第3話 勇者、仔犬と話す
「うっ……」
レオンはずきずきと痛む頭に顔をしかめた。重い瞼をゆっくりと持ち上げる。焦点が合わず、見上げた天井はぐらぐらと歪んでいる。どうやら先ほどまで気絶していたようで、冷たい床の上に上向きに寝そべっていた。
「どこだ、ここは」
思わずつぶやいた言葉が、がらんどうのその場に静かに響く。レオンが身を起こそうとすると、足首からじゃらりと音がした。肌に直接触れる金属質の冷たさ。足首にのしかかる重み。レオンは思わず舌打ちする。足首に、逃亡防止の鎖が結ばれている。
両の足首につけられた鎖は、錆びついてはいるものの太く頑丈そう。鎖はわりかし長く、部屋の隅にまで伸びて、鉄製の太い杭に結びついていた。
レオンがいる場所は、どうやら牢屋の中のようだった。
魔王からの攻撃を受けて、気絶したまま捕まってしまったらしい。
殺されなかったことに安堵するべきか。はたまた、死よりも恐ろしい目に合わされる可能性だってある。レオンは唇を噛んだ。ここを脱しようにも手段がすぐには思いつかない。少なくとも、このまま水も食料も与えられなければ、数日のうちに死んでしまうだろう。そのことが頭をよぎると背筋が寒くなった。
ひとまずは落ち着こうと、ここに連れてこられるまでの魔王との戦いを整理しようと試みる。たとえここを脱出できたとしても、あの魔王から逃れるすべはあるのか。反撃ひとつすることができず倒されてしまった。
このままでは、たとえこの場所から脱出できたとしても、魔王を倒すことはおろか、無事に国に戻ることすら出来ないだろう。
何か弱点になりえるものはないか。魔王の姿を思い出す。魔王の姿を脳裡に描いたレオンは、そういえばその足元に何かいなかったかと思いつく。
魔王がまとう闇夜のようなドレスの裾。そのあたりからこっちを覗いていた小さくころころとした何か。
レオンがうつむいたまま、あの時見た光景を反芻しようとした時だった。じゃりっという砂を踏むかすかな足音が、鉄格子の向こう側からした。レオンははっと顔を上げる。しかし鉄格子の向こう、そこには誰もいない。しかし何者かの気配を感じる。
「誰だっ!」
レオンが鋭い声で問う。その声に答える者があった。
「くっくっく。勇者よ。ようやくのお目覚めか」
「くそっ、どこにいる! 姿を見せろ!」
「ここだよ、ここ、ここ」
「どこだ!」
「ここだってば! ねぇ、ちょっと! どこ見てんの! もっと下だってば!」
「下……?」
レオンは天井と地面の中間あたりに向けていた視線を、ぐうっと下におろす。すると、そこにいたのは、両手の上に乗りそうなほど小さな、仔犬であった。小さな仔犬がちょこなんと座っている。両前足を体の前で揃えて、小さな顔を真っすぐレオンへと向けている。その口が動いた。
「勇者よ、目覚めたか」
流れ出したのは、少女のような声。尊大な物言いも、可愛らしい声のせいで威力がない。
「犬……あの時の……」
レオンは魔王の側にいた仔犬を思い返す。どうやらこの仔犬は、あの時魔王の足元にいた仔犬と同じらしい。
呆然と呟いたレオンに対して、仔犬は嫌そうな様子で低い鼻へと皺をよせる。じとっとした目がレオンを見た。
「勇者って記憶力わるいんだね。犬じゃないよ仔犬だよって、教えてあげたじゃん」
「違いがわからん」
「ぜんぜんちがーう!」
仔犬はフウッと息を吐きながら小さな牙をレオンに見せた。どうやら唸ってみせたらしい。しかし、まるでぬいぐるみのような仔犬が唸ってもそこには恐ろしさが全くない。レオンは犬と会話するという、おとぎ話じみた状況に頭が追い付かない。昨今は、剣もしゃべれば犬もしゃべるのか。今は手元にない光の精霊が宿る剣を思い出す。
レオンはいまだ混乱したままの頭で仔犬を観察した。
仔犬は、レオンの両手が包めてしまいそうなほどに小さい。まだほんの子供のよう。小さな耳は先端が上を向いている。ぴこぴこ動く薄っぺらい耳。短い手足。ころころと丸い身体。金色の小さくつぶらな瞳は濡れたように光を帯びて愛らしい。鼻先は黒く、マズルは低めで、愛嬌がある。その体全体を、ふわふわとしたひよこのように柔らかな毛が覆っている。クリームがかった白い仔犬。座っているためレオンの目には見えないが、尻尾の先までふわふわに違いない。
そんな仔犬が、小首を傾げて、きゅいんと鼻を鳴らしレオンを見る。
「勇者って、もっと強いのかと思ってた」
レオンの背中に、無邪気な仔犬の言葉がのしかかる。
「馬鹿にするな! 俺には女神さまからの加護がある。悪しき者どもになど負けはしない」
レオンは虚勢を張った。鈴が転がるような声で馬鹿にされると、どうにも言い返したくなる。こんな仔犬にまで馬鹿にされてたまるかと闘志がわいた。
しかし、仔犬はどこ吹く風といった様子で、前足を片方持ち上げて、自身の口元にそっと添える。くくくっと意地悪く笑う。
「でも母上に一瞬で負けただろ? 仔犬、ちゃんと見てたぞ」
レオンはぐっと奥歯を噛みしめた。腹は立つものの、魔王に手も足も出なかったことは事実。
「勇者が来るからって母上ものすごーく準備してたのに、準備してた魔法を全然使わなくても勝てたって言ってた」
「うるさいっ!」
おもわずレオンが声を張ると、仔犬はきゅんっと鼻を鳴らす。それから尻尾をぶんぶんと振った。勇者が悔しがるのが面白いらしい。レオンの予想通りのふわふわ尻尾がぶんぶん左右に振れる。
「貴様は何者だ」
レオンはようやく仔犬に素性を尋ねた。先ほどから魔王を「母上」と呼ぶ仔犬。いったい何者なのか。普通ならば、いの一番に聞かなければいけないことだったろうに。マイペースな仔犬に振り回されて、どうにも格好がつかない。
「勇者って、頭も悪いの?」
「……お前、態度が最悪だな」
「そりゃそうだろ。勇者、お前は敵だもの。なにせ仔犬は、魔王の一人娘にして、魔界を牛耳る次の魔王なのだ」
えっへんと胸を張る仔犬。くんと突き出された胸元は、尻尾と同じくふわふわしていた。
「おかしいだろ……魔王の娘が犬なんて」
思わずツッコんだレオンに、仔犬はたしたしと床を叩いて抗議する。
「おかしくないもんっ! 仔犬は仔犬だもんっ!」
「なんで人型の魔物である魔王の娘が、獣型なんだ」
「あー! しゅぞくさべつだー!」
「自然の摂理に反してるだろ」
「ゆうしゃきらいっ!」
仔犬は毛を逆立てて、フウフウ唸る。レオンは思わず脱力した。少しだけ冷静になって自分のペースを取り戻す。
「で、何の用があってここに来たんだ」
見かけ通り、幼い子供のような魔王の娘。いかに魔物と言えど、幼い子供と言い合いをするのは大人げないかもしれない。レオンは気を取り直して尋ねたが、機嫌を損ねたらしい仔犬はふんっと顔をそらすばかりで何も答えない。
「お前、俺を捕えるように魔王に進言してたな」
カリカリ。仔犬が後ろ足で頭をかく。
「殺すんじゃなくて痛めつける、だったか? 何をする気だ」
仔犬は自身の前足をぺろぺろと舐めて毛づくろいする。
「オレの仲間をどこにやった……おい、犬、聞いてんのか」
「聞いてなーい」
「聞いてるだろ」
レオンから顔を背けたままの仔犬。どうやら母親と似ていないと言われたことが気に障ったらしい。しかし、ここを立ち去らないということは、向こうもレオンのことが気になっている証拠。レオンはため息をつく。機嫌を損ねた子供をあやすのは、生まれ故郷の村にいた頃から苦手だ。
「おい、なぁ、聞いてるなら返事してくれよ」
「聞いてないもん」
「なぁ、犬。俺はお前が何者か知らない」
「犬じゃないもん」
つんとした態度の仔犬。レオンは右手でがりがりと頭をかく。どうやらレオンの呼び方も気に食わないらしい。
「わかったよ、仔犬」
背けられていた顔が一瞬だけちらっとレオンの方を向いた。それでもすぐに顔をそらす。
レオンは改めて質問した。
「仔犬、お前の名前は?」
「……仔犬は仔犬」
「あー、そうか、わかった」
どうやら仔犬に名前はないようで、そのまま仔犬と呼ばれているらしい。
「お前の母親は魔王なのか?」
「そうだって言ってんじゃん」
「そうなのか」
似てないなという言葉をレオンはすんでのところで飲み込んだ。
「俺たちの命を助けたのは何でだ?」
レオンはここまでのやり取りの中、ずっと気にかかっていたことを仔犬へとぶつける。なぜなんだ。母親の敵として現れたのに、なぜお前は俺たちの命を助けた? 何が目的だ?
幼い子供のような無邪気さを目の当たりにしても、レオンの警戒はずっと外れなかった。敵というにはあまりにもあどけないが、確かにこの仔犬は「死ぬよりも痛めつける」と言っていたはず。それに、仔犬が発した「奴隷にする」という言葉がずっと気にかかっていた。
仔犬の顔がようやくレオンの方を向く。
「言っただろ。お前たちは仔犬の奴隷にするんだ」
そう言った仔犬は、やはり無邪気な顔で、つぶらな瞳を無垢に輝かせていた。
次回、仔犬が勇者を奴隷にします