりあえず落ち着け。今はまだ幸い俺らの家族や友達に大きな被害は出てない。ひとまず遊びの約束は無しで、なるべく家から出ないようにしていようぜ。携帯での連絡も頻繁に取り合おう。」
なだめるように翔が言うと、誠一も少し冷静になれた。
「ああ、そうしよう。いきなり怒鳴って悪かった。」
いいよいいよ、気持ちはわかるから、と言って翔は電話を切った。
改めて状況を整理しようと、誠一はソファに腰掛けた。
それにしても、あまりに急すぎる展開だ。いきなりこの国の財政が破綻するなんて考えにくい。まあ景気や財政状況が良くないのは知っていたが、昨日まだは至って平穏な日常だったはずだ。まさか何かしらの謀略なんだろうか・・・。
いくら考えたところで答えは出ないし、何より情報が少なすぎる。こういうとき一人暮らしは不便だな、と誠一は思った。
何はともあれ、家族に連絡を取ってみる。誠一の家族は自分のほかに両親と姉がいる。父方の祖母は90まで生きたが5年前に亡くなっていた。ひとまず誠一は両親に電話をかけ、姉にメッセージを送った。しかし、何度かかけても一度も繋がることはなく、姉へのメッセージもまだ返ってこない。
徐々に不安を募らせていた誠一の耳に、突如として甲高い悲鳴が入ってきた。今まで近所で騒ぎが起きた様子はなかったが、ついにこの辺りでも事件が起きてしまったか・・・。
外の様子を見に行きたいが、一人では危険だ。留守にしているうちに泥棒が入る可能性も、いまの状況では十分考えられた。
誠一は身動きが取れないまま、いたずらに時間だけが過ぎていく歯痒さを感じていた。
今日という日をもって、この国は事実上の無法地帯と化した。