第八章 夢を貪る風⑥
朝。
アレックスはご機嫌な気分で目を覚ました。
昨夜、自室に戻って床に就いても、しばらくは興奮気味で中々に寝付けなかったが、睡眠時間が短かったとは思えないほどに体調がいい。
(おっし)
背中に羽でも生えているかのような気分だった。
アレックスは布団から出て立ち上がると、肩をグルグルと回した。
今日も早速鍛錬だ。あの人に相応しい『刀』になるために。
(まずは朝飯を食うか)
鍛錬は食事からだ。それはアスリートも引導師も変わらない。
同室のメンバーを誘って食堂に行くか。
そう考えて、アレックスがセイラたちの方を見やると、意外にもセイラたちはすでに起きていた。セイラも琴姫もだ。
浴衣姿のままの二人は、何故か一つの布団に対して挟むように正座していた。
その布団には誰も寝ていない。ただ敷かれただけの布団だった。
それを神妙そうな顔で、セイラたちは見つめているのである。
(……? 何してんだ?)
アレックスは小首を傾げた。そうして二人に近づくと、
――すうっ、と。
その布団にセイラが触れた。
「……冷たいわ」
緊張した声でそう呟く。
琴姫も息を呑みつつ、恐る恐る布団に触れた。
「う、うん。冷たいね」
「……いや。何してんだ? お前ら?」
アレックスはそう尋ねた。
が、すぐに気付く。その無人の布団はラシャのモノであることに。
そして、深夜、アレックスが起きた時と変わらずそのままであることに。
(………あ)
アレックスの頬に朱が入る。
(そ、そういうことか……うぐっ)
そして昨夜の嫌な夢も思い出す。
折角のご機嫌な気分に水を差すような悪夢だ。
(いや、完全に忘れてたけど、流石にオレにNTR願望なんてねえよな?)
そのはずだ。
なにせ、剛人には異性として何の感情もないのだから。
緊張した様子で布団を見つめるセイラや琴姫とはまるで違う。
対し、あの人のことを思い浮かべると、こんなにもドキドキするというのに。
もし、あの人に頬でも撫でられたら、それだけで心臓が破裂してしまうかもしれない。
こんな想いを抱くのは、あの人に対してだけだった。
(……まあ、ラシャがこんな状況だしな。変に影響されただけだろ)
アレックスはそう結論付けた。
ともあれ、
「……ラシャはまだ戻って来ねえみたいだな」
アレックスはセイラたちに声をかけた。二人はビクッと肩を震わせた。
「一応あいつの計画は成功したってことじゃねえか? なら、きっと疲れてるかもな。とりあえずオレらは飯でも行こうぜ」
アレックスは苦笑を浮かべつつ、二人にそう提案した。
セイラたちはアレックスの顔を見て、コクコクと頷くのだった。
◆
同時刻。
私服姿の刀真は少し欠伸をしながら、天雅楼本殿の庭園沿いにある廊下を歩いていた。
食堂で朝食をとるためだ。
昨夜は久しぶりに姉である刀歌と話し込んでいた。
そのため、かなり遅くまで起きていたので少しばかり寝不足だった。
なお刀歌はすでに起きていて、訓練場に行ったそうだ。スマホに連絡があった。刀真も朝食を食べたらすぐに行くつもりだった。今日は桜華師――姉の師も朝稽古に参加しているらしい。刀真としては名前ぐらいしか知らない御影家の中興の祖である。凄く興味があった。
(僕も頑張らないと)
幼くとも刀真も引導師の端くれだ。
大きな戦いが迫る今は、少しでも訓練をしておきたい。
欠伸をかみ殺し、改めてそんな決意をして歩いていると、
(……あれ?)
廊下の奥に人影があった。
廊下の縁に腰を掛けている。近づいてみるとそれは剛人だった。
刀真の兄貴分は、寝間着である浴衣姿のまま一人で庭園を眺めていた。
「……剛人兄さん?」
「……おう。刀真か」
刀真に気付き、剛人が視線を向けた。
その顔は早朝だというのに、まるで黄昏ているようだった。
「に、兄さん?」刀真は眉をひそめた。「何かあったの?」
「……ああ」
剛人は再び庭園に顔を向けて遠い目をした。
「色々あったんだ。そう。色々とな」
「そうなの?」
兄貴分の様子に小首を傾げる刀真。
何にせよ、落ち込んでいるとかではなさそうだ。
「あ。そうだ。僕、僕らの部屋に稽古用の木刀を置いてるんだった」
剛人の顔を見て思い出す。
刀真は剛人と自分に割り当てられている客室に向かおうとした――が、
「……待ちな。刀真」
右腕を剛人に掴まれて止められた。刀真はキョトンとした顔で剛人を見やる。
「どうかしたの? 剛人兄さん」
「今はダメだ。刀真」
「え?」
「お前にはまだ刺激が強すぎる。つうか……」
剛人は刀真の右腕を掴んだまま嘆息した。
「まだガキんちょでもお前も男だしな。俺が見せたくねえんだよ」
「? どういうこと? 剛人兄さん?」
刀真は困惑した。対し、剛人はかぶりを振って、
「お前の木刀なら後で俺が取って来て渡してやるよ。訓練場にも備えはあったしな。とりあえず今は部屋に行くな」
「……よく分からないけど」
刀真は眉根を寄せつつも、「ま、いっか。うん。分かったよ」と素直に応じた。
そうして最初の目的通り、刀真は食堂に向かった。
その後ろ姿を見送りながら、剛人は少しホッとした。
流石に九歳児にはとても見せられない。あればかりは……。
「……昨夜は無茶もさせちまったしな」
彼女――ラシャは今、剛人の部屋で眠っている。
生まれたままの姿をシーツで覆っただけの格好でだ。
たぶん、しばらくは起きることもない。
「ったく。俺って奴は」
剛人はボリボリと頭を掻き、呆れたような笑みを見せた。
「結局、欲望丸出しじゃねえか」
昨夜のラシャの来襲。
いつものように逃げ出すことは可能だった。
しかし、昨夜のラシャは今までと覚悟が違っていた。
『……アタシはあんたに死んでほしくネエ』
この上なく切実で真摯な言葉だった。
陸妃との実力差を思い知った直後では尚更だ。
きっと、今のままでは生き残れない。
『あんたが刀歌に惚れてるのはよく分かってる。けど、あえて言うよ。ゴウト』
一糸も纏わず、震えながらも全身を剛人に預けて、ラシャは真っ直ぐな眼差しで告げた。
『あんたは引導師なんだよ。なら、もっと強欲に生きな。惚れた女は全員自分の女。刀歌もアタシたちも全員守ってみせるって言っておくれよ』
勇気を振り絞っている彼女のその言葉は、剛人の心を強く打った。
そうして――。
「……そうだよな。ラシャ」
剛人は空に拳を突き出して強く固めた。
「俺はもっと強欲に生きてやらあ。惚れた女は全員守ってみせるさ」
と、そんな格好いいことを口にしつつも、
「…………」
拳をかざしたまま、長い沈黙が降りる。
ややあって、剛人は天を見上げて顔を両手で抑えた。
健気で真摯なラシャを愛しく思ったのは間違いなく事実。
けれど、あの時。
彼女と体を重ねた時に無茶くちゃ押し当てられたのである。
刀歌にも劣らないその大いなる実りを。
「……おっぱいさまには勝てなかったよ」
これもまた真理だった。
自己嫌悪でへこむ剛人であった。