幕間 準妃/その行く先は――。③
今日は休日。
ランニングウェアに着替えた茜は大きなバッグを肩にかけて訓練場に向かっていた。
その顔は少し不貞腐れたような様子である。
(全くもう)
葵がとんでもないことを言い出した日から二日が経っていた。
あの日から気まずくて、妹とはあまり顔を合わせていない。
(なんで葵にバレてるのよ)
最初は茜も自分の気持ちに困惑していた。
なにせ、初めての経験だからだ。
しかし今は理解している。
葵の指摘通り、自分は王に恋をしているのだと。
よく顔を合わせる芽衣や月子にはバレているとは考えていたが、まさか、まだまだ子供っぽい妹に気付かれるとは思わなかった。
反射的に否定してしまったが、いま思えば否定する意味がなかった。
素直に認めればよかったのだ。
「……はあ」
茜は溜息をついた。
失敗したと思う。
一度否定してしまうと、自分の性格では訂正するのは難しい。
(私はもう覚悟を決めたのに)
茜は足を止めて、自分の胸に片手を添えた。
トクントクン、と少し早い鼓動を感じる。
最初は自分の――自分たちの有益性を認めてもらうつもりだった。
引導師の世界から逃れられないのなら、自分たちが重宝されるために売り込む。
それが当初の目的だった。
だが、茜たちの切り札である《魂鳴り》は二人揃っていなければ使用できない上に、二人とも純潔の乙女であることが前提になる。
強くなるためにならモラルも放棄している引導師の世界。学校でさえ《魂結び》が推奨・黙認されているような世界で純潔を貫くのは難しい。ましてや茜たちクラスの魂力の高さなら、隷者として望まれるのは当然だった。
いずれ《魂鳴り》は失うことになるだろう。
なら、有益性の売り込みよりも、隷者として王の寵愛を勝ち取る方が将来に繋がる。
西條綾香のアドバイスは的確だった。
茜は妹のためにも自身を王に捧げるつもりだった。
しかし、事態は大きく変わった。
王が想定外に寛大であり、優しい人物だったからだ。
閉ざされていたと思っていた一般世界への道。
それさえも彼は示してくれた。
そんな彼の大きな手で頭を撫でられた時。
茜の中で何かがはっきりと動き出した。
常に張り詰めていた茜は、彼の包容力にときめいてしまったのだ。
それからは用もなく彼の執務室に出向いていた。
彼は多忙でありながら、茜を邪険にはせず話を聞いてくれた。
学校の話や、他愛もない話であってもだ。
茜は、彼に相応しい人間になろうと思った。
そのための日々の訓練だった。
(ちゃんと葵に話すべきだったわ)
再び歩き出す茜。
今はそう思う。
たった二人だけの姉妹なのだ。
素直に話せばよかったのである。
下手に誤魔化そうとしたせいで葵に不安を抱かせたかも知れない。
葵はおっとりしているようでよく考える妹だ。
姉が王に身売りしようとしているとでも捉えている可能性もある。
まあ、ここに来るまではその認識であっているのだが。
「……葵と話そう」
茜はそう呟いた。
今日にでも自分の気持ちを話そう。
そう決意した――その時だった。
――ぞわり、と。
(――――え)
突然、背中に悪寒が奔った。
同時に全身が泡立つように震えた。
(な、なにこれ……)
茜は訓練場のある方へと目をやった。
そこから何かしらの気配を感じたのだ。
――いや、もっとはっきりと言うのならば……。
「――葵!」
それは茜の直感だった。
葵の身に何か異変が起きた。
双子の共感力ともいうべきか、はっきりと妹の異変を感じ取ったのである。
茜はバッグを放り出すと、訓練場に向かって走り出した。
悪寒はすでに消えているが、不安が胸中を灼いた。
そうして――。
「――葵!」
茜は訓練場に飛び込んだ。
すると、
(……え?)
茜は目を瞬かせた。
そこには何故か王がいたのだ。
白いシャツと黒いジーンズというラフな私服姿だ。前髪も下ろしている。足元には一振りの軍刀が置かれていた。
そしてこの場にはもう一人、小柄な人物がいる。
葵である。
茜と色違いの紺と黒のランニングウェアを着ているのだが、腕や足の裾がどうしてか少しほつれている。トップスの方は胸元から腹部の半ばにかけて大きく引き裂かれていた。
だが、それは茜の方からは見えない。
何故なら、葵が王にしがみついていたからだ。
王の胸板に顔を埋めている。
王は困った表情で葵の背中を抑えて、ポンポンと頭を叩いていた。
「~~~~~っっ」
その度に、葵は身悶えしているように見えた。
耳も首筋も真っ赤だった。
「あ、葵……?」
改めて妹の名を呼ぶと、葵はハッと顔を上げて振り向いた。
「お、お姉ちゃぁぁん……」
葵は何故か四つん這いになって茜の元へと向かう。
茜は「え?」と目を見開いた。
そこでようやく葵の胸元が大きく引き裂かれていることに気付いたからだ。
その下のスポーツブラまで引き裂かれている。
「あ、葵ッ!?」
まるで乱暴でもされたかのような妹の姿に茜が青ざめると、
「……待たんか。葵」
王は嘆息しつつ、
「――ひゃっ」
四つん這いの葵の腰を片手で抱き上げた。
「無理に動くでない。先程のことはお前の体に多大な負担をかけたはずだ」
言って、そのまま葵を右肩へと移動させて担ぎ上げる。
後ろ向きに抱えられた葵は「ひゃんっ!」と動揺していたようだが、
「……葵。体が辛いのだろう? 自室まで運ぼう。今は大人しくせよ」
優しい声で王に指摘されて「く、くゥん……」と妙な声と共に大人しくなる。
そして少し震える手で王の背中にしがみついた。
その時、茜と視線が重なった。
(―――え?)
茜は目を瞬かせた。
潤んだ眼差しに、固く結ばれた唇。
王に抱えられた妹が見たことのない表情をしていたのだ。
瞳の中にハートマークまで浮かんでいるように見えた。
「あ、葵……?」
姉に名前を呼ばれて葵はハッとするが、すぐに視線を逸らした。
そして自分の人差し指を一度噛み、
「み、見ないでェ、お姉ちゃん……」
と、真っ赤な顔で懇願してくる。
小さな声でまるで仔犬のように「くゥん……」と鳴いた。
茜は顔を引きつらせた。
知らない。
こんな妹は知らない……。
「キ、王……」
茜は、ギギギと首を動かしながら王に問う。
「……何が、何があったんですか?」
「ああ~、それはだな」
王は葵を肩に担いだまま茜を見やり、嘆息した。
「いささか以上に面倒なことがあったのだ。何から話せばよいのやら」
ともあれ王は語り始めた。
およそ十数分前のことを――。




