第三章 始動③
とある朝。
八時を少し過ぎた頃。
「……李たちが戻って来ねえだと?」
廃ホテル。王の部屋の前で腕を組む男が眉をしかめた。
くすんだ金髪に、ピアスだらけの顔が印象的な男。鞭である。
「ガキじゃねえんだ。どっかで遊んでんだろ……って言いたいところだが」
鞭は報告をしてきた相手に目をやった。
相手は十代後半の女性だ。長い黒髪を左右でシュシュで結いでおり、ジーンズとタンクトップ、その上に短い丈の黒いジャケットを羽織った女性である。
鞭の筆頭隷者である蘭花だ。
「お前が言いたいのは逃げたんじゃねえかってことだろ?」
「そうよ」蘭花は頷く。「王の宣言を聞いて腰が引けている連中が多いのよ。それに李の一派は元々反抗的だったし、もしかすると……」
「一派全員がいなくなったのか?」
鞭がそう尋ねると、蘭花はかぶりを振った。
「李も含めて三人だけよ。二日ぐらい前から一派の連中でも連絡がつかないそうよ」
「……そうか」
鞭は再び王の部屋を見据えて。
「まあ、いいさ。三人程度なら放っておけ。逃げたんならそれでも構わねえよ。なにせ、今はそれどころじゃねえからな」
そう告げた時だった。
グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――ッッ!
凄まじい怒号が王の部屋の中から轟いた。
まるで獣の咆哮だ。
蘭花は、険しい表情で部屋のドアに目をやった。
昨夜から引き籠ってずっとこんな感じだ。
「……王は大丈夫なの?」
「…………」
鞭は腕を組んだまま答えない。
蘭花は鞭の顔を見上げた。その顔は無表情だった。
「あんたの《DS》。いくらなんでも早く仕上げすぎたんじゃないの? もっとしっかり検討してからでも――」
「検討なら腐るほどしたさ」
無表情のまま、鞭は答える。
「捕まってた時、考える時間だけはいくらでもあったからな。あらゆる調合を考え抜いた。あん時の俺の頭ん中は《DS》の調合と、どうやって月子を嬲るかだけだった」
「……それが同列扱いなの? あんたの頭の中では……」
蘭花は呆れるように言った。
「けっ」と鼻を鳴らして鞭は言葉を続ける。
「ともあれ調合は完璧だ。濃度を薄めたモンだが検証もしている。後は王の適正のみだ。原液の濃度に耐えて最強の力を得るか、それとも――」
「……暴走するかってことね」
蘭花は小さく嘆息した。
「それであんたは暴走した時、巻き込まれることも承知の上でずっと待ってるんだ」
「…………」
「あんたって王に対してだけはマジで忠犬よね」
蘭花は肩を竦めた。
「なんて一途なことかしら。あんたは乙女か。女に対しては快楽堕ちさせてから骨の髄まで調教するクズなのに。ゲスなのに」
「…………」
鞭は無言のままだったが、額には青筋を浮かべていた。
「本当にクズね。その友情に偏った優しさってもんを少しは女にも向けなさいよ」
「うっせえな、てめえは――」
流石に鞭が文句を言おうとした時、それは顔の前に突き出されたモノで遮られた。
それは市販の携帯食品だった。
「とりあえず食べなさいよ。忠犬」
携帯食品を突き出した蘭花が言う。
「昨日から何も食べてないでしょう。何かあった時のために備えなさいよ」
「…………」
鞭は携帯食品を手に取った。
「とにかくよ」
蘭花はジャケットからペットボトルを取り出してそれも手渡した。
「あんたは今や《黒牙》のNO2なのよ。それを自覚しなさい」
そう告げて、背中を向ける。
鞭は少し驚いた表情で彼女の背中を見つめていたが、
「……はン」
鼻を鳴らして携帯食品の箱を開き、一口かじりついた。
「分かったよ。待つだけじゃ退屈だったしな」
「ふん。分かればいいのよ」
両手を腰に背中を向けたまま蘭花が言う。
「……ああ。そうだな」
鞭はクツクツと笑い、
「月子の奴を嬲り尽くす予定を変えるつもりはねえが、なあ、蘭花」
携帯食品を一気に口に入れて、意地悪く彼女に告げる。
「無事に王が部屋から出てきたら、セックスしようぜ。お前の言う優しさってのも目一杯こめてやるからよ」
「はあっ?」
蘭花が振り返って眉をしかめた。
「何言ってんのよ。あんたは。頭にウジが湧いた?」
「いやいや。俺はマジだぜ」
ペットボトルの水を飲み、鞭はニタリと笑みを見せた。
「がっつくぐらい一晩中な。そろそろ俺もガキが欲しいと思ってたんだ」
「はあ? ガキって……」
と、反芻しかけたところで蘭花が目を剥いた。
そうして次の瞬間、顔を赤くする。
「ななな、何言ってんのよっ!? あんたはっ!?」
「ケケケ。愛してるぜ。俺の蘭花ちゃんよ」
鞭は蘭花の腰を両手で掴んで抱え上げた。
「俺の元気なガキを産んでくれよな。あ、そうだ」
鞭は蘭花を抱えたまま、こんなことを言う。
「月子の奴も孕ませたいな。あいつの絶望した顔が見てェからな」
「……そんな願望をこのタイミングで言う? あんた、頭の中どうなってんの?」
蘭花は半眼になって鞭を見下ろした。
「本当にイカれてるわ」
小さく嘆息する。
それから少し視線を逸らして。
「まあ、私の方はOKよ。どうせ私はもうあんたの女だし。むしろ、あんたが子供を欲しがってたなんて意外だったわ。けど……」
視線を鞭に戻して真剣な声で告げる。
「あの子の方は考え直しなさいよ。あの子を苦しませたいっていう気持ちは百歩譲って理解するけど、産まれる子供にまで罪はないでしょう?」
復讐や屈辱の道具にするために産み落とされる子供ほど不幸な存在はない。
一人の女としてそれだけはとても許容できなかった。
すると、
「おう。そりゃあそうだろ」
鞭は「何言ってんだ?」という顔を見せた。
「親とガキは全く別の話だ。月子は月子。ガキはガキだ。親の罪はガキにはねえ。俺は月子のガキのことは全力で愛してやるつもりだぜ」
やっぱガキは親に愛されねえとな。
そんなことを鞭は言う。
「まあ、月子に関しても孕んだ時は絶望させてやるつもりだが、それが最後の罰だな。その後はすぐに快楽堕ちさせるぜ。ガキが産まれる頃には完全に調教済みの予定さ」
「……あんた、マジで頭の中どうなってんの?」
今度は流石に青ざめた顔で呟く蘭花。
自分の男は、やはり狂人であると改めて思った。
とは言え、それは今さらのことである。
「……あんたが意外と家族に願望を持ってんのは分かったけど、快楽堕ちとか調教とか平然と出てくる辺り、やっぱり心底クズでゲス野郎だわ」
蘭花は深々と溜息をついた。
――と。
グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――ッッ!
再び王の部屋の中から咆哮が轟いた。
二人は部屋の方を見やる。
「……今はそれどころじゃないわね。そろそろ降ろして」
「ああ。そうだな」
鞭は蘭花を降ろした。
と、その時だった。
「……鞭さま」
不意に声を掛けられる。
鞭と蘭花は声の方へと視線を向けた。
「……お前は」
そこには一人の女性がいた。
真紅の中華服を纏う、長い黒髪のスレンダーな美女だ。
――王の筆頭隷者。
静かに佇む春鈴の姿がそこにあった。




