第四章 先達者は、若人の明日を願う③
それは三日前のことだった。
その日、彼女は無言で作業に勤しんでいた。
暗い部屋の中で無数の工具を使い、壊れた発電機を直していた。
年齢は十六歳になる。
紺色の瞳と髪。ショートボブな髪型は意図的ではないが、祖父譲りの癖毛でまるでネコ耳のようになっている。
身に着けるのは橙色のオーバーオールだ。膝などの所々がほつれて油で汚れている。油は頬にもついていた。美人ではあるが、表情は不愛想だ。瞳はいわゆるジト目。口元はへの字に結んでいる。彼女のデフォルトである表情だった。
彼女の名は文月寧子。銀城虎之助の孫娘である。
二年前の世界崩壊後、寧子は技術屋として生き抜いていた。
二年前にとあるチームに拾われて、祖父から学んだ知識と技術で機械を改造や修理してみせることで価値を示し、今も生きていた。
ただ、その扱いは奴隷に近い。衣食住とわずかな自由時間こそ最低限与えられているが、ほとんどこの部屋だけで一日が完結していた。チームメンバーが回収してきた機械を修理、改造するだけの日々だった。
けれど、この生活に不満を言うこともなければ、逃げ出すこともなかった。
この部屋から出れば、自分は一日も生きていけないと感じているからだ。
「…………」
カバーを外し、切断されていた回線の代用品をストックボックスから探す。
今日もそんな作業をしながら、寧子はふと思い出す。
(……あいつらはヘン)
二年前に現れた人食いの化け物。
怪物と名付けられたあれはおかしい。何かが違う。《覚醒者》の方もだ。
寧子には、あいつらが『生物』のようには思えなかった。
科学の英才教育を受けて育った機械の申し子のような寧子なのだが、実は子供の頃から摩訶不思議なモノが見える体質だった。
半透明のお化けたちが見えるのである。幼い頃は彼らがどうしようもなく怖かった。よく祖父の膝の上で震えていたものだ。残念ながら、寧子以上に技術者畑だった祖父は全く信じてはくれなかったが、それでも寧子が落ち着くまでポンポンと頭を叩いてくれた。
――怪物と《覚醒者》。
寧子には、あいつらがお化けと同じような存在のように思えるのだ。
(……あいつらってホンモノ? ほんとうに生きもの?)
密かにそんな疑問をずっと抱いていた。
しかし、その疑問に答えてくれる者はいない。
ただ、分かっている事実として生存本能からの恐怖だけでなく、怪物や《覚醒者》に寧子は霊感的な恐怖も抱いていた。あいつらが心底怖い。特に怪物に捕まった女の人の末路を目撃したことがあるだけに、より一層恐怖が募っていた。
それに比べれば、牢獄のようでもこの部屋の中の方がマシだった。
少なくとも昨日まではそう思っていた。
「……………」
寧子の作業の手が止まる。元々静かな部屋に完全な沈黙が降りる。
それは先日のことだった。
壊れた家電を部屋にまで持って来た戦闘班の男性が寧子にこう告げたのだ。
『へえ。よく見りゃあお前も随分と育ったな』
まじまじと寧子の姿を見やる。
寧子の身長はかなり低い。百四十半ばぐらいだ。しかし、ここ二年で身長はほとんど伸びなかったが、女性的な成長は遂げていた。特にリーダーが凝視する胸は人並み以上だ。トランジスタグラマーと呼ばれるスタイルだった。
『不愛想だが顔もいい。癒し班の連中と違ってすれてないのもいいな。決めたぞ』
瞳を細めてこう告げる。
『明日の晩。俺の部屋まで来いよ。シャワーも使わせてやる。いいな』
その言葉の意味が分からないほど寧子も鈍くはない。
寧子は嫌だと思った。もっと頑張るからそれはやめてと言おうとした。
しかし、喋ることが元々苦手な寧子は何も言えなかった。
表情で伝えることさえ出来なかった。
『異論はねえみてえだな』
男はそれを承諾と受け取った。
『なら、明日からお前は俺の女だ。戦闘班の俺の女になるんだから、今の生活も大幅に改善すんぞ。楽しみにしとけよ』
そう告げて、男性は去っていった。
寧子は未だ嫌だと思っていた。出来ることなら断りたい。
けれど、今更断っても相手を不快にさせた上に、きっと受け入れてくれない。
逃げ出したい思いだったが、ここから逃げたところで死ぬだけだ。
(………おじいちゃん。わたしは……)
寧子は深く俯いて唇を噛んだ。
もう一度、祖父と再会するために。
生き延びるためには受け入れるしかないのか。
寧子は葛藤した。けれど、それは結局、無駄に終わった。
数時間後、その時を迎える前に、拠点が怪物に襲撃されたからだ。
中途半端にチームの規模が大きくなりすぎてしまったのだ。隠れ家的だった拠点に人の出入りが多くなり、怪物どもに嗅ぎつけられてしまったのである。
拠点は阿鼻叫喚の場となった。怒号に悲鳴。喰い殺される男に、攫われる女。もはや部屋に閉じこもっていても意味がない。寧子は勇気を振り絞って逃げ出した。
……だがしかし。
一時間後。寧子は両腕を掴まれて吊るされていた。
彼女の両腕を掴むのは一頭の怪物だった。場所は拠点ではない。近くの公園の茂みの中だ。
逃げ切れるはずもなかった。寧子は他の女性たちと同じように攫われてしまった。
怪物の一頭に捕まり、ここまで連れてこられたのだ。
周辺には誰もいない。どうやらここはこの怪物の縄張りのようだ。
怪物の姿は成人男性ほどの大きさ。顔はほぼ人間だが、両腕だけが異様に長く太い。下半身は黒い鱗に覆われていた。
怪物はニタリと嗤うと、蛇を思わせるほどに長い舌を出し、寧子の首筋に這わせた。服の隙間から蛇のごとく入り込んでくる。
(――――~~~ッッ!)
ぞわぞわと寧子の背筋に悪寒が奔った。
自分がどんな末路を迎えるのか、嫌でも理解した。
だが、この状況でも寧子は声を出せなかった。
ボロボロと涙を零す。
(……だれか)
せめてもの抵抗で、何度も何度も両足で怪物を蹴りながら願う。
(……だれか、たすけて)
だが、そんな願いは誰にも届かない。
この世界はあまりにも過酷だからだ。
こんな結末は吐いて捨てるほどにあることだった。
それを理解していても願わずにはいられなかった。
――と、その時だった。
『ぎゃッ!?』
いきなり怪物がビクッと震えて寧子を離したのだ。
寧子は腰を地面に打ち付けつつ、唖然とした。
さらに怪物はその場にうずくまり、ガタガタと震え出したではないか。遅れて寧子も、ぞわりと何かの気配を感じた。まるで心臓を鷲掴みにされたような圧力だった。
『ぎゃぎゃあッ!?』
そして周囲を盛んに気にしながら怪物は逃げ出した。まさに脱兎のごとくだ。獲物である寧子のことを完全に忘れているようだ。
寧子はチャンスだと思った。何故か感じていた圧力は薄れていた。多分さっきの怪物も同じだろう。恐怖が薄れ、寧子のことを思い出したあの怪物が戻ってくるかもしれない。今の内にここから逃げなければならなかった。
ふらふらと茂みから出て、無人の公園を進む。
しかし、その半ばで寧子は倒れてしまった。引き籠りの身で無茶をしすぎたのだ。体力的にも精神的にも想像以上に寧子は消耗していた。
うつ伏せに倒れたまま動けない。
(……ここでしぬの?)
寧子がそんなことを思い浮かべた時だった。
不意に、前方が明るくなったような気がした。
寧子がどうにか顔を上げると、そこには炎の塊が浮いていた。子供の頃から何度も見た摩訶不思議な現象。鬼火という奴だった。
『……ふむ』
その鬼火は言葉を発した。
『背丈からして年の頃は燦と同じほどか? まだ息はあるぞ。主よ』
「……そうか」
もう一人分の声が聞こえてきた。
寧子が視線を向けると、そこには青年が立っていた。
紳士服を着た二十代の青年だった。
『しかし、主よ』鬼火が少し呆れたような口調で言う。
『これではまるで強欲都市の再現だな。あの時は芽衣。迷い猫であったが』
一拍おいて、鬼火は苦笑を零す。
『今宵は仔猫のようだ。どうする? 主よ』
「見捨てる訳にもいくまい」
青年は嘆息して告げる。すると、鬼火はくつくつと笑い、
『伍妃となった芽衣もそうだが、思い返せば武宮もか。ああ、そういえばホマレもそうであったな。主は一人で動くと本当によく人を拾うな』
「……それを言うな」
青年は渋面を浮かべた。
「芽衣や綾香にも人を拾いすぎだとでも言われそうだ。いささか気が重い」
寧子にはよく分からないことを呟きつつ、青年は彼女に近づいた。
「尋ねるぞ。お前はどうしたい?」
そう問いかけてくる。寧子は喉を詰まらせた。
しかし、それでも声を振り絞って、
「……たす、けて」
そう願った。青年は「そうか。分かった」と返して、寧子の前で膝を曲げた。
「立てるか?」と尋ねてくるが、寧子にはもうその体力もなかった。
すると青年は「やむを得んな」と言って、寧子の腰を支えて抱き上げた。
そうして両腕で寧子を抱えると、ポンと彼女の後頭部を叩き、
「己が運ぼう。案ずるな。お前は己の庇護下に入る。もう恐れることはない」
そう告げてきた。
(………あ)
とても優しい声だった。気遣いの心が伝わってくる。
寧子の瞳からポロポロと大粒の涙が零れてきた。そのまま強く青年にしがみつく。
「少女よ。名は何と言う?」
青年にそう問われて、寧子はかすれるような声で答えた。
「……ねいこ。ふみつきねいこ」
「そうか。良い名だ」
青年は穏やかな顔で、寧子の頭を撫でた。
「すまぬな。名乗り遅れた。己は久遠真刃という」
「……しんは?」
その名前を最後に心に刻んで、寧子は意識を失った。
『……ふむ。主よ』
鬼火――猿忌は告げる。
『今宵はこれでもう強引な手段もとれなくなったな』
「……うるさいぞ。猿忌」
少女を優しく抱き直しながら、青年――真刃は双眸を細めた。
「言われずとも分かっておる。この娘も衰弱しているようだ。今宵は帰還するぞ」
『御意』
そうして、真刃はその場から去っていくのであった。
その腕に一人の少女を抱きかかえて。
「この娘は貴重な情報源になろう。しかし、うむ……」
少しだけ眉をひそめて、
「綾香たちだけではないな。杠葉たちにも何か言われそうだな」
そう呟く真刃であった。




