第八章 雪解けの夜➂
(こいつは化け物だ)
同時刻、彼女は冷たい汗を流していた。
場所はヘリポート。
この街で最も空に近い場所だ。
遮蔽物もないその場所で、彼女たちは激しい戦闘を繰り広げていた。
――ゴウッ!
折り畳まれた和傘が唸る!
彼女は咄嗟に身を屈めて回避するが、直撃すれば肉片と化す一撃だ。事実、すでに復元させているが、防御しようとした腕を吹き飛ばされたこともある。
(どんな魂力を込めてるんだよ!)
距離を取った彼女のハリネズミのような髪が大きく広がる。
そこから棘に覆われた球体が幾つも飛び出した。
彼女の髪で造られたそれらは機雷だ。少しでも衝撃を与えれば爆発する。
しかし、あの女は――。
「邪魔」
そう呟いた途端、一気に気温が下がった。
恐ろしいほどの下降速度だ。大気は一気に凍り付き、あの女を中心に、ヘリポートに霜が奔る。機雷も次々と凍結した。
(氷結系の系譜術か。けど、この威力は……)
瓶底眼鏡の奥で彼女は目を細めた。
ここまで強力な氷結能力は見たことがない。
「……まるで雪女だね」
彼女がそう告げると、一瞬だけ相手の動きが止まった。
「……ムロは」
和傘を手に女が言う。
「……ムロは人間。雪女なんかじゃない」
「ふ~ん、そう」
彼女は双眸を細めた。
これまでの話からして、どうやらあの女は『ムロ』という名前らしい。
儚げな二つ名に対し、野暮ったい名前だ。
「けど、私にはとても人間には見えないけどね!」
言って、彼女は巨大な金棒にも見える髪を振り抜いた。
鉄の強度の頭髪。振っている間にもさらに質量を増大させた。
だが、あの女は、
「……無駄」
そう告げて和傘で迎え撃った。
――いや、それはすでに和傘ではなかった。
和傘を氷が覆い、巨大な大太刀となっていたのだ。
氷の大太刀は、彼女の髪を切り裂いた。
彼女は舌打ちして距離を取ろうとするが、
――ズンッ!
あの女の前蹴りで腹部を強打されてしまった。
砲弾のように吹き飛ばされ、ヘリポートの柵に叩きつけられる。
ヘリポートの柵は大きくひしゃげたが、どうにか地上への落下は防いでくれた。
カシャン、と彼女のトレードマークである眼鏡が落ちた。同時にやや幼さが残る美麗な顔立ちが露になるが、その直後に苦悶の表情を見せ、彼女は大量に吐血した。
滝のように零れ落ちる赤い血。
ようやく吐き終えて口元の血を拭いながら、彼女は思った。
(こいつは本当に化け物だ……)
即死級の損傷であっても、すぐに復元はできる。
だが、正直言って全く勝機が見えなかった。
確かに自分の力は先輩方に比べれば大きく劣る。
異能も生前から爆弾頭と揶揄されたこの髪を操るぐらいだ。
ましてや天の七座の一角。
偉大なる最古の女王と比較すれば、足元にも及ばない新参者だ。
けれど、たった一人の引導師に勝てないと思ったのは初めてのことだった。
(……マズイな。逃げないと殺される)
忸怩たる想いはあるが、命には代えられない。
しかし、
(逃げるとしても魂力が足りない。彼から徴収しないと)
現在戦闘中の彼から魂力を奪う。そうすれば彼女の魂力は倍増だ。
それでも勝てる気はしないが逃げることぐらいは可能だろう。
だが、それをすれば彼は――。
「…………」
毎夜の如く肌を重ねた相手。
胸の奥が痛む。
これも怪物擬きの哀愁に過ぎない。
久方ぶりの温もりに、人の残滓が揺らいでいるだけだ。
(けど……)
と、迷いを抱いていた時だった。
――ズズンッ!
唐突にヘリポートに衝撃が奔る。
驚いて目をやると、そこには巨大な狼男がいた。
「怪物君!」
彼女は目を見開いた。
どうして戦闘中のはずの彼がここに……。
(嗅ぎつけてきたのか? あの女の匂いを)
《雪幻花》は、突如現れた黒狼を見据えていた。
彼は元々あの女に執着していた。
超常的な嗅覚で嗅ぎつけてこの場に現れたのかもしれない。
これは、彼女にとってはチャンスだった。
待望の女を目の前にしたのだ。間違いなく彼とあの女は戦闘に入る。
その隙に逃げることは可能だった。
ただし、彼は確実に殺されてしまうだろうが。
(……覚悟を決めろ)
損傷を復元させ、髪も元のサイズに戻しつつ、彼女は唇を噛んだ。
ここで彼を切り捨てる覚悟を。
自分は怪物。所詮は一人。温もりなど泡沫の夢だ。
そう自分に言い聞かせようとした時、
――ズズンッ!
黒狼が、彼女の傍にまで跳躍してきた。
(……え?)
彼女は黒狼を見やり、驚いた表情で目を瞠った。
すると、
「………へ?」
唐突に黒狼が彼女を両手で抱き上げたのだ。
そして、
『……逃ゲルゾ』
「え?」
『……勝テル相手ジャナイ』
そう告げる黒狼に、彼女は唖然とした。
「え? え? けど、君の目的は彼女だろう? だから私と契約して……」
『……オ前ヲ』
黒狼は《雪幻花》を見据えたまま告げる。
『オ前ヲ殺サレル訳ニハイカナイ。イヤ』
黒狼はかぶりを振った。
『オ前ヲ失ウグライナラ逃ゲタ方ガマシダ』
はっきりとそう告げた。
彼女は一瞬だけ目を見開いて驚くが、
「……あは。あはははッ!」
とうに止まったはずの心臓の高鳴りと共に、彼の胸元に抱き着いた。
それから自分を圧倒した女を見やり、
「どうだい! 私の勝ちだ!」
大きな胸を反らして鼻を鳴らした。
一方、唐突な勝利宣言に《雪幻花》は困惑していた。
「君は強いよ! とんでもない強さだ! 化け物の私が感服するぐらいだよ! けど、それだけに可哀そうだね」
と、意気揚々に彼女は告げる。
「……どういう意味?」
眉をひそめて《雪幻花》が問うと。
「君ってまだ処女だろ。男を知らないんだろ?」
「……………」
「それだけ強くちゃあエッチなんて怖くて出来ないだろうしね」
にんまりと笑って、もふもふの狼の胸に顔を埋もらせる。
「君が男の子だったら相手を気遣う優しいセックスとかもあったかもね。けど、君は女の子だもんね。感極まったりしたら、力一杯抱き着きたくなることなんて幾らでもあるよね。けど、その時、相手ってどうなるかな?」
「…………」
《雪幻花》は無言だ。ただ微かに唇を噛んでいた。
「たぶん君って自前の魂力が桁違いなんだろうね。まあ、魂力を補強すれば君の相手もどうにか務まるかもしれないけど……」
狼の腕の中で、彼女はクツクツと笑う。
「セックス中、常に防御に気を配る必要はあるね。なにせ死の抱擁がいつ来るかも分からない状況だ。虎とじゃれつくより怖いよねェ。命がけのエッチだよ。あはは、カマキリじゃあるまいし。その人って正直、勃起することも出来ないんじゃないかな?」
「…………」
未だ《雪幻花》は何も返さない。
黒狼も男としての想いもあるのか、無言だった。
一方、彼女は上機嫌だった。
「君を抱ける男なんていないよ。仮に君が名付き我霊なら事前に魂力を落としておくとかも出来たんだろうけど、人間だとそんな都合のいい調整なんて出来ないもんねェ」
ケラケラと笑う。
「化け物に化け物と呼ばれる人間! 哀れだね! 強すぎる君は一人ぼっちの怪物だ!」
「……違う」
ポツリと反論する《雪幻花》に、
「違わないよ」
彼女は容赦なく宣告する。
「君は人間だからこそ一人ぼっちだ。けど私は違う。私は化け物だけどね!」
ギュッと愛する狼に抱き着いた。
「私には愛してくれる男がいる。化け物同士は愛し合えるんだ。人間の君とは違ってね! 彼は私に夢中でいつもお腹がタプタプになるまで出すから大変だよ!」
『……オイ、ヤメロ』
流石に黒狼が口を挟んだ時、
「私と君」
三日月のような笑みを見せて彼女は尋ねた。
「果たしてどっちが幸せなのかな?」
「………っ」
目を見開いてムロは硬直してしまった。
一方で、
「(よし。今だよ。早く逃げよう)」
彼女は小声で黒狼に告げた。
『(……オ前、エゲツナイナ)』
と、返しつつも、黒狼は地を蹴った。
未だ硬直したままのムロを残してビルから飛び降りる。
「あははっ! いい気味だ! 化け物女め! 一矢報えたかなっ!」
落下の豪風に煽られながら、彼女が嬉しそうに叫ぶ。
『恐ロシイナ。女ハ……』
――ドンッ!
丁度いい高さで壁を蹴りつける。
黒狼は彼女を抱えたまま、隣の商業施設の屋上に降りて、そこから跳躍した。
黒い狼が風を切る。
「あははっ! ところでさ!」
黒狼の腕の中で彼女は尋ねた。
「怪物君! 君の名前って何さ!」
それは初めてした質問だった。
黒狼は一瞬沈黙するが、
『……古城黒騎ダ』
そう告げた。
しかし、風のせいで良く聞こえなかったのか、彼女は目を瞬かせて。
「へ? クロなのかい? なんかそのまんまの名前だね!」
そう言って朗らかに笑った。
『……クロデハ……イヤ、モウ「クロ」デモイイカ』
どうせすでに人を捨てた身だ。名前も改めていいだろう。
『ソレヨリモダ』
黒狼は視線を彼女に向けた。
『オレモ聞キタイ。オ前ノ名前ハ何ダ?』
「え? 私の? 名付き我霊の名前かい?」
そう尋ね返すと、狼は「違ウ」とかぶりを振った。
『ソレハ後デ聞ク。今オレガ知リタイノハ』
グッと強く彼女を抱き寄せる。
『オレノ女ノ名前ダ』
「……そっか」
彼女はぎゅっと彼の胸元に顔を埋めた。
「私の名前はお雪だよ。ユキって呼んで」
『分カッタ。ユキ』
自分の女の名を呼んで狼はさらに跳躍した。
かくして、二人は闇夜の中へと消えていった。
まだ若き名付き我霊と、後に『番い魔』と呼ばれる新たな存在の最初の一人。
彼らの在り様は名付き我霊たちの今後の行動に大きな変革をもたらすことになるのだが、その危機に気付く者は、今は誰もいなかった。
ユキ「おおかみおとこのクロとユキ!」
クロ「……オイ、ヤメロ」




