第三章 旅路②
列車の旅は、順調に進んだ。
桜並木の道を越えて、再び田園風景。森の間を走り、トンネルを通り抜けた。
そして、
「うわあ……」
刀一郎が瞳を輝かせる。
海沿いに出たのだ。車窓からは、陽光で輝く海岸が見えた。
「久遠! 久遠!」
刀一郎が真刃の顔を見て言う。
「見ろ! 海だぞ! 海だ!」
「……いや。見れば分かるが……」
真刃も車窓を見やる。
「騒ぐほどでもないだろう。いや、もしや初めてなのか?」
「うん! 初めてだ!」
刀一郎は満面の笑みで頷く。
「自分は帝都からあまり離れないからな! 海にも行ったことはない!」
「……そうか」
真刃は少し目を細めて、改めて海を見る。
美しい蒼い海原だ。波はほぼなく穏やかに輝いている。
「己は幼少時に行ったことがあるな。知っているか? 桜華」
「え、あ、はい……」
その名を呼ばれて、刀一郎の鼓動は跳ね上がる。
少し緊張した面持ちで姿勢を正し、真刃を見やる。
「な、何をだ? 久遠」
「海は塩辛いのだ」
「………………」
「とても呑めたモノではないぞ」
真顔でそんなことを言う。
刀一郎は半眼になった。
「……莫迦にしているのか?」
ボソリとそう告げると、真刃はくつくつと笑った。
やはり冗談だったらしい。
「お前の冗談は分かりにくいぞ」
「いや。お前になら通じるかと思ってな。それよりも」
真刃は少し真面目な顔になった。
「そろそろ目的の駅に到着だ。己の呼び名も改めておかんとな」
「………?」
刀一郎は小首を傾げた。
「自分は偽名だが、別にお前は『久遠』で構わんだろう?」
今回の偽装は、特に目立たなければいい程度のモノだ。女装――実際は正真正銘、女性ではあるが――している刀一郎は必須だとしても、真刃まで偽名を使う必要性はない。
「いや。あのな」
真刃は嘆息した。
「忘れるな。お前は己の『妻』なのだぞ。夫を名字で呼ぶ妻がいるか?」
「………あ」
刀一郎は、口元を片手で抑えた。
「己も、極力お前のことは『桜華』と呼ぼう。だから、お前も己のことは『真刃』と呼べ。いいな。桜華」
「あ、うあ、それは……」
刀一郎は口元を隠したまま、もじもじとする。
やや頬も赤く、視線を逸らして「むむむ」と唸っている。
「……おい」
真刃は、再び嘆息した。
名前で呼ぶのは、男女問わず親しい者に限られることだ。
そして真刃たちは、お世辞にも仲が良いとは言えない。
いつかお前を斬るとまで宣言されているほどだ。
そんな因縁の多い自分を、名で呼ぶことに抵抗があるのだろう。
「お前の気持ちも分からんでもないが、これも任務だ」
真刃は言う。
「己を名で呼べ。桜華」
「~~~~~ッッ」
刀一郎は言葉もなく、口を真っ直ぐに結んだ。
真刃は、正面から刀一郎を見据える。
刀一郎はプルプルと震えながら、
「………し、真刃……」
出会ってから初めて。
――そう。初めて彼の名前を呼んだ。
対し、真刃は刀一郎を見やり、軽く息を吐いた。
「……そこまで嫌がらんでもよかろうに」
小さくそう呟く。
真刃の前に座る刀一郎。
同僚の顔は真っ赤で、目尻に涙まで溜めて睨みつけている。
肩や、膝の上に乗せた手まで震えているぐらいだ。
相当に憤慨しているように見える。
(まあ、女装までさせられているのだから、御影の憤懣も当然か)
真刃はそう思った。
実際のところ、刀一郎が抱く感情は真逆なのだが、真刃がそれに気付くことはない。
『……………』
一方、真刃の隣にて浮かぶ猿忌は、神妙な表情を見せていた。
(……う、むゥ)
内心で唸る。
御影刀一郎のこの反応。
これは果たして、どう判断すればいいのか……。
(……紫子。杠葉よ)
猿忌は、真刃と刀一郎を見やり、改めて思う。
『……これは、よもや本当に危惧通りにはなるまいな?』
「ん?」
真刃が猿忌を見やる。
「何か言ったか? 猿忌」
『……いや。何でもない。主よ』
猿忌は沈黙した。
今は沈黙するしかなかった。
いずれにせよ、列車は進む。
海沿いを越えて、再び森林の道へと。
大きな森の中をさらに一時間、列車の旅は続いた。
そうして、
――ガタン、ゴトン……。
ゆっくりと、列車は停車した。
真刃たちの目的の駅に到着したのである。
ガヤガヤ、と。
真刃たち以外の乗客も、数人が荷物を持って立ち上がる。
「さて、と」
真刃も、荷物を片手に立ち上がった。
「では行こうか。桜華」
言って、向かいの席に座る『妻』に声を掛ける。
対し、『妻』は『夫』の手を取った。
早鐘を打つ鼓動は隠しつつ、
「うん。分かった」
そう答えて、刀一郎は改めて心を決める。
(そう。今の自分は、こいつの『妻』なのだ)
一度だけ大きく息を吐く。
そして、
「行こう。真刃」
桜色の唇を動かして、刀一郎はそう告げた。




