第八章 忍び寄る影⑥
(……おいおい)
エントランスの一角。柱の影にて。
その話に聞き耳を立てつつ、鞭は渋面を浮かべていた。
ここで初めてあの女と王が交わしたという約束の内容を知った。
賭けに勝ったらあの化け物女を手に入れる。
とんでもない度胸である。
王の剛毅さにも驚いたが、同時にそれでこそ自分のボスだとも思う。
かつての牙と覇気を、王は完全に取り戻したようだ。
しかし、あの女の話とはその約束の反故だった。
どうも殺されたと聞いていたあの女の旦那とやらが生きていたらしい。
あの化け物女の男。
果たしてどんな化け物なのか、想像するだけで恐ろしいが、そのせいで賭けそのものが成立しなくなってしまったとのことだ。
何とも身勝手な話である。
だが、あの女の宣告は絶対だ。
エントランスは静寂に包まれていた。
王は指を組んだ姿勢であの女と対峙していた。
(……王)
眉をひそめて鞭は朋友を見据える。
(この事態、お前はどう返答するつもりだ……?)
◆
「……以上が『私』の話だ」
そう告げて《未亡人》は話を終えた。
沈黙が訪れる。
指を組んだまま、王は彼女を見据えていた。
すると、
「……《未亡人》さま」
意外にも最初に口を開いたのは王の傍らに控えていた春鈴だった。
「それはあまりにも一方的でご無体なお話では?」
やや怒りを宿した声だった。
常に従順な彼女がこんな声を出すのは珍しい。
「……春鈴」
王が片手で彼女を制しようとするが、
「ああ。分かっている」
その前に《未亡人》が口を開いた。
「これはせめてもの『私』の謝罪だ」
言って、虚空を開いて手を入れる。
虚空から取り出したのはアタッシュケースだった。
彼女は、それを目の前のローテーブルに置くと開いた。
中に入っていたのは虹色に輝く金属だった。
量にして二キロはあるだろうか。
「ヒヒイロカネの原石だ」
《未亡人》は告げる。
「これを謝罪の証として受け取って欲しい」
「…………」
王は無言だった。
ヒヒイロカネの原石。霊具を造る上では最高の素材だ。
市場にはまず出回らない。
ましてやこの量ともなればその価値は計り知れなかった。
謝罪の品としては破格の価値ではあるが……。
「……《未亡人》さま」
春鈴の表情は未だ険しい。
「貴女ご自身の価値はこの程度ではないと思われますが……」
「……春鈴。もういイ」
今度こそ王が止める。
「所詮は口約束だしナ。それより《未亡人》。質問があル」
「……何だ?」
神妙そうに眉をひそめて《未亡人》が問い返す。
「あんたの男が生きていたことは理解しタ。その上で質問ダ」
王は《未亡人》を見据えた。
「もし俺がその男を倒したら、あんたを俺の女に出来るのカ?」
「……なに?」
彼女は片眉を上げた。
「どうもしっくり来なかったんだヨ。幾ら強かろうが顔も知らねえ女を殺して自分の女を手に入れるってのはナ。だから、これは俺にとっては好都合ダ」
王は不敵に口角を上げた。
「ここは引導師らしくいくゼ。あんたの男を倒して俺はあんたを手に入れる。賭けは条件を変えて継続だ。それで構わねえカ?」
「……王さま」
傍らに立つ春鈴は驚いた表情で主を見つめていた。
《未亡人》もまた驚いた顔をしていたが、
「大した剛毅さだな……」
少し口元を綻ばせた。
「あいつを倒そうというのか。一つ教えておくぞ。あいつは最強だ。なにせ、私は無論、火緋神杠葉さえもあいつの女だったのだからな」
「……そうかイ」
それでも王の笑みは崩れない。
「だが、そいつは退く理由にはなんねえナ」
「……そうか」
《未亡人》は双眸を細めた。
「いいだろう。その条件で賭けは継続だ」
王は「ああ」と頷くと、アタッシュケースを閉じた。
その上にそっと片手を置いた。
「こいつは貰っておくゼ。あんたから約束を反故にしたのは事実だしナ。あんたを手に入れるための俺の力にさせてもらうサ」
「ああ。構わない」
そう告げて《未亡人》は立ち上がった。
「『私』はここを去る。《黒牙》の全権はお前に返そう」
そうして出口に向かって歩き出す。
が、出口寸前で一度足を止めて振り返り、
「……王。お前は存外良い男だったのかもしれないな」
彼女は微笑んだ。
だが、すぐに「まあ、それでも」と続けて。
「『私』の夫よりは劣るがな」
そう告げて、彼女は去っていった。
エントランスに残ったのはソファーに座る王と、傍らに立つ春鈴だけだ。
数分ほど静寂が続く。
すると、
「……王」
おもむろに名を呼ばれた。
振り向くと、そこには鞭がいた。
「……少しいいか?」
そう尋ねてくる。王は「ああ」と答えた。
鞭は王の向かい側に座った。
二人とも口を開かない。場を察した春鈴は一礼だけすると立ち去っていった。
残った二人は未だ何も語らない。
「…………」
沈黙の中、ややあって鞭は煙草の箱を取り出した。
故郷の銘柄だ。
「一本、俺にもいいカ?」
「ああ。いいぜ」
鞭は王に煙草を一本差し出した。王は煙草に火を点ける。
鞭も一本火を点けるが、それは咥えずに近くにあった灰皿の上に乗せた。
それからもう一本火を点けて咥えた。
亡き朋友の分も含めて、三本の紫煙が立ち昇る。
「あの女の台詞じゃねえが……」
鞭が煙を吐いて告げる。
「随分と剛毅じゃねえか。王」
「……そうカ?」
王も紫煙を吐いた。
「まあ、無茶だとは自分でも思っているがナ」
「けど、俺は少し安心したぜ」
鞭は苦笑を浮かべた。
「ようやく本来のお前が戻ってきたんだなって実感したからな」
言って、灰皿の煙草を一瞥する。
「きっと崩の野郎もホッとしてんじゃねえか?」
「あいつは心配性だったからな」
ふっと王は笑みを零す。
が、すぐに表情を真剣なモノに改めて。
「鞭。崩の使っていた赤い《DS》。あれはお前が用意したらしいナ」
「……ああ」
鞭は正直に頷く。
「あれは未完成品だった。出来れば使わせたくはなかったんだが……」
「そいつを使うと決めたのは崩だロ。それに関してはあいつの覚悟の結果だ。お前に責任なんてねえヨ。だが……」
一拍おいて、王は鞭を見据えた。
「そいつを完成させてくレ。今度は俺が使ウ」
「……そうか」
やはりそう来るかと思いつつ、鞭は紫煙を吐いた。
「調整はするが、あれを使うには命がけになるぞ?」
「覚悟の上サ」
王は不敵な笑みのままそう返す。
「それでも俺はあの女が欲しイ」
「……そうかよ」
鞭は煙草を灰皿に擦りつける。
同時に灰皿に乗せていた煙草からも灰が落ちた。
そして、
「了解だ。ボス」
鞭も不敵な笑みで返して言う。
「今度こそ完璧なモノに仕上げる。俺のすべてをかけてお前を『王』にしてやるよ」
かくして。
解き放たれた百年乙女。
月を求めて、天に牙を剥く決意をした狼。
最後の一歩を前にして躊躇うもう一人の乙女。
そして悩める妃たちと、百年に渡る再会を静かに待つ最強の王。
それぞれの思惑は常に変化して交差する。
だが。
潜む思惑はそれだけではなかった――。
……………………………。
………………………。
…………………。
そこは、とても暗い部屋だった。
地下に建設された巨大な空間の一室。
あの男は、この施設を『工房』と呼んでいるそうだ。
「………………」
その施設を不気味な男が徘徊する。
黒のシルクハットに、裾へと徐々に広がる貫頭衣。異様に長い腕には光の灯っていないランタンを掲げている。梟を思わせる白い仮面を着けた人物。
――悪魔である。
照明は点いていない。
当然だ。彼は侵入者なのだから。
「……………」
悪魔は無言で周囲を見渡した。
光はなくとも、彼は夜目が利く。
しかし、見れば見るほど凄惨な部屋だった。
一言でいえば研究室。
幾つかの寝台に、様々な器具。中には培養ポッドのようなモノもある。
ここでは実験が行われていたようだ。
それもその対象は人間だった。
かつて人だった残骸が寝台や培養ポッドの中に捨て置かれている。
多くは少年か、少女だった。
どれもが凄まじい損傷である。仮に生きている者がいれば救出すべきかと考えもしたが、それは検討すること自体が無意味だったようだ。
(……早くあの男を見つけなければ……)
悪魔の目的は暗殺だった。
この『工房』の主の殺害。
それは惨状を止めるため……ではない。
残滓程度の良心はあるが、結局のところ、自分もまた外法の存在だ。
あの男を狙う理由は、百年乙女たちの物語に邪魔だからだ。
父から受け継いだ想いから、悪魔は百年乙女たちに肩入れしていた。
だが、それを別にしても、あの男を放置することは彼の計画に支障を及ぼしかねない。
なにせ、この場所からも分かるように害悪としか呼べないような男なのだ。
早々に排除しておくに越したことはない。
(……問題は私が貧弱ということだが)
それでも、あの男よりは強いと考えている。
そもそも暗殺に、強さはそこまで必要ないだろう。
見つけることさえ出来れば一瞬で――。
そう考えていた時だった。
「制止」
声が背中に掛けられた。
「『白数刃百重』の記憶にない個体。侵入者と判断します」
それは少年らしき声だった。
(……むむ)
あの男を見つける前に自分が見つかってしまったようだ。
どう対処するか、思案しながら悪魔は振り向いた。
そこにいたのはやはり少年だった。
十五歳程度だろうか。
真っ白な少年だった。短い髪も肌も瞳の色さえも白い。
着ている服も白かった。
一見すると神父服のようにも見える。
「警告」
少年が言う。
「投降を推奨します。抵抗する場合は排除します」
(……むむむ)
悪魔は悩んだ。
自分の貧弱な戦闘力でどう切り抜けるか。
幾つかの手段を候補に挙げた時。
「投降の返答なし。対応を排除に切り替えます。人造従霊『鋼斬』起動」
少年が右手をかざしてそう告げた。
するとそこにボボボと鬼火が浮かび上がった。
それは、すうっと床へと沈み込んだ。
悪魔は目を見開いた。
「換装『牙』」
続けて少年が告げると、彼の右腕にコンクリートの床が張り付いていった。
それは瞬く間に、右腕を覆う巨大な石剣と成った。
「………な」
悪魔が驚いた直後には、その剣は彼の体を貫いていた。
ボロボロと体が崩れ落ちる。
完全に消え落ちた時、悪魔は別の部屋で再構成されていた。
「むむ、いきなり残機が一つ減ってしまった……」
無念を抱く。
自分は戦闘用ではない。
この転移は、崩れやすい特性を逆手に取った緊急手段に過ぎなかった。
結局のところ、ダメージもしっかり受けているので回数にも限りがある。
特に最近は五将の探索や、怖い一般人に殴られたことで残機の数も減らしている。恐らく残り三回も『死ぬ』と、しばらくは宿主の中で回復に専念しなければならないだろう。
「クワ。ここはあの男を見つけるまで命を大事に――」
と、呟きかけた矢先だった。
「侵入者。発見」
再び白い少年の声が聞こえた。
「――ギャワッ!?」
――ザンッ!
今度は背中から切り捨てられる。
再び体が崩れ始めた。
(転移!? あの少年、空間転移で追ってきたであるか!)
大事にしなければならないと思った瞬間に一つ残機が消えてしまった。
次の転移は慎重にならなければならない。
無数の未来の断片から、あの男がこの時間にいる可能性が最も多い場所を割り出す。
そして再構成。
現れた場所は、薄暗い照明に照らされた書斎だった。
無数の本棚に囲まれた部屋。
部屋の中央には応接用のソファーがある。
そこには二人の人物がいた。
一人は和装の老人だった。六十歳ほどの老人である。
もう一人は紳士服姿の小柄な男のようだが、背中を見せていて顔までは分からない。
だが、誰だろうが構わない。重要なのは老人の方だ。
(――いたか!)
悪魔は片腕を大蛇のように伸ばして老人を運命から排除しようとする――が、
「侵入者。発見」
またしても、背後から白い少年の声が聞こえた。
やはり追ってきたようだ。
強烈な斬撃が背中に叩きつけられる。
しかし、ここまで来て簡単には終われない。
残機はあと一つ。
悪魔の影が凄まじい勢いで老人へと向かって伸びる。
そうして、その影の中から飛び出したのは黒い人間だった。
外套に軍帽を被っている。両腕で刀を握った黒一色の人影だ。
影の軍人はそこから跳躍し、老人へと迫る!
白い少年が追いつける距離ではない。
――捉えた!
そう考えた瞬間だった。
それは、まさしく一瞬よりも短い刹那のことだった。
――刀、剣、槍、斧。
無数の刃が影の軍人の足元から飛び出し、その体を串刺しにしたのである。
(―――なッ……)
悪魔は唖然とする。
「……ふむ?」
その時、背を向けていた小柄な男が振り向いた。
「随分と騒がしいようですが、来客ですかな?」
その横顔を見て――。
(――最悪である!)
悪魔は絶句した。
(最悪の未来線である! 何故この男までここにいるのだッ! 複雑すぎる! 残機も使い切ってしまった……)
崩れ落ちる体で考える。
(まずい……これでは私もしばらく休眠するしかない。まさか、この化け物までこうも早く関わってくるとは――)
そこまで考えたところで、悪魔の体は完全に崩れ落ちてしまった。
それ以上は思考も出来ない。
悪魔は強制的な休眠状態に陥ってしまった。
静寂だけが書斎に残る。
そして、
「……今のは何だ?」
老人が口を開く。
「答えろ。白数刃」
「侵入者です」
武装を解いて白い少年が答える。
「投降の意志がなかったため、処分いたしました」
「ふん。ここまで侵入されてようやくか?」
老人が不快そうに告げる。
「駄作め。所詮は数打ちか」
老人は立ち上がった。
杖をつき、白い少年の前に立ってその杖を振り下ろす。
鈍い音がした。
「客人のお手を煩わせるとは小生に恥をかかせおって。この塵が」
そう吐き捨てて、再びソファーへと戻っていく。
「貴様は別個体の調整を急げ。天堂院との顔合わせまでには確実に仕上げておけ」
一拍おいて、
「そうだな。小生の次なる肉体も転送の準備を進めておけ。そろそろ杖を振り上げることも億劫になってきおったわ」
そう告げる老人に、
「了解しました」
白い少年は、淡々と答えて書斎から退室した。
老人は「……ふう」とソファーに座り直す。
「申し訳ない」
老人は謝罪する。
「駄作の無能さゆえに貴方の手を煩わせてしまった」
「いえいえ。構いませぬ」
小柄な男は笑った。
温和な表情を見せる顔には天を突くような髭が蓄えられていた。
「困った時はお互い様ですぞ。しかし、先程の彼もなかなかの作品のようですが、己が作品には一切の忌憚なし。自己に厳しい噂通りの方のようですな」
そうして自慢の髭を触りながら男は、どこか懐かしさを込めてその名を呼ぶ。
「《刀匠忌憚》久遠刃衛殿」




