第六章 闇の呼び水➄
――時は四日ほど遡る。
その日。
夜の街を一人の少年が歩いていた。
いや、厳密に言えば、歩いているとは言えない。
ビル同士の路地裏で気配を隠しつつ、体を引きずっていたからだ。
だが、それもそろそろ限界だった。
ガクンッと片膝をつく。
(何だったんだ、あいつは……)
ビルの壁を背に、少年はずるずると腰を落とした。
額や腕からは血が流れ、身に着けたレインコートもボロボロだった。
(……化け物か……)
少年は歯を軋ませた。
ブラマンでの戦い。女王との再戦は、圧倒的な敗北で終わってしまった。
けれど、それでも彼は諦めきれなかった。
――もう一度、いや、何度でも彼女に挑む。
心まではまだ折れていない。
しかし、今のまま挑んでも同じ結果にしかならないのは明らかだ。
もう一度挑むためには、さらに多くの魂力が必要だった。
そこで目を付けたのは《夜猫》だった。
183もの魂力の持ち主。あそこまで高い女はそうはいない。
彼はあの女を追っていた。
元々 《魂結びの儀》を挑んできたのはあの女の方だ。それにはすでに勝利している。文句など言わせない。
あの女の他にも可能な限り魂力の高い女を選んで隷者にし、最後には西條綾香も手に入れるつもりだった。三強と呼ばれるだけあってあの女は200越えだ。
女王に挑むための贄として絶対に必要な女だった。
いずれにせよ、まずは《夜猫》を隷者にする。
だが、ようやく見つけた時、あの女は別の男に捕らわれていた。
奇しくも、その男も見覚えのある人物だった。
(そう言えば、こいつもあの女を狙っていたな)
対峙した時、そんなことを思い出した。
当の《夜猫》は、何やら泣き叫んでいたようだが。
それを見ても、彼は何も感じなかった。
むしろ不快感さえ抱いた。
情けない姿だ。《雪幻花》ならばあんな醜態は見せない。
そんな感想を抱いたが、
(……いや)
双眸を細める。
最強の女王も一人の女であることに違いはない。
もしかしたら、ああいった弱い一面もあるのかもしれない。
そう考えると、それを見てみたいと思った。
(……これが俺の本性なのか)
内心で、自嘲の笑みを浮かべる。
彼女と再戦して思い知った。
自分は、ただ彼女を手に入れたいだけなのだ。
――貪欲で横暴な狼。
ただの一匹の雄としてあの雌が欲しいのだ。
(それでもいいさ)
自分の本性を、もはや否定する気はない。
むしろ受け入れたことで、以前よりも活力を感じていた。
今まで気付いていなかった凶暴な激情が、全身から溢れそうだった。
(獣性こそが俺の本性なら、最強の狼になるだけだ)
そう決意した。
とは言え、今はまだ《雪幻花》を手にすることは出来ない。
差し当たり今夜は《夜猫》を代用品にして、この獣性を静めることに決めた。
そのためにも、まずは人の獲物を横取りしようとする眼前の雑魚の群れを蹴散らさなければならない。そう考えて、彼が身構えようとした時だった。
不意に、あの男が現れたのである。
(……あいつは何だったんだ……)
あの場から離れた今でも冷たい汗が止まらない。
あの男は、恐らくは式神遣いだ。
だが、疑問だらけだった。
黒い虎のような式神が《獅童組》の連中を蹴散らす中、あの男は無造作に彼と獅童の方へと近づいてきたのだ。接近戦には不利といわれる式神遣いがだ。彼は警戒して《DS》を使用した。獅童も同様だった。
けれど、その結果は無残だった。
あの男は式神遣いでありながら、素手で彼らをねじ伏せたのである。
『……終わったぞ。主よ』
式神もまた、模擬象徴までいた《獅童組》を殲滅したようだ。
あの男は『こちらもだ』と答えると、茫然と座り込んでいた《夜猫》へと手を差し伸べたのだが、あの女は腰が抜けていたようだ。男は嘆息し、《夜猫》を片腕で抱き上げてその場から去っていった。
屋上で倒れ伏したまま、彼は殺されなかったことに安堵した。
が、すぐにギリと歯を軋ませた。
また負けた。圧倒的に負けてしまった。
『……ぐうああァ……』
彼は叫んだ。
『がああああああああああああああああああ―――ッ!』
それは狼の悲痛な咆哮だった。
(……俺はなんて弱いんだ……)
ビルの路地裏で少年は唇を噛んだ。
額を強く掴む。
体の傷以上に、敗北感に苛まれていた。
目尻には悔し涙も浮かんでいた。
「……だが、まだだ……」
指を額に強く食い込ませる。
確かに敗北した。
だが、自分はあの時、まだ《DS》しか手に入れていなかった。
――隷者だ。隷者さえいればもっと強くなれる。
狙っていた《夜猫》はあの男に奪われてしまった。
取り戻すのはまず無理だ。恐らく、あの男に勝つには《雪幻花》に挑むのと同等の準備が必要になる。《夜猫》は諦めるしかない。
そもそも今は選り好みが出来る状況ではない。ブラマンと今回の戦闘で《DS》も相当消費してしまった。魂力の底上げが急務だった。隷者を数人確保しなければならない。
「……いっそあいつらを呼び戻すか」
そんなことも考える。
自分が捨てた隷者たちだが、呼びかければ応じるはずだ。
どうせ自分の本性は獣だ。そして女は贄だ。何人いても構わない。
それが幼い頃からの付き合いのある相手でも、必要ならば食い散らかすだけだ。
「何を犠牲にしようが構うものか」
口元の血を拭って彼は言う。
「俺はもう手段を選ばない。誰よりも強くなるんだ」
と、続けてそう呟いた時だった。
「へえ。そうなんだ」
不意に、路地裏に声が響いた。
女の声である。彼は表情を鋭くした。
「……誰だ?」
「う~ん、私が誰かはどうでもいいんじゃないかな?」
そう告げて、その人物は路地裏の奥――彼の元へと近づいてくる。
その姿は、やはり女だった。
年齢は十八ぐらいか。身長は低く百五十もない。
だが、ベージュ色のパーカーと、黒いプリーツスカートを纏うスタイルは小柄ながらも抜群だった。それを示すかのように大きな胸を揺らして歩いてくる。何故か皺だらけの白衣を上に着ているのは疑問だが。
癖毛なのかボサボサとした黒髪は、シルエットがまるでデフォルメしたハリネズミのようで特徴的なのだが、それ以上に、顔にかけた瓶底眼鏡が印象的だった。
少年は強く警戒した。
こんな場所に来た以上、この少女は真っ当な存在ではない。
――果たして敵か、味方か。
しかし、そんな警戒を気にした様子もなく、彼女は少年の前で前屈みになった。
「ねえねえ、少年」
そして瓶底眼鏡の少女は、三日月のような笑みを見せてこう告げた。
「君は本当に強くなりたいのかな?」
そうして……。
時は流れて四日後。
二つのニュースが強欲都市を大きく震撼させた。
一つは《鮮烈紅華》が移動中に襲撃され、西條綾香が行方不明になったこと。
もう一つは、三つのチームの末路だった。
三つとも中堅程度のチーム。そのメンバーが惨殺されたのだ。
――そう。まさしく惨殺だった。
男は等しく頭部を失い、女は犯された後、やはり頭部を失っていた。
三チームとも同様だった。恐らくは同一犯の仕業だった。
二つの事件。
これらが誰の仕業なのか。
それが解明されるのは後日のことだった。




