第八章 王の審判④
(これは、いささか以上にマズイな)
同じ頃。
表情には出さず、真刃は強い危機感を抱いていた。
この異界に囚われて、すでに一時間以上が経過していた。
状況は、恐らく佳境に入っている。
強くそう感じていた。
ハンドルを持つ手にも、自然と力が籠る。
真刃は今、自動車を運転していた。
よくあるセダンタイプの普通自動車だ。
この車は、海の国の入り口に置かれていた一台を拝借したモノだった。
結局、海の国では二体の我霊に襲撃されたが、エルナたちはおろか、一般人とも遭遇することはなかった。いや、正確に言えば、生きた一般人とはだが。
出会った時、彼らはすでに血だまりと化していた。
無残な残骸だけが、そこに在った。
彼らを救えなかったことは悔やまれるが、そこで足を止める訳にはいかない。
真刃たちは海の国を出ると、そのまま車上の人となり、ドーンタワーへと続く橋を渡っていた。なお、黒鉄の虎と成っている猿忌も同じ速度で並走している。
(今回の黒幕。あの男の同類ならば高所を好むはずだ)
かつて出遭った最悪の道化。
あの男もまた、高所で見物を決め込んでいた。
目的が同じならば、恐らく今回の黒幕も高所にいる可能性が高い。
恐らくはドーンタワー。
もしくは――。
(……あそこか)
視界内に、その姿が映る。
夜の国にある大観覧車。あそこも可能性としては高い。
ただ、いずれにしろ、ドーンタワーには向かう必要はあった。
夜の国へと赴くには、一度タワーを経由して行くしかないからだ。
「刀歌。小僧」
真刃は助手席に座る刀歌と、後部座席でムスッとした表情で腕を組む剛人に声をかけた。
「どうした。主君?」「何だよ? オッサン」
それぞれ尋ねる少女と少年に、
「速度を上げるぞ。シートベルトをしっかり固定しておけ」
そう告げて、アクセルを強く踏み込んだ。
◆
加速する。
戦闘は、激しく加速する。
――ズンッ!
拳撃が、ピエロの腹部を撃ち抜いた。
まるで自動車に衝突したかのように吹き飛んでいくピエロ。
執事姿の老拳士は追撃を試みるが、突如、現れた影女に妨害される。
三十年前も邪魔ばかりをしてくれた包丁を持つ女の影だ。
老拳士――山岡はその場で震脚。背面を使って影女を弾き飛ばした。
吹き飛ばしたのではない。破裂するように四散させた。
そうして、ピエロの後を追おうとするが、
「……チィ!」
咄嗟に横へと跳躍する。
直後、彼がいた場所を鋭い指先が貫いた!
『うわ。今のタイミングでかわせるの? 山岡さんって本当に――』
一般人?
そう続けようとしたピエロだったが、それは遮られる。
強い衝撃が全身の数か所を打ったからだ。
拳ではない。山岡辰彦との間合いは遠い。
ただ、老拳士は右腕を真っ直ぐ伸ばし、親指をこちらに向けていた。
ピエロは顔に触れ、唖然とする。
額にめり込んでいたそれは、五百円硬貨だった。
それが他にも三つ、頬と肩、腕にも食い込んでいる。
(指で弾いたのか!? それがめり込んだのか!?)
とても人間業ではない。
しかし、呑気に驚いている暇はなかった。
今度は、瞬きのような速度で、山岡が間合いに入ってきたからだ。
(―――な)
ギョッとする。
そして次の瞬間には、猛烈な打撃の嵐が待っていた。
拳撃。双掌。肘打。手刀。
その上、密着するような間合いから、天を衝くような蹴撃まで喰らわされた。
(ちょ、ちょっと待って!?)
堪らず、左右から影女たちに襲わせるが、
――ズンッ!
それらも、左右に放った掌底で吹き飛ばされてしまう。
この烈火のような猛攻は、三十年前の比ではない。
まさしく、今なお山岡の拳力は全盛を迎えている証だった。
(これは想像以上だ)
肝が冷えてくる。
彼に比べれば、そこいらの若手の引導師など本当に子供と同じだ。
(見誤ったよ。人形なんかで遊べるような相手じゃなかった)
復元機能に優れた人形だが、すでに全身がボロボロだった。
我霊であっても殴殺されるレベルの攻撃である。
(仕方がないか)
眉間を撃ち抜かれ、仰け反りながらピエロは双眸を細めた。
その直後のことだ。
「――うああッ!?」
女性の苦しむ声が、鳳凰の間に響いた。
山岡は、肘打でピエロを吹き飛ばして瞠目する。
「瑞希君!」
視線を声の方へと向ける。
そこには、目を見開いて苦しむ彼女の姿があった。
彼女を磔にする十字架から無数の細い腕が伸びて、彼女の腕や足、乳房や喉元を掴んで圧迫しているのだ。
山岡は、即座に彼女の元に向かった。
すると、十字架に辿り着く直前で彼女は解放された。
細い腕だけではない。彼女を磔にしていた両腕の拘束も解かれたのだ。
山岡は、落ちてくる彼女を両腕で抱き止めた。
酷く消耗しているようだが、確かに感じる温もりと鼓動に安堵する。
――が、
ぞわり、と。
背筋に悪寒が奔った。
緊迫した面持ちで振り返る。と、そこには、
『隙ありだよ。山岡さん』
こちらを指差すピエロがいた。
身構えるにはもう遅い。
そうして、
『チェックメイトだ』
死の指先が撃ち出された。
◆
加速するのは、もう一つの戦いもだった。
ドーンタワーで繰り広げられるもう一つの死闘。
扇蒼火と、ルビィの戦いである。
「《無幻刃》」
厳かな声と共に、無数の直刀が蒼火に襲い掛かる!
蒼火は後方に大きく跳躍して、それらをかわした。
数瞬ほどして、それらの刀剣は消えていく。
「聞いたことがあるぞ」
直刀を構える和装の男を見据えて、蒼火は言う。
「手に持った霊具を一時的に複製する術式。百軍千槍の雷名を誇る、かの御門家の術式か。観世家とはその分派だったな」
「あら。博識」
棚に座ったまま、ルビィがクスリと笑う。
「確かにそうよ。『観世武蔵』は現当主だそうよ」
「仮にも一族の当主が堕ちたということか」
蒼火は眉をしかめる。
「救えないな。終わらせるぞ」
言って、再び蒼い炎球を出現させる。
それらは流星のように縦横無尽に動き、和装の男に撃ち出される!
男は駆け出して回避していく。
炎球は壁や床に直撃するが、男には当たらない。
いや、仮に当たっても、引導師ならば致命傷にはならない威力だ。
蒼火はさらに炎球を出現させるが、もはや構わず男は間合いを詰めてくる。
多少のダメージは無視して一気に斬り込むつもりなのだろう。
「少し火力不足じゃない?」
頬杖をついて、ルビィが言う。
「確かにそうかもな」
蒼火は苦笑を零した。
和装の男が両腕で防御の構えを取り、炎球の陣を突っ切ろうとしたのはその時だった。
「ならば、威力を上げようか」
パチン、と指を鳴らす蒼火。
途端、蒼い炎球は急激に膨れ上がり、男を包み込むほどの爆発を起こした。
ルビィが少し驚いた顔をする。
「俺は炎と風の両方を操ることが出来る。生み出した炎を風で操作することも可能だが、酸素濃度を操ればこうして爆発を起こすことも出来る」
「へえ」
蒼火の説明に、ルビィが感心したように呟く。
「全く違う二種の混合なんて面白い術式ね。けど、どうしてわざわざ教えるの?」
「貴様を投降させるためだ」蒼火は言う。「俺がその気になれば、この部屋全体の酸素を一時的に低下させることも出来る。大人しく投降しろ」
「あら。『観世武蔵』は殺したのに、私には投降を勧めてくれるの?」
ルビィが悪戯っぽく笑う。
「もしかして私のことが気に入ったのかしら? ルビィを隷者にしたいの?」
「それは御免だな」
蒼火は淡々と返す。
「お前は綺麗だと思うが、快楽のために人を殺す女を抱く気にはなれない。お前に投降を促したのは明らかにお前の方が首謀者だと感じたからだ」
「ふふ、そう」
ルビィは、髪をかき上げて笑った。
「綺麗と言ってくれてありがとう。けど、残念ね。まあ、仮にそうだとしても、ルビィはすでに《宝石蒐集家》さまの隷者だから無理なんだけどね」
「……なに?」
蒼火は、目を軽く瞠った。
「おい。貴様、いま何と言った?」
「ふふ、隷者と言ったのよ。少々変わった契約だけど……」
ルビィは、愛おしそうに自分の腹部を撫でた。
「今、私の子宮の中には彼の魂力がたっぷり入っているの。彼は隷者に魂力を分け与えることも出来るのよ。その魂力は、私が使わない限り消費することはないわ。いざという時、彼にお返しするための保険でもあるのだけど、いずれにせよ、今の私は――」
少女のような笑みを見せる。
「2500を超える魂力を持っているわ。感謝しなさい。そのすべてを、あなたを殺すために使ってあげるから」
その時だった。
爆発によって起こされた黒煙の中から人影が出て来たのだ。
しかし、それは『観世武蔵』ではない。
まるでマネキンのような人間大の人形だった。
損傷の激しい人形は、ふらふらと前に進むと、そのまま倒れて動かなくなった。
「ルビィの術式も教えてあげるわ」
真紅の魔女が言う。
「私の術式の名は《彼岸幻影》。人形を依り代にしてイメージを具現化できるのよ。ただ、何でもかんでも具現化できる訳じゃないわ。と言うより、私自身のイメージは具現化できないの。ルビィが具現化できるのは――」
クスリ、と笑って蒼火を指差す。
「私と対峙した相手の深層イメージ。絶対に敵わないと思い知った強者。決して届かない彼岸の幻想よ。『観世武蔵』は私の隷者だった男の当主。彼の最強のイメージがそれだったのよ。長らく活躍してくれたけど、ここまでね」
ルビィは虚空を開いた。
そこから、新しい人形がゆっくりと現れ出る。
「相手が持つ最強のイメージだと?」
蒼火は訝しげに眉根を寄せていたが、すぐに顔色を変えた。
血の気が一気に引いていく。
自分が持つ最強のイメージ。それは――。
「――させんッ!」
無数の蒼い炎球を出現させて一気に撃ち出した。
しかし、
「遅いわよ」
ルビィが笑う。
蒼火は目撃した。
ゆらり、と。
赤い和傘が華のように開いて、炎球を遮るところを。
炎球が次々とその和傘に直撃する。
「……な」
だが、彼には分かっていた。
この程度では、彼女に全くダメージを与えられないことは、痛いほどに理解していた。
蒼い炎が消え、黒煙が晴れていく。
そうして、そこから現れたのは、和傘を肩に掲げた一人の女性だった。
年の頃は十八、十九ほどか。
髪型はショートヘア。初雪を思わせる白銀の乱れ髪だ。
眉やまつげまでも白く、金に近い琥珀色の眼差しはどこか眠たそうに見える。
身長は百五十後半ほど。華奢な四肢に細い腰。わずかに歩くだけで大きく躍動しそうな豊かな胸が特に魅惑的である見事なプロポーションを有している。
まるで一枚の絵画を思わせるような美貌だった。ただ、あの日と変わらず、何故かその肢体には、ベルトが多数付属した黒い拘束衣を纏っていた。その上に花魁を彷彿させる艶やかな着物を法被のように羽織っているのは、出会った時からの疑問である。
だが、そんなことは、どうでもいい些細な話だった。
問題は、たとえ偽物といえども、あの怪物がこの場に現れてしまったことだ。
蒼火は、静かに喉を鳴らす。
そして、
「……六番目の、ムロ……」
その名を呼んだ。




