第七章 兎と羊は拳を振るう⑦
『――ご主人!』
金羊が叫ぶ。
『何してたんスか! 遅すぎっスよ!』
「……これでも、相当急いできたのだがな」
真刃は苦笑を零した。
と、その時、ボボボと鬼火が現れる。
骨の翼を持つ猿。猿忌だ。
猿忌は眉をしかめて、痙攣するピアス男を一瞥した。
『このような下衆。主自らが懲罰する必要もなかったのではないのか?』
「……ふん」
真刃も、ピアス男に目をやった。
「己とて、直接殴りたくなる輩もいるのだ」
そう呟く。
それから、ペタンと床に座り込んだ少女へと視線を向けた。
少女は、未だ茫然としている。
「……大丈夫か? 娘よ」
そう声を掛けてみるが、彼女は何も答えない。
涙で溢れた蒼い瞳は、とても虚ろだった。
心が、完全にどこかに行ってしまっている。
真刃は、双眸を細めた。
(……トラウマか)
この少女の過去は、金羊から聞かされている。
数年前に、両親を海難事故で亡くしているとのことだ。
そんな過去を持った上で、水を得意とする外道との戦闘である。彼女が抱いた恐怖が、どれほどのものだったのかは、察するには余りある状況だった。
(……確か、この娘の名は……)
真刃は、少女と視線を合わせるため、片膝を突いた。
「……月子」
少女の名を呼ぶ。
茫然とした表情に、微かな反応があった。
「もう、大丈夫だ」
真刃は、優しく微笑んだ。
「お前はよく頑張った。もう身構えなくともよい」
そう告げると、少女はハッと顔を上げた。
少しずつ、虚ろだった瞳に輝きを取り戻していく。
そして――。
「……た、助けて……」
真刃の顔を見つめて、そう呟いた。
真刃は「ああ」と、強く頷いた。
「安心せよ。お前は――」
と、言葉を続けようとした時、
「……さ、燦ちゃんを、助けてあげて……」
真刃の腕を掴んで、月子がそう告げた。
真刃は、軽く目を見開いた。
少し驚いた。
(……この娘)
ここまで心を追い込まれてなお。
まず口から出てくるのは、友の身を案ずる言葉とは……。
本当に、優しく善良な娘だ。
だが、それはあまりにも……。
(……………)
真刃は、一瞬だけ双眸を閉じた。
そうして、
「……安心せよ」
穏やかな声で、そう応える。
「あの娘も、見捨てる気はない」
火緋神の少女。杠葉の遠き娘。
あの娘は、遠き日に愛した少女の忘れ形見だ。
決して、見捨てるような真似はしない。
「金羊よ」
真刃は、彼女のポケット内に納められたスマホに宿っている金羊に命じる。
「そこの男のスマホから、あの娘の行方を探れんか?」
『うっス! 早速、ハッキング中っス!』
「うむ。頼むぞ」
電脳の世界ばかりは真刃も無力。完全な門外漢である。
ここは自らの従霊を信じて、すべてを託す。
自分は、いま自分に出来ることをするだけだ。
時折まだ表情が消えてしまう月子を見やる。
『……主よ』
その時、猿忌が口を開いた。
聡明な従霊の長も、この少女の危うさには気付いていた。
「……分かっておる」
真刃は頷いた。
そして「月子」と少女に呼びかける。
月子は「え?」と顔を上げた。
「……お前は、頑張りすぎだ」
「………え?」
真刃の言葉に、月子は目を瞬かせた。
「お前の過去は、ある程度だが、金羊が教えてくれた」
真刃は、一度瞳を閉じる。
「お前があの燦という娘に、強い友情と恩義を抱いているのは分かっている。それは、お前の性格の良さでもあるのだろう。しかし」
一拍おいて。
「迷惑をかけたくない。心の奥では常にそう思っているのだろう? お前の優しい性格と立場なら当然とも言える。だが、だからと言って、お前が、自分の感情を無理やり抑えつけてもいいという話ではないはずだ」
真刃は、真っ直ぐ少女の瞳を見据えた。
「お前は、誰かに甘えることが出来ているのか?」
「あ、甘える……?」
呆然とした表情で、月子が反芻する。
真刃は頷いた。
「子供としてだ。ただ我儘に。純粋に。感情をぶつけられる相手はいるのか?」
「そ、それは……」
月子は、おどおどと視線を逸らした。
その相手は、かつては母であり、父であった。
けれど、両親が亡くなってからは……。
「何年、無理をしてきた? どれほど我慢をしてきた? 心が怯えている時にまで自分の感情を抑え込んでしまうのは、あまりにも危ういことだぞ」
「……わ、私は……」
月子の蒼い瞳が、泳ぎ始める。
真刃は、小さく嘆息した。
「……やはり、お前は頑張りすぎだな」
月子は、どこか、かなたに似ている。
ただ、かなたは心を閉ざすことで、ある意味、心を自衛してきた。
一方、月子はずっと我慢をしてきたのである。恐らく本人も気付かない内に、心に強い負荷をかけ続けてきたのだろう。
それは、いずれ、この娘の心に大きな亀裂をもたらすことになる。
心を決壊させてしまう時が来るはずだ。
「……月子」
真刃は優しく微笑み、大きな手で少女の頭を撫でた。
月子は目を見開く。
「己は、火緋神家とは無関係な男だ。ゆえに気遣いなど不要だ」
一拍おいて。
「自分の心を無理に抑え込む必要もない。今お前の目の前にいる男は、どれだけ迷惑をかけても構わない相手だからな」
そう告げる。
月子は、数瞬ほど唖然としていたが……。
「……月子」
真刃は、再度彼女に呼びかける。
「今ここで無理をする必要はないのだ。素直に甘えてもいい」
その言葉を受けて、
「うわあ、うあああ……」
不意に、ボロボロと涙を零した。
「うああああああああっ! うわあああああああああああああああああああっ!」
そして大声を上げると、立ち上がり、真刃の首に抱き着いた。
「お母さんも、お父さんもいなくなって!」
月子は、真刃にしがみついて想いを吐き出す。
「私は一人ぼっちになって! 誰も助けてくれなくて、叔父さんは怖くて――」
それは、何年も溜め込んだ感情の激流だった。
「なんで、なんで、なんでっ!」
涙が止まらなかった。
「なんで、私だけがこんな目に遭うの!」
「…………」
真刃は何も語らない。
ただ、黙って、彼女の感情の受け口となる。
「わ、私は……私はっ!」
月子は、そのまま感情を吐き出し続けた。
今まで心の奥にしまい込んでいた不満。恐怖。怒り。哀しみ。
それらを、初めて言葉にした。
それは、およそ数分間にも渡って続いた。
時折、叫びすぎて呼吸困難に陥ると、「大丈夫だ。呼吸を整えよ」と、青年は月子の髪を撫でて落ち着かせてくれた。
そうして……。
「……ぐすっ、おじさまぁ……」
ようやく少し平静さを取り戻した月子が、腕を離して真刃の顔を見上げた。
少女の細い肩は、まだしゃっくりで少し跳ねていた。
「少しは、心の内を吐き出せたか?」
そう尋ねる真刃に、
「………うん」
月子は、まだ少し涙を零しつつも、こくんと小さく頷いた。
その蒼い瞳に、先程までの危うさはもうない。
「……そうか」
真刃は優しく笑った。
「それは良かった。しかし」
そこで、ふっと苦笑を零す。
「折角の綺麗な顔が、随分と台無しになってしまったな」
言って、両手で月子の頬に触れる。
親指で涙の跡を拭い始めた。
「……やあぁ、やめてェ、もう。おじさまの馬鹿あぁ……」
月子は、頬を朱に染めて恥ずかしがった。
けれど、恥ずかしがっているだけで嫌がってはいない。
少しの間、されるがままに頬を撫でてもらってから、
「……もう。子供扱いしないで。おじさま」
真刃の両手に、そっと触れる。
それから、数秒ほど、真刃の顔を見つめて……。
「……おじさま……」
月子は、再び真刃の首に両手を伸ばした。
今度は、激情に任せたような跳びつきではない。
ゆっくりと、両腕を回して抱き着いた。
どうしても、確認しておきたかったのだ。
そして、青年の温もりを感じた。
(………あ)
トクントクン、と自分の高鳴る鼓動が聞こえる。
心が、とても落ち着いてくる。
心の奥が、暖かいもので満たされていく。
(……ああ。そっか。これが、お母さんの言っていた……)
うなじまで赤く染めて、月子は真刃の首にしがみついた。
一方、真刃は、どこまでも優しい表情だ。
ポンポン、と少女の背中を宥めるように叩いている。
『……ふむ』
その様子を見て、猿忌が呟く。
『……なるほど。確かにこれは逸材。金羊が強く推すのも分かるな』
と、その時だった。
『――ご主人!』
突如、声が響く。金羊の声だ。
それは月子のスマホから聞こえてきた。
真刃と月子、そして猿忌も表情を変えた。
「――分かったのか? 金羊」
『うっス! あいつのスマホから、PCへと経由して調べまくったっス!』
金羊は告げる。
『燦ちゃんの居場所が分かったっス!』
「……そうか」
真刃は頷き、立ち上がろうとするが、
「……あ」
少女の声が零れ落ちる。
その時、月子はまだ真刃の首に両手を回していた。
「ご、ごめんなさい」
月子は慌てて手を離そうとする。と、それは真刃が止めた。
「いや。構わん。まだ不安なのだろう? 心を抑えつけなくてよい」
一拍おいて。
「月子。お前を抱くぞ」
「……え?」
月子は一瞬、目を瞬かせた。
――が、すぐに顔を耳まで赤くして真刃を見つめた。
しばしの逡巡。
「……月子?」
「……あ、は、はい……っ」
名前を呼ばれて、月子は反射的に頷いた。
それを承諾と捉えて真刃は月子を抱き上げた。お姫さま抱っこだ。
月子は「ふわっ!?」と目を見開いた。
(う、うそ……)
まさか、これから……。
「ま、待って、おじさま。そ、その……」
恐らくは魂力の増強。
おじさまは、この場で《魂結びの儀》を行うつもりなのだ。
それは一理ある。
未知の勢力を相手に、燦を助けに行くのだ。
人を怪物化させる道具以外にも、敵がどんな力を隠し持っているのか分からない状況だ。
時間的にまだ余裕があるのならば、戦力は増強させた方がいい。
けれど、それを行うということは――。
「~~~~~~ッッ」
月子は、口元を片手で押さえて視線を逸らした。
「ん? 嫌だったか?」
「……え」
そう問われて、きゅうっと月子の心が鳴った。
まだ自分には早い。明らかに早い。
それに、何より強い不安がある。
なにせ、直前まで、最低な男に貞操を狙われていたのだ。
その恐怖は、簡単には拭えない。
だけど、おじさまは、あの男とは全然違っていて……。
……ぎゅっと。
青年のシャツを強く握りしめた。
鼓動は、ずっと跳ね上がっていた。
月子は視線を伏せて、キュッと唇を噛みしめた。
そうして、
「……い、嫌じゃ、ない、です」
そう答えた。
(言っちゃった!? 私、言っちゃったよ!?)
月子の蒼い瞳が、ぐるぐると回り始める。
(おじさまは燦ちゃんの好きな人なのに! 嫌じゃないって……OKって言っちゃった!? け、けど、燦ちゃんを助けるために必要なことだし……し、仕方がないよね?)
瞳の回転は、さらに加速する。
(そ、それに、引導師の世界だとハーレムは当然だそうだし、ネットの噂だと、十二、三歳で経験がある子もいるそうだし、その、おじさまは燦ちゃんの未来の旦那さまで、私は燦ちゃんの相棒だから、きっとこれはもう遅かれ早かれで……だから、え、えっと、あ、私って《隷属誓文》のアプリって持ってないけど大丈夫かな? 決闘の儀式は多分必要ないよね? あ、後は……とにかく頑張らないと! 頑張らないとっ!)
……プシュウっ、と。
月子の頭は、ショートした。
それから、コテンっと真刃の肩に頭を乗せる。
彼女のうなじや耳は、もう真っ赤だった。
「月子? 大丈夫か?」
「だ、大丈夫、です……」
月子は、視線は合わせず――正確には合わせられず、そう答えた。
一方、真刃は「そうか」と満足げに頷くと、
「では、あの娘の元に行くぞ」
そう告げた。
「………………え?」
月子は顔を上げて、目を瞬かせた。
てっきり、このまま近くの空き部屋に行くとばかり思っていたのだ。
けれど、おじさまの言葉は……。
「え? おじさま……?」
月子は混乱するが、すぐに「あ」と気付く。
抱く……とは、抱き上げること。
(あ……わああッ!)
自分の勘違いを知って、月子はカアアっと顔を赤くした。
「……? どうした? 月子?」
「も、もうっ!」
思わず涙目になる月子。
「言い方っ! もうっ! おじさまの馬鹿あぁ!」
そう叫んで、ポカポカ、と両手で真刃の頭を叩いた。
こんな姿も、今まで月子は誰にも見せたことがなかった。
「こらこら。暴れるでない」
真刃が、優しい声で戒める。
「元気なのはよいことだが、今はあの娘の元に急ぐぞ」
「……うゥ、は、はいィ……」
月子は少し不満だったが、こくんと頷いた。
今は、燦を助けに行くことを、何より優先すべきだった。
(ううゥ、ごめェん、燦ちゃん。私の馬鹿ぁ……)
深く反省しつつ、しっかりと真刃の首にしがみついた。
「うむ。しっかり掴まっていろ」
そう告げて、真刃は、月子を抱き上げたまま歩を進めた。
駆け足に近い早足だ。
宙に浮く猿忌も、主の後に続いた。
「さて。金羊よ」
廃ホテルの外に停めてある車の元に急ぎながら、真刃は金羊に問う。
「あの娘はどこにおるのだ?」
『うっス。それなんスけど、その前に報告したいことがあるっス』
「……なに?」
真刃は眉をひそめる。
「それは何だ?」
『あのクズ野郎のPCを漁って分かったんス。本当に胸糞悪くなる画像や情報ばかりだったっスけど、そん中に、あいつらの目的を推測できる情報もあったんス』
それは、とある儀式に関するモノだった。
儀式を遂行するために必要な道具について記載されていたのだ。
恐らく、奴らの目的とは――。
『急ぐっス。ご主人』
そして、金羊は神妙な声で主に警告した。
『あいつら。とんでもないことをするつもりっスよ』




