第七章 常闇の国➂
時は少しだけ遡る。
(何なのよ!)
ギリ、と。
歯を軋ませて、宝条志乃は酷く苛立っていた。
(何なのよ! これは!)
記憶を振り返る。
それは、篠宮瑞希の案内の元、部屋を出た直後のことだった。
いきなり空気に違和感を覚えたのだ。
それは、同行者たちも同様だったようだ。
『全員離れるな! 近くの奴と手を繋げ!』
扇蒼火が叫ぶ。
いけ好かない男だが、その指示は的確だった。
これは引導師、もしくは我霊の襲撃だ。
ここで最も恐ろしいのは、孤立させられることだった。
志乃は咄嗟に、一番近くにいた青年の肩を掴んだ。
青年も、ハッとして志乃の肩を掴んだ。
だがしかし、そこまでが限界だった。
何人かは、志乃たちと同じく、近くの誰かの手を掴めたようだが、先導していた瑞希、そしてその後に続いていた蒼火は、離れすぎていて誰の手も掴めなかった。
次の瞬間には、二人はどこかに転移させられていた。
――転移。
一つ確定する。封宮には転移の能力はない。これは我霊の襲撃だ。
それも、危険度A以上の我霊の仕業である。
そこまで判断したところで、志乃と青年も一緒に転移させられた。
視界が暗転し、気付いた時には、彼女たちは全く違う場所にいた。
「……ここは?」
志乃は眉をひそめる。
ドーンタワーの廊下にいたはずの志乃たちは、屋外に転移させられていた。
大きな広場。近くには停止した落下タイプの絶叫マシンが見える。
どうやら閉園しているエリアに飛ばされたようだ。
遊具は停止していても街灯だけは点いているようで、周囲は比較的に明るい。
「見覚えがあるぜ」
同行した青年が言う。
「確か、ここは太陽の国のエリアのはずだ」
「どういうことなのよ! これは!」
志乃は、苛立ちを隠さずに青年に詰め寄る。
「俺に分かる訳ねえだろ!」
青年も苛立った様子で返す。
「分かることと言えば、ここは結界領域の中で、こんな人間だらけの場所でわざわざ展開したんだ。この相手には知性がある。十中八九、名付き我霊ってことだ」
「…………」
志乃は唇を噛んだ。
――名付き我霊。
最上位の危険度Sの中でも、さらに上位にある化け物だ。
「正直、二人じゃヤべえ」
青年は言う。
「早く他の連中と合流すべきだ」
「ええ。そうね」
志乃は頷く。
「それに姫さまも巻き込まれている可能性が高いわ。急ぎましょう」
そう言って、志乃は背中を向けた。
青年の「ああ」と答える声が聞こえる。
そうして走り出すのだが、すぐに違和感を覚えた。
自分以外の足音が、聞こえてこないのである。
どうも、後ろの青年が付いてきていないようだった。
「何をしているの?」
志乃は振り向いた。
そして――。
「……え?」
目を見開いた。
――いや、目を見開いているのは青年も同じだ。
彼の腹部から、直刀の切っ先が突き出ていたからだ。
「……あ」
青年が、茫然と傷口に目をやった。
その直後、さらに直刀が彼の体を貫いた。
瞬時には数えきれないほどの数だ。だが、腹部以外の直刀は幻影のように消えた。
青年の体から、大量の鮮血が噴き出す。
その後、腹部の直刀が引き抜かれて、青年の首はその剣で切断された。
志乃は、唖然として言葉もなかった。
青年の首は、直刀の主によって掴まれた。
同時に、青年の体が地面に倒れ込んだ。
青年の首を持つのは和装の男だった。
年齢は四十代後半だろうか。まるで武士を思わせる風貌の男だ。
「主よ」
男は、青年の首を放り投げた。
「これで良いのか?」
「ええ! ええ! 充分よ!」
その首を両手で受け止める者がいた。
赤いドレスを纏う女である。
新たな人物の登場に、志乃は表情を強張らせる。
「ああ! やったわ!」
赤いドレスの女――ルビィは青年の首を上に掲げた。
「早速一点だわ! ルビィは頑張りますから!」
言って、クルクルとその場で回転する。
「あ、あなたたちは何者よ!」
志乃が声を張り上げる。
すると、ルビィは回転するのを止めて……。
――ニタア、と。
人間とは思えない不気味な笑みを見せた。
志乃は、思わず後ずさった。
「あなたも引導師?」
そう尋ねるルビィに、志乃は何も答えない。
険しい表情で間合いを取り、自分の隷者たちから可能な限りの魂力を徴収する。
この女と男が何者かは分からない。
しかし、敵であることだけは間違いなかった。
「ふふふ。答えなくてもいいわよ。あなたたちの会話は聞こえていたから」
そう言って、ルビィは嗤う。
「『観世武蔵』」
そうして、志乃を指差した。
「あれが次の獲物よ」
「承知した」
男が応じて直刀を向ける。
志乃の顔に緊張が奔った。
「では参る」
淡々とした声で、男がそう告げる。
そして――。
◆
その頃。
火緋神燦は、一人で太陽の国のエリア内を彷徨っていた。
「もう! みんなどこにいるのよ!」
不満を口にする。
いきなりの転移。気付いたら、燦はこの場所にいた。
見覚えがある。
以前、来たことのある太陽の国のエリアの一角だ。
しかし、燦が知る光景とは随分と違う。
街灯こそ点いているが、完全に光を落とした遊具。
それが、日中とは違う不気味な空気感を醸し出している。
「おじさあん! 月子ォ!」
燦は、声を張り上げて叫ぶ。
燦もまた、天の声を聞いている。
当然ながら、これがイベントなどとは思っていない。これは我霊の仕業だ。
ゆえに、ここは敵地とも呼べる結界領域の中ということだった。そこで大声を上げるのは馬鹿のすることだと自覚していても、心細さから、つい叫んでしまっていた。
勝気な燦だが、意外と月子よりも怖がりな側面もあるのである。
「おじさあぁん! どこお!」
少し泣き出しそうな顔で真刃の姿を求める。
と、その時だった。
「あれ? 子供?」
不意に前から声が聞こえた。
残念ながら真刃ではない。若い女性の声だ。
燦が声のした方に目をやると、そこには、手を繋ぎながら遊具の影から姿を見せる、二十代前半ほどの若いカップルがいた。
「あ。マジだ」
青年も、燦に気付いて呟く。
そうして二人は、燦の方へと駆け出した。
「お嬢ちゃん。丁度良かった。俺ら、気付いたらここにいたんだけど、これって何のイベントなのか知って……」
と、青年が尋ねた時だった。
ガクンっ、と不意に青年が前のめりになった。
腕を強く引っ張られたのだ。
「え?」
青年が不思議そうに振り向くと、そこに青年の彼女はいなかった。
彼女の姿は、遥か遠くだ。
愕然とした表情で両手を伸ばす彼女の姿が彼方にあった。
両足を長い舌で絡め取られた彼女は、弧を描きながら上空へと放り出され、そのまま、大口の中へと消えていった。
――そう。小山ほどもある、巨大な蛙のような化け物の大口の中へと。
四肢は人間の腕と脚。全身はどす黒い緑色。巨大な両眼の中に、老人と男性の二つの顔を浮かび上がらせた怪物である。
その蛙擬きは牙を持っているのか、ゴキンッ、バキンッと咀嚼音を鳴らしていた。
青年はもちろん、燦までも茫然としていた。
燦には、すでに我霊との実戦経験がある。
事故に巻き込まれた形ではあるが、人の死も見たことがある。
だが、それはあくまで戦闘や事故における話だ。
人間が捕食される光景を見るのは、これが初めてだった。
吐き気を催しそうなおぞましさに、小さな体を震わせていた。
すると、
「うわああああああッ!?」
青年の腰が、怪物の舌で絡め取られていた。
ハッとする燦の目の前で、今度は青年が舌に吊り上げられた。
「や、やめなさいッ!」
燦は咄嗟に右手に炎を生み出し、それを怪物に向けて撃ち出した。
だが、驚くべきことに、怪物は巨体とは思えない身軽さで跳躍してかわしたのだ。
そうしてそのまま大口を開けて、空中にいる青年を、
――バクンッ!
燦はビクッと肩を震わせた。
数瞬後、地響きを上げて蛙擬きの怪物が着地した。
それも、燦から数メートル程度しか離れていない場所にだ。
――ゴキンッ、バキッ、グチャ……。
大口を動かし、おぞましい咀嚼音が響く。
その時、ボトン、と蛙擬きの口から何かが落ちた。
燦は、それを見て青ざめる。
それは、青年の右手だった。
燦は目を見開き、完全に硬直してしまった。
すると、怪物が大口を開いた。
ゆらりと長い舌が動く。今度は狙いを燦に定めたのだ。
しかし、燦は動けない。
舌は、その姿を掻き消した。
――が、それと同時に燦の姿も消えていた。
彼女の全身を薄紫色の羽衣が捕えて、一気に引き上げたからだ。
「え? え?」
混乱する燦。
宙に放り上げられた彼女は、とても柔らかいモノに受け止められた。
両腕と、その人物が持つ豊かな胸によってだ。
燦は、彼女の胸元から顔を上げた。
「エ、エルナ……?」
そこにいたのは、エルナだった。
その全身には、光沢を放つ紫色の龍鱗の衣を纏っている。
燦は、彼女に抱きしめられていた。
「大丈夫だった? 燦?」
「う、うん」
こくんと頷く燦の頭を撫でる傍らで、エルナは羽衣を巧みに操り、我霊の全身を拘束する。蛙擬きの怪物は煩わしそうにもがいていた。
「あ、あたし……」
今にも泣きだしそうな顔で、燦がエルナの背中を掴む。
「た、助けられなかった……怖くて、動けなくって……」
「……そう」
エルナは、拘束されて暴れる怪物の足元に目をやった。
人間の右手。この持ち主がどうなったのかは想像に難くない。
燦は、未だカチカチと歯を鳴らしていた。
いかに優れた才があったとしても燦はまだ子供だ。
目の前で人が食い殺されれば、動揺するのも当然だった。
「……燦」
エルナはより強く我霊を拘束しつつ、燦に語り掛ける。
「これが引導師の世界よ。どんなに頑張っても犠牲者は必ず出るわ」
「……エルナぁ」
燦は涙を流して、エルナの顔を見つめる。
「あなたも引導師を目指すのなら、今日のことは決して忘れちゃダメ。救えなかったことを後悔しなさい。けれど、そこで足を止めてはダメ。胸に刻んで前に進むの」
エルナは、燦の前髪を撫でた。
「まだ幼いあなたに厳しいことを言っているのは分かっているわ。けど、これが引導師として生きるということなの。久遠真刃の妃になるということなのよ」
「……妃……」
「ええ。そうよ」
エルナは微笑む。
「あなたも、真刃さんの妃なんでしょう?」
そう尋ねるエルナに、燦はこくんと頷いた。
「なら、歩きなさい。それが務めよ。ただ……」
エルナは微苦笑を浮かべつつ、燦の頭をポンと叩いた。
「今回だけは真刃さんに甘えることを許してあげるから。これが終わったら、怖い気持ちがなくなるまでいっぱい真刃さんに甘えなさい」
「…………」
燦は無言だ。ただ視線を隠すようにエルナの胸元に顔を埋めた。
「あなたも月子ちゃんもだけど、これからは正式に妃として扱うわ。真刃さんも、私たち同様にあなたたちにも厳しく訓練をするつもりだそうだから覚悟しておきなさい」
「…………」
燦はまだ無言だ。
「もう立てるわよね?」
エルナがそう尋ねる。燦は小さく頷いた。
そして、
――むにゅん。
「ひゃあっ!?」
エルナが目を見開いた。
突然、燦が両手でエルナの胸を押し上げたのだ。
「……ムカつくぐらい柔らかいわね。エルナのおっぱいって……」
そう告げると、燦はエルナから離れて、自分の足でしっかりと立った。
その表情には、まだ少し怯えの影もあったが、普段の覇気が戻っていた。
エルナは自分の胸を隠すように抑えつつ、苦笑いを零した。
「もう大丈夫みたいね」
「当たり前よ。あたしを誰だと思ってるの」
両手を腰に当てて、燦が告げる。
それから、羽衣相手に暴れ続ける我霊に視線を向けた。
「まずは、せめてあの人たちの仇を取らなきゃ。そこから始めないと」
「ええ。そうね」
エルナが羽衣を操り、神楽龍の棍を創り出した。
「そろそろ拘束も限界よ。行ける? 燦」
「当然よ」
燦は、全身を炎獣の巨体で包み込んだ。
エルナも、神楽の紫龍を舞わせた。
「行くわよ! 燦!」
「うん!」
我霊の拘束が引きちぎられたのは、その直後だった。




