第三章 始動④
春鈴とはいかなる人物なのか。
実は、彼女は生粋の引導師ではなかった。
幼い時に誘拐されて、自身の生まれもほとんど憶えていない。
微かに残る記憶は酷く暴力的で、極めて貧困な光景だ。
彼女は誘拐組織に育てられ、十六の頃にその容姿の美しさで売買された。
それが運命だったのか、最初の主人は引導師だった。
容姿が美しい者は比較的に魂力が高い者が多い。その引導師としては掘り出し物ではないかと彼女を購入したそうだ。そして魂力を調べたところ、そこそこの数値があった。
『まあ、そこそこ当たりだったな』
初めて閨を共にした時の主人の声は今も脳裏に残っている。
――それは正しい。確かに彼女はそこそこだった。
引導師にとって隷者とは魂力の貯蔵庫だ。
より高い者に入れ替わるのは世の常だった。
結局、そこそこに過ぎない春鈴は、転々と主人が変わることになった。
魂力だけを目当てにされて、次から次へと別の男に抱かれる。
そこそこの彼女は、成り上がりの最初の踏み台としては手頃だったのだろう。
当時の彼女の心はすでに諦観しきっていた。
自分はただの踏み台。自分の人生はこんなものだ。
そんなふうに思っていた。
だが、そんな時に出会ったのが、あの苛烈な少年だった。
初めて目撃した殺人に最初は怯え切っていたが、そんな恐怖もすぐに喰い尽くされて、少年は彼女のすべてを呑み干した。
熱く、熱く。
幾度となく果てて、彼女の心は実に久しぶりに鼓動を刻んだような気がした。
だからだろうか。
彼女は少年の腕の中で自分から進言したのだ。
『……私は、所詮そこそこです』
ギュッと唇を噛む。
『私より魂力が高い者は幾らでもいます。だから、その時は切り捨ててください』
『………』
少年は無言で彼女の顔を見据えていた。
そして、
『……お前も何も持たねえ奴か……』
そう言って、彼女を強く抱き寄せた。
『むしろ俺に相応しいな。いいぜ。気に入った。お前は今日から俺の女だ』
少年は、彼女のうなじを押さえて燃えるような視線を合わせた。
『俺の傍にいろ。お前には何も持ってねえ奴が成り上がる光景を見せてやる』
彼はそう宣言した。
そうして五年の月日が経った。
彼女は一度も彼から離れることなく傍にいた。
春鈴とはいかなる人物なのか。
それは、彼女自身にとっては命題でもあった。
彼は自分を踏み台にしないと言った。では、自分は何なのか。
自問自答を続け、いつしか、彼女は自分のことを『鏡』だと考えるようになった。
あの少年が初心を忘れないための『鏡』なのだと。
彼が大成すれば不要になる。
それだけの道具だ。
「どうした? 何か用か、春鈴?」
眉をひそめて鞭が尋ねる。
「……いえ」
春鈴は瞳を細めた。
「ここに来たのは直感です。そろそろかと」
「……あン?」
鞭はますますもって眉をひそめた。
その時だった。
――ドゴンッッ!
轟音が響く!
鞭と蘭花はギョッとして音の方へ振り向いた。
それは王の部屋からだった。
鉄製のドアに拳の跡が刻まれている。
ドアのサイズにも納まらないほどの巨大な拳だ。
鞭はハッとした。反射的に蘭花の腰を抱えて、後方へと跳躍する。
その直後、再び轟音が響く。
鉄製のドアは吹き飛び、寸前まで鞭たちがいた壁に叩きつけられた。
春鈴の目の前でドアと壁が衝突することになったのだが、彼女は眉一つ動かさない。
「な、何だ!」「どうした!」
轟音を聞きつけて、次々と《黒牙》のメンバーも集まってくる。
そんな中、春鈴は、ゆっくりとドアのなくなった部屋へと視線を向けた。
そこにあったのは巨大な腕だった。
黄金の体毛を持つ猿の腕である。
大蛇のように部屋から這い出てくる巨腕に《黒牙》のメンバーは硬直した。
唯一、鞭だけが舌打ちし、《DS》を取り出そうとしていた。
だが、それを制したのは、何の力もない春鈴だった。
「……王さま」
彼女は恐れることもなく一歩前に進み出た。
「私を殺されますか? あなたの望むようになさってください」
そう告げる。
全員が息を呑む中、黄金の巨腕は彼女の前で止まった。
その気になれば即座に殺せる距離だ。
緊迫感が奔る。
春鈴は、とても静かな眼差しで巨腕を見据えていた。
そうして――。
……ズズズズ、と。
黄金の巨腕は部屋の中へと戻っていった。
ややあって。
「おはようございます。王さま」
手を前に重ねて、春鈴は静かに一礼した。
「……おう」
声は部屋の奥から返ってくる。
「気持ちのいい朝だな。春鈴」
そう続けて、部屋の奥から出てきたのは一人の男だった。
燃えるような赤い髪と瞳を持つ、隻眼の青年。
上半身は裸であり、上腕部と背中には、赤い龍の刺青が刻まれている。
瞳と髪の色が変化しているが、《黒牙》のリーダー・王である。
「おおッ!」「ボスッ!」
ボスの帰還に《黒牙》のメンバーは色めき立つ。
「ははッ! やりやがったな! 王!」
鞭も例外ではなかった。歓喜の混じった不敵な笑みを零している。
蘭花だけは、王の見た目の変化に目を丸くしていた。
そして驚いたままの彼女以外が、王の元へと駆け寄ろうとするが、
「ああ~、待て待て」
王が苦笑を浮かべて手で制する。
「野郎どもに集まられても暑苦しいだけだろ。それに悪いが一番優先してえ奴がいる」
そう告げる。
誰も気付いていなかったが、王のイントネーションは回復していた。
王はゆっくりと進み、春鈴の前で止まった。
「ありがとよ。お前の声はいい気付けになったぜ」
「お役に立てたのでしたら光栄です」
頭を垂れる春鈴。
それに対し、王は「けどよ」と前置きして頭を掻いた。
「無茶しすぎだぜ。俺が止められなかったらどうする気だったんだ?」
「古来より、天魔・神獣を御するには生贄が必要だと聞きます」
春鈴は当然の如く告げる。
「最期にお役に立てるのならば本望です」
その台詞に《黒牙》のメンバーが少しざわついた。
「……おいおい。待てよ」
一方、王は少し眉をしかめた。
が、すぐに「ああ、そっか……」と呟き、
「春鈴。お前、俺が《未亡人》を女にすると宣言したから、自分はもう不要とか考えてんな?」
「…………」
春鈴は答えない。彼女が王の声に応じないのは稀だった。
「やっぱそうかよ」王は嘆息した。
「拗ねてる訳じゃねえな。いつものそこそこ癖か? それにしても今回は度を越してんな」
そこで「いや」とかぶりを振って、
「……そこは俺のせいだな。はっきりと言っておくべきだったか」
そう呟くなり、王はいきなり春鈴の両足を抱えて持ち上げた。
「……王さま?」
春鈴は王の腕に腰を掛ける状態になった。流石に少し驚いた顔を見せる。
「知っての通り、俺にはお前を含めて十五人の隷者がいる。まあ、あいつらのことはそれなりに大切にしてるし、可愛がってもいる。けどな」
一拍おいて、
「俺がこれまで『俺の女』にすると言った相手はお前と《未亡人》だけだ」
「…………」
「《未亡人》を手に入れんのにお前を失ってたまるか。《未亡人》とお前は同格なんだよ。二度とあんな無謀な真似をすんじゃねえぞ。そもそもだ――」
春鈴の行動にかなり立腹しているのか、王の勢いは止まらない。
「そこそこそこそこと。お前は昔から何かにつけて自分を卑下しすぎなんだよ。確かにお前の生い立ちだと、そういった性格になっちまうのも仕方がねえのかもしんねえが、俺にしてみりゃあ、お前は《未亡人》相手でも劣るところなんぞねえェんだよ」
「…………」
そこまで言われて流石に春鈴も少し赤くなった。
だがしかし、
「まあ、強いて違いを挙げんなら、脚線美は全然負けてねえんだけど、胸のボリュームだけはもう少し《未亡人》並みにあってくれたら俺としては嬉しかった――」
と、言いかけた時だった。
――ポカン、と。
王の頭の上に、二つの拳が振り下ろされた。
春鈴の拳である。
「……それは大きなお世話です」
そんなことを言う春鈴。
それは出会って初めて見せる彼女の怒りの表現だった。
王は少し驚いた顔をするが、すぐに意地悪く笑って、
「はン。前言撤回だ。お前、やっぱ俺が《未亡人》に夢中で拗ねてただろ?」
「…………」
春鈴は何も答えない。
ただその代わりに、全身でぎゅうっと王の頭を抱きかかえた。
「……ははっ」
王は苦笑を浮かべつつ、
「さてと」
意外なやり取りをする王たちに驚いている鞭に目をやった。
「鞭。《未亡人》の旦那とやらの居場所は分かるか?」
「あ、ああ」鞭は答える。
「《未亡人》の足跡は追っているからな。じきに判明するはずだ」
「そうか。なら俺の武具の方はどうだ? 仕上がりそうか?」
「おう。そっちは専門家に任せているが……」
自分のスマホを一瞥して鞭は告げる。
「今朝の連絡だと、もう半日ほど時間が欲しいそうだぜ。モノがモノだけあってかなり加工に手こずってるみてえだな」
「……そうか」
王は隻眼の瞳を細めた。
「なら今日は休暇だな。お前らも疲れてんだろ? 俺が心配かけちまったから」
「「「……………」」」
鞭を筆頭に《黒牙》のメンバーは沈黙する。
「俺はもう大丈夫だ。ただ先にしなきゃなんねえことが出来ちまった」
言って、丸まった春鈴の背中をポンと叩く。
「俺の可愛いもう一人の女を珍しく拗ねさせちまったからな。宥めてやんねえといけねえ。悪りいが、少し俺に時間をくれや」
そう告げる。
そして微かに頬を朱に染める春鈴に顔を抱きしめられたまま、
「決戦は近い」
その腕の隙間から覗き込むように、王は赤い眼光を以て部下たちに命じた。
「今は英気を養え。牙を研げ。いいな。俺の狼ども」
「「「……おうッ!」」」
かくして。
――《黒牙》始動。
そして同時刻。
別の場所にて同じく動き出す者たちがいた。
天堂院家の本邸。
その中枢。広大な和室の上座にて座る一人の怪老。
――妄執の魔王。天堂院九紗である。
齢百三十を超える怪老は、腕を組んで沈黙していた。
さらに、そこには他にも十名の人間がいた。
まずは九紗の左右にて控える者たち。
天堂院家の異端の子ら。
現在行方不明中とされている天堂院六炉を除く兄弟姉妹たちである。
――警戒。困惑。興味。
異端の子らは様々な眼差しを見せていた。
そして残る三人。
彼らは今回の来訪者である。
一人は純白の少年だ。
年の頃は十五歳ほどか。短い髪、肌も瞳の色さえも白く、色素というものがほとんどない。白い神父服のような制服を纏っていた。
一人は紫色の女性か。
年の頃は分からない。仮にも対談だというのにずっとフードで顔を隠しているからだ。フードからは紫色の髪だけが見えている。少年と同じタイプの紫色の制服を着ており、微かではあるが、その胸部の確かな膨らみから女性であることだけは分かった。
彼らは従者なのか、一人の人物の後ろに控えていた。
そしてその人物こそが最後の一人。
年齢は六十代か。
杖をつく和装の老人である。
背も曲がっており、そのためにかなり小柄に見える。
彼らは九紗の御前にて静かに佇んでいた。
ややあって、
「許されよ。高齢ゆえにこのままで失礼する」
老人は九紗にそう告げた。
そして、
「お初にお目にかかる。天堂院九紗殿」
一拍おいて、老人は名乗った。
「小生の名は久遠。久遠刃衛と申す」
こうして。
魔王と狂人の邂逅が人知れず始まった。




