第八章 王の審判⑥
その瞬間、鮮血が散った。
熱い液体が、幾滴か頬にかかる。
それが血だと気付いた時、篠宮瑞希は、はっきりと意識を取り戻した。
「せん、せい……?」
自分の肩を支えてくれる老紳士の服を掴む。
「――先生ッ!」
「怪我はありませんか? 瑞希君」
老紳士――山岡辰彦は、穏やかに笑う。
「先生! 怪我を!」
瑞希の顔が青ざめる。
山岡は、右肩から血を流していた。
杭のように鋭利な指先で貫かれていたからだ。
一瞬後、その指先は引き抜かれた。山岡は、瑞希にこれ以上血をかけてしまわないように、手で肩を押さえた。
「先生ッ!」
瑞希が涙目になった。
そんな彼女に、山岡は変わらず笑みを向ける。
「致命傷ではありません。私なら大丈夫です」
そう告げて、瑞希をその場に座らせた。
両膝をつき、足首を外に広げる座り方だ。
瑞希はすぐに立ち上がろうとしたが、全身に力が入らなかった。
疲労や負傷のせいというよりも、何かしらの毒物の影響かも知れない。
「先生! 僕を置いて逃げて――」
「出来るはずもないでしょう」
山岡は嘆息して、瑞希の頭を軽く小突いた。
「ここであなたを見捨てるのは、私の心に死ねと言っているようなものです。老い先短いこの身ですが、誇りを失った余生など御免ですな」
そう言って、山岡は立ち上がった。
「それならば、ここで命を燃やし尽くす方がいい」
「――先生ッ!」
瑞希に背を向けて歩き出す山岡を、彼女は追おうとする。
しかし、体が言うことを聞いてくれず、その場から動けなかった。
「大丈夫です。瑞希君」
山岡は、歪なピエロと対峙して拳を構えた。
「私は勝ちますので」
『……へえ』
一方、ピエロはカクンと首を傾げた。
『致命傷はギリギリ避けたみたいだけど、その肩の傷は深いよ。それで、オイラとまだ戦えるのかな?』
「傷が深い? それがどうかしましたか?」
山岡は、双眸を細めた。
「私の拳はまだ動きます。何より私の後ろには守るべき者がいる」
コオオ、と呼気を吐く。
「戦う理由は十二分。戦わない理由など皆無です」
「――先生ッ!」
瑞希が悲痛な叫びを上げた。
いじましく這ってでも、彼の元へと行こうとしている。
その様子に、ピエロは片手で顔を覆った。
――嗚呼、素晴らしい。
なんて、なんて美しいんだ……。
人の絆の強さ。最も観たかったモノがここにある。
(……嗚呼、人間は本当に綺麗だ……)
主人たる《宝石蒐集家》の感動を受け取って、ピエロ人形は体を震わせた。
『……やっぱり山岡さんを主演に選んで正解だったよ』
と、切り出して、
『オイラたち名付き我霊は、趣向っていうか、演出のタイプが二種類に分かれるんだ。一つはリアリティ……いや、ドキュメンタリーっていうのが正しいのかな? とにかく、生の舞台を観るために閉幕まで一切容赦しない連中』
「………?」山岡は眉根を寄せた。「何の話です?」
『身内話かな?』
ピエロは、人差し指を立てた。
『それでもう一つは演出重視の人たち。メインシーンが観れたら、ちょっと感情移入しちゃってつい手心を加えちゃうんだ。ハッピーエンド派とも呼ばれているよ』
「本当に何の話をしているのですか?」
山岡は、隙なく身構えたまま困惑する。
『ああ。ごめん』
それに対し、ピエロは肩を竦めた。
『本当に身内にだけ通じる話だったね。まあ、結論として言うと、オイラはどっちかというと後者になるんだけど、今回は別ってこと』
ピエロは生々しい舌を出して、瑞希を見やる。
その視線に悪寒を感じてか、瑞希が微かに体を震わせた。
『ここは見逃して、数年ぐらい期間を空ければもっと良いモノも観れそうだけど、今回はサフィもGETしたいからね。悪いけど山岡さんには死んでもらうよ』
ゆらりと舌を揺らして、クツクツと笑う。
『その上で、サフィの反応やそこから堕ちていく様を見るのも楽しみだしね。今回は、あえてバッドエンドにさせてもらうことにしたよ』
「相変わらず、不明なことばかりをいう方ですね」
山岡は嘆息する。
「ともあれ、殺意だけは伝わりました。私も相応の覚悟で迎えましょう」
『ふふ。なら、山岡さんの人生の最終幕と行こうか』
ピエロが手足を大きく振って、行進でもするかのように近づいてくる。
対する山岡は拳を構えたまま、微動だにしない。
瑞希は、両手をフロアについて、彼の背中を凝視していた。
ここに至っては、声を掛けることさえ、師の集中の邪魔になるからだ。
山岡とピエロは、互いの手の届く間合いで対峙した。
そして――。
『バイバイ。山岡さん』
言って、ピエロは右腕を動かした。
その速度はこれまでの比ではない。腕は掻き消え、その指先は銃弾の速さで伸びる。狙いは山岡の右眼だ。それを脳ごと貫くつもりだった。
人には反応できない速度。
《宝石蒐集家》は勝利を確信していた。
――が、
『――――な』
ピエロが驚きの声を零す。
不可避の攻撃を山岡は、ただ首を傾けるだけで回避したのだ。
(読まれていた!)
人の反射神経では、銃弾の速度はかわせない。
最初から、山岡は最後の攻撃が右眼に来ると予測していたのである。
「あなたの攻撃は、会話と違って実に分かりやすい」
そう告げて、山岡は拳を、トスンとピエロの胸板に置いた。
直後、
――ズドンッッ!
両足から、腰、右腕へと連動させた体躯が螺旋の力を発し、ピエロへと打ち込まれる!
ピエロ人形は吹き飛び、壁へと叩きつけられた。
しかも跳ね返らない。その場で弾け飛ぶように五体が砕け散った。
老拳士渾身の一撃だった。
「……ふう」
腕を突き出したまま、山岡は息を大きく吐き出した。
次いで、ふらりと後方に姿勢を傾けた。
――と、
「先生ッ!」
柔らかい腕と双丘で、背中を支えられた。
彼の後ろには瑞希がいた。
「ああ、瑞希君……」
ふらつく体に気合いを入れ直し、山岡は立つ。
「大丈夫なのですか? 体は?」
「僕なら大丈夫だよ」
老拳士の肩を支えて、瑞希は言う。
「《電子妖精》で直接神経と筋肉を操ったんだ。これなら歩くことぐらいは」
「……無茶なことを……」
山岡が瑞希を見つめてそう呟くと、
「無茶なのは先生の方じゃないか!」
瑞希は、ボロボロと涙を零しながら、山岡を睨み据えた。
「先生は引導師じゃないのに! 名付き我霊と殴り合うなんて馬鹿なの!」
「はは。確かに」
山岡は苦笑を零した。
「老体にはいささか酷でしたな」
「――もうッ! 先生の馬鹿あッ!」
瑞希は不満そうに叫んだ。
その瞳には、まだ涙が溢れている。
山岡は、不意に懐かしい気持ちになった。
痛いことが苦手なこの子は、修練の時もよく涙を見せていた。
「見違えるほどに大人びたというのに、泣き虫なところは変わりませんね」
言って、ハンカチを取り出して彼女の涙を拭った。
瑞希は気恥ずかしそうに顔を赤くするが、拒絶はしない。
「……む。これは……」
拭い終えてハンカチをしまった時、山岡はふと気付く。
瑞希の頬に、うっすらと傷があることに。
「傷を負ってますね。あの男にやられましたか。失礼。瑞希君」
「え」
傷の深さを確認するために、山岡は瑞希の両頬を手で押さえた。
瑞希は目を丸くした。
山岡は顔を近づけて、傷口を診察する。
瑞希の肌がみるみる赤みを帯び、「……あ」と吐息を零す。
「ふむ。深くはない。これなら痕は残りませんな」
安堵した声で山岡が呟く。
瑞希は潤んだ瞳で、山岡を見つめていた。
「……先生。先生、僕は……」
と、その時だった。
『うん。山岡さん。そこは抱き寄せてキスじゃないかな?』
不意に、その声が響いた。
山岡と瑞希の表情が瞬時に険しくなる。
「しぶといですな。あなたは……」
山岡がそう言うと、
『アハハ。しぶとくないなら、名付き我霊になんてなってないよ』
ピエロはそう返した。
首だけになったピエロである。だが、すぐに首から枝が生え、四方に散った五体を繋ぎ合わせる。数秒後には、ピエロは二本の足で立っていた。
『うわあ、もうガタガタだね』
自分の体を見やり、ピエロが呟く。
どうにか五体を繋ぎ合わせたが、損傷は激しく、関節は軋んでいる。
復元機能にもガタが来ているようだ。全身の亀裂がこれ以上復元する様子はない。
『流石に限界かな。だけど、あと一戦ぐらいなら持つよね』
そう呟く。
「本当にしぶとい」
山岡が、瑞希を庇って前へと踏み出した。
「良いでしょう。もう一戦お付き合いしましょうか」
そう告げた時。
『否。それには及ばぬゆえ』
それは唐突に。
唐突に割って入る声がした。初めて聞く女性の声だった。
山岡と瑞希、ピエロまで驚いた表情を見せた。
『益荒男よ。見事な戦いであった。この戦、すでにそなたの勝利じゃ』
その声は、山岡とピエロの中間辺りから聞こえてきていた。
声はさらに告げる。
『後は我が君に託されて休まれよ。その乙女をゆるりと愛でてやるがよい』
そうして、ボボボッと鬼火が現れる。
「ッ! もしや!」
山岡が目を見開く。この現象には見覚えがあった。
鬼火は床に沈み込むと、みるみるとその姿を形作っていった。
見事な肢体を覆った純白の巫女装束。無数の狐の尾のような髪飾りをつけた狐面。口元は解放されており、血よりも赤い紅が引かれていた。
「やはり、あなたは久遠さまの……」
山岡がそう呟くと、瑞希が「え?」と目を瞬かせた。
『いかにも!』
どこからともなく大きな赤い鉄扇を取り出し、
『我が君の従霊が一士。賜りし名は白狐という! 尊き名じゃ! 見知りおくがよい!』
たゆんっと。
思わず瑞希が「むむ」と唸るほどの双丘を揺らして名乗った。
『……うわあ』
唐突な闖入者に、ピエロはうんざりした声を零した。
『なになに? 今更になって他の引導師の式神ってこと? このクライマックスに登場って、どれだけ空気が読めていないんだい?』
『む。失礼な奴じゃな』
狐面の巫女は、赤い鉄扇をピエロに向けた。
『確かにわらわは同胞からは天然とか呼ばれるが、そなたほど節穴な目はしとらん』
『いやいや。そっちこそ、いきなり現れて節穴は酷くない?』
そう返して、肩を竦めるピエロ人形に対し、
『ふん。未だ山岡殿に固執している時点で節穴じゃ』
白狐は、口元を鉄扇で隠して告げる。
『己が舞台ばかりに目がいって、天地を揺るがす我が君のお怒りにも気付かぬとはな。人形に閉じ籠る道化よ。耳を澄ませ。心を向けよ。己が真の眼にて世界を見よ』
神託のごとく、狐面の巫女がそう告げた時、
――ズズンッッ!
巨大な振動が、大地を揺るがした。
「えッ!? 地震!?」
瑞希がそう叫ぶが、それは一定間隔で何度も続いた。
『ふむ。この部屋には窓がないのが残念じゃのう』
パタパタと、白狐が鉄扇を扇ぐ。
『愛しき我が君のご雄姿が拝見できぬ』
無念そうにそう呟く。
『一体、何を……』
ピエロ――《宝石蒐集家》は困惑しつつも、意識を本体へと向けた。
何か異常事態が起きている。それだけは感じたからだ。
そして、
『―――――な』
思わず、唖然とした声を零す。
本体を通じて見たそいつの姿に戦慄する。
『何なんだよッ!? あれはッ!?』
カカっと白狐は笑う。
『そなたの眼に映りしそれこそが、愛しき我が君の憤怒の御姿。災厄の王の現身よ。それより良いのか道化よ。我が君が向かう先に心当たりはないのかのう?』
『……向かう先?』
ピエロは反芻して、ハッとする。
『クソッ! どうしてここが!』
そう叫んで、ピエロ人形は倒れ込んだ。まさしく糸が切れた人形だ。
山岡と瑞希は目を瞬かせた。
『ふむ。急ぎ本体へと帰還したか。じゃが』
鉄扇で口元を隠しつつ、狐面の巫女は妖艶に微笑んだ。
『もはや遅い。我らが王の審判の時ぞ』




