第七章 兎と羊は拳を振るう⑥
金羊が月子に警告していた頃。
鞭は、上階で強い苛立ちを見せていた。
「……あのガキ、やってくれるぜ……」
血の混じった唾を吐く。
完全に油断していた。
系譜術を持たないただの貯蔵庫。
そう思っていた小娘に、まさかあんな隠し玉があったとは。
「舐めやがって。糞ガキが……」
ガンッ、と足元の瓦礫を蹴り飛ばした。
ここまでの醜態は久しぶりだった。
だが、それもここまでだ。
「……ふゥ……」
鞭は、大きく息を吐きだした。
呼吸を整えて、怒りを抑え込んでいく。
もう油断はない。
少々驚いたが、地力の差から自分が負けることはあり得ないだろう。
ここからは自分のターンだ。
しかし、
「少々お転婆が過ぎたな。月子ちゃんよ」
鞭は、双眸を細めた。
もう怒りはないが、これは頂けない。
自分は、あの娘の主人なのだ。
主人に逆らえば、どういうことになるのか。
それを、強く教え込む必要がある。
――その心と体に。
「……ふん」
鞭は、物質転送の虚空を開き、中からとある物を取り出した。
それは、液体の入った無痛注射器だった。
鞭は双眸を細めると、その注射器を自分の首筋に打った。
ドクン、と鼓動が跳ね上がる。
「……お前が悪いんだぜ。月子ちゃんよ」
くつくつ、と嗤う。
「さあ、お仕置きの時間だ」
◆
――ゴゴゴゴゴゴゴッッ!
突如、大きく揺れ始める廃ホテル。
月子と金羊は、息を呑んだ。
『気をつけるっス! 月子ちゃん!』
金羊が警告した。
と、次の瞬間だった。
――ガゴンッッ!
いきなり天井が破壊された。
月子と金羊が目を見開いて、その一角を見やる。
と、そこには巨大な怪物が居た。
水で黒い鱗を濡らした巨大なる蛇だ。胴の幅にして二メートル。まるでドラゴンだ。しかも、アギトの中からは、舌の代わりに巨大な蟷螂が姿を覗かせていた。
「ひ、ひう……」
思わず月子は後ずさった。
すると、
『よう。月子ちゃん』
突如、蟷螂が親しげに話しかけてきた。
『随分とお転婆じゃねえか。さっきのは痛かったぜ』
その声は、聞き取りにくかったが、鞭のモノだった。
『お前、その姿は、何なんスか?』
金羊がそう問い質す。と、
『あン? てめえは雷野郎か?』
煩わしそうに鎌腕を動かして、蟷螂が首を傾げた。
『てめえは何モンだ?』
『質問しているのはこっちっス』
金羊が声を鋭くする。
『その姿……まるで象徴……』
『あン? 何だ。知ってんじゃねえか』
蟷螂は鎌腕をガシャガシャと動かして答える。
『そうだ。こいつの名は「模擬象徴」。引導師を更なる高みに上げる薬物さ』
『薬物!? しかも模擬象徴!?』
金羊は目を見開いた。
『なんスか! それは!』
『あン? 知ってると思ったが、知らなかったのかよ?』
蟷螂は首を傾げた。それから青ざめた顔の月子を見やり、
『まあいい。月子に絶望を味わわせるために説明してやるぜ』
くつくつと笑う。
『こいつは今、大陸で流行ってる薬物なのさ』
蟷螂は、鎌腕を月子の方に伸ばした。
『通称 《DS》。こいつはガチで凄えんだぜ。注入すれば一時的にだが、1000近い魂力が増強される。しかも薬との適合率が高ければ、その魂力は、そいつ独自の怪物の姿に成って使用者を覆う。戦闘力は一気に増大。物理的なダメージまで肩代わりしてくれるのさ。マジでこれからの引導師の必需品になる道具だ』
一拍おいて。
『流石に副作用もあるがな。依存性が高けえとか、初めて使用する奴は、高揚感が抑えきれなくなっちまって大抵暴走しちまうとかな。まあ、玉に瑕ってやつだ』
蟷螂は、自分の鎌腕同士をギンとぶつけ合った。
『ともあれ、今の俺の魂力はおよそ2000。ちょいとした名家の当主クラスの魂力だ。300程度のお前がどう足掻いても勝てるモンじゃねえよ』
言って、蟷螂は両手の鎌腕を大きく広げた。
『さあ! お仕置きタイムだ!』
途端、蟷螂を生やした大蛇が蠢いた。
天井を削り、月子へと迫る。月子は青ざめていたが、
「――やあッ!」
魂力を込めて崩拳で迎え撃った。
巨大な蛇はわずかに押し戻される――が、
『もう効かねえよ!』
強引に押し切った。ガガガッと天井を削って進む。
蟷螂の鎌腕が月子へと振り下ろされるが、それは金羊が雷光を放って逸らした。
『ちいッ! 雷野郎が!』
『月子ちゃん! 退がるっス!』
金羊は連続で雷光を放つ。しかし、蟷螂に怯む様子はない。
『うっとうしい!』
バクンっと大蛇がアギトを閉じて蟷螂が姿を隠す。雷光を一切無視して、強烈な頭突きを月子に喰らわせた。
咄嗟に《反羊拳》で防御したが、月子は大きく跳ね飛ばされてしまった。
「あうっ!」
何度も床に叩きつけられて、小さな体はようやく止まる。
「うぐ……」
月子は呻きつつも、立ち上がろうとする。
――と。
「……ひッ」
目に映ったその光景に青ざめる。
幾つもの水の槍が、月子へと突きつけられていたのである。
まるで水槽の中にいるようだった。
『……安心しな』
大蛇のアギトから、再び蟷螂が顔を出して告げる。
『殺しはしねえ。ただ、両足はへし折らせてもらう。もう逃げられねえようにな』
月子は、言葉もなかった。
大量の水に囲まれて、完全に体が竦んでいた。
金羊が『月子ちゃん!』と必死に呼びかけるが、それも聞こえていなかった。
――怖い、怖い、怖い……。
ひたすらに水が怖かった。
歯がカチカチと震え出し、目尻には涙まで滲んできた。
目の前の水の怪物が、両親を呑み込んだ災厄そのものに見えた。
両肩を抑えて震え出す。
ペタン、とその場に座り込んでしまった。
『ああン?』
蟷螂は、ググっと前のめりになって小首を傾げた。
『おいおい。ここまでしてくれて、今さらビビってんのかよ? まあ、へし折んのは足だけだ。その後は優しくしてやるよ。それこそ最初から薬物も使って、お前が何も考えられなくなるまで優しくしてやっから、そこは安心していいぜ』
怪物の中で、下卑た笑みを見せているのは間違いない声でそう告げた。
月子はただ、ポロポロと涙を零すだけだった。
『そんじゃあ、まずは両足からな!』
怪物は宣告する。
金羊が雷光を放つが、怪物の動きを逡巡させることも出来ない。
水の槍の幾つかが互いに絡みつき、水弾へと変わる。それが月子の足へと襲い掛かった。
その時だった。
――パァンッ!
と、いきなり、その水弾が弾けて消えたのだ。
『………は?』
怪物が目を丸くする。と、
「……子供相手に、随分と勇ましいことだな」
不意に、廊下に男の声が響いた。
次いで、ズドンッ、と水を操る怪物の巨体が大きく弾かれた。
見えない攻撃が、蟷螂の頭部を直撃したのである。
『――うおッ!?』
恐ろしく重い一撃だった。
桁違いの威力に、鞭は目を剥いた。
同時に水の檻も揺らぐ。その中で、月子は茫然と座り込んでいた。
コツコツコツ。
足音が響く。
鞭は、座り込む少女の背後から現れたその人物を睨みつけた。
黒のコートと、黒い紳士服を纏う男だ。
ぞわり、と産毛が逆立った。
こいつはヤバい。とんでもなくヤバい。
直感が、そう告げていた。
『……何モンだ。てめえは?』
「……ふん」
黒いコートの男は答えない。代わりにすっと左の拳を構えた。
直後、その拳が掠れて消えた。
――ドゴンッッ!
蟷螂の頭部が大きく仰け反る!
またしても、見えない攻撃が飛んできたのだ。
『――くそがッ!』
鞭は、舌打ちして蛇体を動かした。ガガガガッと天井を削って進むが、
「くだらん虚飾だな」
そう呟き、男は再び拳を動かした。
その都度、巨大な蛇体が大きく揺れた。
(――こいつ)
鞭は顔色を変えた。
この男、恐らく空間操作系の引導師だ。
空間そのものを操り、何かしらの攻撃を加えている。
しかも――。
(俺の体が削られるだと……ッ!)
鉄壁の防御力を誇る、自分の模擬象徴がどんどん削られている。
攻撃の威力が徐々に上がり、直撃した箇所がごっそりと抉られているのである。
元々、水を触媒にしている体は、大量の飛沫と化して飛び散っていった。
『て、てめえ! 一体どんな攻撃を――』
「……ん? いやなに。ただの拳だ」
と、男は答える。
現在進行形で模擬象徴を削られ続けている鞭は唖然とした。
「拳圧をぶつけている。ただ、それだけだ」
『ふ、ふざけんじゃねえ! ただの拳でこんな威力が……』
「……魂力とは」
男は、苦笑を浮かべて語る。
「主に系譜術か、体術の強化。そのどちらかに使われる。己が体術のみに魂力を注げば、これぐらいの威力にはなるさ」
『――はあ!? 俺の魂力は2000だぞ! てめえの魂力は――』
「魂力は、扱い方次第で威力を大きく高めることも出来る。己の知り合いなど、それこそ卓越した技量によって十倍以上にも実力を引き上げていたものだ」
コツコツと歩き、間合いを詰めて男は言う。
「要はいかに使うかだな。魂力の量だけに頼るなど愚者の行いだということだ」
そう告げて、左拳を動かした。
直後、黒い大蛇は、無数の砲撃を受けた。
凄まじい数の連撃に、瞬く間に巨体が削られていった。
鞭は、ただ唖然としていた。あまりの速さに身動きさえできなかった。
数秒後、鞭の模擬象徴は、巨大な水たまりだけを残して消え去っていた。
そこには、呆然と立ち尽くす鞭の姿だけがあった。
「さて」
黒いコートの男は鞭の前に立った。
「ようやく殴りやすい大きさになったな」
ゴキンッ、と鞭に対して左拳を鳴らす。
鞭は一気に青ざめた。
そして、
「ひ、ひ、ひやあああああああああああああああああああああああ――ッッ!」
絶叫を上げた直後、神速の拳が鞭の肉体を殴打した。
連打でありながら、その拳は一撃一撃が大型自動車の衝突にも等しい威力だった。
それほどの衝撃を、拳大にまで収束しているのだ。
それが、次々と肉体に打ち込まれていく。
鞭は、ほぼ原形も留めないほどに打ちのめされた。
そうして、ぐらりと前に倒れ込んだところを、初めて繰り出した右拳であごを射抜いた。天井、壁、床、再び天井、そのまま床へと、一瞬の停滞もなく弾け飛んだ。
床に叩き伏せられた鞭は、ビクビクと体を震わせていた。
「……ふむ」
薄汚い血が付いた手を軽く払い、男はポツリと呟く。
「ああ。そう言えば、己が何者かを聞きたがっていたな……」
そして、ふんと鼻を鳴らして、黒いコートの男――久遠真刃はこう告げた。
「すまんが、下衆に名乗る名などない」




