第六章 刃の王は、高らかに告げる①
御影桜華は、桜の花が舞う夜を駆けていた。
炎の刃を片手に、屋根伝いに跳躍。
そのたびに、火の粉と浴衣の裾。そして黒髪が風に揺れる。
『桜華さま。そろそろ見えるはずです』
「――分かった」
胸元の水晶に宿る白冴の声に、桜華はさらに加速した。
そうして――。
「あれか!」
とある旅館の前。
四人ほどの男性たちが、屍鬼の群れに襲われている。
屍鬼の数は三十ほどか。
男性たちはどこで入手したのか、それぞれが武具を手にしていた。
その武具を使って、どうにか応戦している。
「――ッ! あれはッ!」
桜華は目を見開いた。
必死の形相で応戦している男性たち。
その先頭に立つ男性に、見覚えがあったのだ。
――黒田信二。
今回の任務で捜索対象になっている人物だ。
写真では大人しい印象だった彼は、刀を手に、屍鬼へと果敢に挑んでいる。
(やはり関係していたのか。だが、今は)
桜華は屋根を蹴り、大きく跳躍した。
目の前に、命の危機に晒されている者がいる。
引導師として、すべきことはたった一つだけだった。
――トッ、と。
桜華は、乱戦の中に降り立った。
奇しくも、黒田信二のすぐ傍である。
「……え?」
いきなり現れた浴衣姿の女性に、信二が目を丸くする。
しかも、その手には、炎の刃が握られているではないか。
「き、君は?」
困惑の声を上げる信二。
対し、桜華は、
「話は後だ」
淡々とした声で返した。
「ここは自分に任せろ」
そう告げて、桜華は屍鬼の群れの中へと駆け出した。
「おあああォああああああッ!」
桜華に気付いた屍鬼が両腕を広げて彼女に襲い掛かるが、
――ザンッ!
すれ違いざま、熱閃を振るう!
屍鬼の胴体は容易く両断された。
桜華はさらに加速する。
胴薙ぎ、袈裟斬り、刺突。
そのたびに、熱閃が煌めいた。
屍鬼どもは、為す術もなく倒れていく。
街道には桜の木。
金色の火の粉と、桜の花が月夜に舞った。
信二たちは、襲撃されていることも忘れて、彼女の姿に魅入った。
そうして十数秒後。
「……粗方片付いたか」
炎刃の切っ先を下ろして、桜華が呟く。
三十はいた屍鬼どもは、一体残らず地に伏せていた。
立っているのは、桜華と、信二たち――五人の男性たちだけだった。
「た、助かったのか?」
男性の一人が声を零す。
桜華は、男性たちへと視線をやった。
「大丈夫だったか? 負傷者はいないか?」
そう尋ねると、
「あ、ああ」
黒田信二が前に出て来た。
「助かったよ。けど、君は一体……?」
「ああ。自分は――」
桜華が話を切り出そうとした、その時だった。
「――彼女は、引導師と呼ばれる輩ですわ」
不意に。
赤き月の夜に、その声が響いた。
桜華、信二たちも息を呑んで、声の方を見やる。
すると、そこには、
「自らを、輪廻の守護者などと称する傲慢な輩ですの」
――黄金の闇がいた。
闇夜であっても輝く長い金色の髪を揺らして、桜舞う街道を歩いている。
「分かりやすく言うと、いわゆる退魔師。鬼や妖を狩る者といったところですか」
「……貴様は」
桜華は表情を険しくして、炎刃の切っ先を向けた。
「この事件の首謀者か? 何者だ?」
「あら?」
黄金の闇――エリーゼは、口元を片手で押さえて笑った。
「私の正体など、すでにご存じでしょうに」
「貴様の名を聞いている。名付きの我霊」
桜華は、険しい顔のまま問う。
「貴様の名は何だ?」
「あらあら」
エリーゼは、蒼い双眸を細めた。
「自らは名乗りもせずに、相手に名を尋ねるなんて、礼儀のなっていないことね」
そこで、少し困ったような顔を見せる。
「お館さまにお贈りする前に、少し教育が必要かしら? まあ、まずは」
エリーゼは、微笑んで尋ねる。
「貴女のお名前。先に窺ってもいいかしら?」
「……自分の名は」
――御影刀一郎。
一瞬、そう名乗ろうと思ったが、桜華は考え直した。
その名は、いずれ意味がなくなるからだ。
「……桜華だ。久遠桜華。それが自分の名だ」
あえて御影の家名ではなく、その名を告げる。
今だけは。
――否。今宵からこそは。
彼女は、その名になる覚悟でいたのだから。
それをこの女に邪魔された訳だ。多くの人々を犠牲にされた不快感に比べれば、些末なことではあるが、それでも勇気を振り絞った夜だった。当然ながら、思うところもある。
「貴様を斬る者の名だ」
そう告げる。
すると、エリーゼは笑みを深めた。
「ふふ。久遠の桜と書くのかしら? 美しい名ね。お館さまに相応しくはあるわ」
そう呟いてから、
「私の名は、エリーゼと申します」
装束の裾をたくし上げて、優雅に一礼する。
途端、桜華が顔色を変えた。
「……なるほど。その黄金の髪。蒼い双眸。すぐに気付くべきだったな……」
そして緊張を宿した声で、その名を呟く。
「貴様が《屍山喰らい》のエリーゼか」
「……その二つ名は嫌いですわ」
エリーゼは、不快そうに眉をひそめた。
「まるで私が大喰らいのようです」
「事実、そうだろう」
桜華は言う。
「戦国時代、この国に流れ着いた異国の娘、エリーゼ。白き肌に蒼い瞳。その黄金の髪を民衆が恐れ、鬼の子として囚われた。そのまま餓死させられたと聞く。そして、極度の飢餓感を抱いて死んだ彼女は、喰らうことに特化した我霊と化した」
桜華は微かな憐憫を、エリーゼに向けた。
「貴様の死に様は哀れだと思う。だが、飢えた貴様は、その後、戦場に現れては、すべての兵士を鏖殺した。その骸の山を余すことなく喰らい尽くした。ゆえに《屍山喰らい》」
「……若気の至りですわ」
エリーゼは、恥ずかしそうに頬に手を当てた。
一方、桜華は眉をしかめた。
「貴様はそれを四十年以上も続けたそうだな。だが、貴様はある日――」
そこで、桜華はハッとした。
「……そうだ。そうだった。貴様は、確か奴の……」
「ええ。そうですわ」
エリーゼは、幸せそうに笑った。
「喰らっても喰らっても満たされない。そんなエリーを救ってくれた御方。教養。世の理。私たちの正しき生き方。そして……」
エリーゼは、自身の唇に触れながら、恍惚の表情を見せた。
「遂には、生前には知ることもなかった愛をもお教えくださいましたわ。今でも忘れません。初めて……初めて、お館さまのお情けを頂いたあの夜だけは……」
「……そうか」
桜華は、炎の刃の柄を強く握って告げる。
「貴様は本当に奴の女なのだな。ならば、この街には奴もいるということか。あの七つの邪悪の一角が……」
「ええ。もちろんですわ」
エリーゼは、ニッコリと笑って告げる。
桜華は、大きく息を吐いた。
そして、
「――黒田さま」
「……え?」
緊迫した空気の中、四人の仲間と共に沈黙していた信二は、目を見開いた。
「どうして、僕の名前を?」
桜華は一瞬考えて、
「……自分の夫は、軍属の方と面識があります」
そう答えた。それだけで、信二は父の関連で名を知られていたのだと察した。
「ここはお逃げください。この女は自分が相手をします」
「え、けど、女性を残しては……」
「ご心配なく」
桜華は、火の粉を散らせて炎の刃を横に薙いだ。
「女の身ではありますが、自分は引導師。退魔を生業とする者です。そしてこの女は妖。自分が専門とする相手です」
「……そうですか」
信二はそれでも迷っていたが、
「……分かりました」
小さく頷く。
「ここはお任せします。みんな。行こう」
言って、仲間にも促す。仲間も「お、おう」「分かった」と困惑しつつも頷き、武具を持ったまま駆け出した。信二は最後までその場に残り、
「どうか、ご武運を」
そう告げると、頭を下げ、仲間の後を追った。
礼儀正しい青年だと桜華は思った。同時に死なせたくないな、と。
桜華は、エリーゼを真っ直ぐ見据えた。
「お前の相手は自分だ。彼らを追わせはしない」
「あら。その心配は不要ですわよ」
エリーゼは、頬に指先を当てて微笑む。
「彼らは、お館さまの大切な演者たち。私が手を出すことは禁じられています」
そう告げると、長い黄金の髪を揺らして首を傾げた。
「今宵、私が相手を許されているのは、あなただけですわ」
「……そうか」
桜華はそう呟くと、両手で炎の刃を構えた。
対し、エリーゼは、
「では、そろそろ始めましょうか」
そう言って、双眸を細めた瞬間だった。
――ぞわり、と。
桜華の背筋に悪寒が奔った。
桜華は直感が命じるままに後方へと大きく跳んだ。
その一瞬後、何かが地面に突き刺さる。
桜華は、目を大きく見開いた。
地面に突き立てられたそれは触手のように見えた。
だが、ぬめりと輝く肌色のそれが、地面から引き抜かれて気付く。
それは、人間の舌だった。
恐ろしく、恐ろしく長い舌だ。その舌の元を目で追うと、エリーゼの腹部に鋭い牙を持つ大きな口が浮かび上がっていた。舌はその口のモノだった。
しかも一本ではない。
五本、六本と、長い舌がまだまだ飛び出してくる。
「あなたもご存じの通り、私は、食事には少々拘りがありますの」
ゆらり、ゆらりと。
十五本以上の触舌を蠢かすエリーゼは、笑みを湛えたまま告げた。
「お気をつけてくださいな。私の舌舐めずりは、いささか刺激的ですから」




