第七章 かくして彼女はそう告げた➄
それはもうどれほど前のことだろうか。
自分があいつと初めて出会ったのは『陰太刀』の兵舎の廊下でだった。
あいつは廊下に一人で立ち、まじまじと自分に不躾な視線をぶつけてきた。
『……何だ?』
流石に不快に思って顔を上げて睨みつける。
男と比べてもさほど身長に差がない彼女なのだが、その男は顔を少し上げなければならないぐらいに背が高かった。
軍服を纏う体格も痩身のように見えるが、相当に恵まれていることが分かる。
こればかりは性差のためにどうしても劣るのだが、少し不快に思う。
『……自分に何か用か? 木偶の坊』
そんな想いもあってか、辛辣な言葉を告げる。
すると男は、
『……いや、用は』
と言いかけたところで、
『違うな。あったな。察するにお前が御影だな』
『……? 自分の名を知っているのか?』
『ああ。不本意だが命令でお前を迎えに来た』
男はそう告げる。
『……お前が己の専用の首輪ということか』
『……どういう意味だ?』
彼女は怪訝そうに眉根を寄せて男を見据える。と、
『総隊長殿から聞いておらんのか?』
男は言う。
『本日付けでお前は第三分隊に転属になる』
『………は?』
彼女は目を丸くした。
『ついてこい。御影。不本意だが大門……分隊長の元に案内する』
言って、男は外套を翻して歩いていく。
『ま、待て!』
彼女は慌てて男の後を追った。
『そんな話は初めて聞いたぞ。そもそもお前は自分を知っているのか?』
この男とは初対面のはずだ。
『お前の顔は初めて見るが、どうして自分が「御影」だと分かった?』
『……いやなに』
すると男は一旦足を止めて振り返った。
その顔には皮肉気な笑みを浮かべている。
『大門が言っていた。お前には会えばすぐに分かると』
『……なに?』
『お前は有名らしいな。女と見紛うばかりに美しい男だと』
『………な』
彼女は目を剥いた。
『正直、己も驚いた』
淡々とした声で彼は言う。
『何故、こんな少女が軍服を着ているのかとな』
『―――なっ!』
そう告げられて、彼女はカッとなった。
誰も知らないこととはいえ、彼女はれっきとした女性だ。
体はもちろん、心においてもだ。
だが、それでも男であろうと日々偽装の努力をしているのである。
それを否定されて、思わず腰の刀に手を添えるが、
『……ああ。すまぬな』
男はあっさりと謝罪した。
『揶揄するつもりはなかった。どうも己はまだ人の機微に不慣れでな』
そう言って、再び歩き出す。
どうやら話はそれで切り上げたようだ。
無言で進んでいく。
(……こいつ)
彼女は眉をしかめた。
直感で察した。
この男は自分には全く興味がないのだと。
「………っっ」
彼女は数秒ほど憤慨していたが、
(……くそッ)
上官の命令だとしたらついていかない訳にもいかない。
しかし不快だ。
心底不快だ。
そう思いつつも、彼女は男の後を追うのだった。
それが久遠真刃との出会い。
後に、百年の恋へと至る二人の出会いだった。
◆
「………御、影?」
かつての日々のようにそう彼に呼ばれて。
ようやく、桜華の硬直は解けることができた。
「…………う、あ」
しかし、凍り付いていた影響で上手く言葉までは出てこない。
どうにか息だけ吐く。
桜華は、自分の喉を片手で強く押さえた。
「……どういうことだ?」
すると、彼の方から近づいて来る。
その顔には、流石に困惑した表情が浮かんでいた。
「……御影。お前、その姿は……」
そう呟く。
それは彼――真刃にしてみれば、百年前と変わらないどころか、あの頃よりもさらに若々しい姿に対しての呟きだったのだが、
(………あ)
反射的に、桜華は自分の衣服に視線を落とした。
激戦の末にボロボロとなった衣服。しかも、左脇腹から胸部へとかかるまでの範囲は服としての機能がほとんど死んでしまっている。
「………~~~っ!?」
桜華は音にもならない声と共に、勢いよくその場にしゃがみ込んだ。
自分の胸元を両手で覆い、膝を折ることで腹部の露出も隠す。
要は腰を着けない三角座りだ。
「~~~~~~っ!」
その上で、彼女は上目遣いで真刃を睨みつけた。
それは果たして羞恥なのか、困惑なのか。
自分でも分からないまま、微かに目尻に涙を滲ませていた。
そんな桜華の様子にエルナたちは「「「え?」」」と目を丸くし、先程まで死闘を繰り広げていた六炉は驚いた顔をしていた。
『……九龍。赤蛇。蝶花よ』
その傍らで猿忌は従霊たちに問う。
『……これは一体いかなる事態なのだ?』
しかし、九龍たちにしても返答に困るだけだった。
簡潔に説明できる状況ではない。
猿忌は渋面を浮かべつつ、『……主よ』と真刃に声を掛けるが、
「……しばし待て」
そう告げて、真刃は片手で猿忌を制した。
ゆっくりと一人、桜華の元へと近づいていく。
その間も、彼女は真刃だけを見つめていた。
そうして――。
「……御影」
真刃は彼女の名を呼んだ。
桜華はビクッと肩を震わせた。
「……何故お前がここに? それもあの頃と変わらぬ姿で……」
そう尋ねる真刃に、
「そ、それはッ!」
桜華は立ち上がって叫んだ。
「お前が、お前が殺されたからだろうッ!」
「……な、に?」
真刃は目を見開く。
「お、お前がッ!」
桜華は震える声でさらに叫ぶ。
「お前が自分……『私』を置いて居なくなるから! あの女に殺されたから! 『私』はあの女を憎んで殺したいと願った! だが、それも叶わなくてッ!」
強く、強く自分の腰と肩を掴む。
「『私』はあの日、死ぬつもりだったッ! けれど、運命がそれを許さなかった! 『私』は、ずっと『私』は――」
ボロボロ、と。
桜華の瞳から大粒の涙が零れ落ちていく。
強い風が吹いた。
月華の世界に、光る桜が舞う。
「お、お前が、お前が『私』を置いて居なくなったからあ……」
彼女は涙を拭うこともしなかった。
真刃は言葉もなかった。
(……嗚呼、自分は……)
桜華は強く瞳を閉じる。
こんなにも。
こんなにも。
心も感情も摩耗するような長い年月を経てなお。
この男のことを誰よりも愛している。
とても。
とても深く愛している。
それを強く自覚した。
(……『私』は……)
桜華は小さく息を吐き出した。
吐息が熱い。
全身が震えている。
これはきっと歓喜だ。
肌が火照っている。
これはやはり羞恥だろう。
(……百二十年以上も生きておきながらか……)
そう思うと耳まで赤くなってしまいそうだが、ここは素直に認めよう。
愛しい男との再会に心から喜んで。
そして、あられもない姿を見られて自分は恥ずかしがっているのだ。
……これも若返った影響なのかもしれない。
そもそも羞恥どころではない。
先程から自分は、目の前の男に抱きしめて欲しいと強く願っている。
まるで普通の乙女のごとく。
少しでも気を抜けば、今にもあの腕の中に飛び込んでしまいかねないほどに。
(…………)
桜華の鼓動は早鐘を打ち、肌はより火照る。
燃え上がるような激情が、心を強く震わせていた。
キュッと唇を噛む。
情けない。情けない。
こんな情けない『久遠桜華』は『久遠真刃』に相応しくない。
「……久遠」
桜華は久しぶりに彼の名を呼んだ。
それだけで心が弾むのを感じて、より情けなく思う。
「お前がいかなる手段で黄泉返ったのかは知らない」
桜華は涙を拭って言う。
「いずれにせよ、こうしてまたお前が『私』の前に現れたのだ。理由など些細なことだ。あの女への復讐さえも、もはやどうでもいい。だが」
桜華は真刃を睨み据えた。
真刃は未だ困惑した様子だった。
(――そう。『私』は……)
相応しくならなければならないのだ。
この最強の男に――。
思い出せ。自分の最初の望みを。
「忘れてはいないだろうな。『私』がお前を倒すことを目標にしていたことを」
「……それは」
真刃はようやく口を開いた。
「忘れてはおらぬが……」
「なら充分だ」
桜華はもう一度だけ涙を拭って頷いた。
「だが、今はまだ準備不足だ」
そう告げると同時に、月華の世界は砕けて散った。
周囲は市街地。現実世界に戻る。
目立つ九龍などは慌てて霊体化した。
桜華は、片手で自分の肌を隠しつつ、近くの屋根まで跳躍した。
そうして未だ困惑を抱く真刃を見下ろして。
「いいか。久遠」
桜華は少し拳を固めて瞳を細める。
「今の『私』はとても万全とは言えない。だが憶えておけ。今日は出直すが『私』は再びお前の前に現れる。もう二度とお前を見失うものか。だから――」
かくして。
彼女は、こう告げるのであった。
「お前を倒すのはこの『私』だ。首を洗って待っていろ」
心から愛する男に向けて。
愛の言葉ではなく、勇ましき宣戦布告をする。
百年の月日を経ても。
彼女は変わらず『乙女』であり『剣士』であった。
そして、
「……また会おう。久遠」
桜華は少しだけ名残惜しそうに。
もしくは離れることに強い不安を抱くかのように見つめる。
が、ややあって跳躍した。
その姿は瞬く間に小さくなっていく。
真刃には追うことが出来た。
しかし、
(……御影)
強く拳を固める。
とても動くことが出来なかったのだ。
御影刀一郎とは、真刃にとって決して軽い存在ではないからだ。
「……お前に一体何があったのだ……」
彼女が去った遠方を見据えて。
今はただ、そう呟くしかない真刃だった。




