第1話 囚われの勇者
のんびり更新していくので、よかったらお付き合いください。
そこはカビ臭い場所だった。錆びた鉄が醸し出す、嗅いでいるだけで歯が痛くなるような金属の匂いは鼻につく。キンと凍えるような冷えた空気は、容赦なく剥きだしの肌へと突き刺さる。錆びた鉄と澱んだ空気。それらが入り混じって、そこらじゅうを漂っている。
石壁と石の床は、容赦なく体温を奪っていく。男は生傷の残る足を動かした。投げ出したままでいた冷え切った足は、急に動かすと痺れが走る。整った顔が歪められ、眉間にシワがよる。
この場に一人いる男の名は、レオンと言った。出身はアストリア大陸一の国力を誇るバルバリア王国の北の果て。辺境の地にある貧しく小さな村で生まれた。
彼が生まれてすぐに、両親は流行病で亡くなってしまった。孤児となったレオンを哀れんだ老いた村長は引き取って男手ひとつで育てあげたが、育ての親であった老いた村長もレオンが十二の時に死んでしまった。彼は早くから天涯孤独の身の上だった。
食いぶちを求めて、レオンは村から離れ、辺境砦にあった王国騎士団の支部に入団した。そこで彼は上司から生まれ持った剣の才能を見出されて、運よく王国騎士の中でもエリート揃いと呼ばれる城勤めへと抜擢された。
肩まで無造作に伸びた黒髪。瞳の色は、明るい日の光の下で見れば焦げ茶であるとわかったが、暗い場所では黒く陰って見えた。表情は硬く、鉄仮面と言っていい。彼の持つ冷え冷えとした雰囲気は、これまでの人生がもたらした苦労を物語っている。
しかも生来、無口で愛想がないせいで、彼は余計に陰鬱な雰囲気を増していた。よく見れば一つ一つのパーツは美しく整っていて、卵型の顔の中にバランスよくすっきりと配置されているので、まさしく美形と呼べるような顔立ちだったが、彼の雰囲気はそのことをすっかりと分からなくしていた。
さらに今は、髭は伸び放題で無精髭を晒している。もう三日も牢屋に繋がれているせいだ。疲れ切った表情は一層険しさを増し、疲労のせいか実年齢よりも十は老けて見えた。肌も薄汚れて髪もべたついている。まるで山賊の出で立ち。
レオンは深くため息を吐いた。動いた拍子に、両の足首に着けられた鎖がじゃらりと音を立てる。レオンは鬱陶しさゆえに鎖へと視線を落としたが、何度見ても外れる予兆すらないそれに嫌気がさして、すぐに視界から外してしまった。何度か逃げようと鎖を壊せないかと試みてみたが、たんに傷をつけただけで徒労に終わった。今やもうすっかりと諦めきっていた。もう一度ため息をつく。現状は変わらない。
石が剥き出しになったままの床に直接腰を下ろしているので、衣服越しに寒さが染み込んでくる。レオンは手持ちぶさたに任せてぐるりと今いる場所を眺めた。眺めたところで何も変わらないが、鬱々と一点を見つめ続けるよりもずっといい。
レオンが囚われているのは狭い牢獄の中だった。壁から伸びる鎖以外に物は何もなく、レオンの周囲にあるものは、カビと苔に塗れた石壁ばかり。前方の一面を残して、石壁がレオンを閉じ込めるようにぐるりと三方で囲んでいる。右の壁から左の壁までの距離は、歩いて五歩ほどだろうか。圧迫するような狭さは息苦しさをもたらす。
レオンは迫りくるような壁から意識を背けるように、唯一開けた場所に繋がる正面を見る。細い鉄が並んだ格子。そこからは、ようやくと言っていいほどの薄い明かりが牢の中へと差し込み、レオンの足元へと影を作っている。
牢屋の外にも石の壁は続いていた。気がつけばここに繋がれていたレオンは、ここがどこのどの場所なのか定かではない。ただ、おそらくここは地下なのではないだろうかと予想していた。
まるで、地下墓地にでもいるようだ。
薄暗い牢の中でレオンは今の自分の状況を嘲笑った。ちょっと前までの勇ましく恐れ知らずだった自分は一体どこへ行ったのか。じわじわと追い立ててくる焦りと恐怖。明日の己の状況がわからないことはこんなにも恐ろしい事なのか。
身にまとう衣服は傷つき破れ、まるで襤褸切れのようで、囚われの身のみじめさを一層掻き立ててくる。レオンがここに来るまで決して肌身離さずに持ち歩いていた剣は当然のごとく手元になく、ここを抜け出す手段を思いつきもしない。一人でいると襲いくる、これから自分はどうなるのだろうかという恐怖から逃げて、必死に目をつぶる。
皆は無事だろうか。
閉じた瞼の裏側に、浮かぶ仲間の顔。共に旅した仲間たち。
レオンと同じく平民だったが、稀少な聖魔法の使い手であるとわかり、教会から聖女の位を授けられた聖女。
王の側室から生まれた第二王子は騎士として同行していた。
辺境伯の娘であり、当代一の弓使いとして武芸者の間で名を馳せる令嬢。
百年に一度の逸材と謳われた天才魔導師の少年。
そしてレオン。この五人はバルバリア王国によって送り出された魔王討伐を目的とする勇者一行だった。
仲間の安否を思い、レオンは奥歯をぐっと噛み締めた。閉じた瞼の向こうで闇がちかちかと瞬く。勇者の証である精霊の剣すら手元にはない。何もできない自分への怒りがこみ上げてきた。
そんな時だった。
「勇者よ。そろそろお前の心も、ポッキリ折れた頃ではないか?」
誰もいなかったはずの牢の外から、突如として声が響いた。勇者に向かって語りかけてきたその声は、牢屋に相応しくない甲高く甘ったれた響きをしていた。鈴を転がすような高さでいて、そのくせ、妙に老練な口調が合わさって歪に聞こえる。言葉自体は嘲っているのに、小さく愛らしい声のせいか苛立ちよりも違和感が先に立つ。
「……なんだ。また来たのか」
すでに耳馴染みとなった声に、勇者レオンは重い瞼を持ち上げた。そして、柵の向こう、その足元へとうろんな視線を送る。レオンは素知らぬ顔を取り繕って、興味がないという態度を示してみせたが、その実、声が今日も聞こえてきたことに安堵する心持ちを隠していた。
「くっくっく。貴様をあざわらいに来てやったぞ」
わざとらしく笑い声を立て、覚悟しろ、と告げる声。声の主が告げると同時に、持ち主の金色の瞳がにんまりと歪む。トントンと床を踏む手。ふわふわの毛並み。小さな体。その体の持ち主は四つの足をそろえて、石の床の上へとちょこんと座り込んでいる。
にぃっと横に広がった口元はレオンを小馬鹿にするようで、きっと意地悪したいのだろう。低い視線から、ツンと顎を上げている。くっくっくっ、と喉の奥で笑うが、しかしそれも、白い毛に包まれた愛らしい前足が口元を隠しているものだから、当人が思っているような残酷さはあいにくのところ表現しきれなかった。残念ながら恐ろしさよりも滑稽さが優っている。その間抜けさはむしろ愛らしさを引き立てた。
勇者は盛大にため息をつく。勇者が囚われて以降、毎日のごとく足しげく通ってくる相手へと、わざとらしく当てつけたつもりだ。それから目の前の「敵」へと視線を向ける。
そこにいたのは、小さなかわいい仔犬だった。
「何の用だ」
冷たく睨むレオンの前で、仔犬はきゅんと小首を傾げた。
「用ってわけじゃないけどさ、勇者が暇かと思って遊びに来てやったぞ」
この仔犬。ただの仔犬ではない。レオンはじっとそのふわふわの体を見下ろした。もちろんのこと、喋る仔犬なんてものはみょうちくりんだが、しかし、魔物の跋扈するこの世界で、そんなものは奇妙なものの域に過ぎない。それよりも重要なのは、この仔犬の出自だった。
「落ちぶれた勇者がそんなに面白いか?」
「おもしろいぞ!」
間髪入れずに元気に答える仔犬。皮肉が伝わったのかは定かではない。くん、と鼻を鳴らして、仔犬は自身の揃えた前足の上へと顎をのせる。のんびりと体を伏せて、囚われの勇者を観賞するつもりらしい。
「いつまでそこにいる気だ?」
「仔犬が飽きるまで」
石の床は冷たかろうに、仔犬はじっとうずくまったまま。一人と一匹の間に沈黙が落ちる。
どうにも不思議だが、この仔犬はレオンが囚われてからずっと、一日も欠けることなくレオンのもとを訪ねてくる。
「……護衛はどうした。お前ひとりで来てもいいのか? 俺がお前を害するとは考えないのか?」
「牢に繋がれてるやつが、何言ってんの」
勇者えらそう、と仔犬が面白そうに呟く。レオンは苛立ったが、仔犬にすら言い負かされるくらいそれは正しい事実だった。
「だとしても、お前の立場でここに来ていいのか?」
「なんで? 何でダメなの?」
仔犬はきゅんきゅんと鳴いた。レオンの中に、小動物もどきにすら馬鹿にされる苛立ちが募ったが、何とか冷静を取り繕う。
「お前は……魔王の娘だろう?」
そんななりだが、とは胸のうちでだけ呟く。いまだに信じられない気持ちが半分はある。魔王と対峙した際に、この耳でそう呼ばれるのを聞いたはずなのに。
「いいじゃん、別に。勇者ってこまかーい」
面倒そうに答えると、仔犬はごろんと横たわった。体全体で面倒くさいと表現しているようだ。コロコロと床を転がる仔犬を見ていると、怒っているのも馬鹿らしくなる。どうせ飽きたら仔犬は地下を出ていくのだ。それまで適当にやり過ごせばいい。レオンはわふわふと自分を見つめる金の瞳から視線をそらす。こんな状況だというのに、丸いころころとしてふわふわな体に、うっかりと癒されてしまいそうだった。
勇者は再び、ため息をつく。勇者と魔王の娘。決して交わらないはずの存在は、牢屋を挟んで今日もまた、意外にも平和な時間を過ごしていた。
さて、レオンが今なぜ牢屋に捕えられているのか、という話をしよう。
事の始まりは今からおよそ半年前。レオンの転機は、ある日突然訪れた。
バルバリア王国歴、一〇三九年。アストリア大陸の北側から東側にかけてを支配する、大陸一の国土を持ったかの王国は、建国以来、最も苦難に満ちた時を迎えていた。
魔王復活の知らせが届いたのである。
バルバリア王国は極寒の北の地を持っている。北の大地は雪と岩山が高くそびえ立つ山脈に囲まれ、年中吹雪く山脈は自然の要塞となっていた。
そんなバルバリア王国であったが、初代王でもあり、建国の父でもある初代王バルバリア一世と生命の女神との盟約により、不思議とどんなに極寒の大地であっても、植えた作物は決して凍ることも枯れることもなく育つ魔法がかかっていた。その魔法は、バルバリア一世が長らく人間界を支配していた魔王を打ち倒し、封印したことへの褒美として、生命の女神が与えたものだった。
しかし現在、女神からの祝福は失われかけている。ある日を境に、植えた作物が寒さに負けて枯れるようになった。女神の魔法が解けかけている。民たちは恐れた。こうして魔王の封印が解けた事実は王国に知れ渡ったのだ。バルバリア王国の「入らずの地」と呼ばれる遠い東にある魔王城。そこに封じられた魔王は、千年以上の時を経てついに目覚めた。
そんな折、女神から教会へと託宣がくだった。女神は告げた。
「魔王を討伐せよ。憎き魔王の闇の魔力によって妾の祝福は覆われてしまった。このままではこの国の作物は実らず、この地は元の荒れ野に戻るだろう」
女神からの託宣に王国全土は揺れた。女神の加護が失われてしまったら、魔王の到来を待つまでもなく、極寒の大地の上にできたこの国は滅んでしまう。
しかし、女神から告げられた中に希望もあった。
「勇者を探し出すのだ。初代王の剣に宿る光の精霊が勇者の居場所を知っている。その者を魔王討伐に向かわせるのだ」
初代王の剣、それは光の精霊が宿りし伝説の剣。教会から国の中心にある城へ、女神の言葉が届けられると、長らく宝物庫で大事に飾られていた剣は大至急、王とその腹心の貴族たちの前へと用意された。剣に眠る精霊を呼び出す儀式が準備された。皆が固唾を飲んで見守る。
城の魔道士が精霊を呼び覚ます呪文を唱えると、剣は光り、その光は朧げに男の姿を象った。
背中まである金色の輝く髪に、人ではない証しの、太陽のような金色の瞳。人外の美しさを持つ光の精は、爛々と瞳を輝かせながら、周囲をぐるりと見渡した。そして口を開いた。
「城に仕える騎士の中に勇者がいる」
「なんと……勇者はすでにここにいるのか……」
精霊の言葉に王はうめくように返事をする。
「そやつが私の新たな主人だ」
「しかし、精霊殿。勇者とやらはどのように見つければいいのだろうか。この城に仕える騎士は何百といる。その中でどれが勇者なのかどうやって見極めればいい?」
王の言葉に精霊は馬鹿にしたように鼻で笑う。
「勇者の見つけ方だと? 人の子は愚かなことを聞く。決まっているだろう。私に相応しい強さを持ったものに限る。騎士の中で最も武芸に、それも剣技に優れた者。それが勇者だ」
光の精霊の言葉に場がどよめく。最も強い者。それは誰だ。貴族たちはひそひそと話しながらも、それが自身の家に連なる者であればいいと腹の底で願った。もしも勇者として一族の者を送りだせたならば、それはきっと家の名誉となろう。初代王と同じ身分に相当する勇者という地位。魔王を倒したのちは、王家から多大な褒美が与えられるに決まっている。
貴族たちの腹の中では算段がとっくに始まっていた。小声で話し合いながらも、誰も彼もが牽制しあっている。そんな中で、その場の意をくむ様子もなく自然な調子で、青年が一人、前へと足を一歩踏み出した。
「父上、お耳に入れたいことがございます」
「なんだ」
騒めく貴族たちの間を縫うようにして、王へと声をかけたのは王の二番目の息子たるアルノルトだった。彼の声に、場が一気に静まる。皆が耳をそばだてる。幼少期から、優れた頭脳と、恵まれた体力を持つとして、王太子よりも優れていると噂された第二王子。正妃を始めとする王太子一派に政敵の象徴として睨まれている第二王子は、いったい何を口にするのか。
側室の子である第二王子は、正妃の子である王太子をたてる形で、常日頃から自身の王位継承はないと宣言し、兄に仕えると明言している。今はもっぱら騎士としての道を選んで、軍務を中心に政ごとに携わっているが、しかし、彼がもし勇者を擁したとしたら。権力構図はどのように塗り替わるのか。
緊張が走る貴族をあえて無視して、アルノルトは王を真っ直ぐに見つめる。そして全員に聞こえるように、朗々と響く声で進言した。
「私が知る中に、飛び抜けた剣技を持つ者が一人おります。そやつは、平民の出身なれど、その技ひとつで、彼よりも優れた教育を受け、高名な剣士のもとで育った貴族の子弟をもやすやすと飛び越えて出世しました。今は部隊を一つ率いています。まだ年若いが、歴戦の戦士よりも強いと私自らが認める男です。いかがでしょう。光の精霊殿の条件には当てはまりはしないでしょうか」
王の目が見開く。かねてより期待している息子が勧める騎士とは。王の目が爛々と光った。
「まことか!? アルノルトよ、その者を今すぐ連れて参れ!」
王の号令にアルノルトは、プラチナブロンドの頭を下げた。
そうして王の御前へと連れてこられたのが、レオンだった。
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