第八章 忍び寄る影➄
血しぶきが飛ぶ。
ナイフを振り下ろすたびに、少年の顔に血が跳ねた。
小柄の体のどこもかしこもが血塗れだ。
ナイフを突き立てられる相手は男だった。
ベッドに横たわる筋骨隆々の大柄な男。
だが、すでに動く様子はない。
それでも少年は振り下ろす腕を止めなかった。
それが五分ほど続いた。
「…………」
少年はようやく腕を止めた。
ナイフを手離して顔の血を拭い、ベッドから降りる。
――と、
「終わったか? 王」
不意に声を掛けられた。
目をやると、そこには同じく血塗れの少年がいた。
片手には拳銃を握っている。
「……崩」
少年――王は双眸を細めた。
「ああ。つい念入りになっちまったが」
殺した男を一瞥する。
この辺りを根城にしていたはぐれ引導師だ。
実力・知名度ともに二流。
しかし、どこにも所属せず一人で活動している男だった。
最初の足掛かりとしては手頃な相手だった。
「鞭の奴は?」
「……あいつは」
崩は拳銃で額をかいた。
「使用人どもを皆殺しにした後、気に入った女を連れていったよ」
溜息と共にそう続けた。
「早速かよ。あいつらしいな。だが……」
王は部屋の片隅に視線を向けた。
そこには一人の女がいた。
年齢は二十歳ほどか。
スレンダーな肢体に透き通った黒い寝間着だけを纏った長い黒髪の美女だ。
王や崩よりも五歳ほど上に見える。しかし、彼女は年下の少年たちの前で、ガタガタと歯を震わせて小さくしゃがみこんでいた。
その美貌からして十中八九、引導師だと分かる。
彼女は王が奇襲を仕掛けた時にはすでにここにいた。
恐らくは情事のために、殺した男に呼びだされていた隷者といったところか。
「ようやく始めたんだ。俺もまず奪うモンは奪い尽くさねえとな」
王は女に近づくと、そのあごを掴み上げた。
未だ歯を鳴らす女に、「お前の魂力は幾つだ?」と尋ねる。
女は怯えながらも「ひゃ、122……」と答えた。
「……まあ、合格ラインだな」
王は口角を崩した。
そして自分よりも背の高い女を軽々と肩に担ぎ上げた。
「俺も今夜はこの女を堪能することにするさ。気に入ったら隷者にする。なにせ俺の最初の戦利品だしな」
そう告げて歩き出す。
運ばれる女は怯え切って声も上げられない様子だ。
が、王はおもむろに足を止めると、顔だけで振り向いて、
「お前も、他の連中も、気に入ったのを隷者にしな。まあ、二流の引導師の隷者じゃあ数が足んねえかもしれないが……」
ふっと笑い、
「使用人の中には女も多かったんだろ? 今夜の相手は相談で決めな。何にせよ、しばらくはここを拠点にする。そのつもりでいてくれ」
「ああ」
崩は頷く。
そして、
「いよいよなんだな」
そう尋ねる朋友に、
「ああ」
王は力強く首肯する。
「ここからが俺が『王』へと成る道だ」
そうして月日は流れて……。
「…………」
その夜。
帰還した王は、廃ホテルのエントランスにいた。
ボロボロの来客用ソファーに体を預けて瞳を閉じている。
周囲には人はいない。
部下たちは各自部屋に戻っていた。
思考に没頭するために人払いしたのだ。
静寂に包まれるエントランス。
そんな中、一人の人物が近づいて来た。
「……王さま」
それは長い髪の女性だった。
二十代半ばほどの赤い中華服を着たスレンダーな美女である。
「……春鈴カ」
王は瞳を開けた。
彼女は王の筆頭隷者。王が最初の戦利品と呼んだ女だった。
あの夜から五年。
ほとんどの隷者は魂力がより高い女へと入れ替わり続けた。今や隷者たちの平均は150を超えるのだが、彼女だけは魂力の量に関係なく今も王の傍にいた。夜を共にする機会も彼女が最も多い。《未亡人》を別にすれば、王の一番のお気に入りの女とも言えた。
彼女は心配そうに眉をひそめて、
「お疲れのようですが、お身体は大丈夫でしょうか?」
「ああ。大丈夫ダ」
王は苦笑を浮かべつつ答えた。
「少し昔を思い出してただけダ」
体を起こす。
「それで何か用カ?」
「はい」春鈴が頷く。
「鞭さまから今後の方針についてお話があるそうです」
「……そうカ」
王は指を組んだ。
「まあ、想像以上に厄介なターゲットのようだしナ……」
「先程からお待ちです。こちらにお通しいたしましょうか?」
そう告げる春鈴に、王が「ああ」と頷こうとした時だった。
「ああ。ここにいたのか、王」
不意に別の人物から声を掛けられた。
視線を向ける。
途端、王は目を見開いて硬直した。
春鈴も驚いた顔をしている。
そこにいたのは《未亡人》だった。
珍しく普段の黒い中華服姿ではない。
緑に輝くラインの入った暗青色のレギンスの上に、硬質のハーフコートを羽織っている。
袖や襟などに白いファーも装飾されており、まるで王者のようだった。
初めて見る姿である。
化粧も全くしていないようだ。
薄いアイシャドーもなく、唇は真紅ではなく自然な桜色。
思えば、化粧をしていない顔を見るのも初めてだった。
艶やかさでは普段の方が上だろう。
しかし、王は今の《未亡人》の姿に息を呑んだ。
まるで太陽のようだった。
これまでのどこか暗さを宿した姿とは違う。
――そう。暗雲はすべて払い退けて。
全身から覇気を放ち、圧倒的なまでの活力に溢れていた。
これこそが、彼女の本来の姿なのだと思い知った想いだった。
それほどまでに眩しく。
それ以上に美しかった。
「どうした? 王?」
返答も忘れてしまった王に、《未亡人》が眉をひそめた。
「あ、ああ……」
王は思い出したように頷く。
「話し中だったのか? 『私』もお前に話があったのだが……」
春鈴に目をやって《未亡人》が言う。
「また後で来た方がよいか?」
「いえ。《未亡人》さま。どうかお気になさらず」
春鈴が王に視線を向けた。
「私は席を外します。王さま」
「あ、ああ。そうだナ……」
そう返す王に、
「いや。それには及ばない」
《未亡人》がそう告げた。
「すぐに終わる話だ。ここはいいか?」
「……ああ」
頷く王に、《未亡人》は「失礼するぞ」と言って、向かいのソファーに腰を降ろした。
その動作一つ一つに今まで以上の覇気と美しさを感じた。
そして、
「まずは謝罪しておこう」
そう《未亡人》は切り出した。
「……謝罪?」
眉根を寄せる王。
「そいつはどういうことダ? 《未亡人》」
「言葉通りの意味だ。すまない。今や事態は大きく変わってしまった」
そう告げて《未亡人》は深々と頭を下げた。
こうして謝罪されるのも初めての経験だった。
王はもちろん、春鈴も困惑する。
「本当にすまないが……」
そうして《未亡人》は宣告した。
「お前との賭けの約束はここで破棄させてもらう」




