第八章 王の審判⑧
その存在には、誰もが驚愕していた。
総毛立てて、ドーンワールド内にいる我霊たちが一斉に顔を上げる。
淀んだ瞳に映るのは、海原を縦断する巨躯だ。
赫光を纏う圧倒的なまでの暴威の化身。
まさしく、災厄の王である。
我霊たちは、恐怖の悲鳴を上げた。
そして蜘蛛の子を散らすかのように、我霊たちは走り出した。
海に飛び込んで人工島から脱出する者、少しでも遠くへと駆け出す者と様々だ。
ひたすら闇雲に、脱兎のごとく逃走する。
「――ぎゃァん!?」
獲物を前にした我霊さえも、悲鳴を上げて逃走を優先させた。
訳も分からないまま化け物に襲撃され、まさに今、死の目前であった一般人の男女は遥か遠方を見上げた。
二人は、呆然と、海を闊歩する灼岩の巨獣を見やる。
「……神さま?」
傷ついた肩を押さえて、女性が呟いた――。
「………え?」
違うエリア。愕然としていたのはエルナも同様だった。
真刃たちと要救助者を探してエリア内を進んでいたところに、突如、あれが現れたのだ。動揺しないはずがない。
――まさか、あれも我霊なのか?
あまりの巨大さに眩暈を覚えつつも、最大の警戒をする。
が、同行する燦の方は呑気だった。
「あっ! おじさんだ!」
巨獣に向かって、大きく手を振っている。
「おじさぁん! ここだよォ!」
そんなことまで言い出した。
エルナは一瞬キョトンとしていたが、すぐに燦の言葉の意味を理解した。
「えええッ!? ちょっと待って!?」
燦の両肩を掴む。
「あれが真刃さんってこと!? あれって従霊なの!?」
「うん。そうだよ」
燦は、当然のように頷いた。
それから、少し悪戯っぽく微笑んで。
「へえ~。エルナってば知らなかったんだ」
壱妃なのに。
そう続けたところで、燦は頬を左右に引っ張られた。
「調子に乗るな。真刃さんは結構秘密主義なのよ」
言って、今度は頬を押し潰す。
燦は「うむゥ」と唸った。
「とにかく、あれは真刃さんなのね?」
少し手を緩めて尋ねるエルナに、燦は「うん」と頷いた。
「従霊の集合体なんだって。おじさんの切り札だって金羊が言ってた」
「……そう」
そう言えば、以前、刀歌が言葉を濁していたことがあった。
確かにあの規模の従霊では、説明するのに困惑するのも無理はない。
(いずれにせよ、あれが出て来たということは……)
エルナは、巨獣の進む先に目をやった。
エルナたちがいる太陽の国ではない。目的地は夜の国だ。
(そこに今回の敵がいるのね)
ここからでは支援も間に合わない。
(私には何もできない。気をつけて。真刃さん)
紫色の瞳を細める。
「ひゃめろ! ヒェルナ! あたしのひょっぺであひょぶな!」
燦がエルナの腕を掴もうとする。
餅のように柔らかい燦の頬を弄りながら、愛する人の身を案じるエルナだった。
一方、その頃。
遊具が動き続ける夜の国の一角にて。
かなた、月子、刀真の三人は足を止めていた。
「か、か、か……」
刀真が瞳を輝かせた。
「怪獣だあッ! 怪獣が出て来たあッ!」
少年らしい興奮を見せている。
このエリアに徐々に近づいてくる巨獣に見入っていた。
その傍らで、月子も表情を明るくさせていた。
「おじさま!」
胸元に片手を当て、ホッとした顔を見せる。
「良かった。無事だったんだ」
その呟きに、驚きの表情を見せたのはかなただった。
(……え?)
月子に目をやってから、海を渡る巨獣に視線を向ける。
「月子さん? あれは真刃さまなのですか?」
「あ、はい」
月子が頷く。
「おじさまの従霊です。全従霊を集合させた姿というお話でした」
「……集合、体……」
呆然と反芻する。
そして改めて、巨獣の姿を見つめた。
かなたの驚きは、エルナとはまた違っていた。
彼女には、あの姿に見覚えがあったのだ。
(……骸鬼王の館……)
自分が、あの人の妃となったあの館。
そこで見た夢の中に、あの巨獣は出て来た。
その時の巨獣はさらに倍以上は巨大だったが、姿自体は完全に一致する。
(けど、あれは骸鬼王の眷属が見せた記憶のはず。百年以上も前の……)
それが、何故――。
表情には出さず、かなたは困惑した。
すると、
『……お嬢』
不意に、首のチョーカーが小さな声で語りかけてきた。
かなたにしか届かないほどの小さな声。赤蛇の声だ。
「……赤蛇」
『混乱しているか?』
そう尋ねてくる専属従霊に、かなたは頷く。
「あれは何なの? どういうことなの?」
赤蛇が小さな声だったので、かなたも小声で尋ねる。
「私はあれを知っている。けど、それは――」
『お嬢』かなたの声を赤蛇が遮った。
『まず前提から話すぞ。オレはお嬢を誰よりも推している』
赤蛇は言う。
『お嬢の性格からして壱妃の座は銀髪嬢ちゃんに譲るかも知んねえ。だが、それでもご主人に一番愛されて欲しいのはお嬢なんだ。それこそご主人が今も大切に想う二人――まあ、あえて刀一っちゃんも入れたら三人か。あの三人よりもだ』
「…………」
かなたは無言だ。
『そんで本題だ。今、オレがお嬢に伝えられる情報は一つだけだ。ご主人のあの姿が、どう呼ばれているかだけだ』
「……なんて呼ばれているの?」
瞳を輝かせる刀真と、巨獣を見つめる月子に会話を気付かれていないか一瞥しつつ、かなたはそう尋ねた。
『昔の二つ名には一つルールがあってな』
と、前置きしてから、赤蛇は語る。
『流行ったのは百年ほど前のことだ。千年我霊どもへの対抗と討伐の宿願を込めて、老害ジジイがあの二つ名を名付けたのが切っ掛けだった。完全な怪物である奴らに対し、半分は「人」であるという意味で、二つ名の間に「ノ」を入れたんだ』
一拍おいて、
『豆知識程度で憶えとくといいぜ。古い時代から存在する「ノ」の入った二つ名を持つ奴は、怪物のような力を持っているが、半分は人なんだってな』
「……半分は、人……」
かなたは、巨獣を凝視した。
『知っておきな。弐妃・杜ノ宮かなた』
赤蛇は告げる。
『あれの名は《千怪万妖骸鬼ノ王》。ご主人の象徴たる獣の名だ』
「…………」
その名を聞いても、かなたはもう動揺しない。
ただ、静かに。
かなたは、愛する人の姿を見つめていた。




