第五章 夜明けは遠く➂
――同時刻。
「……ふ~む」
天を突く口髭を持つ小男は唸った。
ソファに座り、瞑目したまま、あごを擦る。
「これは意外や意外。まさか脱落者が出てしまうとは」
そこは、温泉街の旅館の一つ。
西洋風建築の、咲川温泉では珍しい旅館だ。
その宿の一室であるここは、内装も西洋風だった。
木製の椅子に机。部屋の中央には男が座るソファ。
窓の近くにはベッドが二つあり、その一つはシーツが膨れあがっている。
「ここまで生き延びた戦士が、よもや屍鬼ごときに殺されるとはな。人に近い姿が、却って彼らの戸惑いを呼んでしまったかな?」
そんなふうに分析していると、
「……うふふ」
不意に、後ろから首を抱きしめられた。
黄金の長い髪が、ふわりと彼の顔にかかる。
「おやおや。起こしてしまったかね。エリー」
小男――道化紳士は、ゆっくりと双眸を開いた。
「ええ。いま起きましたわ」
そう返すのは黄金の魔性。エリーゼだ。
彼女の歩いてきた後には、白いシーツが落とされていた。
見事な肢体を持つ彼女は今、一糸纏わぬ姿だった。
「昨夜は存分に甘えさせていただきました。ただ、お館さまの想いを受け切れず、幾度となく先に果ててしまったことを、どうかお許しください」
「ふふ。構わんさ。私の可愛いエリー」
道化紳士は、エリーゼの首筋に触れる。
「吾輩も、いささか加減を忘れたかもしれん」
「いいえ。むしろ、お館さまの愛の深さを痛感いたしましたわ。エリーは、やはり誰よりもお館さまが大好きなのです」
エリーゼは前に移動すると、道化紳士の膝の上に座り、その豊かな胸で彼の頭を抱きしめた。
心から嬉しそうに微笑む。が、
「ですが……」
そこでエリーゼは、子供のように頬を膨らませた。
「すでに第四夜を始めてしまわれたのですか? 酷いです。エリーも楽しみにしていたのに」
「ははっ、すまない」
道化紳士は朗らかに笑って、エリーゼの腰に腕をやった。
「君があまりにぐっすり寝ていたからね。昨夜は無理をさせたこともある。起こすのは悪いと思ったのだよ」
「……ムム」
エリーゼは、やはり子供のように頬を膨らませる。
「それでも酷いですわ」
「はは、そうだな。ならばエリー。今宵は君もこの舞台に立つことを許そう。君にお使いを頼みたいのだ」
「……お使いですか?」
エリーゼが髪を揺らして小首を傾げると、「うむ」と言って道化紳士は指を鳴らした。
途端、彼らの前に、小さな街の模型が映し出された。
半透明の街だ。そこには三十ほどの白い光点と、その数倍ほどの黒い点が蠢いていた。
白は戦士たち。黒は屍鬼ども。今のこの街の状況を示した模型だ。
「あら? 早々に減ってしまったのですね」
その模型を見ただけで、エリーゼは状況を察した。
が、すぐに眉をひそめた。
「この白い光点。おかしいですわ」
エリーゼの目に映った白い光点。それは高速で移動するモノだった。
「とても人間に出せる速さではありません。これは――」
「引導師だ」
道化紳士が答える。
「どうやら、吾輩の庭に迷い込んでいたらしい」
「あらあら」
エリーゼは、クスリと笑った。
「運が悪いですこと。男ですか? 女ですか?」
「女性だよ」
道化紳士はふっと笑った。そしてもう一度、パチンと指を鳴らす。
すると、今度は彼らの前にとある光景が浮き上がった。
そこには、炎の刃を手に持つ、浴衣姿の女の姿があった。
よほど焦っているのか、素足のままだ。
月光に美脚を晒して、屋根から屋根へと跳躍して移動している。
時折、風に乗った桜の花弁も、彼女を彩っていた。
「美しい娘だろう?」
道化紳士が言う。
「まさしく、月夜を駆ける桜の乙女だな。素直に綺麗だと思ったよ。躍動する美とも言うべきか、引導師でも仕草だけでここまで美しい娘も稀だ」
一拍おいて、
「どうやら、吾輩の庭に取り込む条件が甘かったようだ。紛れ込んでいることに気付いた時は驚いたが、こういった想定外もまたよいものだ。さて。吾輩のエリーよ」
言葉を続ける。
「この美しい娘を君に上げよう」
「……お館さま?」
エリーゼは、小首を傾げた。
「この娘をですか?」
「ああ」
道化紳士は頷く。
「この招かざる客人を持てなしてくれないか。なに。持てなし方は君の自由だ。君の好きにするといい。辱めるのも、食するのもね」
「……そうですわね」
エリーゼは、桜の乙女に目をやった。
「でしたら、この娘を捕え、お館さまにお贈りいたしましょう」
「……なに?」
道化紳士は眉をひそめた。
「それはどういう意味だね? エリー」
「言葉通りの意味ですわ」
エリーゼは、少女のように笑った。
「この娘を気に入られたのでしょう? エリーからの贈り物ですわ」
「いやいや。エリー」
妻の言葉に、道化紳士はかぶりを振った。
「吾輩には君がいるのだぞ。吾輩に不貞をしろとでも?」
「違いますわ」
今度は、エリーゼがかぶりを振った。
「お館さまから寵愛を賜るのは、世界でこのエリーのみ。あの娘は違います。お館さま。天の座に御座す御身に、不敬を承知で進言することをお許しください」
「……言ってみなさい。吾輩のエリー」
道化紳士は、エリーゼの頬を撫でた。
「では」
彼女は、ゆっくりと唇を開いた。
「お館さまは人間に対し、お優しすぎるのです。天上の御方でありながら、下等で愚劣な人間に慈悲深く接しられます。時には、奴らが対等であるかのように振る舞われます」
「……………」
「お館さまが人間の『愛』に一目置かれていることは存じ上げております。ですが、本来奴らは家畜のはず。人間の娘など、女として扱う必要などございません。お館さま」
エリーゼは、主人の頬に両手を添えた。
「人間など幾らでも雑に扱ってもよいのです。人間とは家畜。このエリーと、対等な存在などではないのです。仮に、あの娘がお館さまのお情けを賜ったとしても、それは戯れにすぎません。なんと幸福な雌でしょうとは思いますが、エリーの愛は何一つ揺るぎません」
「……………」
道化紳士は、沈黙した。
エリーゼは、その蒼い瞳で主人を見つめていた。
そして――。
「すまなかった。エリー」
道化紳士は嘆息して、妻を強く抱きしめた。
「不貞などと言って悪かったね。君の悪癖の理由をようやく理解したよ。確かに吾輩は人間を対等に見すぎていたようだ」
「……お館さまぁ」
甘えた声を上げて、エリーゼも夫を抱きしめる。
「君の悪癖にも理解を示すべきなのだが、たとえ戯れとはいえ、やはり愛しい君が他の男に抱かれることは不快なのだよ。そこでだ」
道化紳士は、エリーゼの前髪をかき上げて告げる。
「今日より一年に一度、君に贈り物をしよう。家畜に過ぎない人間であっても、吾輩が一目置くに相応しい英傑を君に贈ろう。これは不貞ではない。何故なら、その人間は吾輩からの贈り物なのだから」
「――お館さまっ!」
エリーゼは、瞳を輝かせた。
「嬉しい! その人間は大切にしますわ! 大切に、ゆっくりと、ゆっくりと頂きますわ!」
「ふふ。そうか」
道化紳士は、エリーゼの頭を撫でた。
すると、エリーゼは、
「でしたらお館さま!」
輝く眼差しのまま、道化紳士に告げる。
「エリーも、一年に一度、お館さまへの贈り物をご用意いたしますわ! まずはそう!」
エリーゼは、虚空に映し出された桜の乙女を手で差した。
「今宵、お館さまが見初めたあの娘をお贈りいたします! エリーの心尽くし、どうかご堪能くださいませ!」
「おいおい。エリー」
道化紳士は苦笑した。
「早速だね。だが、言い出したのは吾輩だ。喜んであの娘を頂くよ」
「はい! お館さま!」
そう返事をして、エリーゼは勢いよく立ち上がった。
次の瞬間、裸体だったエリーゼの肌から、白い衣装が浮かび上がった。
くるりと回転し、衣装を舞わせる。
それから衣装の裾をたくし上げ、エリーゼは主人に優雅に一礼した。
「では、少々お待ちください。すぐに戻りますので」
「ああ。行ってきなさい。エリー」
指を組んで、道化紳士が答える。
「行って参ります。あなた」
エリーゼは笑ってそう告げた。
そうして、彼女は部屋から出て行った。
「……ふふ」
道化紳士は笑みを零すと、ソファの背もたれに体を預けた。
「人間に甘いか。いささか初心を忘れていたのかもしれん。子に教えられるとは、こういうことなのかもしれんな」
今宵は驚かされることばかりだ。
そう呟き、双眸を閉じる。
しばしの沈黙。
「……だが」
瞳を開け、道化紳士は呟く。
「奇妙な感覚があるな。心躍るような、または緊迫するような……」
不思議な夜だ。
これまでにもないような高揚感を覚えている。
「これは、もしや……」
道化紳士は、ふっと笑った。
「案外、まだ素晴らしい予定外があるのかもしれんな」




