幕末~明治 ― 英国への伝播
日の沈まぬ帝国
時は移り幕末、の少し前の外国に目を向ける。
当時、欧米諸国は世界の覇権と制海権を争っていた。最終的に勝利したのは英国。
(このころ一時期オランダは滅び、オランダを名乗る国家は長崎出島にしかなかった。日本史に詳しい人には常識だろうが、地理選択の私は知らなかった)
支配下の植民地のどこかでは日が差しているという、地球一周する全経度を支配した、いわゆる「日の沈まぬ帝国」と呼ばれる、巨大植民地帝国を作り上げた。
それを実現したのが、ご存じ英国無敵艦隊である。この艦隊は世界の海を巡った。
最初に書いたように、ポリネシア・ミクロネシア等の太平洋の島々には、昔から刺青文化があった。日本では一部地域を除いて廃れてしまったが、発祥の地にはそのまま残っていた。
英国艦隊がポリネシア・ミクロネシアに来た時、現地人の刺青を見た英国船員は、刺青カッケー、と思い、現地人に刺青を入れてもらったり、見様見真似で入れた。英国におけるファッション刺青の発祥である。
元々船員は港々で他の船と情報交換する習慣があったので、その口コミで、国を問わず船員には刺青を入れるファッションが広まった。
米国に「ポパイ」というアニメがある。元はホウレンソウ会社のCMだったらしいのだが、恋人のオリーブが悪漢に絡まれ、「ポパーイ、助けてー」とかいうと、船員の主人公ポパイがホウレンソウを食べてムキムキになり、腕の筋肉と碇の刺青を見せつつ悪漢を倒す、というのがお約束の流れである。
船員が刺青を入れている例の一つである。
そして幕末。
米国による強制開国の後、英国も米国に負けじと、英国無敵艦隊が不平等条約を結ばせるために日本にやってくる。
歴史の表舞台で幕府と英国大使が条約交渉をしているころ、歴史の裏舞台では、港で待っていた英国船員が日本のファッション刺青を見た。その時歴史がちょっと動いた。
ポリネシアの刺青は伝統的なものであり、伝統を継承するという考えはあっても、ファッションとして発展させる、という発想はなかったであろう。邪馬台国時代と大して変わらなかったかもしれない。
https://www.tattoostime.com/ より
(現代の写真だが、部族毎に異なる刺青を持ち、2000年前から変わらぬ部族もあるという。)
それが刺青だと思っていた英国船員が、変態的情熱を持つ庶民の手によって、江戸後期百数十年をかけて芸術的なまでに高められた、江戸のファッション刺青を目にしたときの驚きはいかばかりか。
初期は単色や二色だった刺青は、幕末頃には多色の豪華絢爛なものとなっていた。
(この写真は当時の白黒写真を後世に想像で着色したもので、実際の色や発色ではない)
英国船員は競うようにして日本の刺青を入れた。
条約締結後、英国艦隊は帰国する。帰国すれば当然国王に報告する。国王は一行の中に、日本の刺青を入れた船員を見た。この時歴史がまたちょっと動いた。
英国国王、そして貴族たちは、日本のファッション刺青に魅了された。ハマった。そりゃもうハマった。英国に渡った彫師(刺青を入れる技術者)がいたのかもしれない。
国王と皇太子は、入れるなら最高の刺青を入れたい、と考えた。
当時の日本は世界最高の刺青技術があった。日本最高の刺青、すなわちそれが世界最高の刺青である。
明治維新
そのころ日本では、明治維新が起きていた。
明治新政府は刺青を禁じた。徳川幕府も禁じていたので、それを踏襲したとも言えるし、刺青を野蛮な文化とみなして廃止し、西洋の先進文化を取り入れるべきと考えた、とも言える。
しかし前述のように、明治新政府が旧弊で野蛮で無価値とみなした日本のファッション刺青は、当の西洋先進文化国、英国では、国王や貴族が魅了されるほど高く評価されていたのであった。これは刺青に限らず、浮世絵をはじめとした様々な日本の文化・芸術作品が、この時捨て値で海外に流出し、日本の美術館より西洋の美術館の方が収蔵品が充実している。
彫師が規制されたとか、廃業を余儀なくされたという話もある。
後の大正時代の話では、刺青は普段は長袖で隠していて、近しい人以外は、刺青を入れていることを知らない、わからない状況だったようだ。しかし祭りの日には解禁され、刺青者はこの機会にと裸に近い格好で刺青を見せびらかしたようだ。
祭りの時に刺青を目にした、とある若い大工は、刺青にあこがれ、のちに刺青を入れる。この話から、禁止下でもそこそこお目こぼしあり、彫師もいたことがわかる。規制された話と合わないが、規制された「時期もある」のかもしれない。
くだんの若大工が後の平成にしたのが上記の証言である。
そんな明治新政府に、英国大使から申し入れがあった。
「我が国の国王と皇太子が、日本最高の刺青を入れたいと言っている」
名彫師
「我が国の国王と皇太子が、日本最高の刺青を入れたいと言っている」
明治新政府は対応に苦慮した。いずれ富国強兵するにせよ、今の日本は弱い。以前は幕府の弱腰に義憤を感じていたが、列強の強さを局所戦争で知った。列強からの理不尽な要求にも耐えねばならぬ時期であった。しかし理不尽な要求も覚悟していたとはいえ、このような要求がなされるとは、想像の埒外であったろう。
当時、世界最大帝国である大英帝国、しかも国王と皇太子という最高権力者からの直々の要求である。事実上の命令であった。
前出のように、明治新政府は刺青を禁止していた。刺青や彫師について、苦々しいと思いこそすれ、詳しいものなどいなかったであろう。
しかし命令である。日本最高の彫師を探さねばならぬ。
当時、彫師業界の誰もが「アイツにゃ勝てねえ」と口をそろえて言う名彫師がいた。
彼こそ日本最高の彫師に違いない。新政府の役人は彼に連絡を取ったようである。
それからいかなる政治的折衝があったのか、日本側の資料では定かではないが、英国皇太子の来日が決定した。
表向き、皇太子は条約改正協議のために来日した。
しかし条約自体を大使が締結しているなら、延長改正などというしょぼい仕事は、本来なら皇太子でなく大使で十分であろう。皇太子の来日目的は奈辺にあったか。
皇太子は協議をされた後、日本各地を観光して帰国なされたという。
当時海外で流布されていた噂によると、日本の伝説の名彫師が英国国王と皇太子に世界最高の刺青を入れたという。件の名彫師は海を渡り英国国王に刺青をお入れなされたのか? 別の彫師が渡ったのか? そもそも国王は本当に刺青を入れたのか?
少なくとも、皇太子が日本で刺青を入れたことだけは確かなようである。
しばらく後、外国人居留地の片隅に、とある英語の看板がかかっていた。
「刺青彫ります。英国国王と皇太子に刺青を入れた高名な彫師」
彼が本当に件の名彫師であったかは定かではない。英語はできるが、彫師としてはそこそこレベルの別の彫師が誇大広告をしていたのか、国内で刺青禁止とされ、職を失った彫師が、もっとも近い国外、すなわち治外法権の外国人居留地で糊口をしのいでいたのか。
ともあれ、この彫師は港々で船員間の口コミで広まり、それを聞いて来るものもいて、そこそこ人気だったようである。