第七章 受け継ぐ者④
永い時を生きた。
とても、とても永い時だった。
多くの出会いがあり、多くの別れもあった。
その別れの多くが死別だった。
誰も彼も、彼女を残して逝ってしまう。
彼女だけが時の中に取り残されていた。
だが、それももうじき終わる。
月の輝く夜。
住まいである離れにて。
「……………」
洗練された筆遣いで彼女は達筆な文字を記す。
これは一族へと向けた彼女の遺書だった。
伝えなければならない事柄は多い。
その要点を丁寧にまとめて筆を走らせる。
そうして、
「こんなものね……」
最後に感謝の言葉を記して。
彼女――火緋神杠葉は硯の上に筆を置いた。
拇印を押して、文字の墨が乾くのを待って封筒に入れる。
それから気付きやすいように鏡台の上に置いた。
これがあれば一族が対応に困るようなこともないだろう。
「……さて」
杠葉は立ち上がった。
しゅるりと着物の帯を解く。
着物を床へと落とし、裸体となる。
次いで用意していた白装束を手に取って羽織った。
白装束――いや、これは死に装束だ。
杠葉は予感していた。
今日こそが、無様に生き永らえてきた火緋神杠葉の最期の夜なのだと。
今宵、彼がここに来る。
長年の経験からそう感じ取っていた。
「…………」
杠葉は鏡台の前で座った。
引き出しの鍵を開けて、鈴蘭の髪飾りを取り出す。
これを身に着けようかと考えるが止める。
彼と会うのにこれを身に着けるなど何様なのかと思ったからだ。
自分にはもうその資格がないと強く感じていた。
鈴蘭の髪飾りは、遺書と重ねるように置いた。
出来ることならば、この髪飾りは燦か月子に引き継がれることを願う。
「ここも寂しくなったわね」
部屋を見やる。
すでに大体のモノは処分している。
生活感もほとんど消えていた。
ここに立ち入った者は誰もが寂寥感を抱くことだろう。
「でも、私の最期としては当然かしら」
皮肉気に笑う。
長き人生で喜びがなかった訳ではない。
特に新たな命が生まれた時の感動は今でも忘れない。
異母弟に子供が生まれた時。
その子にも子が生まれた時。
命は綿々と受け継がれていく。
生まれたばかりの巌や、元気よく泣く燦を抱いた時は本当に愛しく、嬉しかった。
それだけに一人だけ置いていかれることは、とても辛かったが。
「けど、それも終わりね」
杠葉は再び立ち上がった。
縁側に向かう。
今日は本当に静かな夜だった。
まるで、青春を過ごした若き日の時代のようだ。
しばし夜の静けさに心を寄せる。
そうして、
(ああ、そういえば)
おもむろに杠葉は縁側に腰を下ろした。
(真刃と初めて出会ったのもこんな縁側だったわね)
彼が軟禁されていた大門邸。
そこに自分が乗り込んだのである。
挑発し、喧嘩を売り、返り討ちにあった。
まさしく若気の至りだった。
「……ふふ」
縁側に手をつき、口元を綻ばせる。
彼としては、さぞかし迷惑だったに違いない。
当時の自分は今の燦に何も言えないほどに我儘な娘だった。
散々迷惑をかけて、困らせて。
そして最後には甘えるのだ。
同じく彼に愛された紫子は内助の功の手本のようだったのに。
「私は本当にダメな女だったわ」
思わず嘆息する。
紫子に関しては非常に気がかりなことがあるが、自分にはそれを調べる時間はもうない。
かといって、今の時点で真刃に伝えても彼を困惑させるだけだろう。
その件については、一週間後に燦と月子へ自動送信されるように設定しておいた。
「正直、真相を知りたい気持ちはあるけれど……」
杠葉は月を見上げた。
「それはもう私の手の届くところじゃないわね」
自分をそう納得させる。
きっと、真刃なら良き方向に解決してくれるだろう。
「……………」
杠葉は瞼を閉じた。
かつての時代に想いを馳せつつ、静かにその時を待つ。
そうして……。
ぱちり、と。
瞳を開ける。
次いで、無言のまま顔を上げた。
月にはいつしか雲がかかっていた。
そして、そこに影が生まれた。
月光を背にして動く巨大な影だ。
(……来たのね)
それは黒い龍だった。
杠葉もかつて騎乗したことのあるよく知る龍。
従霊五将の一体、九龍である。
その頭部には一人の青年が立っている。
灰色の帽子に手を当てて、同色の胴衣を着た紳士服姿の青年だった。
彼女の待ち人、久遠真刃だ。
悠々と宙を舞う九龍は、ややあって離れの庭園にまで降りて来た。
庭園の木々が少し揺れた。
そうして九龍は鎌首だけを地面へと近づける。
そこから真刃が庭園へと降り立った。
その姿に、
(……変わらない)
杠葉の胸の奥が締め付けられる。
あの頃からまるで変わらない。
一人だけ時間に置いてけぼりにされてしまった自分を。
彼が迎えに来てくれたような錯覚を抱いた。
(……図々しいことだわ)
内心で自虐の笑みを浮かべる。
本当に図々しい錯覚だ。
裏切り者の自分にはそんな資格などないというのに。
ややあって九龍が鎌首を上げて、空へと飛びたっていった。
庭園には真刃が立ち、杠葉は縁側に座ったまま、しばし見つめ合った。
(……真刃)
彼の胸中がいかなるものなのかは杠葉には分からない。
そうして、火緋神家の御前としてではなく。
「……久しぶりね」
百年の時を経て。
杠葉は彼と言葉を交わすのであった。




