幕間一 とある少女の敗北
(やってらんね)
ガムを口元で膨らませて彼女は不満を抱く。
それは簡単な任務だった。
最近スラム街で徘徊しているという下級我霊の討伐だ。
少女を好んで攫って犯して喰らうという胸糞悪い相手ではあるが、実力的には雑魚だった。学生レベルの引導師だけでも討伐可能な我霊である。
(こんなのただの害獣駆除じゃねえか)
ぱんっとガム風船を割る。
彼女はそのまま路地の端にガムを吐き捨てた。
年の頃は十八歳ほどか。
勝気そうな顔立ちをしており、ヘの字に結んだ唇の間からは微かに牙のような八重歯が見えている。瞳の色は翡翠色。髪は金髪だ。前髪の右側のみを短い三つ編みにしているのが特徴的な髪型であり、そこ以外は短く雑に切っていた。
服装は黒いTシャツの上に、黒と赤を基調にした厚手のジャケットを羽織っていた。ボトムスには紺色のジーンズと、頑強そうなブーツを履いている。
彼女の名は、アレックス=オズと言った。
悪臭が漂う深夜の路地裏を彼女は進む。
不貞腐れたように、ジャケットのポケットに両手を突っ込んでいた。
(腐れ当主め)
アレックスは自分が所属する組織――フォスター家の当主にも不満を抱いた。
彼女がこんな雑務をやらされているのは、とある一件に対する罰のようなものだ。
フォスター家の特務班に所属するアレックスは、少し前に問題行動をした。
個人的にどうしても納得のいかないことがあり、組織に無断で渡航したのだ。
渡航の結果、どうなったか。アレックスにとってはかなり不満な結果ではあったが、それはともあれ、戻るなり、当主に早速罰則を与えられたのである。
『少しは血の気も抜かれたようだな』
当主はそう告げて、彼女に後輩たちの面倒を押し付けたのだ。
それが今、アレックスの後を追うヒヨコどもだった。
全員で五人。十五歳から十八歳ほどの少女ばかりがアレックスの後ろにいる。
特務班の訓練生だ。揃いの黒い戦闘服を着ているが、全員実戦経験がほとんどない。
今も緊張した様子でアレックスの後に続いている。
アレックスはジト目で少女たちを見やる。
(こいつらに戦闘経験を積ます……っていうより)
小さく舌打ちする。
(こいつらはきっとオレの餌なんだろうな。こいつらを好きにしていい。なんなら全員オレの隷者にしろってことか)
そのために少女ばかりを付けたのだ。
アレックスには隷者がいない。そして彼女自身も隷者ではなかった。
――狂犬。
――切り裂きオズ。
そう呼ばれるほどに苛烈に生き、自前の魂力だけで意地を通してきた。
だがしかし。
『個人の力には限界がある。敗北で少しは勉強しただろう?』
当主は意地の悪い笑みを浮かべながら、アレックスにそう告げた。
アレックスに反論はできなかった。それは事実だったからだ。
『ましてや俺の義弟から女を奪おうとするなら、お前も考えを改めるんだな』
『……俺とあいつはそんな関係じゃねえよ』
その時は不愛想にそう返したが、個人でこれ以上強くなるのはすでに限界を迎えていると自覚もしていた。隷者を得るという手段は決して間違いではない。
当主としては、いずれアレックスを側近候補として見込んでいるのかもしれない。
だからこその隷者獲得の提案だったのだろう。
だが、当主は未だ知らないのだ。
実は、アレックスが女性であることを。
(オレの魂力の高さだと当主の隷者にされんのは目に見えてたからな)
アレックスは渋面を浮かべた。
それは御免だった。
情婦になる未来など望まない。フォスター家の犬のままで終わる気もない。
没落したオズ家をいつかは再興させるのだ。
(そもそもゴリマッチョはオレの趣味じゃねえしな)
アレックスは、ふんと鼻を鳴らした。
彼女の好みとしては細マッチョだ。さらに言えば優しそうなのが良い。
優しくありつつも、ここぞという時は猛々しい。獣性も秘めたクールな男。
そして何より自分よりも格上であること。確実に強いこと。
それがアレックスの理想だった。
(……まあ、そんな野郎は中々いねえんだけどな)
アレックスは嘆息した。
自分でも理想が高いことは分かっている。
これでは当分の間、自分は処女のままかも知れない。
まあ、その前に、後ろのヒヨコたちをどう扱えばいいのかも問題だった。
仮に隷者にするとしても第一段階までしか結べないのはまずかった。
(下手したらオレが女だって当主にバレちまうしな。どうしたもんか)
そんなことを考えながら路地裏を歩いていると、
「―――ひ」
後ろから軽い悲鳴が聞こえた。同行者の一人の声だ。
「ビビってんじゃねえよ」
アレックスは振り向かずに告げる。
「こんなもん、引導師をやってりゃあ当たり前のように見るもんだぞ」
暗い路地の奥。辛うじて街頭に照らされた場所。
そこには背を向けて全裸の少女を頭から喰らう怪物がいた。
三メートルはある巨躯だ。一応は人型のようだが、頭部は巨大な虎。体のあちこちには鱗が浮かんでいる。そして不気味な咀嚼音が今も路地に響いていた。
新兵の少女たちは青ざめながら、虚空から拳銃を取り出して構えた。
欧米では主流である銃型の霊具だ。
一方、アレックスは大剣を虚空から取り出した。
愛用の霊具だ。異国の地でライバルにボロボロに破壊されてしまった武具である。つい先日修復が完了したばかりだった。
「オレが前に出る」
アレックスは新兵たちに告げる。
「お前らは必要なら援護だ。ただオレに誤射だけはやめてくれよな」
意地の悪い笑みを見せて、彼女は駆け出した。
危機を察して虎人間が振り向くが、勝負は一瞬だった。
――ザンッ!
ただの一閃。
頭上から叩き割る一撃で虎人間を両断した。
恐ろしい姿であっても所詮は下級だ。アレックスの敵ではない。
両断された巨躯が左右に倒れた。
アレックスはそれでも警戒を解かず、敵を見据える。
動く気配はない。完全に引導を渡した。
それを確信してアレックスは残心を解いた。
「まっ、お前らもいずれ慣れるさ」
そう言って、大剣を肩に担きながら振り返った時だった。
(―――は?)
アレックスは思わず目を見張った。
そこには誰もいなかった。
いや、人はいた。ただし、元人間がだ。
眼窩が窪むほどに干からびた人間――五人の少女の無残な死体が立っていた。
おもむろに路地に風が吹き込み、五人の少女の遺体が倒れた。
地面にぶつかって粉々に砕ける。まるで砂細工のようだ。
「お、お前ら……」
アレックスは唖然とした。
こんな異常な死に方だ。間違いなく彼女たちは何者かに殺された。
しかし、アレックスはそれに全く気付けなかった。
すると、
「……これは外れだったな」
不意に路地の奥から声が聞こえた。
アレックスがギョッとして見やると、そこには黒い男がいた。
帽子に外套を着た壮年の男だ。
「まさかたった十数秒で枯れ果てるとは。魂力もよくて100あった程度か」
「――てめえ!」
アレックスは凶悪な眼光を男に向けた。
「こいつらを殺したのはてめえか!」
「いや殺すつもりはなかったのだよ?」男は帽子に触れて告げる。
「しかし、友人に頼まれた以上、送り届ける花嫁は上質でなければ私の沽券に関わるしね」
「何を言ってやがる!」アレックスは声を荒らげた。「てめえ! 名付き我霊か!」
「いかにも」男は苦笑を浮かべて答える。
「けれど、名乗るつもりはないよ。今回の私は舞台の端役ですらないのだ。裏方が名乗るのは無粋な話だろう?」
「うっせえ!」アレックスは大剣を構えた。
「さっきから訳分かんねえことばっか言いやがって! てめえがオレの仲間を殺した! それだけ分かりゃあ充分だ!」
アレックスは重心を低くする。
「てめえはぶっ殺す!」
「ははは。生きのよい少年だな!」
アレックスの怒気を、男は大仰に肩を竦めて受け流す。
「彼女たちは君の隷者だったのかね? ならばその怒りも当然か。私に挑むというのならばそれもよい。私としては君の品定めもさせてもらおうか」
「黙れ! 糞バケモンが!」
アレックスが吠える。
そうして――。
十分後。
「……いやはや」
男は帽子に手をかけて苦笑を浮かべた。
視線の向こうには壁を背に倒れるアレックスの姿があった。
大剣は折れ、服はボロボロ。息こそあるが、完全に気を失っていた。
「中々に荒らしい少年だったな」
あごに手をやって撫でる。次いで双眸を細めてアレックスを見やる。破損した衣類の間からは双丘が存在感を示していた。
「ほう。少女だったのか。他ならぬ彼女の願いでなければ私の手中に納めたい娘だな。だが、それだけに餓者髑髏殿への贈り物としては充分ではあるか」
そう呟く。それから気絶したアレックスを抱き上げて、
「さて。勇ましきお嬢さん」
男はクツクツと嗤って言う。
「君の花婿がいる地まで送り届けてあげようではないか」
そうして気絶した少女をその腕に。
死の匂いに満ちた路地裏から怪物は消えていった。




