第八章 バケモノ談義⑧
木々が、次々と切断される。
視認さえも不可能な触舌の攻撃だ。
それらが、縦横無尽に森を薙ぎ払う。
その中を桜華は疾走する。
そうして円を描くように、黄金の女の背後へと回ったが、
『桜華さま!』
白冴の声に、桜華は地を蹴ってその場から離れた。
その直後に、寸前までいた場所から、無数の触舌が噴き出してきた。
それが捩じれて、周囲へと襲い掛かるが、すでに桜華は間合いの外にいた。
ズザザッと地を削り、桜華は「……ふう」と小さく息を吐いた。
一方、エリーゼは、
「残念。気付かれましたか。ですが」
そこで、少し不満そうに眉根を寄せた。
「この戦いは一対一だと思っていたのですが、その式神はいるのですね」
「……ふん」
桜華は、もはや数えきれない数の触舌を腹部で蠢かせるエリーゼを一瞥し、
「白冴は自分の夫から贈られたモノだ。自分の傍にいて当然だろう」
「まあ、そうでしたの」
エリーゼは微苦笑を受かべた。
「それを言われると、女としては同意するしかないですわね。私も、お館さまからの贈り物はとても大切にいたしますから」
エリーゼは、周囲に目をやった。
自分の触舌で伐採してしまった無残な場所だ。
「このままでは少々危険ですね。うっかり殺してしまいそうです」
エリーゼは、頬に手を当てて小首を傾げた。
数瞬の沈黙。
そして、
「そうですわね。戦法を変えますか」
言って、ふわりと宙に跳んだ。
軽い跳躍ではない。木々さえも飛び越えそうな高さだ。
宙空で白い装束を揺らすエリーゼ。黄金の魔性が優しく微笑む。
その直後のことだった。
エリーゼの腹部の口から、滝のように触舌が溢れ出したのだ。
「―――な」
明らかにエリーゼの体積を超える量に、桜華は目を瞠った。
膨大な触舌は、瞬く間に、エリーゼの下半身を覆い尽くした。触舌は複雑に絡み合い、形を成していく。数秒後にはエリーゼの下半身は、巨大な蜘蛛のような形状に成っていた。
八本の脚がある巨大な蜘蛛。だが、その脚はすべて人の腕の形をしていた。
人間を握れてしまえるほどに巨大な掌だ。
「ただの触舌では、あなたを殺してしまいそうですので」
エリーゼは笑う。
「これで捕えさせてもらいますわ」
そう告げると同時に巨大な前脚――二本の腕が桜華に襲い掛かった。
速度は、先程の触舌ほどではない。
だが、その威圧感はただの触舌の比ではない。
『桜華さま!』
白冴が咄嗟に結界を張ろうとするが、
「心配無用だ!」
桜華はそう告げて走り出した。
手に携える光の刃が、煌煌と輝きを放つ。
桜華は巨大な掌の一つを潜り抜けて、もう一本の腕には、
「――はあッ!」
白き光の刃で斬り込んだ!
途端、エリーゼが目を剥いた。
桜華が放った光の斬撃が、巨大な掌の指を斬り落としたのだ。
「私の触舌を!」
「的が大きくて助かるな!」
桜華は不敵に笑って、そのまま触舌の腕を踏み台に駆けあがった。
そして、エリーゼの背後へと跳躍した。
「甘いですわ!」
エリーゼは後ろを振り向く。
と、同時に、後ろ脚を担う二本の腕が、桜華を捕えようとする。
だが、それにも桜華は動じない。
「――ふっ!」
一息で無数の斬撃を繰り出した。
まるで演舞のように、美しくその場で回転する。
次の瞬間には、巨大な腕は、無数の肉片へと変えられていた。
桜華は跳躍する。狙うはエリーゼの首だ。
しかし、
――ひゅんっと。
不意に、エリーゼの上半身が消えた。
桜華が目を剥くが、すぐに背後に悪寒を感じた。
確認などせず、足場としているエリーゼの下半身を蹴り、前へと飛び出した。
無数の触舌が、エリーゼの下半身から噴き出したのはその直後だった。
桜華は回転して、地面に着地する。
蜘蛛のようなエリーゼの巨体を睨み据える。
すると、エリーゼの上半身が、蜘蛛の巨体の前面から浮かび上がってきた。
「本体はどこからでも出し入れ自由か」
桜華は、ふっと笑う。
「随分と便利なものだな」
「……不快ですわね」
浮かび上がったエリーゼが、険しい表情で言う。
「少々手心を加えたら、いきなり調子に乗るとは……」
「ふん。自分を侮るからだ」
言って、桜華は光の刃を横に薙いだ。
「技において自分に勝る者はいない。たとえ、それが我が夫であってもな」
桜華は、不敵な笑みを見せる。
「それでどうするつもりだ? その無駄にデカい図体でまだやるつもりか?」
「…………」
エリーゼは、無言で桜華を睨みつける。
今の攻防だけで充分だった。
この巨大すぎる姿では翻弄されてしまう。
だが、人間相手に、それを認めるのは――。
と、考えていた時だった。
「……へえ。あんたのそんな悔しそうな顔、初めて見たよ」
その声は、不意に響いた。
エリーゼ、そして桜華、白冴さえもギョッとする。
エリーゼが顔を声のした方に向けた、次の瞬間。
――ズドンッッ!
途轍もない衝撃が、エリーゼの蜘蛛の巨体を貫いた。
巨躯は宙に浮き、木々ごと吹き飛んでいく。
桜華は唖然とした顔で、声の主――今の一撃を喰らわせた相手を凝視した。
地を踏み抜き、掌底を突き出したその人物は女性だった。
胸にさらしを巻き、上半身の片方を開けた着物を纏う女性だ。
年の頃は二十代前半ほどか。褐色の肌に、浅黄色の巻き毛という珍しい風貌だが、それ以上に目を奪われたのは、突き出した掌底の色だ。
その掌底は、鋼のような光沢を持つ銀色だったのだ。
「あんた、名前は?」
その時、褐色の女性が、桜華に尋ねてきた。
桜華は少し警戒しつつも、「桜華だ」と答えた。
「そうかい。私の名前は多江だよ」
そこで、多江は桜華が握る光の刃に目をやった。
「あんたは味方って考えてもいいかい?」
その言葉で、桜華は察した。どこの所属の者かは分からないが、この多江という女性が自分と同じ引導師であるのだと。
実際のところは全く違うのだが、それを問う時間はなかった。
「……お前はッ!」
吹き飛ばされたエリーゼが、跳躍してこの場に戻ってきたからだ。
着地したエリーゼは、すでに大蜘蛛ではなく、元の姿になっていた。
「まさか、生き延びていたのですか!」
「ああ。おかげさまでね」
多江は、ふんと鼻を鳴らした。
「約束通り、あんたを張っ倒しに来たよ」
「……言ってくれますわね」
エリーゼは、ギリと歯を鳴らした。
「人間風情が!」
そう吐き捨てて、腹部から触舌を解き放った。
視認できない一撃は、容赦なく多江の首に直撃する!
――が、
「――――な」
エリーゼは、目を見開いた。
触舌は、確かに多江の首に直撃した。
しかし、その首を刎ねることは出来ず、逆に撥ね退けられたのだ。
「……便利な力だよ」
吹き飛ばされることもなく、その場に両足で立ったまま、多江は言う。
「防御の時は、私の意志と関係なく発現してくれるみたいだね」
そうして、自分の首筋を指先でコツコツと打つ。
彼女の首筋は、先程の掌底と同じく銀色の輝きを放っていた。
「肉体の、金属化?」
エリーゼが呟く。と、
「防御系か。自分も初めて見る系譜術だな」
その声にハッとして、エリーゼは頭を屈めた。
その一瞬後に、光の白刃が宙を斬る。
――いや、大きく揺れたエリーゼの髪を斬り裂いた。
黄金の髪が散った。
「私の髪を!」
「忘れるなよ」
髪を斬り裂いた桜華が言う。
「お前の相手は自分だろう。さて」
桜華は、視線はエリーゼから外さず、新たに参戦してきた人物に告げる。
「先程の答えだが、自分はお前の味方でいいぞ」
「ああ。分かったよ」
桜華の返答に、多江はニカっと笑みを見せた。
「じゃあ、そうだね」
大きく両腕を広げる。
次いで、パンっと手を重ねた。
「桜華。こいつを二人でぶちのめそうか」
「ああ。そうだな」
桜華は後方に跳躍し、多江に並んだ。
「そろそろ決着をつけようか。《屍山喰らい》」
◆
「……金堂多江君か」
餓者髑髏が、ポツリと呟く。
刃の玉座に肘をつき、化け物の王は、初めて渋面を浮かべた。
「よもや、この機で初の適合者が現れるとは……」
「……事情は知らんが」
龍体の玉座から、対峙する真刃が言う。
「彼女は引導師のようだな。それも、貴様にとって想定外の」
「……まあ、実際には、引導師ではないのだがね」
言って、餓者髑髏は肩を竦めた。
「だが、彼女は相当に適性が高かったようだ。エリーの触舌を防ぐほどの強度。中々に侮れない存在になった」
そこで指を組む。
その仕草には、微かな焦りがあった。
(彼女が加わったことで、戦況は傾いたな)
真刃は、褐色の肌の女性に目をやった。
何者かは知らないが、ここで参戦してくれたことは有り難い。
御影は強い。
その技の冴えは、真刃も一目置く実力者だ。
だが、それでも、単独で《屍山喰らい》の相手は厳しかった。
御影を捕られて餓者髑髏に捧げる。例の馬鹿げた話が幸いして、《屍山喰らい》に殺意までなかったことが優勢に働いていたが、それは文字通り、相手の気分次第の話だ。
もし、《屍山喰らい》が殺す気で動けば、御影とて抗い切れない。
その時。
真刃は、決断しなければならなかった。
御影を救うか。それとも見捨てるかをだ。
だが、自分でも分かっていた。
それが、選択にさえなっていないことを。
仮にその状況になった時、恐らく、自分は御影を救うことに躊躇しない。
この決断は、御影の誇りを踏みにじり、互いの関係に決定的な亀裂を刻むとしても。
――無辜の民よりも、自分にとって大切な者を。
結局のところ、久遠真刃という男とは、そういう人間だった。
自分が気に掛ける人間以外はどうでもいい。
その考えが、強く根付いていた。
(やはり、己に引導師は向かんのだろうな)
改めてそう思うが、それだけにこの展開は本当に幸運だった。
御影とあの女性。
二人がかりならば、《屍山喰らい》にも届くやもしれない。
参戦した女性の動きを見て、そう感じた。
御影に比べれば、素人然の未熟な動きではあるが、魂力の量においては相当なモノなのだろう。拙い技量を高い身体能力で補っている。それに着目すべきは、あの系譜術だ。
真刃は、鋼の輝きを放つ女性の腕に目をやった。
(躰の一部を鋼と化す術か。攻撃に転ずる際はいささか発動に手間取っているようだが、防御においては速い。自動で発現する常駐型の術式だな)
女性の放つ鋼の双掌が、《屍山喰らい》の腹部に直撃し、弾き飛ばした。
そこへ御影が追撃する。光刃が《屍山喰らい》の胸元を斬り裂く。さらに追撃を加えようとするが、それは無数の触舌の壁で遮られた。御影が後方に跳躍。それと入れ替わって女性が前へと飛び出し、御影の盾と成って触舌を弾いた。
術式、または性格の相性がいいのか、即席の連携も上手く機能している。
(このまま押し切れるか)
そう感じる。
それは、餓者髑髏も感じているのだろう。
あれだけ余裕を見せていた化け物の王の瞳から、悪戯の光が消えていた。
真刃は、別の光景に目をやった。
そこでは、一人の青年が森を駆けていた。
温和な顔立ちの青年だ。
けれど、その眼差しは強く輝き、真っ直ぐ前だけを見据えていた。
真刃は「……見事だったぞ」と呟いた。
そして、
「道化よ」
刃の王に、告げる。
「どうやら、決着の時が来たようだな」




