第五章 暁の世界➄
彼に師事を受けたのは、十二歳から十五歳までの三年間だった。
その日々のことは、今でもよく憶えている。
篠宮家の四女。篠宮瑞希。
彼女の母は隷者だった。
一般的に引導師の世界では、跡継ぎが正妻の子とは限らない。
モラルの欠如が著しい世界だが、それだけに強さを求めることに対しては貪欲だった。
当主の血さえ引いていれば、後は、才能や魂力の量によって決められる。
各家系では、壮絶な跡継ぎ争いが行われているのである。
そこには、男であることも、女であることも関係しなかった。
望まれるのは強さ。もしくは有能さだけである。
未だ、男女不平等の傾向があり、男性隷主の方が多い引導師の世界ではあるが、強さに対してだけは、ある意味、徹底して平等であった。
二人いる異母兄たちは当然のごとくハーレムを築いていたが、瑞希の異母姉たちも負けていない。全員が隷主であり、逆ハーレムを築いていた。特に一番上の異母姉に至っては、十代半ばの少年ばかりを集めており、瑞希がドン引きするような状況だった。
異母姉曰く、より若い世代の方が、生まれながらの魂力の量が多いとのことだ。
それは確かに事実ではあるが、異母姉の趣味も入っているのは間違いない。
余談だが、異母姉たちのように逆ハーレムを築いている女性隷主たちは、自分の男性隷者たちを『騎士団』と称することが多かった。隷者たちもただの魂力の貯蔵庫ではなく、共に戦場にまで赴き、身を挺して主人を守ることが多い。その姿はまさしく騎士のごとくである。彼女たちは騎士団を率いる女王という訳だ。
そんな中、瑞希はと言えば、隷者は一人もいなかった。
まだ幼かったこともあるが、そもそも彼女の魂力は102。極めて凡庸だった。
異母兄姉たちは全員が160を超える。瑞希は明らかに劣っていた。
なり振り構わず頑張ったところで、当主になるのは難しい。
瑞希は、幼き日からすでに別の道を考えていた。
魂力の量は並みであっても、瑞希は《電子妖精》を継承している。
その力を使って、彼女は当時から電脳空間に入り浸っていた。
当主の座は誰かが継ぐ。自分には関係ない。
とは言え、誰かの隷者になるだけの人生もごめんだ。
政略結婚でどこかの家に嫁がされることも真っ平だった。
彼女はこの力で資金を溜め、いずれは家を出て、完全に独立するつもりだった。
情報屋、ハッカーとして大成するつもりだったのである。
(ハッカー王に僕はなる! なんちゃって)
瑞希は強かに生きていた。
だが、そんなある日のことだった。
学校からの帰り。彼女はガラの悪い男たちに絡まれた。
大学生か、もしくは社会人も混じっているのか、軽薄そうな青年たちである。
簡潔に言えば『ナンパ』という奴だ。
当時の瑞希はまだ十二歳だったが、引導師特有の見目の麗しさや、長身だったこともあり、かなり大人びて見えたのだ。
SNS全盛時代に、ここまでレトロなナンパを仕掛けてくるなんて。
瑞希は呆れたものだった。
それが、思わず顔に出てしまったのだろう。
『おい。なんだ。その顔は』
男たちは不快感を見せた。
男の一人が、瑞希に手を伸ばしてきた。
本能的に、瑞希は危機感を覚えた。
魂力で筋力を強化し、その腕を強く払う。
それは端から見れば、激しい拒絶だった。腕を払われた男が表情を険しくする。
他の男たちも表情を変えた。
(うわ。これってマズイかも)
男は全員で四人いた。狙っていたのか、ここは人通りからも少し外れた場所だ。
魂力で強化しても、瑞希は戦闘訓練を徹底してサボっていた。その体術レベルは一般人と変わらない。青年四人相手となると相当に厳しかった。
(……仕方がないか)
瑞希は《電子妖精》を使用することにした。
要は、さらに身体強化を行ったのだ。
しかし、それがまずかった。
(………え?)
――ドクンッと。
大きく、心臓の鼓動が跳ね上がった。
さらに全身の血流が逆流するような感覚を覚えた。
彼女は、今まで《電子妖精》を自身に付与したことがなかったのだ。
電脳操作と体術強化は、全く仕様が違う。
それを、この時まで理解していなかったのである。
『うわ、うわあああああッ!?』
一歩踏み出すだけでアスファルトを打ち砕く。
瑞希は、絶叫を上げて駆け出した。
目を丸くする男たちをよそに、とんでもない速度で走り抜ける。
アスファルトにいくつもの足跡を刻みつけて、彼女は力を暴走させた。
とにかく、人気のない場所へ。
それだけを考えて、暴風のような速度で走った。
街中を抜け、どうにか人気のない河原にまで避難した。
しかし――。
(と、止まらないッ!?)
瑞希は、喉元を両手で押さえた。
全身に施した《電子妖精》は、完全に瑞希の手から離れていた。
解除することも出来ない。
『うああ、うあああァ……』
口から、大量の唾液が零れ落ちる。
彼女は膝をつき、両腕を地面に振り下ろした。
――ズドンッ!
地面が大きく陥没する。
細腕からは考えられない威力だ。だが、同時に彼女の拳から鮮血が散った。
(痛いっ! 痛いよおっ!)
注射程度の痛いことさえも苦手な彼女の目尻に涙が滲んだ。
だが、衝動がとても抑えきれない。
どこかに体をぶつけないと、全身が爆発してしまいそうだった。
瑞希はのたうち回るように、全身を地面に叩きつけた。
腕を、足を、頭を――。
そのたびに土砂と鮮血が散る。彼女の両目からは涙が溢れていた。
(助けてッ! 誰か助けてッ!)
もう声も出せず、心の中で助けを求めた。
けれど、その声は誰にも届かない。
そう思った時だった。
『薬物……いえ。魂力か、系譜術の暴走と言ったところですか……』
不意に、そんな声が聞こえた。
瑞希は目を見開いて、声の方に顔を向けた。
そこには、一人の紳士が立っていた。壮年の男性だ。
『今日は休暇中だったのですが、これは見過ごせませんな』
言って、壮年の紳士は拳を構えた。
『来なさい。お付き合いしてあげましょう』
そうして……。
十分後。
瑞希は、ゆっくりと瞳を開いた。
全身が痛い。だけど、暴走していた感じはなくなっていた。
『……僕、は……』
『おや? 目が覚めましたか』
声がする。瑞希はぼんやりとした表情で顔を上げた。
そこには、紳士の顔があった。
どうやら、自分は彼の腕の中で抱きかかえられているようだ。
『大丈夫ですか? お嬢さん』
そう告げる彼の顔には、負傷の痕があった。
額からは、今も血を流している。
『……ごめん、なさい……』
瑞希は、涙を零して謝った。
この傷は、自分がつけたモノだと察したからだ。
『気にする必要はありませんぞ』
紳士は言う。
『若人のために傷を負うことは老兵の誉れですからな。ですが』
彼は笑う。
『暴走はいただけませんな。いけませんよ。修行を怠っては』
『ご、ごめんなさい……』
それに関しても、瑞希は素直に謝った。
紳士は『ふふ』と笑った。
『あなたは、素直な良い子ですね』
そう言われて、瑞希は顔を赤くした。
その日から、瑞希は、彼に体術を教わることにした。
電脳戦のみに特化していてはダメだ。
それだけでは《電子妖精》を完全に制御しているとは言えない。
それを思い知ったからだ。
瑞希は、毎日のように彼の元に通った。
彼は引導師だと思っていたのだが、実は火緋神本家に仕える執事だったらしい。
彼は自分に出来ることとして、中国拳法の指導をしてくれた。
本来、篠宮家は体術を主体とした引導師の家系だ。
そのため、瑞希にも武才はあったようだ。
三年後。彼女は、師の技のすべてを習得した。
『見事な功夫ですぞ。瑞希君』
紳士は、満足げに笑った。
『あなたが暴走することは、二度と無いでしょう』
誇りを抱いて、愛弟子の頭を撫でた。
『先生』
瑞希は、師に尋ねた。
『また遊びに来てもいいですか?』
『ええ。いつでも来なさい。大歓迎ですよ』
師はそう言ってくれた。
しかし、瑞希はその後、彼の元に出向くことは一度もなかった。
この頃から、瑞希はとある計画に入ったからだ。
彼を軽視した訳ではない。
彼に会いたくなくなった訳ではない。
今でも尊敬している。
ただ、どうしても、しばらく時間を空ける必要があったのだ。
彼女が望む目的を果たすためには――。
瑞希にとっても不本意な決断ではあったが、彼女は実行した。
そうして、月日は過ぎた。
あの日から五年。
彼女は、再び彼の前に立った。
「君は……」
ドーンタワーのエントランスホールにて。
彼は驚いた顔で、彼女を見つめていた。
「もしかして、瑞希君ですか?」
「……はい」
瑞希は頷く。
「お久しぶりです。先生」




