第六章 夜の迷宮①
古びた館には、何かと縁がある。
それは、引導師ならば、誰しもが思うことだろう。
我霊とは、例外なく元は人間である。
そのためか、理性を失っていても、館や建造物を寝床にする者が多い。
朽ちた建造物の探索は、引導師にとっては、もはやライフワークなのである。
真刃と初めて出会ったあの日も、エルナは古びた洋館にいた。
あの夜、エルナは一人で我霊退治に臨んだ。
危険度Dの仕事だ。たとえ一人でも問題ないだろうと高をくくっていた。
『大丈夫。これぐらい簡単よ』
古びた館の門前で、エルナはそう意気込んでいた。
エルナの父はフォスター家の先代当主。そして母は父の隷者だった。
いずこかでの旅の途中で父が母を気に入り、決闘で従えたそうだ。
ただ、エルナは、母についてはそれ以上のことを知らなかった。
母はエルナが物心つく前に亡くなったからだ。
エルナは母のことを何も知らない。
記録を残す習慣がなかったのか、生前の写真も映像も一切ない。
その上、母は血統まで不明だった。親族も分からない。
そもそも、父との間に愛があったのかも疑問だ。二人は愛し合っていたのか。それを知るのは父だけだった。
けれど、それを尋ねる前に父も事故で死んでしまった。
――素性が一切不明の女の娘。
そのため、フォスター家では、エルナの立場は非常に微妙だった。
正妻の子である異母兄に比べれば、雑といってもよかった。
表向きにはお嬢さま扱いされるが、誰も敬意を払っている訳ではない。
偽りの仮面に囲まれ、エルナは孤独だった。
さらには、
『野良犬の娘のくせに』
父の子を産めなかった隷者の一人に、そう言われたこともあった。
その日は、酷く落ち込んだのを憶えている。
だが、彼女には才能があった。
そして、それこそが親という土台を持たないエルナの拠り所でもあった。
すでに成人している異母兄にはまだ及ばずとも、自分には確かな実力がある。
だから、危険度Dぐらい容易い仕事だ。
そう思っていた。
しかし、現実は非情だった。想定以上の数の我霊に追い込まれて、エルナはこの上ない恐怖を味わうことになったのである。
一人で来るべきではなかった。心からそう悔やんだ。
『……やだよォ。もうやだァ』
徐々に消耗する体力。絶え間ない我霊の襲撃。
自分の末路を嫌でも思い浮かべて、瞳に涙を滲ませた。
あの夜のことは、今でも怖い。
こうなっては自分一人の手には負えないと判断し、館から撤退しようとしたエルナだったが、退路を次々と絶たれ、遂には館の一角に追い込まれてしまった。
『……はァ、はァ、はァ』
数体をどうにか退治し、エルナは息を切らせていた。
だが、目の前にはまだ数体の我霊がいる。全員が二十代半ばほど。片腕だけの太った大男。中肉中背の、肉が腐り落ち、白い骨が見えている男の我霊が二体だ。
万全のエルナならば、数で劣っていても勝てないこともない相手たちである。
ただ、その時のエルナは、すでに体力のほとんどを消耗し、片足に負傷までしていた。
何より、度重なる戦いで心が折れてしまっていた。
ここを突破しても、まだこの館には多くの敵がいるのだ。
『ふぐっ……』
エルナの瞳から涙が零れる。
もう無理だ。エルナは、ドスンと腰を床に落とした。
せめて穢される前に自害しようという考えにさえ至らなかった。
『た、助けてェ、助けてェ……』
涙が止まらない。歯がカチカチと鳴った。
我霊どもがゆっくりと近づいてくる。
そして太った大男の我霊が、身を屈めてエルナの右足首を掴んできた。
『――ひッ!』
エルナは声を上げるが、もう抵抗するだけの気力がなかった。
彼女は大男に引き寄せられた。
『あぐッ!』
勢いよく背中を床に打ち付ける。強い痛みが背中に走った。
エルナが苦痛で表情を歪めると、別の我霊が倒れた彼女にのしかかってきた。
『や、やだ……』
『ぐあああぁあァ……』
我霊は恐怖で硬直するエルナの制服を引きちぎる。
その際に下着まで無残に剥ぎ取られて、豊かな胸元が露になった。
唾液が、ボトボトと彼女の胸元に落ちる。
――食事と、睡眠と、情事。
それこそが、我霊の望むことだ。
肉が削げ落ちた顔で、我霊は下卑た笑みを見せた。
腐乱した指先が、エルナの胸を強く掴む。下から押し上げるように柔らかな乳房が動き、薄汚い指が深く沈みこんだ。
『い、いやああッ――むぐッ!』
エルナは悲鳴さえも上げられなかった。口を片方の手で抑え込まれたからだ。
さらに我霊は、エルナの上にのしかかった。他の我霊は彼女の足や両手を抑え込んだ。
恐怖と絶望で、エルナの瞳孔が大きく見開かれた。
――と、その時だった。
とある幻影が、エルナの脳裏によぎったのは。
古い屋敷。洋館ではない異国の家屋だ。足元には畳がある。日本家屋だろうか。
目の前には木で作れた格子状の檻があり、彼女は恐怖で縛られていた。
それは、幼い頃から、精神的に追い詰められた時に見る幻影だった。
暗く、閉塞された幻影。
しかし、この暗い幻影には続きがある。彼女がどうしようもなく追い詰められた時、必ず光の中から手を差し伸べてくれる人物が現れるのだ。
光に覆われているせいで顔までは見えない。けれど、優しい人だと思った。
きっと優しくて、とても強い人なのだと。
『……流石に捨て置けんか。大丈夫か? 異国の娘よ』
――そう。こんな風に。
いきなり現れたその青年は、エルナにのしかかっていた我霊の首を容易くもぎ取った。
ガクンッと崩れ落ちる我霊。青年は死体がエルナに覆いかぶさらないように片手で掴むと、軽々と後方に投げ捨てた。人間業ではない膂力だ。
両手両足を抑えていた我霊たちも、すでに同じように首をもぎ取られて倒れていた。
エルナは目を剥いた。
その青年は、見たことのない黒い制服らしきものを着ていた。
腰には鞘に収まった軍刀を吊るしており、黒い外套も羽織っていた。
よく見ると、外套や制服には銃痕のような穴が幾つも空いている。
『……む? 異国の娘よ。もしや言葉が通じんのか? むむ。それは困ったな』
そう言って、彼は困った顔をして見せた。
それがエルナと真刃の出会いだった。
エルナは、ただ、茫然として彼を見つめていた。
どこか、とても懐かしい想いを抱いて。
そうして現在。
「……どうしよう。猿忌」
エルナは、あの日以上の不安を抱いていた。
彼女は今、黒鉄の虎の背中に乗っていた。
元はバイクなのでシートもハンドルもある。意外と乗り心地の良い虎だ。
亀裂だらけの不気味な廊下を、異形の虎が闊歩する。
「お師さま……大丈夫なの……」
奈落の底に消えていった愛しい人のことを思うと、胸が押し潰されそうになる。
自分も彼と一緒に落ちていくべきだったと後悔までする。
(……お師さま)
エルナ相手だと意外と困った表情をすることが多い青年の顔を思い出す。
『それは案ずる必要はないな』
すると、真刃の従霊である猿忌が言った。
『我が主があの程度で死ぬものか。それに刃鳥もおる』
「刃鳥って、ペーパーナイフの従霊だよね?」
エルナはなお不安そうに呟く。
「どうして、そんな頼りない物に憑依するの?」
引導師の中には、刀や剣を武器にする者も多い。
そして、真刃は個人的に軍刀を所持していることをエルナは知っていた。
初めて出会った時も腰に帯刀していたのを憶えている。
どうせならば、そちらの方に憑依すればいいのにと、いつも思う。
それに対し、猿忌は言う。
『我らにとって憑依する物体にさほど意味はないからな。稀にその物体の概念や特性に沿った異能を得ることもあるが、基本的には精々質量を増やすのが手間かどうかぐらいだな。我が好んで二輪自動車に憑依するのは主を運ぶのに役に立つからだ』
ただ、と続ける。
『それでも、異能の件も含め、一つの物体を選んで長く憑依すれば相性が良くなってくる。我は従霊の長として主の傍に仕えているため、霊体でいる方が多いがな』
「……そうだったんだ」
猿忌の説明を聞きつつも、エルナには覇気がない。
ある意味、仕方がないことではあるが。
『しっかりせんか。エルナ』
黒鉄の虎は足を止めて顔を上げた。
『お主は、いずれは主の妻――それも壱妃を担う器なのだぞ。そんなお主が夫の力量を信じずにいてどうする』
「………猿忌」
エルナは、黒鉄の虎の背を撫でた。確かに気落ちしてばかりもいられない。
「そうだよね。むしろ今気にかけるべきなのは、かなたの方だよね」
そう呟いて、美麗な眉をひそめる。
――杜ノ宮かなた。
真刃が隷者にすると宣言した二人目の少女。
もし、異母兄たちの方も同じように分断されていたら、かなたの危険度は跳ね上がる。
もはや、あの少女は突然死状態にまで至っていると言っても過言ではなかった。
(……かなた)
あまり良い思い出のない相手だ。
と言うより、思い出自体がほとんどない。
仮にもクラスメートでありながら、刃物で襲われ、蹴飛ばされた記憶しかなかった。
挙句、その一件で真刃に叱られる羽目になった。
(……むむう)
内心で唸るエルナ。
だが、かなたもまた、真刃に見初められた女性なのである。
何度も宣言した通り、最初の夜は、まず自分からだというのは確定事項だ。
早ければ明日の晩にも、いっぱい愛してもらう予定なのだ。
かの決戦兵装が、いよいよ実戦で使われる時が来たということである。
(う、うん。精一杯応えないと)
エルナは頬を赤く染める。
初めてだからといって甘えてもいられない。
頑張らなければ、と両手の拳を固めて「うん!」と意気込む。
あの日、真刃に守ってもらった純潔を、彼に捧げる時がようやく来たのだ。
ただ、彼に愛されるのは自分だけではない。
自分の後には、かなたも真刃の深い愛情を受けることになるだろう。
優しい真刃のことだから、きっと、彼女も大切にされる。
そうして、自分にとってかなたは妹のような存在になるはずだ。
――初めての妹妃。
それが、エルナにとってのかなたなのである。
(そう。私は壱妃になるんだから)
エルナは表情を引き締めた。
ヘコむのはここまでだ。これからは妃たちを統べる者として模範とならねば。
「そうだね。私たちのご主人さまを信じなくちゃね。お師さまの無事はもちろん、かなたも保護できることを」
『その意気だ。なに。隠れて主の服を嗅ぐあの勇気を出せば大丈夫だ』
「それ言っちゃダメなやつだよ!?」
と、秘事を暴露され、エルナが顔を赤くした時だった。
――ドンッ!
突如、館内が大きく揺れた。
「な、なに?」
猿忌に掴まりながら、エルナが呟くと、
『どうやら戦闘のようだな。もしや主か?』
「――ッ! 本当! なら!」
『分かっておる。掴まっていろ』
言って、黒鉄の虎は走り出した。巨体を感じさせない風のような疾走だ。
『ここだな』
そして頭突きで扉を粉砕し、一つの大部屋へと突入する。
そこは通常の三倍はある広大な部屋だった。
何故こんな部屋があるのか、建築の意図が分からない。この館を支配する我霊によって拡大された部屋なのだろうか。
ともあれ、今気になるのは――。
「……え?」
エルナは大きく目を見開いた。
「……む。エルナか?」
そこにいたのは、エルナの異母兄だった。
それも、ほとんど見たことのない戦闘形態の異母兄の姿だ。
床には数え切れない屍鬼の群れが倒れている。
「まさか、お前と先に会うとはな」
頭部のみ素顔を現わし、異母兄は皮肉気に笑った。
「存外、俺とお前の絆も、そう馬鹿にしたものではないかもしれないな」