第二章 陰なる太刀②
その日の夜。
かなり遅い時間帯に、刀一郎は帰宅した。
周辺が林に覆われた大きな屋敷。そこが刀一郎の実家だった。
ガラガラ、と引き戸を開ける。
玄関先には丁度使用人がいて「お帰りなさいませ」と頭を下げてきた。
元々、御影家の屋敷は、帝都の外にある。
従って、陰太刀の兵舎からもかなり遠く、普段から帰宅は遅い方なのだが、今回の任務について色々と打ち合わせをしていたため、さらに遅くなってしまった。
(だが、方針は決まったな)
黒い外套と帽子を使用人に預けて、刀一郎は廊下を進む。
今回の任務は主に二点が重要視されている。
まずは、黒田信二さまを捜索し、保護すること。
そして、起こり得る特級案件を処理すること。
どちらも、秘密裏に対処して欲しいとのことだった。
黒田信二さまには、とある名家のご令嬢との婚約の話もあがっているらしく、大きな騒動にはしたくないというのが、依頼主である閣下の希望だからだ。可能ならば、信二さまご自身にも秘密にして動いて欲しいという話だった。
正直、面倒だと思ったが、こちらは強制ではないらしい。
そして、特級案件に関しては、秘密裏の対処は当然だった。
そもそも、我霊が関わってくる案件は、すべて闇に葬るのが陰太刀の存在意義である。
いずれにせよ、まずは、件の街に行かねば始まらない。
結果、久遠真刃と二人で、件の人物が消えた街に出向くことになった。
出立は明後日の朝。
明日は、その準備のために休暇を与えられた。
(……特級案件か)
刀一郎の表情に、微かに緊張が宿る。
軍務に就いてすでに四年余りだが、初めて関わる案件だった。
最上位に分類される特級。
しかし、それらの中にもさらに格の違いがある。
特に、明確な差としては、言語を解するかどうかだった。
言葉を操る特級は、すでに人間としての知能を取り戻しているとも言える。完全に別格扱いの存在である。そして、それらには、引導師たちが組織立って活動をし始めた頃――戦国時代の頃から、名前を付けられる慣例があった。
例えば、最上位の特級。
千年の時を経たという、伝承級とも称される千年我霊たち。
かの七体の邪悪には、悪神・怪異から取った名が付けられているそうだ。
無論、その他にも恐るべき『名付き』はいる。どれも討伐困難な怪物どもだった。
(そんな化け物と、戦うことになるかも知れないのか)
流石に緊張を隠せない。と、
――パァンッ!
不意に音が響いた。
刀一郎は隣に目をやる。そこは屋敷内の道場だった。
「…………」
刀一郎は少し迷いつつも、襖を開けた。
室内は板張りの道場。
そこには、道着姿の二人の人物がいた。
竹刀を携えた七十代の男性に、倒れ伏す十代前半の少年だ。
少年の傍には、竹刀が放り出されていた。
「……父上」
刀一郎は、七十代の男性――父・御影刀山に声を掛けた。
すると、父は振り返り、
「……刀一郎か」
興味のない眼差しを向けてきた。
それから、竹刀を手にしたまま刀一郎の隣を通り過ぎ、
「刀至の手当てをしておけ」
それだけを告げて道場から去っていった。
「…………」
刀一郎は、無言で廊下の奥へと遠ざかる父の背を見ていた。
が、すぐに道場の中へと入り、倒れ伏す少年の傍へ駆け寄った。
「……刀至」
声を掛けるが、十三歳の少年には、父の稽古は過酷すぎたのだろう。完全に気を失っているようで全く返事がない。
「…………」
刀一郎は、小さく嘆息した。
そうして十分後。
(…………う)
温かさを額に感じ、気絶していた少年――刀至は、うっすらと目を開けた。
ぼんやりとした視界。体中が痛い。
けれど、何故か後頭部だけは柔らかいモノに支えられていた。
(俺は……)
目をゆっくりと瞬かせる。と、
「……目を覚ましたか? 刀至」
優しい声が耳朶を打った。
刀至はハッとした。瞬時に意識が覚醒し、目を見開く。
自分の目の前には、逆さに覗き込む美しい女性の顔があった。
「あ、兄……?」
そう呟き、ギョッとする。
まさか、自分は今――。
「うわッ!?」
慌てて上半身を跳ね上げて、前へと転がる。
次いで、自分がいた場所を見やると、やはり軍服姿の女性がいた。
彼女は、正座をして、そこに座っている。
「あ、兄上……」
想像通り、自分は彼女に膝枕されていたようだ。
カアアっと顔が赤くなる。
「気絶後に、急に動いてはいけないぞ」
刀至の兄――実際は姉だと知っている――は、穏やかに微笑んだ。
やはり、何度見ても綺麗な人だと思う。
刀至は、姉の微笑みに胸の奥で早鐘を打ちながら、その場に正座した。
「すみません。醜態を見せてしまいました」
「気にするな」
刀一郎は、優しい声で言う。
「父上の修練は厳しいからな。自分も昔はよく打ちのめされていたものだ」
「………」
刀至は、無言で唇を強く噛んだ。
「……? どうした? 刀至?」
刀一郎がそう尋ねると、刀至は「申し訳ありません」と頭を下げた。
それから顔を上げ、
「……姉上」
あえて、そう呼ぶ。
刀一郎は、静かな眼差しで弟を見つめた。
「俺が御影の跡継ぎとして不甲斐ないばかりに、未だ姉上は女性に戻れずにいる」
「……刀至。それは……」
「姉上は、『男』として育てられました」
刀一郎は口を開こうとしたが、刀至の声に遮られる。
「環境は心にも影響します。姉上の心がすでに『男』であるというのならば、そのお姿でもいいと思います。けれど、俺は知っています」
刀至は、男装であってもなお美しい姉を真っ直ぐ見据えた。
「姉上の心は、間違いなく『女性』であるのだと。だというのに、姉上が未だ女性に戻れないのは、すべて俺の不甲斐なさのせいです」
刀至の才は、姉には及ばない。
剣才も劣れば、魂力の操作においては比較にもならない。
優れている点といえば、魂力の量だけだ。
それも平均程度。姉に比べれば、まだ高い程度のモノに過ぎない。
自分は凡庸だ。
刀至は、その想いに打ちのめされていた。
膝の上で手を固く握りしめ、深く俯いてしまう。
「……刀至」
そんな弟に、刀一郎は髪を揺らしてかぶりを振った。
「それは違う」
刀一郎は、自分の胸元に片手を当てた。
「確かに、お前の言う通り、自分の心は『女』だ」
「……姉上」
刀至は、顔を上げた。
「自分がこれまで『男』であり続けたのは、これまでの人生に対する意地のようなモノだ。お前とは何も関係ない。そして……」
刀一郎は、微かに口元を綻ばせた。
「自分は、いずれ『女』に戻るつもりだ」
「……え?」
刀至は目を見開いた。
刀一郎は、自分の胸元をゆっくりとなぞって呟く。
「ようやく区切りの目途が立ったのだ。恐らく、自分はそう遠くない日に『女』に戻ることになるだろう」
「そ、そうなのですか? 姉上?」
刀至は目を瞬かせる。刀一郎はふっと笑った。
「まあ、その時は、私はきっと隷者になっているのだろうがな」
あいつに比べれば、自分の魂力などないに等しい。
隷者になるのは、あいつの『女』となる証のつもりだった。
あいつに《魂結びの儀》を挑み、敗北する。
そしてあいつの『女』として、その腕の中に納まる。
それが、刀一郎の『女』としての望みだった。
(まあ、あいつが、自分を受け入れてくれるのかが不安ではあるが……)
と、刀一郎が、少し口元をへの字に結ぶ。
「……れ、隷者? 姉上が……?」
一方、刀至は愕然とした。
――が、すぐさま立ち上がり、
「そんなことはさせません! させませんよ!」
いきなり吠えた。
今度は、刀一郎の方が「え?」と目を瞬かせた。
「姉上を隷者などにはさせません! 断じてさせませんから! 仮に政略結婚の話があがろうとも、父上が命じようとも、この俺が認めません!」
「い、いや、刀至?」
唐突に気炎を吐く弟に、刀一郎は困惑した。
「姉上は、俺が守りますから!」
そう叫んで、刀至は、落としていた自分の竹刀を拾い上げた。
それから、壁に立てかけていた別の竹刀も手に取り、
「だから姉上!」
刀至は、竹刀を姉に突き出した。
「俺に稽古をつけてください! 強くなるために!」
「う、うん」
刀一郎は、竹刀を両手で受け取った。流石に少し困惑していたが、ブンブンと素振りを始める弟に触発されて、刀一郎はふっと笑った。
「……まあ、いいだろう」
竹刀を手に立ち上がる。
「だが、自分の稽古は、父上以上に厳しいぞ」
「望むところです!」
刀至は竹刀を正眼に構えた。
「では、稽古は仕合形式でお願いします! それと姉上!」
「ん? 何だ?」
八相の構えを取る刀一郎が小首を傾げた。
「俺が一本でも取ったら、何卒、姉上の着物姿を見せてください!」
「うん。とりあえず、本気で打ち込まれたいようだな。刀至」
額に青筋を浮かべながら、刀一郎は微笑んだ。
稽古は、実に白熱したものになった。
「――姉上は俺が守る!」
「うん。お前の気持ちは嬉しいが、少し目が怖いぞ。刀至」
「そして姉上! 是非とも! 是非とも俺に着物姿をお見せください!」
「うん。少し黙ろうか。それと今はまだ兄と呼べ」
激しく竹刀の打突音が響く。
いささか以上に弟の愛が重そうだが、何だかんだで仲の良い姉弟だった。
ただ、この時、二人はまだ知らなかった。
翌朝。
「刀一郎さま。荷物が届いております」
「なに? 自分にか?」
刀一郎は、使用人から薄い木箱を受け取った。
上官である大門丈一郎からの届け物だった。
木箱には手紙も添えてある。任務に使用せよという指令だった。
刀一郎は、木箱を開けた。
そして、
「――ふあっ!? これはっ!?」
愕然とする刀一郎。
弟の切なる願い。
それが思いがけない早さで叶うことになるなど、知る由もない二人だった。




