第三章 帰ってきた幼馴染②
夜遅く。
黒い紳士服を着こんだ久遠真刃は、恒例である一人仕事を行っていた。
いつものように、傍らには、宙に浮かぶ骨翼を持つ透明な猿――猿忌の姿もある。
ただ、今夜の同行者は、猿忌だけではなかった。
真刃が一人で仕事を受けていたのは、このあいだまでのことだ。
一人でなくなったのは、これで三度目だった。
「……ふむ」
解体前の廃ビル。
ビジネス用のフロアだった広い室内の入り口に立ち、真刃は様子を窺う。
彼の視線の先には、二頭の獣がいた。
一頭は、醜い獣だ。
獅子に似た鬣の中に老人の顔を持つ、巨大な四足獣。いや、前脚が四本、後ろ脚が二本あるので六足獣と呼ぶべきか。歯の欠けた口元からは涎を滝のように零している。
対するもう一頭は、美しい獣だった。
手には赤く輝く熱閃の刃。
片手をそっと床に付け、ゆさりと大きな胸を揺らして、低重心で身構えている。
その美しい肢体には、白い胴当てが一体となった漆黒のライダースーツを纏っていた。
耐刃、耐火の術式などをふんだんに付与した特殊な布と、合成樹脂を用いて造られた彼女専用の戦闘服である。左腕には『参』の腕章を着けている。
――参妃。御影刀歌である。
今夜の同行者だった。
彼女は今、獣の笑みを見せていた。
『……刀歌は、御影に似ていると思っていたが……』
猿忌が呟く。真刃は「ああ。そうだな」と返した。
(……確かに顔立ちはよく似ているが)
真刃は、双眸を細めて思う。
(やはり、刀歌は御影とは違うのだな)
現在、刀歌が対峙しているのは危険度Cの我霊だ。
今の刀歌では、少々手に余る相手である。
しかし、彼女の成長を促すために、真刃はあえてこのランクを選んだ。
先に挑んだエルナ、かなたと同じく。
刀歌もまた、この夜を超えられると思ったからだ。
『……ここまでは想定内か』
「ああ。ここからが重要だ」
猿忌の呟きに、真刃が答える。
戦闘は、やはり刀歌の方が押され気味だった。
けれど、その苦境こそが、彼女のスイッチなのだろう。
刀歌は追い込まれると、まるで獣のような笑みを浮かべることがあった。
そうして、その笑みを零すと、戦闘スタイルまでが大きく変化するのである。
剣士の構えから、獣の低重心へと。
そうなると、彼女の戦い方は完全に別物だった。
地形など意にも介さず縦横無尽に跳躍し、隙あらば、いかなる体勢であっても斬撃を繰り出してくる。それは、もはや剣と呼ぶよりも獣の爪牙だった。
あれこそが、恐らく刀歌の本来の戦い方なのだろう。
(御影には、あのような気性はなかったな)
真刃のかつての同僚は、純粋なる剣士だった。
窮地において、さらに技が研ぎ澄まされることはあったが、戦闘スタイル自体が変わるようなことはなかった。どこまでも洗練された剣士だった。
(御影の剣は、確かに見事だった。だが、あいつの子孫だからといって、刀歌にまでそれを押し付けるのは間違っているのだろうな)
遠い日を。
かつての同僚のことを思い出す。
ただ、脳裏に浮かぶのは、最もよく目にした軍服姿ではなく、一時期だけ見ることになった着物姿の御影刀一郎だった。桜色の着物を纏う艶姿である。
これは、やはり、御影が本当は女性だったと知ってしまったからだろうか。
(これもまた詮なき事だな)
真刃は嘆息しつつ、刀歌に目をやる。
刀歌に襲い掛かる六足獣の我霊。
口元が一気に裂け、不揃いの不気味な歯を剥き出しにする。
その突進を、刀歌はすれ違うように跳躍して回避するが、着地先は床ではなく壁だ。そのまま壁を足場に大きく屈伸、天井へと跳ぶ。宙空で身を捩じって回転すると、天井を蹴りつけ、逆手に構えた炎の刃を、六足獣の背中に突き立てた!
「があああああああッッ!」
老人の顔が絶叫を上げる。
刀歌はそれに構わず、数倍の出力で熱閃を噴出させた。それは六足獣の胴体を貫き、床にまで突き刺さる。そして――。
ギュルン、と。
炎の刃を突き刺したまま、刀歌は全身を捩じり、横に回転した。
熱閃は、見事に六足獣を両断した。
火の粉と共に鮮血も飛ぶ。刀歌は六足獣の背中から大きく跳躍して着地。
両断した六足獣の前側が、未だビクンビクンッと動く様を見やり、
……ふうゥうゥ!
熱い吐息を零して、さらに駆け出した!
手に持つ炎の刃が荒れ狂い、巨大な翼のようになる。
彼女の瞳には、恍惚の光があった。
その姿を見やり、
『主よ』
「ああ。ここまでだな」
真刃は、そう判断する。
そして次の瞬間、真刃の姿がかき消えた。
「―――ッ!?」
刀歌は、双眸を見開いた。
獲物を目の前にして、突如、背後から腰を掴まれたのだ。
「く、あっ!」
炎の刃を振るおうとするが、その手首も強く抑えられた。
刀歌は表情を険しくし、さらに暴れようとする。が、
「もう終わりだ。落ち着け。刀歌」
背後から告げられる声。刀歌の中の獣が一気に委縮する。
(………あ………)
圧倒的な力の差。
途方もなく格上の、巨大なる獣に捕えられた。
それを、彼女の中の獣が察したのだ。
「……しゅ、主君……」
炎の刃が、瞬く間に縮小していく。
そして遂には消えて、ガシャン、と手に持っていた刀の柄を落とす。
刀歌の瞳には、冷静さが戻っていた。
「……うゥ」
が、すぐに羞恥の光も宿り、顔を耳まで赤くして俯いた。
やってしまった。またやってしまった。
思いっきり、心の裡の獣性を解放してしまった。
最後の方など、高揚しすぎて自分でも訳が分からなくなった有様である。
曽祖父が見れば、叱責は免れない。とても剣士とは呼べないような醜態だった。
けれど、真刃は、
「戦闘方法とは、人それぞれだ」
彼女の手首から手を離してそう告げる。
「お前にはお前の戦い方がある。何も御影刀一郎を模倣する必要はない」
「………主君」
刀歌の頬に微かに朱が差し、鼓動が大きく高鳴った。
自分の中の獣も『くゥん、くゥん』と、甘えた声を出すのを感じた。
もし、刀歌に狼のような尾があれば、ブンブンと振っていたことだろう。
「とはいえ、課題は多いな」
一方で、真刃は、ようやく息絶えた六足獣に目をやって言う。
「感覚は研ぎ澄まされるようだが、冷静さに欠ける。術式に関しても出力ばかりが大きく、あまりにも雑な精度だ」
『うむ。確かにそうだな』
真刃の傍にまで移動した猿忌も言う。
『あれでは、もはや魂力の垂れ流しだ』
「……ううゥ」
「野生の獣は強い。だが、お前は人だぞ。何も人の技や理性まで捨てなくても良かろう」
「はうっ!」
容赦ない指摘に身を悶えさせる刀歌。
そんな少女に苦笑を零しつつ、真刃は、彼女の頭にポンと手を置いた。
「ともあれだ。己はお前の獣性は否定せぬ。それもまた得難い才だ。今後はその獣性と、剣士の技を共存させる方針で鍛え上げていくぞ」
「……は、はい」
刀歌は腰の前で指先を組み、こくんと頷いた。
「だが、今は褒め称えよう」
真刃は刀歌から離れると、息絶えた我霊の傍に立った。
「見事だったぞ。刀歌」
双眸を細める。
「師としては感無量だな。これでお前も、エルナ、かなたに続き、単独で危険度Cを倒したことになったのだから」




