幕間二 矮小なる男
自分は矮小な男だ。
ずっと、そう思っていた。
生まれは下級武家。領地もない塵のような家だ。
泰平の世ならば、そのまま腐り堕ちたような家系だった。
だから、運は良かったのだろう。
男が生まれたのは戦乱の多い世だった。
大きな戦功を立てれば、立身出世も夢ではない。
だが、男はどこまでも矮小だった。
自ら望んで飛び込んだ戦場。
そこは死の嵐が吹く、狂気に満ちた地獄だった。
男はひたすらに逃げ続けた。
時には屍の山の中に紛れ込み、息を潜ませた。
敵の首を獲るような勇気も武力も、男は持ち合わせていなかった。
ただ、矮小な男はここでも幸運だった。
とある武将と出会ったのだ。
その人物は当時にして珍しい女傑だった。
まだ十代後半という若さゆえか、気丈な娘だった。
そして強さのみならず、美しさも兼ね揃えた女だった。
馬上にて大太刀を振るうその姿は、男にとって神々しくもあった。
彼女は屍に紛れ込んだ男には気付かず、とある将を討った。
一太刀で首を刎ねた。
(――ひいィ)
その首は男の目の前に落ちた。矮小なる男は悲鳴をぐっと堪えた。
場は乱戦だった。
彼女には首を持ち去る余力もなく、すぐさま別の敵将を迎え撃った。
馬が駆け、激しい怒号、剣戟音と共に彼女と敵将は戦場を移していった。
その場に残ったは無数の屍と、矮小なる男。
そして不意に舞い込んだ敵将の首だった。
男は、その首を両手で担いで必死になって駆け出した。
――生き延びる。
ここで生き延びれば、すべてが変わる。
そう信じて、悪夢のような戦場を必死に逃げた。
結果、矮小なる男は生き延びた。
手柄を認められ、大家に取り立てられた。
奇しくも、その家は女傑の一族だった。
矮小ゆえにか、切っ掛けさえあれば男は取り入ることは巧かった。
気の利く小間使いと当主には憶えられていた。
だが、当主の娘――女傑には冷たくあしらわれていた。
武に生きる娘にとって、矮小なる男の媚びた様子が気に喰わなかったのだろう。
男にとっては忸怩たる扱いだ。
あの娘に懸想していたこともあって尚更だった。
妄想の中で、幾度あの娘を抱いたことか。
恩人であり、憧れだったからこそ、歪んだ懸想をしていた。
ただ、男にとって想定外だったのは再び戦場に駆り出されたことだ。
戦乱多き世なのだから当然だった。
しかし、矮小なる男には受け入れ難い事実だった。
幾度かは生き延びた。
当主の馬を引くだけで終わった戦もあった。
だが、勝ち戦ばかりではない。
致命的な負け戦があるのも世の常だ。
たった一夜にして武の大家が滅びることもある。
当主の首を討たれた時、恥も外聞もなく、男は再び屍に紛れ込む真似をした。
だが、かつての頃とは違う。
心根は変わらず矮小だ。しかしながら身に着ける物が違う。
仮に屍であっても、首を獲られる価値がある程度の鎧を身に着けていたのだ。
――ずぶり、と。
矮小なる男は背中に刀を突き立てられた。
致命傷だった。吐血して呻く。男は前髪を掴まれ、喉元に刃を添えられた。
首を獲られるのだ。
しかし、同時に顔を上げられたことで前を見ることが出来た。
そして目撃する。
負傷し、男どもに詰め寄られる娘の姿を。
気丈な彼女は短刀を自分の喉に向けていた。穢される前に自害する気なのだろう。
それを見た時、男の中にある想い――妄執が生まれた。
直後、矮小なる男の意識は暗転する。首を刃でかき切られたからだ。
そうして再び意識を明確に取り戻したのは百年後だった。
矮小なる男は、我霊に堕ちていた。
そして獣の百年の記憶の中には、あの娘の最期も残っていた。
我霊に堕ちた男は醜悪な怪物と化した。矮小なる蟲――蜘蛛によく似た獣だ。かつて矮小なる男だった獣は、その場の敵を殲滅した後、娘を攫った。
辿り着いたのは深い森の中。
娘は必死に抵抗した。自害もしようとした。
だが、獣と化した男は、娘の抵抗など歯牙にもかけずに犯した。
記憶も理性も失いながらも、まだ人であった時に抱いた懸想の分だけ犯し尽くした。
娘が快楽に堕ちるのも早かった。
我霊の体液を受け続けては当然だった。
ただ、それで終わらない。性欲を満たした時、我霊が望むのは食欲だ。
――今でもはっきりと憶えている。
気丈だった表情を歪ませて、必死に命乞いする彼女の姿を。
その肉の味を憶えている。
そこには憧れなど、どこにもなかった。
自分の矮小さに嫌気がさしつつも、男はその記憶に何とも言えない快楽を感じていた。
そこからは完全に愉悦目的だった。
あの娘に似た気丈な娘を好み、同じような状況を作り出した。
結果は誰もが同じだ。
快楽に溺れた後、命乞いをする。
数多の女たちに、何度も何度も最初の娘の面影を見た。
愉悦で口元が歪む。
女たちを喰らうことに心理的な抵抗はなかった。
結局、人の尊厳や倫理観さえも、自分は矮小だったということだろう。
実に浅ましく、それでいて愉しい自分の『癖』だ。
だが、不思議なことに、男は真逆の願望も抱くようになった。
(……ああ、これがそうなのか)
それには心当たりがあった。
同胞より聞いた話だった。
知性を取り戻した我霊は人の輝きを求めるそうだ。
生き続けるために捨て去った、人としてのかつての輝きを観たいのだ。
自分にそんな大層な輝きがあったとは思えないが、男は確かにこう感じている。
絶望の中でも決して輝きを失わない。
――あの娘とは違う。
快楽にも死にも揺るがない。
最期の瞬間まで凛々しく在り続ける矜持。
歪んだ感情の中、いつしか、男はそんな輝きを求めるようになっていた。
流石に、やれやれと思う。
なんと矮小で歪曲した願望なのだろうか。
(拙者の癖にも困ったものでござるな)
そんなことを感じながら、男は糸を紡ぐように体を実体化させた。
場所は森の中、太い木の枝に男は立つ。
丸い眼鏡をかけた大柄の男――土蜘蛛だった。
土蜘蛛は双眸を細めた。
「……よもやあのようなモノを……」
その視線の遠く先には街の様子が見える。
――そう。天雅楼である。
「分かりますぞ。中々骨が折れそうな要塞のようですな。力技で正面から攻め込むのは拙者といえども悪手でござるか。されども」
土蜘蛛はくつくつと嗤う。
「決して逃すつもりはない。拙者、『蜘蛛』の名を冠しておりますが、その性は蛇のごとく執拗なのでござるよ」




