第八章 刻の兎④
月の綺麗な夜だった。
天雅楼本殿の縁側。
巨狼の姿と成って横たわる狼覇に寄り添って、月子は空を見上げていた。
その姿は未だ大人のままだ。
彼女の異能が未だ持続している証である。
『……月子さま』
自分の背をクッションのようにして体を預ける月子を見やり、狼覇が言う。
『御力を抑えるべきです。月子さまは目覚めたばかりなのですから』
「…………」
狼覇の進言に、月子は無言だった。
ただ、蒼い眼差しで月を見つめていた。
時間操作の異能の影響か、ここには月子と狼覇以外誰もいない。
空には星月。目の前に広がるのは月光が注がれる庭園。
風もない。音もない。
まるで絵画の世界の中に紛れ込んだようだった。
(……確かに破格の異能だ)
狼覇は双眸を細める。
(しかし、それだけに月子さまの負担が心配だ)
そう思う。
時間操作の術式は、無数にある術式の中でも別格だった。
その効果もそうだが、魂力の消費量に関してもだ。
例えば、時間停止ならば、たった一秒でもごっそりと削られるそうだ。
麒麟児と謳われる月子でも、長くて二秒止めるのが限界だろう。
だが、そんな時間操作の異能を使い続けても、月子の魂力が尽きる様子はない。
何故なら、月子は無意識にだが、真刃から魂力を借り受けているからだ。
その量は無尽蔵にも等しい。
しかしながら、今はそれが問題だった。
このままでは一向に月子の異能が解かれない。
ここまで長く時間操作を行った者はかつていたのだろうか?
果たして、それは月子に全く影響がないのだろうか?
狼覇には不安しかなかった。
(無理にでもお諫めすべきか……)
そう考える。
例えば、月子が気を失えば異能が解かれるかもしれない。
不敬を承知の上で、月子を気絶させるべき状況なのか。
(………く)
しかし、それが狼覇には決断できなかった。
まず深く傷ついた月子を攻撃して気絶させるなど考えたくもない。
それに、彼女が気を失ってもこの異能は続く可能性があった。
そもそも発現した時、月子は眠っていたのだ。
意識と異能が繋がっている保証はない。
(それがしはどうすれば……)
表情には出さず、狼覇が決断しかねていると、
「……狼覇さん」
おもむろに月子が口を開いた。
狼覇は『は』と応える。
「……人はよく何かを失った時、失ったものよりも、まだ何が残っているかを考えるべきだって言います。それが前を向いて生きるための言葉なのも分かるの。けど……」
『……………』
狼覇は静かに月子の言葉に耳を傾ける。
「失くしたものを想うことはそんなに悪いことなの? 私が……私がお父さんとお母さんのことを忘れちゃったら、誰が二人のことを思い出すの?」
月子は狼覇の背を掴んで深く顔を埋めた。
「私には無理だよ。お父さんとお母さんのことを忘れて前に進むなんて……」
『……月子さま』
少女の声は震えていた。
狼覇は名前を呼ぶこと以外に何も出来なかった。
このような時に、かける言葉も持ち併せない武骨な自分を心から情けなく思う。
「……お父さん。お母さん……」
月子から、か細い声が零れ落ちる。
と、その時だった。
『……それでいいと思うの』
不意に声が響いた。
月子でも狼覇でもない声だ。
月子は顔を上げ、狼覇は声の方へと視線を向けた。
縁側の奥。そこに声の主はいた。
歳の頃は十二歳ほどか。少女である。美麗な顔立ちに、赤い眼差し。真っ白な髪は腰まで伸びており、身に纏うのは白装束だ。月子がいま着ているような寝所用ではない。白い和装だった。その首には黄金に輝く懐中時計を掛けていた。
そして、さらに特徴的なのは頭部から垂れ下がった兎のような耳だった。
『……おお!』
狼覇は目を見張った。
『そうか! 遂に目覚めたのだな!』
『うん』
少女は頷く。
『ありがとう狼覇。あなたたちのおかげで私はここにいるの』
『何を言うか。それこそそなたのおかげで我らは今代にいるというのに』
狼覇がそう答えると、彼女はふふっと笑った。
それから涙を頬に伝えながら唖然としている月子を見やり、
『色々と積もる話はあるけれど、今は』
――パァンっと。
彼女は柏手を打った。
途端、月子の体が少女に戻った。
いきなりの変化に月子が「え?」と目を瞬かせていると、
『一定空間の体感時間を遅らせてるから、誰もここまで辿り着けずにいた。これは時間停止じゃなくて時間停滞。この異能はあなた自身が立ち止まりたくないと思っている証なの。あなたは明日を望んでいる。だけど』
そこでかぶりを振って、
『いくら真刃さまから魂力を借りていても、時間操作はとても危ういの。ましてや術式にも昇華できていない異能のままでこんな長時間の使用はよくないの』
兎の少女がそう告げた。
どうやら彼女が月子の力を解除したようだ。
いや、月子の姿が元に戻っても、周囲から音がまだ聞こえてこない。時間停止――いや、停滞は続いているようだった。兎の少女が異能の効力を引き継いだというのが正しいか。
いずれにせよ、
『泣きたい時は泣けばいいの』
兎の少女はそう言った。
「……え?」
月子は視線を彼女に向ける。
『あなたの手の中に残る大切なものを知るのはそれからなの』
兎の少女は言う。
『狂おしいぐらい泣いて。悲しんで。嘆いて。苦しんで。怒って。ただただその人たちのことだけを想って。そこまでして初めて――』
そこで優しく微笑んだ。
『自分にまだ手を差し伸べてくれる人がいることに気付くの』
「……あなたは」
涙をゴシゴシと拭って、月子は問う。
「誰、ですか?」
『私の名前は時雫』
初めて彼女は名乗る。
『従霊五将の筆頭・時雫』
「五将の……筆頭?」
月子は驚いた顔で狼覇の方に目をやった。
狼覇は『は』と頷いた。
『彼女こそが我らが筆頭。猿忌さまと並ぶ最強の従霊です』
『最強なんかじゃないの』
兎の少女――時雫は悲しげに目を伏せた。
『私が最強だったら、あの時、紫子さまを救えたはずだから』
『……時雫。それは……』
狼覇が言葉を詰まらせる。と、
『私もまだ悲しめていない。紫子さまのことも。あの日、すべてを捨ててまで献身してくれた従霊たちともう二度と会えなくなったことにも、まだ悲しめていないの』
時雫は月子に近づき、その隣に座った。
そして、
『だから今日は悲しもう。全部の感情を吐き出すぐらいに』
時雫は月子の手を掴んだ。
『また明日から頑張るために』
「わ、私は……」
月子の瞳から、ボロボロと涙が零れ始める。
次いで、月子は時雫に強く抱き着いた。
容姿においては、月子の方が年上に見える。
けれど、悠久の時を感じさせる優しい眼差しで、時雫は月子の頭を撫でていた。
まるで彼女の亡き母のように。
そうして、月子の感情が溢れ出した。
こうして。
刻の兎たちは出会った。
ただただ今は深く悲しんで。
また明日、歩き出すために。
空には美しい月。
夜は更けていく。




