エロ漫画みたいなシチュエーション
自宅に案内するニーナさんの横顔をみながら、恩師を思い返す。
俺は中学高校と柔道部に所属していた。
特にスポーツが好きというわけじゃなかったが、自衛のために何かしなくてはいけないという危機感があったからだ。
この容姿のせいで小学生の頃は何度もカマを掘られかけたし、母が連れ込む男たちはよく俺を殴った。
どれだけ食べても体重が増えずトレーニングしても筋肉がつかない俺には、柔道は不向きだったようで、部では浮いていたし、稽古には時間を割いていたがたいした成績を上げることもなかった。
その日も他の部員よりも早く柔道場に入ろうと、川沿いの道を自転車で急いでいると、
「誰か助けて!」
悲痛な女性の叫び声が聞こえてくる。
雪解け水で増水した川を覗き込むと、少年が一人意識を失ったまま流されていた。
反射的に川に飛び込んだまではいいが、流れは思ったよりも速く、水は凍てつくように冷たく、制服の下のセーターもたっぷりと水を吸い、俺の動きを阻害する。
少年の体に手が届いた頃には、俺の意識も何度も飛びかけ、すっかりと身体が動かなくなっていた。
「これに掴まれ!」
その声に顔を上げると、ロープが結んである救命浮き輪が目につく。
浮き輪にしがみつき、岸までたどり着くと。
「しっかりしろ、今救急車が来る」
叫んでいたおばさんが少年を抱きしめ、ロープを握っていたとても美しい女性が鬼の形相で俺を睨んできた。
溺れた少年とその母には感謝されたが、救命浮き輪を投げた女性……
うちの高校の教師にはひどく怒られた。
あのままでは、二重遭難になってもおかしくなかったそうだ。
まず溺れた人を見ても不用意に水に入らない。
ロープや浮き輪を投げて助けるのが基本で、それでも無理な場合のみ救助者は自分の安全を確保しながら浮き輪やロープなどを握り、周囲の人々と連携して動く。
ましてや服を着たまま、真冬の川に準備運動もせず飛び込むのは自殺行為なんだとか。
「まあ普通は、飛び込む勇気なんて出ないのだが」
説教の途中でその女教師は首をひねり。
「しかし数分でも遅れたら、溺れた子供の命が亡かったかも知れない。あまりにも無謀だったが、結果を見ると英断だった」
そう言いながら、仕方がないとばかりに深いため息をついた。
彼女は同じ柔道部の女子顧問をしていて、俺のことは以前から知っていたそうで。
「確かに力はないけど、スピードとセンスは悪くない。もう少し返し技や…… その、寝技を覚えるといいかもな」
そしてそれがきっかけで、俺の顔を見ると指導という名のお説教をよくした。
男子部の顧問は俺を完全に見放していたし、先輩や同い年の部員は俺の容姿と非力さを鼻で笑っていたから。
「先生、俺に柔道を教えてください」
俺はいつしか、そんなお願いをした。
そのアラサー独身社会科教師の顔は整っていたが、色気も化粧気もなく、生活指導も厳しかったため生徒に人気のある教師ではなかったが……
俺が技を覚えるたびにショートボブの髪を揺らしながら嬉しそうに笑う姿は、同級生の女子のように可愛らしかったし、引き締まって痩せた体躯からは想像できなかった隠れ巨乳は……
寝技の稽古の度に俺を惑わせた。
しかもなぜか稽古を重ねるたびに、寝技の時間が増えてゆく。
そして母が蒸発して俺の周りがバタバタし始めると、彼女は個人的な相談にも乗ってくれるようになり……
真面目だがどこか抜けているところもある先生は、いつしか俺の大切な場所に踏み込んでいた。
+++ +++ +++
「これが最後の稽古よ」
そして月日が流れ、卒業間際。
俺は休日の高校に呼び出された。
外はすっかりと暗く、俺が柔道着姿で約束の時間に体育館に行くと、彼女は珍しくタイトスカートのスーツに薄っすらとした化粧をした姿で持っていた。
「先生、いつものぶかぶかのパンツスーツよりそっちの方が似合いますよ」
冷やかし半分でそう言うと、
「そ、そうかな?」
ぎこちない動きで体育館のカギを開け、少し悩んでから用具室に向かった。
「ここで稽古ですか?」
「そ、そうね…… 第二体育館のカギは借りられなかったのよ」
待ち合わせが剣道場や柔道場がある第二体育館じゃなかった謎は解けたが、
「でもどうやって」
跳び箱やバレーやバドミントンのネットがぎっちりと並べられているその場所で、稽古ができるとはとても思えない。
「このマットの上なら寝技の稽古はできるでしょ」
先生は顔を赤らめながら、中央に畳んで置いてあったマットの上をぽんぽんと叩く。
「そうですね」
俺が頷くと先生はモジモジとしながら、
「じゃあ私着替えるから、あっち向いててもらえるかな」
そう言って用具室の扉を落ちていた縄跳びでしっかりと縛り、恥ずかしそうにジャケットを脱ぐ。
「どうして扉を」
「ね、念のためかな」
何のためかよくわからなかったが、俺はもう一度頷いて先生を見ないように体をずらした。
「絶対見ちゃダメだから」
「わかってます」
「その、見ちゃダメだからね」
「もちろん見ません」
「えーっと、見たら……」
そんな会話が数回続くと、
「あなたがグズグズしてるから着替えが終わっちゃった」
なぜか残念そうに先生はそう言うと。
「まあいいわ、チャンスはまだあるもの」
小声で妙なことを呟いたが、俺たちはマットの上で背中合わせに座り、先生の掛け声と同時に寝技を掛け合った。
何度も行った稽古とは少し違い、先生は本気だったのか呼吸も荒く、いつもより密着する時間が長く感じる。
先生の胸の感触もダイレクトに伝わる気がして、何度も戸惑ったが、
「もっと本気を出しなさい、本気よ本気! わかる? 本能的に、もっとグイーっと!」
俺は先生の声に押されるように、必死に一本を狙った。
しかし…… 俺はその時も先生を抑え込むことができずに終わる。
腕ひしぎ十字固めを決める先生の足をポンポンと叩き、降参の意を伝えると、
「どうしてこうなっちゃったんだろう」
先生は天井を仰ぎながら、悲しそうに呟く。
「申し訳ありません、俺の力が足りなくって」
「いろんな意味で負けたのは私」
「先生が負け?」
首をひねると、
「色々と勝負をかけたんだけど、私の空回りだったみたい」
そう言うと「しゅん」と音を立てて、首をすくめる。
「よくわからないんですが」
「本当に強い男って言うのは、きっと紳士なのよ」
俺がもう一度首をひねると、
「品行正しく礼儀に厚く、信義をわきまえている。アキラ君にぴったりな言葉じゃない」
先生は俺を見て力なく笑う。
「そんなんじゃないですし…… 紳士ってほら、金持ちのイメージがあるし」
俺が苦笑いすると、
「貴族的なっていう意味もあるみたいだけど、本物の品位に貧富は関係ないわ。アキラ君は真面目で努力家で曲がったことが嫌いで、それでいて勇気もある」
先生は説得するように俺の目を見て、ゆっくりとそう呟いた。
「まあよくつまらない奴だって言われますが」
俺が照れながら反論すると、
「確かにね、ちょっと硬すぎるかな」
先生も照れ笑いしながら襟を正し、帯を締め直す。
そのとき柔道着の下のTシャツの胸がブルンと揺れ…… やはり先生がブラジャーをしていないことに気づく。
「おかげで私も教師の道を踏み外さずに済んだみたいだし、試合に勝ったのはあたしだけど、これならアキラ君は大丈夫だって、そんな気がするの」
そこでやっとバカな俺も、今の状況が理解でき始めた。
美人女子教師と体育館用具室で二人きり。
――まるでエロ漫画みたいなシチュエーションだ。
先生の上気した瞳、珍しく紅く彩られた唇、呼吸するたびに揺れる大きな胸は柔道着の上からでも、その美しい形がはっきりとわかる。
稽古中何度も不用意にその美しい顔が近づいてきたし、やたらと胸が押し付けられたりした。
最後の腕ひしぎ十字固めも、やたら太ももの感覚がしっかりと伝わってきたし、腕が色々と触れちゃいけない部分に当たっていたような気もする。
そもそも着替え時に振り返るべきだったかもしれないし、慣れない化粧をしてスカートを履いて現れた時に、気づく必要があったのだろう。
「いつも後悔ばかりしているし、力もないし、負けてばかりいるから…… 俺は決して強くないです」
今、人生における重大なチャンスを逃したような気がして俺が落ち込むと。
「前に話したかもしれないけど、あたし地元の消防団や災害ボランティアに所属してて」
先生は気を取り直すように、話題を変えた。
そう、子供の頃大きな災害を経験していて、大人になってからそんな活動もしてるって話を聞いたことがある。
「あの川で子供が溺れてた時も、アキラ君より早く現場にいたのよ」
しかしそれは初耳だった。
「子供の意識がなくなりかけて、いよいよ誰かが飛び込むしかないって状況になったら、あたしたち消防団も駆け付けた警官も…… その勇気が出なかったのね。どこかで消防のレスキューが来るのを待とうって声も上がってたし」
先生はそう言って、バツが悪そうに頬を掻く。
「先生としてたしなめなきゃいけないってのもあったけど、あの時は嫉妬というか…… 飛び込めなかった自分に対する憤りもあって。 ――あんな強い事言っちゃってごめんね」
「先生が浮き輪を投げてくれなければ、二重遭難でしたけど」
「それこそ結果論よ。以前から何でこんなチャラい子が柔道やってんだろうって、気にはなってたけど、あれ以来見る目が変わったの。男子顧問の指導放棄や部員内のいじめにも耐え、真面目練習に打ち込む姿とか。どんな悪環境でもめげずに前に進もうとする気持ちとか」
果たして俺が、そんな事してるかどうかは分からなかったが……
「そんなアキラ君の勇気ある態度は、あたしの心の支えだったの」
先生は照れたように小声でそう呟いた。
何を言ったらいいか分からなくなり、俺が黙り込むと。
「だからその、す……」
そう言って先生は真っ赤な顔で身を縮める。
「す? ですか」
「そうよ、すっ…… 寿司はやっぱり美味しいわね」
今時うぶな中学生でもそれはないだろう。
どこから突っ込んだらいいか判断に困り、更に言葉が出なくなる。
しかも…… これは押し倒してもいいという合図だろうか?
先生は縮こまりながら上目使いで俺をチラチラと見る。
反応がアラサー女子とは思えなくて俺がまた悩み始めると、先生は何かを覚悟したかのように頷き、
「紳士たれ!」
そう言って両手を握りしめて立ち上がった。
それが恩師、七村奈々先生との最後の会話だ。
まあだいたい後悔なんて先に立たないものだが、やはりあの時のことが悔やまれる。
もっと俺がちゃんと先生に思いを伝えていれば…… いや、俺に勇気なんかないとハッキリ言えてれば。
その三ヶ月後に起きた豪雨災害で、先生が無理をして命を落とすことなんかなかったんじゃないかと。
――今でもそんな気がしてならない。