第五章 参妃、推参!①
その時、かなたは入浴を終えたばかりだった。
ポカポカとした様子で、寝間着代わりのジャージを着込んでいる。
少し濡れた髪を指で梳いて、彼女は自室にてベッドに腰を下ろしていた。
肩には、いつもの赤蛇を乗せている。
『今日も長湯だったな。お嬢』
「……うるさい」
と、赤蛇の台詞に、ぶっきらぼうに答えるかなた。
その頬が微かに赤らんでいるのは、湯上がりのせいばかりではない。
以前のかなたは、カラスの行水だった。
入浴中は隙に繋がる。そのため、シャワーだけで済ますことも多かった。
しかし、このフォスター邸に来てからは、しっかり入浴するようになっていた。
正確に言えば入浴時間は短い。しっかりと体を洗うようになったのだ。
――そう。いつあの人に命じられても応じられるように。
かなたは、やや赤い顔のまま、自分の胸元に片手を置いた。
(とりあえず、私は大切には思われている)
そのことにホッとする。
こないだは、久しぶりにあの人に我儘を言ってしまった。
膝の上抱っこを、ねだってしまった。
あの人は困った顔をしつつも応じてくれた。
不機嫌なかなたの頭を、何度も何度も撫でてくれたのだ。
本当にホッとした。
ただ、今朝の件を経て、少し考える。
――エルナ=フォスター。
妃の長である壱妃。
何とも凄い寝間着だった。
それに比べて、今の自分の姿は何だ?
「…………」
無言のまま、眉をひそめる。
色気の欠片もないジャージ姿。
この姿を見て、あの人はどう思うだろうか……。
(……うん。明日にでも)
かなたは静かに頷いた。
(買いに行こう。決戦用寝間着を)
強く決意する。と、その時だった。
不意に机の上が震動した。
マナーモードにしてあるスマホの振動だ。
かなたが手に取ると、真刃からの電話だった。
「……もしもし」
かなたは即座に出る。
すると、スマホから愛しい人の声が聞こえてきた。
『かなたか?』
真刃の声だ。かなたは「はい」と答えた。
「どうかされましたか? 真刃さま」
そう尋ねるかなたに、
『緊急事態だ』
真刃は率直に答えた。
『エルナにもかけたのだが繋がらん。エルナはどうしている?』
「エルナさまは、今は入浴中のはずです」
フォスター邸では決まった入浴順はない。手が空いたものから入浴するのだ。
真刃は『そうか』と呟いた。
『体格的にはエルナの方が近いと思ったが、まあ、かなたでも問題ないだろう』
と、前置きしてから真刃は告げる。
『己は今、秘匿拠点――セーフハウスだったか? その一つにいる』
「……セーフハウスですか?」
かなたがそう尋ねると、真刃は『そうだ』と答えて、そのセーフハウスの場所を告げた。
『そこにお前の予備の服を持ってきて欲しい。己の服も適当に持ってきてくれ。それと食料もだ。特に鉄分を補うものがいい』
「鉄分? 真刃さま。まさかどこかお怪我を?」
かなたが不安そうに尋ねる。
すると彼女の不安を察したのか、真刃は優しい声で答えた。
『大丈夫だ。己は負傷していない。だが、負傷した者はいる』
「……そうですか」
少しホッとしつつ、かなたは即座に応じる。
「承知いたしました。エルナさまにもお伝えしましょうか?」
『いや、エルナには己から連絡しておこう。お前は急いで来てくれ。どうにか持ち直しはしたが、血が足りていないのは確実だ。早く食事をさせてやりたい』
「承知いたしました」
かなたがそう答えると、『では頼んだぞ』と告げて真刃は通話を切った。
『お嬢? ご主人からか?』
「うん。任務」
かなたはそう告げると、ジャージの上を脱いだ。それを赤蛇の上に被せる。
いかにあの人の従霊であっても、ここから先を見ていいのは、あの人だけなのだ。
かなたは、すぐさま制服に着替え直した。
現状、これがかなたの戦闘服だ。この服が最も動きやすいのである。
エルナが、弐妃に相応しい戦闘服を用意中らしいのだが、それはまだ手元にない。
『お嬢。オレも行くぜ』
言って、赤蛇がかなたの体に登ってくる。
そして赤いチョーカーになって、彼女の首に巻きついた。
続けて、かなたはクローゼットから大きなリュックを引っ張り出すと、自分の服を一着見繕って詰め込んだ。それを肩に背負って真刃の部屋に向かう。不敬ながらも入室。少し緊張しながら、彼の服を手に取って、それもリュックに詰め込んだ。
次に向かったのはバスルームだ。曇りガラスのドアの前で「エルナさま。緊急事態です。出かけてきます」とだけ告げて駆け出した。
「え? かなた?」
エルナの声が浴場の奥から聞こえたが、彼女への説明は真刃がしてくれるだろう。
風呂から上がれば、着信履歴でも分かるはずだ。
かなたは先を急いだ。
まず向かうのは、近くのスーパーだ。そこで食材を購入する。
レバー、マグロ、ホウレン草。
鉄分を補うとなると、そんなところだろうか。
かなたはありったけの食材を入手すると、それもリュックに詰め込んで、タクシーを捕まえる。ここまで二十分も経っていない。
「お客さん? どこへ?」
大きなリュックにセーラー服。
まるっきり家出少女のような姿のかなたに、運転手は目を丸くしつつもそう尋ねた。
かなたは、セーフハウスのある街の住所を告げた。
「急いでください」
そう頼んで、先に一万円札を渡した。
セーフハウスまで行くには充分すぎる額だ。
「あ、はい。分かりました」
先に金銭を支払われたら、文句の言いようもない。
タクシーは発進した。
かなたは走るタクシーの中から、外の様子を一瞥した。
そして、
「真刃さま」
愛しい人の名を囁く。
「どこであっても、すぐに参ります」
リュックを大切そうに両手で抱えて、かなたはそう呟くのであった。




