第六章 蒼い夜②
その時、神楽坂茜は一人で廊下を歩いていた。
その表情は、何かを迷っているようだった。
事実、彼女は悩んでいる。
「…………」
視線を下にして歩き続ける。
(……どうして)
王から告げられた提案。
それは彼女にとって想定外そのものだった。
まさか、普通の世界に戻れるような機会をくれるとは……。
(……葵は)
妹もまた困惑していた。
ただ、素直なあの子は王の提案を純粋な厚意として受け取ったようだ。
困惑も一般校か、引導師養成校に通うかに向いている。
しかし、茜は違う。
素直に厚意など信じられない。
何か裏があるのではないかと勘繰ってしまう。
そのせいか、彼女は自然と執務室へと足を向けていた。
そうして、執務室の前で止まる。
睨みつけるようにドアを見据える。
王の真意を問い質すべきだ。
しかし、何と問えばいいのか。
そもそも聞いたところで彼が答えてくれるのか。
そんなふうに悩んで立ち止まっていると、
――ガチャリ、と。
(………え?)
いきなりドアが開いた。
茜が目を丸くすると、そこには王がいた。
ドクンっと鼓動が跳ねる。
「む。茜か?」
王が茜を見やり、そう告げる。
恐らく初めて名を呼ばれた瞬間だ。
「は、はい」
茜は思わず直立不動の姿勢で返事をした。
「どうした? 己に用があったのか?」
「い、いえ、そんな、用というほどでは……」
と、言いかけたところで、茜は気付く。
王は灰色の胴衣に、同色のスラックス。黒のネクタイを身につけている。それは彼の仕事着ではあるが、今は灰色の帽子も被っていた。外出する様子だった。
「どこかに出かけられるのですか?」
「ああ。私用でな」
王は苦笑じみた笑みを見せる。
「己に用があるのなら歩きながら聞こう」
「え? あ、はい……」
茜は思いがけず、彼と並んで歩くことになった。
「用とは学校の件か?」
廊下を進みながら、王が問うてくる。
茜は困惑しつつも、思い切って聞くことにした。
「あの、どうして私たちに一般校に行く機会をくれたのですか?」
「……余計な真似だったか?」
茜に視線を向けて、王が尋ねてきた。
「ふむ。お前たちがすでに引導師として生きる覚悟をしておるのなら、確かに余計な真似だったやもしれんな」
「い、いえ! 違います! 機会をくれて嬉しいです!」
茜は慌てて否定した。
「け、けど、私たちの前のリーダーとかはそんなことを言ったことなんてなくて……」
そう告げて、ギュッと拳を固める。
「結局、私たちは道具だったんです。珍しくて便利な道具……」
茜は唇を強く噛んだ。
「私たちがこんな力を持っていたから、お父さんとお母さんは殺されたんです……」
そう呟く。
「……そうか」
王は足を止めた。
「芽衣の出自もそうだが、どれほど月日が流れてもやはり業の深い世界だな」
言って、彼は嘆息した。
「……王」
茜も立ち止まり、彼の顔を見上げた。
「私たちはどうなるんですか? いえ、私はどうなってもいいです」
ギュッと両手で彼の服を掴んだ。
「私はどうなっても……けど、葵だけは……」
茜は今にも泣き出しそうな表情で王の顔を見つめた。
「葵にだけは普通に生きて欲しいの。あの子にだけは幸せになって欲しいの。普通の世界であの子だけは……」
「……………」
茜の懇願に、彼は静かに耳を傾けていた。
「すまんな」
ややあって、王はそう告げた。
「お前たちを気遣ったつもりが、却って不安を抱かせてしまったか」
彼は腰を屈めて、茜と視線を合わせた。
「お前たちがいかなる道を選んでも否定はしない。その言葉に偽りはない。だが、今のだけは受け入れられぬぞ」
「………え」
茜が青ざめた顔で目を見開いた。
妹も見逃すつもりはない。
茜はそう捉えたが、
「お前が犠牲になってどうするのだ」
王は言う。
「それで葵が喜ぶのか? 姉を犠牲にして彼女は幸せになれるのか?」
「………え?」
茜は目を瞬かせた。
「お前が犠牲になる未来など論外だ。幸せになるのなら二人ともだ。どうすればいいのか。それを二人で話し合うがよい」
「話し合う……?」
茜は茫然と反芻した。
王は頷く。
「妹が大切であるのならば尚更だ。そうして、お前たちが話し合って決めた道ならば己は全力で支えよう。お前たちの後見人としてな」
そう告げると、ポンと茜の頭を軽く叩いて、
「案ずるな。己がいる限り、お前と葵が不幸になることはない。断じてだ。お前たちは自分の選んだ道を真っ直ぐ進めばよい」
茜は言葉もなく、ただ茫然としていた。
「今はゆっくりと考えよ」
最後にそう告げて、王は再び歩き出した。
茜はその背中を追う。巨漢の獅童に比べると、彼の体格はずっと小さいのだが、その背中はとても大きくて広く見えた。
ややあって玄関に到着する。と、
「茜」
おもむろに振り返って、王は彼女の名を呼んだ。
「は、はいっ」
茜は小さな体を震わせた。
「武宮たちには警告しておるが、己が不在中、騒がしくなる可能性がある。まあ、その場合、素性からわざわざここまでの経緯まで記したことに潔さを覚えた己としては、全くもって期待外れな結果になるのだが……」
ふっと苦笑いを零す。
「その時はただ潰すだけだな。ここに関しても今の専属従霊が後れを取るとは思わんが……そうだな。お前たちは、今宵は月子の傍にいてくれるか?」
「それは……月子さまを守れということですか?」
緊張した面持ちで茜がそう尋ねるが、彼はかぶりを振った。
「そうではない。あの子は今、タチの悪い男につけ狙われているからな。先程会った時もやはり緊張していた。お前たちにはあの子の友人として傍にいて欲しい。それに――」
一拍おいて、
「月子の傍にはエルナたちや六炉もいる。最も安全な場所だ。我ながら、今頃この台詞が出るとはな。やはりお前たちへの気遣いが足りなかったようだ」
王は嘆息した。
「これからは気をつけよう。茜。留守を頼むぞ」
「は、はい……」
茜は頷く。王は「うむ」と首肯すると、ドアノブを握った。
「では、行ってくる」
「……はい。いってらっしゃい」
そう告げて、茜は自分でも驚いた。
同時にドアが開かれて彼は出て行った。
ガチャン、とドアが閉まる。
茜は、しばしそこで立ち尽くしていた。
そうして、おもむろに、
……ギュッ、と。
自分の胸元を強く掴んだ。
(……「いってらっしゃい」なんて)
そんな言葉を掛けたのはいつ以来だろうか。
唇を微かに噛んで俯く。
うなじ辺りが徐々に熱を帯びていくのを感じた。
と、その時だった。
「あれ? お姉ちゃん?」
唐突な声に、茜の心臓が跳ね上がった。
「玄関なんかで何してるの?」
それは妹の声だった。
慌てて振り向くと、そこにはやはり葵がいた。
ただ妹は茜の顔を見るなり、「え」と目を見開いた。
「お姉ちゃん? どうしたの? 顔が真っ赤だよ?」
そんなことを指摘された。
茜は「えッ!?」と激しく動揺した。
「ち、違うから!」
自分でも訳が分からないまま否定してから、
「そ、それより葵! 月子さまのところに行くわよ!」
そう告げた。
「へ? 月子ちゃんのとこ? なんで?」
キョトンとする葵に、
「いいから! 王の命令なんだから!」
茜はそう言って、妹の手を取って走り出すのだった。
小さな胸の奥で高鳴る鼓動を誤魔化すように――。




